季節が夏になると、あちらこちらにビアガーデンがオープンされる。夏はビールや清涼飲料水業界にとってはまさにかきいれどきである(清涼飲料の定義は炭酸含有飲料である)。「フーテンの寅」の口上にならって事始めを問えば、日本人がビールとつきあいだしたのは、一体いつからだろうか?
ビールの人類史的な起源としては、シュメール人がビールを飲んでいたことが紀元前3000年前後の「モニュマン・ブルー」と呼ばれる粘土板に記録されているという。これには楔形文字でビール作りの様子が描かれており、これが最古のビール作りの記録としてほぼ定説となっているらしい(アサヒビールのホームページから「
『
世界のビールの歴史
」)。古代エジプトでもビールは作られ飲まれていたことがヒエログリフで記録されている。「ヘケト」という(『麒麟麦酒株式会社五十年史』(以下、『麒麟五十年』と略)の表紙にはこのヒエログリフが意匠として用いられている)。したがって、日本人が交易を求め、あるいは伴天連追放令によって国外に逃れたり・追放されたり、さらにまた「海禁」の時期においても遭難漂流などさまざまな理由によって海外にでていくことになれば、何処かで、なにがしかの理由で、ビールを口にすることになったはずである。おそらく、多くのことがらが何の記録にも残らないであろうから、日本人がビールを口にしたことを明らかにしようと思っても、それは極めて困難である。そのため、日本が「海禁政策」を転換し、「開国」した後からの歴史を辿ることにならざるをえない。そこで登場願うのは
『ビールと日本人――明治・大正・昭和ビール普及史』(1984年)
である。餅は餅屋というように、なにごとにつけ、その道には専門家がいるものである。この『ビールと日本人』も実は「キリンビール編」三省堂発行である。ビールは麦酒屋というわけである。本書は、麒麟麦酒関係者に日本経済史研究者の安藤良雄氏が加わった編集委員会のもとで、日本文学研究・比較文学研究者である芳賀徹氏や風刺画研究家である清水勲氏などが執筆を担当しており、左党(酒飲みのこと)であるなしにかかわらず、多くの図版とともに楽しく読める一書である。そしてもう一冊『麒麟麦酒株式会社五十年史』である。こちらは、明治2年あるいは3年(『麒麟麦酒の歴史――戦後編』などの記述に違いがある)に横浜居留地で日本における最初のビール醸造を行ったスプリング・ヴァレー・ブルワリー(ノルウェー出身のアメリカ人コープランド)のビール「天沼ビールザケ」などを継承している麒麟麦酒がビールの作り手の側から歴史を綴ったものである。
日本人で最初にビールを飲んだ人物に関する記述があるホームページがウェブ上に散見される。憶測を含んだものが多く、正確を期しがたい。その多くは『麒麟五十年』の記述にもとづくものが多い。しかしながら、『麒麟五十年』のp.2に、建部清庵と杉田玄白との往復書簡を編集した『和蘭問答』の「享保九年の条」なるものが引用されているが、「享保九年」は1724年で、この年には杉田玄白(享保18(1733)年 - 文化14(1817)年)はまだ産まれていない。また建部と杉田の往復書簡は
『和蘭医事問答』
であり、『和蘭問答』は享保九年に江戸参府したオランダ商館長ら3人に対する幕府有司からの尋問を阿蘭陀(オランダ)通詞今村市兵衛と名村五兵衛が翻訳記述したものである[新村出解説『海表叢書巻二』所収、更生閣書店、1928年]。キリンビールやキリンホールディングスのホームページでは、すでにこれらの点は訂正されている。ここに引用されたオランダ人の食事に関する記述に「酒はぶどうにて作り申し候。また麦酒給見申候処、殊の外悪敷物にて、何のあぢはひも無御座候。名をビイルと申し候」とある。この記述がオランダ人に関するものであったとしても、長崎出島などでオランダ人と接していた通詞(通訳者)たちがビールを口にしなかったとは思えないし、江戸の「オランダ宿長崎屋」でビールを飲んだ可能性もあると考える。引用ではカピタンらオランダ人たちの食事風景にも及び、「コップと申水器の盃に、酒つぎ出し申候、右コップ三人一所によせちんちんとならし合せ、何も戴き給申候」をあたかもビールで乾杯しているかのように解する向きもあるが、これも無理がある。なぜなら、酒が何か特定されていないだけではなく、「コップ」は大槻玄沢の「蘭説弁惑」で「けるきい・・・俗間これをこっぷといふ」として図示しているものはほぼ「りんせ・うゑいん・がらす」「うゑいん・わふとる・がらす」と類似のもので、「うゑいん」はぶどうを醸してつくった酒、すなわち葡萄酒=ワインを指しているからである(但し、中津藩藩士奥平昌高の
『蘭語訳撰』(1810・文化7年)
にはビール・グラスにコップとして別様の絵が添えられている[『ビールと日本人』p.41]。
では、杉田玄白の場合はどうか。ビールを飲んだという明確な記述は確認されていないようであるが、彼をはじめ多くの蘭学者・蘭学医・博物学者、あるいはオランダ趣味の商人が、長崎のオランダ商館長が江戸参府した際の定宿である長崎屋に出入りしていた。オランダ宿長崎屋については片桐一男『それでも江戸は鎖国だったのか――オランダ宿長崎屋』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー262、2008年)を参照されたい。この本には、著者が長年にわたって残された断片的史料を渉猟し、やっと再構成した江戸「オランダ宿長崎屋」の姿が描きだされている。このなかでも、平賀源内、青木昆陽、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢らの本草学者、蘭学者、蘭方医が訪れ、オランダ文化・科学の摂取に努めたこと、日蘭の文化交流があったことが明らかにされている。この本では、酒類についてはワインやジンはで出てるが、ビールは出てこない。
前野良沢・杉田玄白らに師事した大槻玄沢の
『蘭説弁惑』(1799年、門人の有馬元晃)
が聞き書きし、まとめたもの。
『
杉本つとむ解説「生活の古典双書6」八坂書房、1972年、所収)
に、葡萄酒とは「又別に『びいる』とて、麦にて造りたる酒あり。食後に用いるものにて、飲食の消化(こなれ)をたすくるものといふ」(p.153)とある。また、「麦酒をのむうつわ」である「びいる・がらす」の絵も添えられている(p.157)。彼ら蘭学者・蘭学医・オランダ趣味人が長崎で、あるいは江戸オランダ宿長崎屋でビールを口にしたことは十分にありうることであろう。
『ビールと日本人』は、『麒麟五十年』が上に引いたようにオランダとの関係で蘭学者・蘭学医の諸文献を渉猟したのに対して、「日本におけるビールの文化史ももう長い。だが葡萄酒よりはずっと新しく、もっぱら幕末の英米アングロサクソン文化との接触から始まったようだ。つまり日本人は英語を耳にし口にするとほぼ同時にビールを飲み始めたのである」(p.3)として、記録に確かな1860年の日米修好通商条約批准書交換のための第1回遣米使節団から筆を起こしている。使節団の多数の人々が日録などを残しているが、正使新見房次郎正興豊前守の諸藩より随従した従者の一人仙台藩士玉虫左太夫誼茂(37歳)の日録に、品川沖でパウアタン号(かつて、吉田松陰が下田で密航を企てた時に乗り込もうとした軍艦)に乗船した翌日(旧暦1月19日)の条にビールについての記載があり、2月3日(太陽暦2月24日)に船上で行われた(暴風雨のため2日遅れの)ワシントン誕生日記念パーティで「酒一壺あり。ビールト云フ。一喫す。」とあり、「苦ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と記されているという(p.4)。『ビールと日本人』によれば、どうも、これが日本人がビールを飲んだことが確実な最初の記録だということになる。
幕府はその後1861(文久元)年に開市開港延期とカラフト境界画定交渉のために遣欧使節団(福沢諭吉は通詞・外国方翻訳局員として随行し、
『
西航記』
を残している)[宮永孝『幕末遣欧使節団』講談社学術文庫、2006年]を派遣したのをはじめ、その後数次にわたって使節団を派遣している。また南北戦争の影響で遣米留学生を派遣できなかったため、1862年には、榎本釜次郎(武揚、26歳;幕臣、長崎海軍伝習所第1期員外聴講生、第2期伝習生「江戸より派遣幕臣部屋住」、外交官、政治家)・沢太郎左衛門(幕臣、28歳;長崎海軍伝習所第3期幕府伝習生「箱館江戸書物用出役」、>技術者、教官)・赤松大三郎(則良、22歳)・西周助(33歳;幕臣、蕃書調所教授、、啓蒙思想家)・津田真一郎(行彦、後に真道、33歳;、蕃書調所、、政治家、啓蒙学者)、林研海(20歳、医学者、陸軍軍医総監)らを遣和蘭(海軍)留学生として派遣した(船大工らの職方を伴っていた。幕府が和蘭に建造を依頼した開陽丸の完成を待って、日本に回航する任務ももっていた)。赤松範一編注『赤松則良半生談――幕末オランダ留学の記録』(自らの「航海日記」を依拠している。東洋文庫、1977年)によれば、一行はオランダ船で320日余りをかけて留学地に到着するが、途中でインドネシアのガスパル海峡(バンカ島とブリトゥン島の間)で座礁し、救助されてバダヴィア(現ジャカルタ)にしばし滞在することになった。バダヴィアへ移送される船中で「レシデントは中甲板に居って私たちを迎へ葡萄酒や麦酒を飲まして呉れる」(p.138)と記録されている。また、セント・ヘレナ島に停泊し、ナポレオンの古蹟などを訪れており、その際の旅館の勘定書に「一泊十六志(シリング)・麦酒一本一志半・・・」(p.150)とある。かれら海軍留学生が麦酒・ビールを飲んだことは明かである。
この赤松則良(榎本武揚は義兄にあたる)は長崎海軍伝習所の第3期幕府伝習生(蕃書調所句読教授出役)であり
[藤井哲博『長崎海軍伝習所――十九世紀東西文化の接点』中公新書、1991年]
、第1回遣米使節団に御軍艦操練所(測量)教授方手伝として派遣されている(この時、20歳)。遣米留学生となる予定であったが、南北戦争のため、遣欧留学生となった(造船学・造船技術を研鑽)。赤松則良は、明治維新後、静岡藩に移り沼津兵学校教授となったが、明治政府に出仕し海軍中将にまでなった。主に建艦関係の任に就き、海軍造艦会議議長も努めた。そのため、「日本造船の父」とも呼ばれた。退役後、わたしの出身地でもある、「花のお江戸へ40里、京の都へ40里」の遠州見付(静岡県磐田市見付)に居を構えた(「旧赤松家記念館」がある)。私の親達は、則良の子孫達について話題がでる時には「赤松様」と呼んでいた。彼の長女登志子は森鴎外の最初の妻で、於菟(医学者)の母である。森鴎外もまたドイツ留学中にビールを愛飲した。帝大卒業後軍医となった鴎外は22歳(1884・明治17年)の時ドイツに留学し、衛生学の泰斗ペッテンコッファに就いて学ぶとともに、ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調査した。この間の日記
『独逸日記』
には麦酒=ビールを飲んだことがしばしばでてくる。一二例をあげれば、1886年7月18日の条に、長沼守敬(彫刻家)とともに「既にして神女堡(ニンフェンスブルグ)に至り、麦酒一樽蘿蔔(らふく=大根、赤色二十日大根=ラディッシュのことか?)数根を買ひ、樹陰に座して飲啖す」。また、7月29日の条に、品川弥二郎公使、近衛公、姉小路伯等々とイギリス・カフェで、麦酒の利害などを論じながらビールを飲み「余近衛公、加藤照麿(小児科医)と一『クルウグ』を傾く。歓を竭して帰る。『クルウグ』は一『リイテル』の麦酒を容るる陶器なり」
[『鴎外選集 第21巻』岩波書店、1980年、pp.88-9]
。
幕末の海外留学生は幕府が公式に派遣したものだけではない。薩摩藩にはすでに藩主斉彬による留学生派遣構想(1857・安政5年)があったが実現しなかった。薩英戦争敗北後(1863・文久3年)、五代才助(友厚;実業家、大阪経済界の重鎮の一人)の上海貿易と留学生海外派遣とを内容とする上申書をうけ、英商グラヴァーの協力のもと、薩摩藩は将来藩の枢機を担うことを期待される「門閥派」3名(5名を選抜したが内2名は辞退)と「開成所」の俊秀12名を、1865・元治2年、英国に留学派遣している
[犬塚孝明『薩摩藩英国留学生』中公新書、1974年]
(いちき串木野市に「薩摩藩英国留学生記念館」がある)。これはもちろん、幕府の「海禁」政策を犯す「密航」であった。彼らはロンドンで日本人に遭遇することになる。その日本人とは1863・文久3年5月に出国した長州藩留学生、山尾庸三(26歳;工部卿)・野村弥吉(16歳、井上勝;日本の鉄道の父といわれる)・遠藤謹助(27歳; 造幣局長)の3名であった。長州藩留学生のうち伊藤俊輔(博文、22歳;初代首相)・井上聞多(馨、27歳;外務卿、内務大臣)は長州に対する四国連合艦隊による下関攻撃という具体的計画の情報を得、藩による「攘夷」行動を阻止するために、イギリス滞在半年で1864年3月に帰国の途についていた。長州藩留学生もいうまでもなく密航であった。こうした若い留学生たちがイギリスでビールを口をしたであろうことは想像に難くない。
使節団や留学生たちは西洋の文物に積極的に触れ、経験し、学び、それを消化し、日本に紹介し、移植していく。それはまさに、遣欧米特命全権大使岩倉具視使節団の公務要件の一つとして久米邦武(歴史学者)が編集し、太政官記録掛が1878(明治11)年に刊行した
『特命全権大使 米欧回覧実記』(岩波文庫、1977年)
の扉に岩倉具視が明治8年に題したごとく「観光」であった。
しかしながら、『ビールと日本人』の「英米アングロサクソン文化との接触」に注目するという視点は意外な陥穽に陥ることになる。何故なら、確かにビールの生産量は1951年の数値で(『麒麟五十年』付属資料)、アメリカ・イギリス・西ドイツが多いが、国民一人当たり生産量ではビール大瓶(633ml)換算では、ベルギー190本、イギリス128.9本、アメリカ111.1本、デンマーク102.3本、西ドイツ99.1本、スイス79.4本、フランス31.1本、オランダ30本、日本7.4本、ソ連5.1本である。つまり、ビールと日本人との関係を考える場合に、江戸期のオランダとの関係、幕末・明治初期の英米との関係も重要であるが、「英米アングロサクソン文化との接触」に注目するだけでは不十分であるということである。日本が「海禁」政策を続けているときであっても、海は日本近海だけを世界の海洋から区分することはできない。沿岸・近海を航行している舟・船であっても天候や潮の流れによって漂泊・遭難することはあり、漁民が、水主が、あるいは商人たちが外国船によって救助されることもある。これらの人々がしっかりとした記録を残すことは稀かもしれない。しかしながら、1860年第1回遣米使節団のうちアメリカに直行できた咸臨丸(艦長・軍艦操練所教授方頭取(海舟)勝麟太朗、その従者として福澤諭吉、通弁方として中浜万次郎らが同船)、とは別にパウアタン号でハワイに寄港した一行は、そこでハワイ王家から「日本越中富山 立花庄蔵」という天保10(1839)年に越中を出帆した長者丸の遭難漂流者が残した書き付けを見せられたという
[宮永孝『万延元年の遣米使節団』講談社学術文庫、2005年、p.17]
。そもそも、この使節団には漂流の後鳥島で生存中にアメリカの捕鯨船に救助され、アメリカで生活し、琉球から日本に帰ったジョン万次郎こと中浜万次郎も通弁方として加わっていたではないか。あるいはまた、1850(嘉永3)年に遠州灘で遭難し、アメリカ商船に救助され、その後ボルチモアで教育を受け、1859(安政6)年には神奈川領事ドールの通訳として帰国したジョゼフ・ヒコ(彦次郎)がいたではないか(p.154)。彦次郎と一緒に遭難した者のなかには「海禁」のため帰国しなかった者もある。こうした人々がビールを飲まなかったとはいえないだろう。
天明2(1782)年に駿河沖で遭難し漂流ののちアムチカト島にたどり着いた大黒屋光太夫らはロシアでその後の生活を送ることになった。光太夫ほか2名が10年の後に日本に送還された。その大黒屋光太夫から桂川甫周が聞き取りをし、まとめたものが
『北槎聞略』[桂川甫周著、亀井高孝校訂
『北槎聞略――大黒屋光太夫ロシア漂流記』岩波文庫、1990年]
である(大黒屋光太夫を扱った文学作品に
井上靖『おろしや国酔夢譚』
第1回日本文学大賞受賞がある。これは、1992年に、・電通製作、監督佐藤純彌、主演緒形拳で
映画化
もされている。配給は東宝。)。このなかの「酒」の項に「又賤しき者の用いるピワ(語彙集に「ピワ 濁酒 [ПИВО ピーヴァ ビール]とある」といふ酒あり。是は此方の濁醪のごときものなり。先一斗許も入るべき瓶の下の方にのみぐちをつけ、蔓草(名詳ならず)の葉を乾したるを底に敷、麦粉のねりたるを草の葉とかきまぜて瓶の八分目ほどにつめ。しかと押しつけ、其上に水を入、灶(くどペイチ)に入置、一昼夜ほどねかし、取り出しのみくちをぬき滴りをとる。最初に滴り出るはその色茶に如くにて味甘し。後ほど漸漸色も味もうすく成なり。此酒にかの蔓艸の花をとり加ふれば、酒気強く酔事もはなはだしといふ。是下賤の者の祭祝の日に多く造るものなりとぞ)(p.212)とある。ビールの製法・その色・味にも触れており、光太夫自身がビールを口にした経験を物語るものであろう。大黒屋光太夫については、キリンホールディングスのホームページにある「
麦酒を愛した近代日本の人々
」でも何ら触れられてはいない(各ビール会社のホームページは工夫されていて。実におもしろいし、楽しい。キリンビール大学に入学してみてはいかが)。
福沢諭吉は
『西洋衣食住』(福沢諭吉全集集二、時事新報社, 1898)
の「食の部」に酒類についても記述しており、そのなかで、「ビイール」は「麦酒にて其味至って苦けれど胸膈(キョウカク)を開く為に妙なり亦人々の性分に由り其苦き味を賞翫して飲む人多し」(p.16)としている。確かに、こどもの頃、祭りの日におやじのコップに注がれた(キリン)ビールの泡を指ですくって嘗めた時のあの苦い味は忘れられない。それがいつしか美味に感じられるようになった。普段飲むビールのアルコール分は大概5%ほど(9%程度のエールもあるが)なので、緩やかに酔っていき、「胸膈を開」き、リラックスしていく(人によって違うが)。だから、ウィリアム・ホガースの絵「ジン横丁」と「ビール横丁」(1750/51)は、「ジン横丁」では怠惰・貧困・悲惨さ・身の破滅が描かれ、それと対照的に「ビール横丁」では陽気で活気にあふれた人々が描かれている
[角山栄・川北稔編『路地裏の大英帝国――イギリス都市生活史』平凡社、1982年、pp.224-5]
。
この文章は読書の勧めであって、ビールの勧め・飲酒の勧めではない。注意申し上げておきたいことは、アルコール飲料を口にする前に、自分がアルコール飲料を飲める体質なのかどうかを必ずチェック(アルコール・パッチ・テスト)してほしいということである。日本人の約4割は遺伝的にアルコールに弱い体質といわれている。4%ほどの人々は注射をするときのアルコール消毒でも赤く腫れるなどのアルコール・アレルギー症状をおこるとされる(DD型)。こういう人々は一気飲みなどの無茶な飲酒で急性アルコール中毒になりやすく、場合によっては死に至ることもある。飲めない場合は、はっきり断ることが肝腎である。そういう人々に飲酒を強要することは犯罪だという認識を持つべきであろう。自分の体質を知り、楽しくアルコール飲料と付き合うことが大切である。アルコール飲料メーカーも、このことを強調している。
|