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おすすめの一冊 本学の教員や図書館員のおすすめの本を紹介します。
 

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ドストエフスキーとカフカ-意識することの病いと絶望-
推薦文 :和田 渡 (経済学部 教授)

  一日に一店のペースで町の本屋さんが消えているという。他方で、一日に200冊以上の新刊書が出ている。それらは大きな書店にしばらく並べられるが、売れなければ返品されて、二度と戻らない。早い出版ペースに押されて、新刊書も次から次へと消えていく。

 本の読み手も減りつつある。図書館でひとり静かに本を読む、読んで考える、考えたことをノートに書きとめる、ページを戻って読み直すといった、本とつきあう時間は、まぎれもなく、読み手の心を鍛える。一冊の本を読むということは、読む前の自分とは違う自分に変身するということである。いい映画を観る前と観たあとではひとが変わるのと同じことだ。しかし、子供から大人までが手軽なおもちゃにうつつをぬかす時代に、本を読み、変身する時間を生きるのは稀なことになりつつある。

 今回は、読書が変身の経験であると感じさせるような本を二冊紹介しよう。

 

一冊の本を読むということは、読む前の自分とは違う自分に変身することである。

  まずは、 ドストエフスキー(1821~1881)の 『新訳 地下室の記録』(亀山郁夫訳、集英社、2013年)である。デビュー作は 『貧しき人々』(1846年)。1849年に、空想的社会主義の運動に関係したとして逮捕され、死刑判決を受けたが、執行直前に皇帝ニコライ一世の恩赦により、シベリアへの流刑に減刑された。出獄後に創作活動を再開した。代表作は 『罪と罰』 『カラマーゾフの兄弟』だが、ドストエフスキー文学の核心に触れるには 『地下室の記録』(1864年)が最適である。

  訳者の亀山は、「運命の大いなる力に組みしかれた、新たな不確実の世界―まえがきにかえて」のなかでこう述べている。「ここに、『地下室人』と呼ばれる一人の男がいる。まさに矛盾だらけといってよい人物であり、自分の矛盾に傷つき、その傷を舌先でなめまわしながら、なおかつ『美しく崇高なもの』に憧れ、外界との、涙ながらの和解を願い続けている。その彼が住みついている『地下室』とは、言い換えるなら、青春時代を生きるだれもが一度はくぐりぬけなくてはならない“戦場”―そして彼自身、たとえどれほど意識の病いに苦しめられ、恥辱にまみれ、道化の役割を強いられようと、ほかのだれにもまして高潔な戦士であり、ほんものの人間と呼ぶに値する存在なのである」(5頁)。ドストエフスキーがこの人物を通じて伝えたかったのは、この戦場を戦いぬくことがなければ、遠い将来、一個の自立した人間として大きな成熟を得ることはできないということだと亀山は言う(同頁参照)。青春時代はだれもが戦場をくぐりぬける。それは自意識の修羅場である。

 この記録は、「地下室」と「ぼたん雪にちなんで」の二部構成からなり、前者は、もと役所づとめをしていた男が、屈折した自意識についてひたすら 饒舌(じょうぜつ) に語り続けるという設定である。書き出しはこうだ。「わたしは、病んだ人間だ……わたしは、底意地が悪く、およそ人に好かれるような男ではない」(9頁)。しかし直後でこう語られる。「さっき、自分のことを底意地の悪い役人などと言ったのは、嘘である。底意地が悪いせいで、嘘をついたまでのことだ。(中略)じつのところ一度として底意地が悪かったためしはない」(11頁)。男は自分の現状をこう告げる。「わたしは、たんに底意地の悪い人間どころか、何者にもなれなかった。悪人にも、善人にも、卑怯者にも、正直者にも、ヒーローにも、虫けらにもなれなかった。今では、自分がここと決めた穴蔵に引きこもって、賢い人間が何かしらまともな何者かになれるはずはない、何者かになれるのは、馬鹿者だけだ、とか、それこそ悪意のこもる、そんな愚にもつかない慰めでもって自分を 嘲り(あざけり) ながら生きている」(12頁)。こんなふうにして男は、「ひとりのまともな人間が、最高に満足しながら話せる話題」(14頁)である「自分の話」(同頁)を飽くことなく語る。

 「2」の冒頭で、男は、自分がなぜ虫けらになりそこねたかを皆さんに聞かせたいのだと告げて、ただちにこう続ける。「ここで堂々と言わせてもらうが、わたしは何度も虫けらになりたいと願ってきた。けれど、わたしはその虫けらにさえ値しなかった。諸君、わたしは誓って言う。意識しすぎるということ、これは病いである。まぎれもない、ほんものの病である」(15頁)。「ありすぎる意識ばかりか、どんな意識も病いである」(16頁)。これが男の確信である。病んだ意識の姿はこのようにも描かれる。「どうかすると反吐が出そうなくらい忌まわしいペテルブルクの夜更け、わたしはこのいつもの寝ぐらに戻ってくる、今日もまた醜悪なことをしでかしてしまった、でも、やってしまったことはもう絶対に取りかえしがつかない、と意識し、心ひそかに自分に噛みつき、わが身を切りきざんで、しゃぶりつくす。すると、その悔しさがいつしか、なにやら、卑劣な、のろわしい甘美さとなり、やがては、確固たる、まぎれもない快楽に変わっていくのだ!」(17頁)。

 男によれば、人間はしばしば内的な衝動にかられて、とんでもない行為に打って出る存在である(40頁参照)。この衝動がひとたび噴出すれば、理性や道徳心はたちまち吹き飛ばされてしまう。人間間の対立や憎悪は、流血の事態を招かずにはいない。「文明のおかげで、人間が昔ほど残忍ではなくなったとは少なくとも言えるだろうが、その残忍さが以前より悪質かつ醜悪になったことだけはたしかである。以前なら、人間は、流血のなかに正義を見いだし、良心の 疾しさ(やましさ) など少しも感じることなく、しかるべき相手を抹殺してきた。しかし、わたしたちは今、流血を下劣な行為と見なしながら、そのくせこの下劣な行為にはげんでいる」(42-43頁)。男はこう診断する。「人間は、たしかに野蛮人の時代よりもはっきりとものを見ることを学んだとはいえ、科学や理性が指示するとおり行動することを学んだなどとはとても言えない状態にある」(43頁)。その結果、男がいきつく結論は、ルネサンス最大の人文主義者 エラスムス 『痴愚神礼讃』で述べた事柄と寸分たがわぬものになる。「人間というのは愚か、それもきわめつきの愚かときていて、たとえ、まるきり愚かというわけではないにしろ、およそ類を見ないくらい恩知らずときている」(45頁)。

 不断は静かで平和的な猫も、自分のテリトリーに入りこんでくる猫に対しては、豹変して攻撃的になる。その点で人間も猫と似たりよったりであり、テリトリー意識に縛られている以上、平和など絵に書いた餅に等しい。男によれば、人間はほんものの苦痛、つまり破壊とカオスをけっして拒否せず、苦痛こそが意識の唯一の原因である(61頁参照)。意識することから人間の不幸が生まれるが、それでも、「人間は苦痛を愛しており、どんな満足ともそれを引き替えるようなことはしない」(61頁)。「意識的な無気力」(65頁)によって意識しない状態を保持できれば幸せになりうるかもしれないが、意識する宿命を背負った人間にそれはありえないというのが男の下す結論である。

 

 『絶望名人カフカの人生論』(頭木弘樹編訳、新潮社、2011年)は、 フランツ・カフカ(1883~1924)の書いた手紙やノートなどから、自分や他人、人生に対する消極的で悲観的な発言を集めたものである。カフカは、オーストリア=ハンガリー帝国領当時のプラハで、ユダヤ人の商家に生まれた。法学部を出たあと、労働者傷害保険協会で働くかたわら、創作活動に励んだ。肺結核のため、40歳の若さで亡くなった。親友のブロートは、日記や手紙、遺稿などすべての焼却を依頼したカフカの遺言に反して、それらを出版した。ナチスによるプラハ侵攻の前夜、ブロートはカフカの遺稿をトランクに入れて脱出し、あやうく 焚書(ふんしょ) の難をまぬがれた。

 この本のキーワードは、タイトルに明らかなように、絶望である。第1章から第14章まで、将来、世の中、自分の身体、自分の心、親、学校、仕事、夢、結婚、子作り、人づきあい、真実、食べること、不眠に対する絶望のことばが収集され、第15章のみが、「病気に絶望……していない!」となっている。写真のカフカは、繊細で傷つきやすい青年に見え、近づきがたい雰囲気をたたえているが、生きることの耐えがたさ、息苦しさを共有する者にとっては、自分と同類の親しい友人として映るのではないだろうか。以下に、彼の書きしるしたいくつかのことばを抜き出してみよう。

 カフカは、結婚を申しこんだフェリーツェにこう書いた。

 

 将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
 将来にむかってつまずくこと、これはできます。
 いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。(34頁)

 

 断片にはこうある。

 

 バルザックの散歩用ステッキの握りには、
 「私はあらゆる困難を打ち砕く」と刻まれていたという。
 ぼくの杖には、「あらゆる困難がぼくを打ち砕く」とある。
 共通しているのは、「あらゆる」というところだけだ。(36頁)

 

 次のふたつも、フェリーツェへの手紙のなかからの引用。

 

 ぼくはしばしば考えました。
 閉ざされた地下室のいちばん奥の部屋にいることが、
 ぼくにとっていちばんいい生活だろうと。
 誰かが食事を持って来て、
 ぼくの部屋から離れた、
 地下室のいちばん外のドアの内側に置いてくれるのです。
 部屋着で地下室の丸天井の下を通って食事を取りに行く道が、
 ぼくの唯一の散歩なのです。
 それからぼくは自分の部屋に帰って、ゆっくり慎重に食事をとるのです。(54頁)

 

 神経質の雨が
 いつもぼくの上に降り注いでいます。
 今ぼくがしようと思っていることを、
 少し後には、
 ぼくはもうしようとは思わなくなっているのです。(80頁)

 

 ドストエフスキーが 『地下室の記録』のなかで主題にした「意識という病い」は、カフカの場合、とりわけ自意識の病いとして特化し、カフカを苦しめた。その原因のひとつが、権威的な父親の抑圧的態度であった。傲慢な父親の息子の気持ちを挫くような発言の数々から、カフカは自信を喪失し、自分自身や自分の身体、自分の生活、将来に自己否定的な意識しかもてない男になった。生に対する前向きの姿勢を保つこともできなくなった。恋人や婚約者との関わりにおいても、消極的意識がその進展を阻んだ。かくして絶望がカフカの生の基調音となった。生からの撤退、引きこもり、打ち砕かれることへの無抵抗、意欲の喪失。ネガティブな意識がじわじわとカフカを締めつけていく。「神経質の雨」が身体にしみこんできて、気力がそがれていく。

 しかし、それでもカフカが生きのびたのは、ただひとつ文学の価値というものに揺らぎのない信頼を抱いていたからだ。つぎの日記の一節を見てみよう。

 

 ぼくの勤めは、
 ぼくにとって耐えがたいものだ。
 なぜなら、ぼくが唯一やりたいこと、唯一の使命と思えること、
 つまり文学の邪魔になるからだ。
 ぼくは文学以外の何ものでもなく、
 何ものでもありえず、またあろうとも欲しない。
 だから、勤めがぼくを占有することは決してできない。
 でもそれは、ぼくをすっかり混乱させてしまうことはできる。(124頁)

 『変身』に対するひどい嫌悪。
 とても読めたものじゃない結末。
 ほとんど底の底まで不完全だ。
 当時、出張旅行で邪魔されなかったら、
 もっとずっとよくなっていたろうに……。(132頁)

 

 ブルガリア生まれの作家、 エリアス・カネッティ(1905~94)は、 『変身』を追い越すような作品はないと激賞したが、カフカ自身は自作を嫌悪していた。カフカに、満足するということはありえず、さらなる高みを求め続けた。

 

 カフカという人間に興味を覚えるひとには、グスタフ・ヤノーホ(1903~1968)の 『カフカとの対話 手記と追想』(吉田仙太郎訳、みすず書房、2012年) を読むことをすすめたい。同社の ≪始まりの本≫シリーズの1冊として再出版された。『「美しいものを見る能力を保っていれば、人は老いぬものです」』(47頁)、『「自由とは生きることだ。自由でないということはつねに死を意味します。しかし、死は生とともに現実です。とすれば、私たちがこの双方に、生と死に (さら) されているという、ここに私のいう困難があるのです」』(171頁)など、カフカのことばには、いまも人間の現実を透視する力が宿っている。

 

 
人物紹介

ドストエフスキー 【Фёдор Михайлович Достоевский/Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy )[1821-1881]

ロシアの小説家。トルストイと並んで19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。「魂のリアリズム」とよばれる独自の方法で人間の内面を追求、近代小説に新しい可能性を開いた。農奴制的旧秩序が資本主義的関係にとってかわられようとする過渡期のロシアで、自身が時代の矛盾に引き裂かれながら、その引き裂かれる自己を全的に作品世界に投入しえた彼の文学は、異常なほどの今日性をもって際だっており、20世紀の思想・文学に深刻な影響を与えている。 [江川 卓]

― 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, http://japanknowledge.com,©Shogakukan Inc.

カフカ (Franz Kafka) [1883―1924]

プラハ生まれのドイツ語作家。第一次世界大戦前のオーストリア・ハンガリー帝国治下のボヘミア(現チェコの一地方)の首都プラハに、1883年7月3日、ドイツ・ユダヤ系商人の息子として生まれる。強健で勤倹力行の父と、虚弱で繊細な息子との緊張に満ちた関係は『父への手紙』その他の作品に強い痕跡(こんせき)を残した。プラハ大学で法律を学び、1908年以来プラハの労働者災害保険局に勤務。フェリーツェ・バウアーと婚約を二度結んだが、結婚に踏み切れず、1917年最終的に解消。ミレナ・イェセンスカ・ポラクとの愛情関係(1920〜1922)は多分に精神的比重が大きかったが、これも解消。1917年から結核を病み、1922年嫌っていた職を捨て、翌年ベルリンに出て、作家として自立を図り、ドーラ・ディアマントと同棲(どうせい)する。しかし病気が重くなり、プラハに帰り、療養のためウィーンに移り、1924年6月3日、その郊外キールリングのサナトリウムで死去。
 小品集『観察』(1913)、『火夫』(1913)、『判決』(1913)、『変身』(1915)、『流刑地にて』(1919)、短編集『田舎(いなか)医者』(1919)、『断食芸人』(1924)がある。遺稿の作品、アフォリズム、日記、手紙、とくに長編小説『アメリカ』(1927)、『審判』(1925)、『城』(1926)は、親友で遺稿管理者のマックス・ブロートが、カフカの遺志に反し、死後公刊した。生前カフカはドイツ表現主義の特異な短編作家として知られたが、死後長編が紹介され、ブロートの宗教的解釈により、1930年代にはヨーロッパのユダヤ・キリスト教信仰喪失の混迷を表現する作家として、イギリス、フランスにも知られた。またシュルレアリスム、実存主義流行に伴い、その先駆者としてクローズアップされた。
 カフカが神聖ローマ帝国の首都であった古い伝統の町プラハに生涯の大部分を過ごし、西欧化されたユダヤ人に属し、強い父親コンプレックスをもっていたことは、彼の作品の幻想的世界と強い関連をもつ。明確な描写、不透明な内容の作品は、さまざまな解釈を誘い出す。なかでも際だつ一点は、カフカの、この世の支配者たる父親たちの過酷さ、残酷さへの関心であろう。カフカが作家的開眼をした『判決』では父親の息子への死刑宣告、『変身』における一夜のうちの毒虫への変身、『流刑地にて』の古い刑罰と新しいそれとの対立と古いものの復活への恐れ、『審判』の突然の逮捕と見えざる支配、と並べただけでも明瞭(めいりょう)であろう。
 カフカの構築したこの過酷な世界が、20世紀前半の惨苦、つまり第一次世界大戦、続くファシズム、ナチズム、スターリニズムの独裁、さらに第二次大戦と続く現実と呼応して、カフカへの関心と評価を高めたといえよう。カフカの作品に現れるこの残酷さを、ペシミズム、ニヒリズムとする一面的批判もあるが、むしろ残酷さに対する人間的抵抗の表現とみるべきだろう。カフカの世界は多くの不透明さを含みながら、その残酷さによって、現代社会の深部に触れる。
 カフカは第二次大戦後日本でも翻訳紹介され、文学界に大きな影響を与えたが、中島敦(あつし)のように戦前すでに短編『狼疾(ろうしつ)記』(1936執筆、1942刊)でカフカ文学の受容を示している作家もいる。戦後は安部公房(あべこうぼう)の『壁』(1951)以下の諸作品、倉橋由美子(ゆみこ)の『婚約』(1960)、長谷川(はせがわ)四郎の戯曲『審判』(1968)、花田清輝(きよてる)の評論『変形譚(たん)』(1946)など、それぞれカフカ的世界を表現しているが、より本質的近似を示すのは、島尾敏雄(しまおとしお)の初期作品群であろう。
[城山良彦]

― 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, http://japanknowledge.com,©Shogakukan Inc.

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