蔵書検索(OPAC)
HOME > 資料案内 > 新しく入った本 > おすすめの一冊
新着資料 ベストセラー 学生の購入リクエスト
映画・ドラマの原作 テーマ図書 おすすめの一冊
おすすめの一冊 本学の教員や図書館員のおすすめの本を紹介します。
   

前の本へ

次の本へ
ルネサンスを旅する巨人--出納簿とルターとメレンコリア--
推薦文 : 経済学部 大田 一廣 教授
『ネーデルラント旅日記』 アルブレヒト・デューラー著 ; 前川誠郎訳・注 朝日新聞社刊 1996年7月

 
 ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーに「メレンコリアⅠ」(1514年、エングレーヴィング)という傑作がある。眼をかっとみひらいた巨躯の天使が割りコンパスをもてあまし頬杖をついて物思いに耽っている。梯子をわたした壁に「ユピテル魔方陣」(各列が女性数2とピュタゴラス派の不吉な数17との積になる4×4の魔方陣。製作年の1514が折句のごとく嵌め込まれている)が掲げられ、遠景には虹の架かる日輪を背にした蝙蝠が「メレンコリアⅠ」のタイトルを不気味にひろげて……なにやら謎めいた黙示録の趣を予感させる。

「ネーデルラント旅日記」
朝日新聞社刊 1996年7月
( 岩波文庫版 2007年)

 『ネーデルラント旅日記』は旅の出先で50歳を迎え栄光の絶頂にたつ「絵画の王」が、1520年7月から翌年の7月までの1年間にわたって、妻アグネスと女中スザンナをともなって故郷ニュルンベルクからアントウェルペンを中心にネーデルラント(現在のベルギー、オランダ)地方の諸都市を訪ね、神聖ローマ皇帝カロルス五世(スペイン王カルロス一世)、マルガリーテ女公、諸侯、貴顕、学者(エラスムス)、豪商(最たるはフッガー。ポルトガル人ロドリーゴには油彩の「聖ヒエロニムス」を贈っている)、画工の親方などからうけた寵遇や知遇や世話など日常の生活を記録したものである。面白いのは、日記の内容がほとんど旅の収支明細で埋められていることだ――交通費、宿泊費、食費はもとより、贈った肖像画や銅版画の値打ち相当額、貰った贈物の値踏みやチップの額、特定の人々との会食の回数や招かれた宴席の費用の推定額にいたるまで、実にことこまかに記載されている。西欧美術史学の碩学前川誠郎がこの『旅日記』を「出納簿文学」というのはたしかにその通りで、『断腸亭日乗』の荷風も三舎を避ける底のものだろう。
 たとえば、ニュルンベルクからフランクフルトへ向かうマイン川船旅の7月15日の記述――


 そのあとシュヴァインフェルトへ行き、そこでレーバルト博士が私を招待し、我々の船に葡萄酒を届けてくれた。また無税で通してもらった。
 ローストチキン一羽十ペニッヒ。
 賄いと子供に十八ペニッヒ。
そのあとフォルクアッハへ行き通関券を示して先へと進み、シュヴァルツアッハへ来た。そこで泊まり二十二ペニッヒを払った。

 このような路次の収支明細が『旅日記』全篇にえんえんと続くのだ。
 当時のヨーロッパは現代のEUとは違って、政治権力の異なるいくつもの“領邦”や“国”に“分立”し、通貨も限定流通のいわば地域貨幣であり、さらに河川沿岸の港での通関料(複数の領邦を流れるマイン川の通関料は2グルデン)や為替(値打ちの換算)の手続がその都度に必要であった。旅立ちにあたってデューラーは、バンベルク司教にマリアの画像と「一グルテン相当の銅版画」を贈呈し、司教からは「一枚の通関券と三枚の紹介状」とを与えられている。『旅日記』には、北方で主として使われていたこのグルデンのほかに、アングロット(英国)、ドゥカート(イタリアまたはハンガリー)、ポルトガル・グルデンなど各種の通貨が出てくるが、これは金融センターがヴェネツィア、アウグスブルク、アントウェルペンへと移りつつあったことを窺わせる。
 前川誠郎の計算では、ローストチキン一羽を現在(「あとがき」は1996年早春の日付)の2千円とみなすと、当時の1ペニッヒはおよそ200円に、1グルデン(1グルデン=252ペニッヒ)がほぼ5万円にあたる。アントウェルペンの旅籠代は1ヶ月で11グルデンだったから1日あたり1万8千円となり、デューラーが泊まったという《天使城館》は一流の旅籠であったようだ。一方、デューラーは生牡蠣に舌鼓を打ってはしょっちゅう賭将棋をやっていて、たとえば1520年12月10日には6シュトゥーバ(約1万2千円)も負けている……。
 こういうデューラーの旅の目的は何だったのだろうか――ひとつは、皇帝マクシミリアヌス一世の急逝によって生じた終身年金の遅滞金200グルデンの支給と年金100グルデンの継続給付とを新皇帝カロルス五世のアーヘンでの戴冠式にあわせて請願し決着をつけること、もうひとつは持前の好奇心にまかせた物見遊山(海辺に打ち上げられた巨大な鯨の話など)であった。年金問題の決着のための根回しに精力的に奔走するデューラーの行動力はまさに《巨人》というにふさわしい。
 だが、この『ネーデルラント旅日記』の歴史的・思想史的な価値をいっそう高めているのは、宗教改革者《ルター逮捕》の“悲報”に接したときの、臨場感の溢れる渾身の「ルッター哀悼文」(1521年5月17日)であろう。「世俗の権力と闇黒の暴虐」を指弾し、「聖なる福音」を伝える「キリストと真のキリスト信仰の継承者」たる「マルティン・ルッター博士」を讃え “追悼”する文章だ。旅のデューラーは頻繁に「飛脚」(郵便)をつかって情報の収集にもあたっていたようだが、この「陰謀によるルッター逮捕」(と殺害の予断)の“悲報”を事件(1521年5月4日)から13日後に受けている。だが《ルター逮捕》の真相は、カロルス五世による新教徒禁止令(ヴォルムス国会決議、1521年5月26日)が取り沙汰されていた矢先、ザクセン選帝侯フリードリッヒ賢公がアイゼナッハで仕組んだ芝居だったのであり、ワルトブルク城に「貴族ゲオルク」名で匿われたルターはそこで世界史を変えた『聖書』のドイツ語訳に専念するのだった。もちろんデューラーはそこまでは知らない。
 《ルター逮捕》という世界史的事件に立ち会ったデューラーは、国際的に知られたユマニストのエラスムス(ルヴァン大学で神学を教えていた『痴愚神礼賛』の著者。アントウェルペンで二度ほど会ったデューラーは彼の肖像画を贈っている)に、《殺害された》ルターに変わって《蹶起》を促す呼び掛けを痛切な思いで懇願するように書きつけている。そこに乱世の精神の在処とユマニストの姿をみとめことができるだろう。それは、単独者としての個人の一回性のビオスが世界史の巨大な転換点と触れ合う、苦渋に満ちた瞬間の輝きであった。
 デューラーの『旅日記』からおよそ60年後のフランスでは、モンテーニュがローマ法王の儀礼、鞭打ち教団、ユダヤ教徒の割礼、イタリア料理の数々、ローマの娼婦など主としてイタリアでの見聞と観察を記述した『旅日記』(1580-1581年)を遺し、さらにモンテーニュからおよそ100年後の日本では芭蕉が曾良とともに『奥の細道』(1689年)への旅に出て、縹渺たる「百代の過客」の憂愁を伝えている。そして芭蕉の旅から100年後にはゲーテが『イタリア紀行』(1786-1788年)で、根源への回生と清冽な詩魂とを抒情ゆたかに紡いでいる。モンテーニュもゲーテも時を隔てて“国境”のブレンナー峠を越えてイタリアに入っているが、若きデューラーは同時代のダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが活躍するヴェネツィアで画業の修練と研究に専念するために、彼らに先立ってこのブレンナー峠を越えていったにちがいない。
 はじめに掲げた「ルネサンスを旅する巨人」という言葉は、佐野眞一『旅する巨人――宮本常一と澁澤敬三』(文藝春秋刊、1996年)から拝借したものだ――宮本常一は文字通り、旅の人だった。

著者紹介

デューラー (Albrecht Dürer) [1471~1528]

ドイツの画家。鋭い観察力に基づく写実的表現のなかに深い精神性を示し、ドイツ=ルネサンスを代表。宗教的主題が多く、版画にもすぐれた。また、理論書も発表。作「四人の使徒」など。
―小学館『デジタル大辞泉』Japan Knowledgeデータベースより

前川誠郎 (まえかわ せいろう) [1920‐]

昭和-平成時代の美術史家。九大助教授,東大教授などをへて,昭和57年国立西洋美術館長。西洋美術史,とくにデューラーの研究で知られる。平成2年新潟県立美術博物館長。5年フランス芸術文化勲章オフィシエ章。京都出身。東京帝大卒。
―講談社『日本人名大辞典』Japan Knowledgeデータベースより

前の本へ

次の本へ
ページトップへ戻る