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しかすがにいのち寂し
推薦文 : 経済学部 大田 一廣 教授
『不在の歌 九鬼周造の世界』 坂部 恵著

 しばらく訪ねていないが、いまごろ京都東山の法然院は、深い緑がゆたかな静寂をもたらし、訪れるひとを原郷への懐旧に誘なう、ゆったりした形而上学的世界に包まれているにちがいない。一般には『「いき」の構造』の哲学者として知られる九鬼周造(1888-1941)は、内藤湖南、河上肇、谷崎潤一郎などとともに、この法然院の墓域に疲れを癒して眠っている。
  評伝『和辻哲郎』(岩波書店刊、1986年)によって、近代日本の黎明をひらいた哲学者の評伝の、ひとつの鑑となる伝統を設えた坂部恵は本書では、九鬼周造の思考を微に入り細を穿ちつつ詩情ゆたかに描いている。学の言語と詩の言語が邂逅し、あるいは離反し折り合わされつつ、そこに生じる微妙な魂のたゆたいを読むものにおのづから追体験させる、緊密に構成されたじつにみごとな文体の日本語は、超絶技巧というほかはない。

「不在の歌 九鬼周造の世界」
TBSブリタニカ、1990年12月

  九鬼周造はわが国の〈近代〉の「青春性」(萩原朔太郎)を、『風土』や『古寺巡礼』の著作で有名な同期生の和辻哲郎とともに体現しつつ(同期にはもうひとり『中世哲學史研究』の岩下壮一がいた)、西洋思想の形而上学的思考(現象学的存在論、『偶然性の問題』)と日本の文化的世界の体験層(「いき」と日本語の韻)との〈あわい〉のもつ流動的で不安定な「二元の邂逅」を明晰な分析的理知と繊細な言語意識とによって紡ぎだした哲学者である――。坂部恵は、そのような九鬼周造の厳密な思考の背後に〈存在の不安〉を探り、それを九鬼の思想形成に即して一篇の〈詩的世界〉として描き出していて、九鬼周造が柔軟で感じやすい詩魂の持ち主でもあったことが、手に取るようにわかる。

   しかすがにさびしかりけりわがこころ知る人たえて無しと思へば

 これは、九鬼周造が「人たえ」た晩年に詠んだもの(「短歌ノート」)であるが、周造には、九鬼隆一と岡倉天心という「ふたりの父」とひとりの母波津子(波津)がいた。周造をすでに孕んでいた波津子を、隆一が岡倉天心に託して米国から一緒に帰国させた――このことが、周造の心象にある屈折した襞を刻みつけたにちがいない。ある朝――と周造は「根岸」という随筆で、40年ぶりに訪れた根岸と少年期を回想している――、いつもより早く起きてひとりで根岸の屋敷の庭で遊んでいると、天心先生が二階の母の部屋から出て降りてこられた。そういえば先生はいつも母と一緒に夕食をされていたが・・・・・・。やがて母波津子は隆一から離縁され、精神に異常をきたし暗い奥座敷にひとり閉されたまま逝くのだが、周造は天心を〈形而上の父〉と想定し、そういう心象による複雑な「四角関係」のもたらすアイデンティティの〈崩壊〉あるいは〈不安〉が九鬼周造の思考に深い翳を落としている。
 フランスでは若きサルトルからフランス語を習い、ベルクソンに触れ、ドイツでは『存在と時間』を完成させた直後のハイデガーに親しく接し多くを吸収した、およそ7年におよぶ滞欧のさなかに、九鬼周造がときに浮名を流しながらパリでどのような思索を重ねていたかを、詩歌集『巴里心景』(昭和17年刊、編集天野貞祐)を読み解きながら、与謝野鉄幹の雑誌『明星』への投稿などをも紹介しつつ、ていねいに描いてゆく。そして、哲学的思索と詩魂との「結合の秘密」が、あまり知られていないこの『巴里心景』に胚胎しているというのだ(『巴里心景』は旧制一高以来の親友たる美術史家児島喜久雄の装丁・挿画による、やや草色がかった群青の、小型ながら瀟洒な本である)。九鬼周造の〈青春の彷徨〉に寄り添うがごとき坂部恵の繊細な筆遣いは、さながら〈思考の存在論的ポエジー〉というにふさわしい。
 フランス語による「ポンティニー講演」(主として「東洋的時間」論)をおこなって帰国したのち、九鬼周造は、「銀杏の葉」はひとつが二つに分かれたのか、二つがひとつに成ったのか――こういう人生における〈わくら葉〉の出会いないし邂逅の問題、東と西、父と子、母と子、等々、実生活のうえでの二元的対立・緊張の弛緩とは裏腹に、「たまきはるいのちのはずみ」の対立・緊張をあらためて〈捉え返し〉、偶然性ないし「わくら葉のものの〈はずみ〉」をめぐる思索に集中する。『偶然性の問題』は高度に抽象的な形而上学的思索であるが、そこには「わが半生がこもる」〈いのち〉の邂逅と葛藤と緊張とが潜んでいた・・・・・・。
 『「いき」の構造』の著者の思考と詩魂とを伝える評伝にふさわしく、坂部恵の『不在の歌』は、表紙カバーに「菊寿堂いせ辰」誂えの臙脂と濃茶の広東縞を施した、いかにも洒落た粋な装丁となっていて、書物というものの美しさをも湛えている。「菊寿堂いせ辰」は江戸千代紙・工芸品を商う谷中の老舗であり、いまなお江戸の趣を伝えるこの辺りは、周造が少年期を過ごした根岸から遠くない。

著者紹介
坂部 恵 (さかべ めぐみ) [1936―]

昭和後期-平成時代の哲学者。 都立大助教授などをへて,昭和60年東大教授となる。のち桜美林大教授。ドイツやフランスの哲学を専攻。近代哲学の枠組みの再検討や,日本語による哲学の可能性を追究。神奈川県出身。東大卒。著作に「仮面の解釈学」「和辻哲郎」「理性の不安―カント哲学の生成と構造」「ペルソナの詩学」など。 ―講談社『日本人名大辞典』Japan Knowledgeデータベースより

 

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