堀田善衛が『
上海にて』で敗戦を何処で、どのように迎えたかが、戦後の己の考え方、生き方に或る意味で決定的な影響力をもったことを述べているように、市井の人々にとっても恐らくそうであったと思う。5歳の時「母」で銀幕(映画)デビューし、引退するまで、スターであり続けた女優の高峰秀子は、30歳前に自らの結婚について考えていた頃(ちょうど「
二十四の瞳」を撮影中の頃)、自分のことを「持参金でもガッポリあればともかく、家を持ち、車を乗りまわしていても、実は六万円ほどの金しか持っていない貧乏女優である。おまけに掛け算引き算もできない脳タリンで、・・・」と書いているが、小学校にもろくにいっていないから「脳タリン」と自らいっているが、「脳タリン」で女優が勤まりますかってんだ(木下恵助監督の下で助監督であった松山善三と結婚)。いやぁ、多くの知識人・芸術家にも愛された高峰秀子の自叙伝である『わたしの渡世日記』(文春文庫。カヴァーの絵は梅原龍三郎による高峰秀子像。日本エッセイスト・クラブ賞受賞)は、ゴーリキーのいう「私の大学」で学んだ「女優である」彼女の聡明さ、素敵な個性の光るものである。そのなかで、「私たち戦中派といわれる人間にとって、(45年)八月十五日の朝をどこで迎え、玉音放送をどんな状態で聞いたかということは、その後の自分の生き方にとって重大なことである」と書いている。堀田善衛の感慨と共通のものである。高峰秀子は敗戦を千葉県館山(「アメリカようそろ」という映画撮影のため館山でロケ中であった)の航空基地に女優として慰問している時に迎えた。玉音放送を聞いた後、将校が「いっそう心を一つにし、必勝の精神を固めなければならない」と演説するのを聞いたり、あとで「負けたんだ。負けたんだ、日本は無条件降伏だ」と叫ぶ将校の声に「?!」半信半疑の状態だったが、敗戦を納得したとき「何をどう考えていいのか、嬉しいのか、悲しいのか、口惜しいのか、さっぱり分からない。ただ、『戦争が・・・終わった。戦争が・・終わったのだ』と、まだ実感の湧かない言葉を心の中でくりかえすばかりだった」と率直な心情を綴っている。しかし、その夜つまり15日の真夜中のできごとは彼女の心に深く刻まれた。夜中12時を過ぎるころ、飛行機の爆音、轟音が響き、「宿の真上をひっきりなしに通りすぎて、海の方へと消えていった」のである。「戦争が終わったというのに・・・なんのために?」「闘うことのみ教育され、闘って死ぬことだけをたたき込まれて突然、たたく相手を失った若い彼らのやり場のない絶望感は、『自爆』によってしめくくりをするよりほかになかったのか。飛行機の腹に何本の爆弾を抱えて飛び立ったかしらないけど、零戦に積まれる燃料の量はしれている。果てしなく続く暗い海の上を飛び続けて、いつかガソリンの最後の一滴が切れたとき、そこが彼らの墓場になるのだ。・・・私はいても立ってもいられない気持ちだった。『戦争は終わったのに・・・』屋根の上を通りすぎてゆく爆音を聞きながら、私はただ呆然と、蚊帳の中で膝を揃えて座っていた」。瞑して、考うるべし。
『
濹東綺譚』『
つゆのあとさき』などの作品がある永井荷風は空襲の東京を逃れ、45年6月に岡山に疎開した。そこでも空襲にあったが九死に一生を得た。荷風の『
断腸亭日乗
』(岩波書店)は45年5月初五の記述にあるように(都民所有地の焼け跡が軍隊によって随意に使用されるようになったことに関連して)「軍部の横暴なる今更憤慨するも愚の至りなればそのまま捨て置くより外道なし。われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」という風であるが、「欄外墨書」で八月初九と十日との間に「赤軍満州侵入」とあるように、また7月31日の次ぎに「見聞録」「大坂市中にて人の拾いたるビラの文」が転記されているように、戦争に対してまた日本社会に対して決して無関心であったわけではない。むしろ、冷ややかで秘められたものであったとしても、常に鋭い観察眼を持ってみていたように思う。このビラは「日本の偉人よ何処にありや。日本は自由の何たるかを理解した人々に依って強大を致したのである」という文に始まり、「昭和11(1936)年に尾崎行雄氏が世界の趨勢に逆行し軍国主義の旧弊を固守し、あたかもそれが国に最も忠なる所以であるが如く考えることは、決して忠でもなくまた自ら愛する所以でもないと叫び得たのが、恐らく最後であろう」と述べ(斉藤隆夫が36年5月に「粛軍演説」(「粛軍に関する質問演説」)を、40年に「反軍演説」(「支那事変処理中心とした質問演説」)を行なっている。斉藤はこの演説により議員を除名された。42年の翼賛選挙では非推薦で議員に当選)、「軍閥がその発言の自由を拘束し荒木(貞夫、陸軍大将、陸相、文相、A級戦犯)の如き人間が日本を軍事的敗北に導いたのである」と論難し、「現在の事態は日本を破滅に導いた軍部指導者の採った理論が誤謬であって、尾崎氏が如き人々が正当であった事を立派に証明している」という。そのうえで「言論の自由と自由主義政府とを再び確立することが日本の将来を保証する唯一の道である」と主張していた。このビラが『
断腸亭日乗
』の日付通りの位置におかれるものなのか、そして「大坂市中で人が拾ったもの」であるのかも定かではない。何故なら、荷風は『
断腸亭日乗
』が印刷され人の目に触れることを意図しておそらく編集・浄書しているからである。それはともかく、荷風自身は京都から岡山への帰途にあったために玉音放送は聞いていないようである。
8月15日の項には「s君夫婦」から正午のラヂオ放送で「日米戦争突然停止せし由を公表したり」ということを聞いた。「あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」。
冒頭にあげた伊藤整の日記も『
太平洋戦争日記
』(新潮社、1983年)として公刊されている。45年8月の日記は数日分がまとめて記述されているが、ポツダム宣言の受諾に係わる情報は伊藤には伝わっていなかった。新潮社に関係し、文学報国会小説部会幹事会に関係していただけに意外である(日記には、7月17日記の後に7月28日付け北海道新聞のポツダム宣言に関する記事が付されている)。8月16日記には「昨日戦争は終わった。祖国日本は屈服した。戦争は終わった。思いがけなく、早く終わった。私は来年の春頃には、米英軍が我本土に上陸するであろう、戦争が終わるのは、それからだ、たぶん本当に集結するのは夏頃だと思っていた。それが今もう来たのだ」と記述されている。もう一年戦争を継続しうる(人心の含めた)戦況だと、伊藤整は本当に判断していたのであろうか。日々の食糧確保に汲々としている自分がそこにいるというのに。8月24日記には「戦術的には極端に不利となった今月初め頃、私は戦は次第に敗北に近づいているとは思ったが、日本が敗戦を自認する行為に出るとは、どうしても予想出来なかった。敗けた、と自ら言うほど日本人に不似合いなものは無い」という。この論理を突き詰めていけばどうなるのか、伊藤の「祖国日本」はどうなるのか。
伊藤整の『
若い詩人の肖像』にでてきた小林多喜二は、1933年2月22日に特高警察に捕まり、築地警察署内で拷問により虐殺された。治安維持法により多くの人々が傷つき、場合によっては死に至らされた。45年8月10日前後のことでいえば、治安維持法違反で長野刑務所にいた『
日本イデオロギー論』などの著書のある哲学者戸坂潤(西田幾多郎門下で、唯物論研究会の創設者のひとり)は8月9日に疥癬のため獄死し、同じく西田門下で「昭和研究会」で『
協同主義の哲学的基礎』を書いて研究会の方向性についての理論的基礎付けを行い、また『
構想力の論理』など厖大な著作のある三木清もまた治安維持法違反にかかる検事拘留処分のため東京拘置所で、終戦を一月以上たった、9月26日にやはり疥癬のため死亡した。この時、まだ多くの政治犯・思想犯が獄に、拘置所に繋がれたままであった。治安維持法は、敗戦後の10月4日のGHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」、そして、それをうけた10月15日の『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止され、特高警察も解散を命じられた。
私の父親は旧満州(中国東北部)開拓団の一員として大陸に渡った。母親も(両親が結婚するのは、48年に父親が帰国してから)、おやじのあとを追い、大陸に渡り開拓団の女塾
に入った。おやじは、その後、徴兵され、8月10日前後は、対日戦に参戦し侵攻してくるソ連軍との戦争に牡丹江で通信兵として従事していた。敗戦後、おやじはシベリアに抑留された。おふくろは坊主頭になって男姿で命からがら舞鶴に上陸することができた。
尋常高等小学校を卒業してすぐに洋服仕立て屋に奉公に入ったおやじは、勉強をしたくて東京に逃げたこともあったほどだった。ゴーリキーがいう「
私の大学」に学び、オストロフスキーの「
鋼鉄はいかに鍛えられたか」のごとく鍛えられて、3年余りのシベリア抑留から、48年12月に舞鶴に上陸、祖国に帰ってきた。
おやじが亡くなり、すぐに跡を追うようにおふくろが他界して10年になろうとしている。合掌。
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