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おすすめの一冊 本学の教員や図書館員のおすすめの本を紹介します。
 
 
上海、1945・8・11、そして・・・

推薦文:図書館長 青木 郁夫 (経済学部 教授)

 わたしがその作品をよく読む作家に堀田善衛がいる。高校時代に友人に勧められて『 若き日の詩人たちの肖像』が最初だったと思う。この表題は、「現代国語」の教科書でその一部を読み、その後通読することになる伊藤整の『若い詩人の肖像』によく似ていることもあって興味をもったのではないかと記憶する。伊藤整の『 若い詩人の肖像 』には小樽における小林多喜二の若き姿が描かれており、多喜二自身の『 転形期の人々』とあわせ読むことで、多喜二の「若き日の肖像」を思い描くことができるように感じた。堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』は、1936年2月26日の事件の前日、K大学予科受験のため金沢から上京した「少年」が九段の軍人会館でのある演奏会でラヴェルのボレロを聞きながら、その官能的な世界に浸り、文字通り性的恍惚となるところから始まる。そして、たとえそれが傍から如何に見え、如何に言われようとも、体制に順応することを拒み、苦悩しつつも自らの生を貫こうとする自らの姿が描かれていく。若き日の芥川比呂志(芥川龍之介の長男で、俳優。筑摩書房版『 堀田善衛全集9』(『若き日の詩人たちの肖像』を所収)の月報に「堀田・機関銃・酒」を寄せている)との交友関係や左翼運動に携わる人々との交流など、堀田善衛という人間・人格がどのように形作られていったのかを窺うことができる。

上海、1945・8・11、そして・・・

  その堀田善衛にとって、妻子を日本に残し、渡った、中国上海(帝国主義諸国の共同租界)での戦争末期から、敗戦後中国国民党宣伝部の活動にも携わっていた日々は(1945年3月24日~46年12月28日)、戦後の彼の思想・作品・行為に少なくとも圧倒的な影響を及ぼした。そのことを『 上海にて』(1959年)に書いている。これは、堀田が中野重治・井上靖・本多秋五・山本健吉らと中国を訪問した際の回想を含む記録として書かれたものである。その「はじめに」で堀田は、「一年九ヶ月ほどの上海での生活は、私の、特に戦後の生き方そのものに決定的なものをもたらしてしまった。もとより文学を一生の仕事に、とは以前から思い定めていた。けれども、そこへ、中国と日本という、まったく思いもかけないものが入って来た」。この「日本と中国とか、中国と日本とかいうことがらが、作家として立つことのなかでの、私なりの重い内在的な問題」となったからであるという。堀田の思考は日本と中国との二国間関係を超えて国際問題にまで広がっているのであり、また悠久の時間の流れ=歴史の問題に及んでいる。堀田は日中国交回復がなされるはるか前に、「今日の両国の関係の仕方は、遠からぬ未来において、今日ではちょっと想像出来ないようなかたちの危機をもたらすのではないか」との危惧を表明していた。しかも、それは「私が予感するものは、むしろ国交恢復以降について、である」としていた。



 そうした堀田善衛の危惧は戦中及び戦後の中国体験に根ざしているわけだが、彼は自らの戦後の生き方そのものに決定的な影響を及ぼした戦中及び敗戦後の「一年九ヶ月ほどの 上海での生活」を素材にして『 歴史』などの作品を書いているが、しかしその日々の生活がどのようなものであり、そこで堀田が何を考えたかについては、部分的なことがらが対談等でその口から漏れることはあっても、直接的にそれを知る手がかりはなかった。多くの読者の興味関心をひくことであったにちがいない。ついにその手がかりとなる堀田善衛の上海時代の日記が公刊された。それが、紅野謙介編『 堀田善衛上海日記 滬上天下一九四五』(集英社、2008年)である。『 風媒花』などの作品がある文学者武田泰淳との交友関係、敗戦後の日本を「外」から観察し、その行く末に己の未来も含めて思いをはせていたこと、現地上海で国民党宣伝部に留用されたことによって知り得た政治的なことごと、そして人間模様が綴られている。


 『 堀田善衛上海日記』から、1945年8月11日の記述を取り上げてみよう。7月26日に米英中首脳によって発せられた「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言=ポツダム宣言の日本による受諾をめぐることごとである。電車に乗ると、中国新聞協会の赤間氏が隣にすわり「何だかとうとう来たやうですね」と言うが、「僕はよく納得できぬままに、ええ?と聞きかへした。氏は『未だ知りませんか?』と云った。『何ですか?』『日本が降伏したと云ふんですよ』・・・」。日本が「条件付きでポツダム宣言」を受諾するという決定したことは通信社には伝わっていたようであるが、堀田の知るところにはなっていなかった。しかし、上海の街中はすでに国民党党旗である「青天白日旗」が掲げられ、「南京路は青天白日旗がずっと立ち並んでゐる」。現地の「華字紙」(中国の新聞社が発行する新聞)である『中華日報』は「和平号外」を発行し、「和平です、和平です、戦争済みました」と中国人たちは喜んだ。「とうとう方々で爆竹が鳴り出した。ワァワァ云う声もしはじめた」「通りかかる西洋人に手をあげて挨拶してゐる支那人もゐる」。号外のニュース・ソースは「東京ラジオの英文短波とモスクワ電台の放送によるものらしかった」。日本の降伏・敗戦は、すでに世界が知るところでありながら、日本人社会では支配層に連なる人々には情報が(洩れ)伝わっていたが、そうでない人々は「聖戦完遂」という至上命令に従っていた。権力機構はそのことを強いた。日本人たちの意識は、元海軍嘱託、朝日新聞記者の「(和平号外など)一体こんなものをどうしてだせたのかね」「報道部や・・・(新聞検査所宣伝部)を通ってゐるのかね」といういまだ「支配者」のものだった。「『中華日報』号外は無断で出したもので、記者はみな逃げ出し、社屋は憲兵隊が押へたと云う情報も入った」。堀田は「僕は、今日この時の中国人のうつりかはりといふものを、人の心の内面の問題として、単に政策的なことではなくて、何とかして政治論ではなく人の心にしみ入るやうな工合にして内地の人に知らせねばならぬ、それをやるのは、僕ら文学に携わる仕事をする人で上海にゐたものの大切な仕事だ」と武田泰淳との会話で力説した。まさにそのことが、堀田の戦後初期の文学上の仕事に結実していく。堀田は「僕は支那について大して見識も先入観もなにもないから、学ぶのは今日この時、そして未来のために、学識よりも経験よりも一番大切なものを見得るのは今日だ、信じたからのことなのだ」とこの日の記述を結んでいる。『 上海にて』で堀田が「一年九ヶ月ほどの上海での生活は、私の、特に戦後の生き方そのものに決定的なものをもたらしてしまった」ということの中核には、こうした日々に経験し、感じ、思索したことがあったのである。

 
 
 

 堀田善衛の『上海日記』45年8月11日の記述をめぐる歴史的事実関係はどうであったのか。意外な本の中で、上海の状況を伝える45年8月10日付けの「手記」を見いだした。東京帝国大学農学部教授で、産業組合中央会(現在でいえば、農業協同組合中央会)副会頭も務め、その後、東京農業大学学長となった佐藤寬次の評伝である『 佐藤寬次伝』(家の光協会、1974年)にそれはある。日本側の策動によって中華民国の重慶政府を脱出した汪精衛らによって、1940年に南京に「傀儡政府」が樹立された。南京政府は上海に抗日運動の拠点であった復旦大学に代わって、上海大学を設立した。佐藤寬次は興亜院華中連絡部から名誉教授の就任と農学院の教官の斡旋を依頼され、この要請を受諾した。しかしながら、佐藤は実務的なことがらは名誉教授代行の広沢吉平にまかせたようである。その広沢吉平の手記が『 佐藤寬次伝』に引用されており、そのなかに次ぎのような部分がある。「昭和20年8月10日 用務で上海大使館へ行く。全大使館員書類整理に忙殺されているのを不思議に思う。そのとき上海市街に爆竹の音しきり。青天白日旗が各ビルの窓にひるがえる。バンドには十数万人の群衆。きけば日本は無条件降伏を申し入れ、矢野総領事は軍艦出雲で日本に向い、アメリカ巡洋艦が来滬し大使館員を抑留するとの噂。」(p.366)。この広沢手記は堀田善衛『 上海日記』45年8月11日の記述と同様のものだが、日付が1日ずれている。刊行された『 上海日記』には8月11日前後の記述がないので、堀田はその前日10日の上海の状況もあわせて、自らの感慨を日記に書き記したのかもしれない。日本政府が深く関与した上海大学農学院で重要な役割を果たした広沢吉平でさえ、日本のポツダム宣言受諾による降伏の動きを知らなかったということであろう。しかし、それを知っていた大使館では、総領事の日本への帰還、大使館員による関係文書の整理(おそらく焼却を含むであろう)がなされ、情報の漏洩と戦争責任の追及を防ぎ、逃れることがなされていた。戦後、連合国軍による占領直前に慌ただしく行政文書を焼却した県もある。だから、関係文書が見当たらないからその歴史的事実は存在しない、などという議論(論理)には注意しなければならない(次ぎの『 木戸幸一日記』45年8月15日に「機密重要書類を破り、便所に流し」とい記述がみえる)。


では、日本のポツダム宣言受諾による降伏の決定は、いつの時点に、どのようになされたのか。この時期に内大臣を務めていた『 木戸幸一日記』(下巻、p.1223、東京大学出版会、木戸幸一は侯爵、木戸孝允が大叔父にあたる)によれば、8月9日(木)晴の記述に、「十一時五十分より翌二時二十分迄、御文庫附属室にて御前会議開催せられ、聖断により外務大臣たる皇室、天皇統治大権の確認のみを条件とし、ポツダム宣言受諾の旨決定す」とある(木戸のもとを訪れ、早期戦争終結を求め、献策する学者研究者もあった。45年5月7日に南原繁、高木八尺が訪れ、「面談、戦局前途云々」している。これは南原・高木ほか田中耕太郎、我妻栄・末延三次・岡義武・鈴木竹雄の「東京帝国大学法学部7教授による終戦工作」といわれるものである(向山寛夫「南原繁先生の終戦工作」『 回想の南原繁』岩波書店、1980年)。『 木戸幸一日記』によれば、8月10日にはポツダム宣言の受諾が関係国に伝えられ、そのことは全世界に報道されたことであろう。とすれば、8月10日に上海では青天白日旗が街中に翻り、爆竹が鳴り響いたことであろう。

 

  鞍馬天狗』やパリ・コミューンを題材とする長編『 パリ燃ゆ』(朝日選書)などの作品がある大佛次郎は、戦時、鎌倉の大仏裏手に住んでいた(大佛次郎は鎌倉の自然を守るためにナショナル・トラスト運動を始めた、日本におけるナショナル・トラスト運動の草分け的存在でもある)。彼のもとには多くのジャーナリストや出版関係の人々が出入りし、さまざまな情報を伝えていた。大佛次郎『 敗戦日記』(草思社、1995年)を読むと、45年8月の初めは、それ以前から同様、空襲と食糧の話で満ちているが、6日の広島での新型爆弾(原子爆弾)投下の話題、ソ連を通じた和平交渉が困難で逆に最後通牒を突きつけられたことなどが記され、11日の項に、「夕方、門田君(朝日新聞記者)が東京からの帰りに寄り昨朝七時に瑞西(スイス)瑞典(スウェーデン)公使を介し皇室を動かさざるものと了解のもとにポツダムの提議に応ずると回答を発したと知らしてくれる。結局無条件降伏なのである。嘘に嘘を重ねて国民を瞞着し来たった後に遂に投げ出したという他はない。国史始まって以来の悲痛な瞬間が来たり、しかも人が何となくほっと安心を感じざるを得ぬということ! 卑劣でしかも傲慢だった闇の行為が、これをもたらしたのである」とあり、10日朝に中立国であるスイス・スウェーデンを介してポツダム宣言受諾が関係国に伝えられたこと、そして敗戦・戦争終結についての率直な感想が、冷静に記されている。


 権力の中枢にいたり、その動きについての何らの情報源があった人々は、敗戦・戦争終結をいち早く知り、その後の事態に対処しようとしたことであろう。不屈のリベラリスト清沢洌は惜しくも45年5月21日に死去しているので、彼が命永らえて敗戦から戦後の日本社会をどのようにみたかを知ることはありえないことだが、彼の『 暗黒日記』(岩波文庫)を読むとぜひ彼の見解を聞いてみたいとの思いに駆られる。しかしながら、圧倒的な国民はほとんど何も知らされることなく、8月10日でもまだ陸軍大臣の全軍に対する訓示(我れ一人在る限りはの楠公精神)、情報局総裁談(国体護持の為に国民の奮起を期待)(『 敗戦日記』pp.303-304)によって「聖戦完遂」へと動員され続けた。また、空襲・艦砲射撃・機銃掃射の恐怖に怯え、食糧確保に汲々とし、明日の生活もままならない状態におかれた。夏目漱石門下の内田百閒は、東京で最初に空襲警報が1944年11月1日から空襲に備えた灯火管制が廃止された45年8月20日とその翌日までの、東京での空襲の状況とそのもとで暮らす人々の生活の様を日録として『東京焼盡 』(中公文庫)に書き留めている。市井の人々が戦争期を、空襲のもとでどのように生き、次々に起こるできごとをどのように感じ、考え、それにどのように対処し、行動していたか。そのさまざまな側面を、内田百閒の目・耳・皮膚感覚など五感を通して、彼の認識を通して、知ることができる。この『東京焼盡 』には45年8月10日前後のポツダム宣言受諾を巡ることがらは一切でてこないが、前夜より予告があった15日の「戦争終結の詔勅」の放送について記されているだけである。内田がこの件に関して何の情報も持たなかったか否かは分からない。ただ、8月14日の項に、市ヶ谷の士官学校跡の大本営のうしろの方に大分大きな火の手があがった火事があり、それは大本営のなかで起きたものであった。ところが消防車が門前に来てぶうぶう鳴らしても門を開けるでもなく、「門番もゐるのだが案外平気な顔をしてゐた」と火の手を見に行った人から聞き、内田は「その話を聞いて何か焼き捨ててゐるのではないかとも思はれた」と自らの感想を綴っていることは記憶に留めておいていい。内田は最後に「何しろ済んだ事は仕方がない。『出なほし遣りなほし新規まきなほし』非常な苦難に遭って新しい日本の芽が新しく出て来るに違いない。濡れて行く旅人の後ろから霽るる野路のむらさめで、もうお天気はよくなるだろう」と書いている。案外、これが市井の人々の戦争直後の率直な思いだったのかもしれない。もちろん、内田百閒が「済んだ事は仕方ない」という言い方を文字通りのこととして理解することはできないし、そうしてはいけない。

 
 
 

  堀田善衛が『 上海にて』で敗戦を何処で、どのように迎えたかが、戦後の己の考え方、生き方に或る意味で決定的な影響力をもったことを述べているように、市井の人々にとっても恐らくそうであったと思う。5歳の時「母」で銀幕(映画)デビューし、引退するまで、スターであり続けた女優の高峰秀子は、30歳前に自らの結婚について考えていた頃(ちょうど「 二十四の瞳」を撮影中の頃)、自分のことを「持参金でもガッポリあればともかく、家を持ち、車を乗りまわしていても、実は六万円ほどの金しか持っていない貧乏女優である。おまけに掛け算引き算もできない脳タリンで、・・・」と書いているが、小学校にもろくにいっていないから「脳タリン」と自らいっているが、「脳タリン」で女優が勤まりますかってんだ(木下恵助監督の下で助監督であった松山善三と結婚)。いやぁ、多くの知識人・芸術家にも愛された高峰秀子の自叙伝である『わたしの渡世日記』(文春文庫。カヴァーの絵は梅原龍三郎による高峰秀子像。日本エッセイスト・クラブ賞受賞)は、ゴーリキーのいう「私の大学」で学んだ「女優である」彼女の聡明さ、素敵な個性の光るものである。そのなかで、「私たち戦中派といわれる人間にとって、(45年)八月十五日の朝をどこで迎え、玉音放送をどんな状態で聞いたかということは、その後の自分の生き方にとって重大なことである」と書いている。堀田善衛の感慨と共通のものである。高峰秀子は敗戦を千葉県館山(「アメリカようそろ」という映画撮影のため館山でロケ中であった)の航空基地に女優として慰問している時に迎えた。玉音放送を聞いた後、将校が「いっそう心を一つにし、必勝の精神を固めなければならない」と演説するのを聞いたり、あとで「負けたんだ。負けたんだ、日本は無条件降伏だ」と叫ぶ将校の声に「?!」半信半疑の状態だったが、敗戦を納得したとき「何をどう考えていいのか、嬉しいのか、悲しいのか、口惜しいのか、さっぱり分からない。ただ、『戦争が・・・終わった。戦争が・・終わったのだ』と、まだ実感の湧かない言葉を心の中でくりかえすばかりだった」と率直な心情を綴っている。しかし、その夜つまり15日の真夜中のできごとは彼女の心に深く刻まれた。夜中12時を過ぎるころ、飛行機の爆音、轟音が響き、「宿の真上をひっきりなしに通りすぎて、海の方へと消えていった」のである。「戦争が終わったというのに・・・なんのために?」「闘うことのみ教育され、闘って死ぬことだけをたたき込まれて突然、たたく相手を失った若い彼らのやり場のない絶望感は、『自爆』によってしめくくりをするよりほかになかったのか。飛行機の腹に何本の爆弾を抱えて飛び立ったかしらないけど、零戦に積まれる燃料の量はしれている。果てしなく続く暗い海の上を飛び続けて、いつかガソリンの最後の一滴が切れたとき、そこが彼らの墓場になるのだ。・・・私はいても立ってもいられない気持ちだった。『戦争は終わったのに・・・』屋根の上を通りすぎてゆく爆音を聞きながら、私はただ呆然と、蚊帳の中で膝を揃えて座っていた」。瞑して、考うるべし。

 

 

 『 濹東綺譚』『 つゆのあとさき』などの作品がある永井荷風は空襲の東京を逃れ、45年6月に岡山に疎開した。そこでも空襲にあったが九死に一生を得た。荷風の『 断腸亭日乗 』(岩波書店)は45年5月初五の記述にあるように(都民所有地の焼け跡が軍隊によって随意に使用されるようになったことに関連して)「軍部の横暴なる今更憤慨するも愚の至りなればそのまま捨て置くより外道なし。われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」という風であるが、「欄外墨書」で八月初九と十日との間に「赤軍満州侵入」とあるように、また7月31日の次ぎに「見聞録」「大坂市中にて人の拾いたるビラの文」が転記されているように、戦争に対してまた日本社会に対して決して無関心であったわけではない。むしろ、冷ややかで秘められたものであったとしても、常に鋭い観察眼を持ってみていたように思う。このビラは「日本の偉人よ何処にありや。日本は自由の何たるかを理解した人々に依って強大を致したのである」という文に始まり、「昭和11(1936)年に尾崎行雄氏が世界の趨勢に逆行し軍国主義の旧弊を固守し、あたかもそれが国に最も忠なる所以であるが如く考えることは、決して忠でもなくまた自ら愛する所以でもないと叫び得たのが、恐らく最後であろう」と述べ(斉藤隆夫が36年5月に「粛軍演説」(「粛軍に関する質問演説」)を、40年に「反軍演説」(「支那事変処理中心とした質問演説」)を行なっている。斉藤はこの演説により議員を除名された。42年の翼賛選挙では非推薦で議員に当選)、「軍閥がその発言の自由を拘束し荒木(貞夫、陸軍大将、陸相、文相、A級戦犯)の如き人間が日本を軍事的敗北に導いたのである」と論難し、「現在の事態は日本を破滅に導いた軍部指導者の採った理論が誤謬であって、尾崎氏が如き人々が正当であった事を立派に証明している」という。そのうえで「言論の自由と自由主義政府とを再び確立することが日本の将来を保証する唯一の道である」と主張していた。このビラが『 断腸亭日乗 』の日付通りの位置におかれるものなのか、そして「大坂市中で人が拾ったもの」であるのかも定かではない。何故なら、荷風は『 断腸亭日乗 』が印刷され人の目に触れることを意図しておそらく編集・浄書しているからである。それはともかく、荷風自身は京都から岡山への帰途にあったために玉音放送は聞いていないようである。

 8月15日の項には「s君夫婦」から正午のラヂオ放送で「日米戦争突然停止せし由を公表したり」ということを聞いた。「あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」。

 

 

 冒頭にあげた伊藤整の日記も『 太平洋戦争日記 』(新潮社、1983年)として公刊されている。45年8月の日記は数日分がまとめて記述されているが、ポツダム宣言の受諾に係わる情報は伊藤には伝わっていなかった。新潮社に関係し、文学報国会小説部会幹事会に関係していただけに意外である(日記には、7月17日記の後に7月28日付け北海道新聞のポツダム宣言に関する記事が付されている)。8月16日記には「昨日戦争は終わった。祖国日本は屈服した。戦争は終わった。思いがけなく、早く終わった。私は来年の春頃には、米英軍が我本土に上陸するであろう、戦争が終わるのは、それからだ、たぶん本当に集結するのは夏頃だと思っていた。それが今もう来たのだ」と記述されている。もう一年戦争を継続しうる(人心の含めた)戦況だと、伊藤整は本当に判断していたのであろうか。日々の食糧確保に汲々としている自分がそこにいるというのに。8月24日記には「戦術的には極端に不利となった今月初め頃、私は戦は次第に敗北に近づいているとは思ったが、日本が敗戦を自認する行為に出るとは、どうしても予想出来なかった。敗けた、と自ら言うほど日本人に不似合いなものは無い」という。この論理を突き詰めていけばどうなるのか、伊藤の「祖国日本」はどうなるのか。

 

 

 伊藤整の『 若い詩人の肖像』にでてきた小林多喜二は、1933年2月22日に特高警察に捕まり、築地警察署内で拷問により虐殺された。治安維持法により多くの人々が傷つき、場合によっては死に至らされた。45年8月10日前後のことでいえば、治安維持法違反で長野刑務所にいた『 日本イデオロギー論』などの著書のある哲学者戸坂潤(西田幾多郎門下で、唯物論研究会の創設者のひとり)は8月9日に疥癬のため獄死し、同じく西田門下で「昭和研究会」で『 協同主義の哲学的基礎』を書いて研究会の方向性についての理論的基礎付けを行い、また『 構想力の論理』など厖大な著作のある三木清もまた治安維持法違反にかかる検事拘留処分のため東京拘置所で、終戦を一月以上たった、9月26日にやはり疥癬のため死亡した。この時、まだ多くの政治犯・思想犯が獄に、拘置所に繋がれたままであった。治安維持法は、敗戦後の10月4日のGHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」、そして、それをうけた10月15日の『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止され、特高警察も解散を命じられた。

 

 私の父親は旧満州(中国東北部)開拓団の一員として大陸に渡った。母親も(両親が結婚するのは、48年に父親が帰国してから)、おやじのあとを追い、大陸に渡り開拓団の女塾
に入った。おやじは、その後、徴兵され、8月10日前後は、対日戦に参戦し侵攻してくるソ連軍との戦争に牡丹江で通信兵として従事していた。敗戦後、おやじはシベリアに抑留された。おふくろは坊主頭になって男姿で命からがら舞鶴に上陸することができた。
尋常高等小学校を卒業してすぐに洋服仕立て屋に奉公に入ったおやじは、勉強をしたくて東京に逃げたこともあったほどだった。ゴーリキーがいう「 私の大学」に学び、オストロフスキーの「 鋼鉄はいかに鍛えられたか」のごとく鍛えられて、3年余りのシベリア抑留から、48年12月に舞鶴に上陸、祖国に帰ってきた。


 おやじが亡くなり、すぐに跡を追うようにおふくろが他界して10年になろうとしている。合掌。

 

 
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