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『白樺』、ロダン、碌山荻原守衛
推薦文 : 経済学部 青木 郁夫 教授
白樺、ロダン、荻原守衛 関連本

 雑誌『白樺』が創刊されてから、今年で100年目を迎える。それを記念して、京都文化博物館で「『白樺』誕生100年 白樺派の愛した美術」展が開催された。この展覧会では『白樺』が日本に紹介した多くの美術が展示されている。もちろん、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、マティスなどいちいち名をあげきれないほどであるが、そのなかで、オスカー・ワイルドの「サロメ」によせたビアズリーの作品(岩波文庫『サロメ』でみることができる)、ドーミエの風刺画(岩波文庫『ドーミエ風刺画の世界』喜安朗編参照)、あるいは昨年なくなった堀田善衞の『ゴヤ』(新潮社)を春先に読んだところだったので一層ゴヤの作品が印象深かった。しかしながら、なんといっても、ロダンの「接吻」、「バルザック像」が、そしてロダンの影響をうけた高村光太郎の「手」に惹かれた。(展覧会の図録では、クールベの作品もあるのだが、これは広島美術館でしか公開されないらしい。これがあれば、当然、ここに記すことになるのだが)。
 この展覧会を構成する重要なテーマの一つに「『白樺』とロダンとの交流」があった。それは『白樺』でロダンを特集するにあたっての往復書簡、そして浮世絵とロダンの「在る小さき影」「ロダン夫人」「ゴロツキの首」の交換である。『白樺』に集った人々はロダンの作品を手にしたことで「公共白樺美術館」を建設する計画をすすめたようだが、残念ながらこれは実現されず、これらの作品は岡山県倉敷の「大原美術館」に永久寄託されている。
  ロダンの作品で最初にみたのは、中学校の修学旅行で京都・奈良を訪れた際、京都国立博物館の庭にある「考える人」であった。その時の印象は、「へぇー、これがロダンの『考える人』か」

白樺、ロダン、荻原守衛 関連本

という程度のことだったように思う。その後、学生時代に、当時神戸市王子にあった兵庫県立美術館で開催された「ロダン展」で(あったように記憶している)、あるいは、東京上野の国立西洋美術館にある「地獄門」「カレーの市民」「青銅時代」などロダンのいくつかの作品で、その人間の身体、いやよりリアルに、また究極的な筋肉の動きまでもとらえる肉体の造形を通して、われわれがどこから来たのか、われわれは何か、そして、われわれはどこに行くのか、を問い続け、人間の本質にどこまでも迫り、それを表現しようとするその迫力に圧倒され、深い感動を覚えた。それはトルソーであっても同様であった。『ロダンの言葉抄』(高村光太郎訳、高田博厚編、岩波文庫)が書棚のどこかにあるはずなのだが、みつからない。
 そのロダンには弟子でもあり、愛人でもあったカミーユ・クローデルがいた。カミーユの弟ポールは詩人であり、また駐日フランス大使でもあった。カミーユをただロダンの弟子というのはあまりに彼女の独創的な才能を正当に評価していないことになるのであろう。こうしたことを描いたのが、イザベル・アジャーニが主演した映画「カミーユ・クローデル」(原作レーヌ=マリー・パレス[ポールの孫]、監督ブリュノ・ニュイッテン、主演イザベル・アジャーニ、ジェラール・ドパルデュ、1988年)である。
 日本に最初にロダンを紹介したのは、碌山荻原守衛[ろくざんおぎわらもりえ](以下、碌山と記述する)であったとされている。彼自身、「女」「北条虎吉像」「坑夫」「労働者」「デスペア」などの作品を残した日本の近代を代表する彫刻家の一人である。
 碌山が彫刻家を目指すことになったのは、彼自身が語るところでは、パリにおいてロダンの「考える人」を見たことであった(1904年5月)。2年3ヶ月後、再びパリ習学した際には、しばしばロダンのアトリエを訪れている。ロダンとの出会いが碌山をして絵画から彫刻への途を歩ませることになった。それはロダンの芸術から大いなる影響をうけてのものであったことはいうまでもない。林文雄『荻原守衛――忘れえぬ芸術家』上下(新日本新書、1990年)は、碌山の「ヒューマンで、民主的な実質」をもつ芸術を、狭い意味での芸術家としての成長過程だけでなく、碌山自身の思想を含む全人間形成過程をも視野に入れて解き明かそうとするものである。「切れば血のでるような実人生と痛切に相渉[あいわた]る」碌山の芸術を(透谷の「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を想起。碌山自身藤村の「春」を評価していたという)。碌山は1908年3月に帰朝後、本格的に創作活動を始めて2年後の1910年4月、わずか満30歳5ヶ月で天に召された。彼の作品は信州穂高の碌山美術館に納められおり、いまなお多くの人々がそれらを見に訪れている。
 碌山の芸術や人間を語るとき、一人の女性の存在が重要な意味をもっている。その女性とは、黒光相馬良[こっこうそうまりょう](以下、黒光と記述する)である。黒光は碌山の信州穂高での先輩であった相馬愛藏の妻となった女性である。碌山が西洋絵画・油絵に眼を開かれたのは、黒光が穂高にもってきた絵であったといわれているし、おそらく恋心でもあったであろう憧れをもって接した黒光の存在であった。 
 その後、東京に出た相馬夫妻は新宿でパン屋をひらいた。それが新宿中村屋である。新宿中村屋はハイカラなパン屋ではあるだけでなく、同時にまた黒光が主催する芸術家たちの「サロン」のようなものでもあった。ここには碌山をはじめ、戸張孤雁[とばりこがん]、中村[つね]、中原[てい]二郎ら、多くの芸術家、文人が集った。黒光には自伝『黙移 相馬黒光自伝』(平凡社ライブラリー、1999年)がある。その相馬愛藏・良(黒光)夫妻の新宿中村屋をモデルとして制作されたテレビ・ドラマに(ポーラ・テレビ小説)「パンとあこがれ」(脚本:山田太一、主演:宇津宮雅代、大出俊、1969年)がある。帰朝した碌山は中村屋の近在にアトリエを設け創作活動を続けるとともに、日常的に相馬夫妻と親密に交流した。
 碌山と黒光との「恋愛関係」は結ばれることのないものではあったが、相互を深くそれに縛りつけていたもののようである。碌山の絶作となったのは「女」であるが、碌山の死と「女」に係わって黒光は『黙移』のなかで次のように語っている。碌山の死は「私を狂死されるものであった」「・・・絶作となった『女』が彫刻台の上に生々しい土のままで女性の悩みを象徴しておりました。私はこの最後の作品の前に棒立ちになって、悩める『女』を凝視しました。高い処に面を向けて繋縛[けいばく]から脱しようとしてもがくやうなその表情、しかも肢体は地上より離れ得ず、両の手を後方へ廻しなやましげな姿態は単なる土の作品ではなく、私自身だと直覚されるものがありました」と。しかしながら、そういう黒光の理解を超えて、林文雄が云うように、「・・・彼の『女』の像のうえには、相馬良の[おもかげ]だけでなく、それに重なりそれに溶けこむ形で、日本の広範な悩める女性大衆の像が反映することになり、そのことによって、主題によせる作者の情感のあの深さとみずみずしさが保障されたのであった。・・・弱いものに強い力をあらわし、呪縛された姿のうちに解放への希求をひびかせる、真に弁証法的な方法によってその目的を達成した」というような鑑賞がありえよう。ただ、わたしには、制作にいたる直接的なモチーフを、あるいはエネルギーをもっと重視してよいように思われるが。個別具体と普遍との関連性において。
 臼井吉見の長編小説『安曇野』(筑摩書房)は、19世紀末から20世紀はじめの信州安曇野における民権・民主主義の確立による日本社会の近代化をめざす若き人々の、ある意味で、キリスト教を背景とする「学問文芸共和国」的雰囲気を伝えながら、そこで旧来の伝統的社会・文化・習慣との狭間で苦悩するさまざまな人間像を描いている。
 信州穂高の碌山美術館を訪れたのはいつのことだったか。今年の夏は、信州松本から梓川をこえて、安曇野・穂高をめぐるのもいいだろう。

 
人物紹介

荻原守衛 (おぎわら もりえ)[1879―1910]

彫刻家。長野の生まれ。号は碌山(ろくざん)。小山正太郎に油絵を学び、のち渡仏して彫刻に転向。作風はロダンの内的生命力の表現に負うところが多く、近代彫刻の幕を開いた。遺作は郷里長野県安曇野(あづみの)市の碌山美術館に収蔵。
”おぎわら‐もりえ【荻原守衛】”, デジタル大辞泉, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2009-07-30)

相馬黒光(そうま こっこう)[1876‐1955]

明治-昭和時代の実業家,随筆家。
明治9年9月12日生まれ。相馬愛蔵と結婚,新宿中村屋を創業。店を文化人のサロンに開放。荻原守衛(おぎわら‐もりえ),中村彝(つね),エロシェンコ,ビハリ=ボースらがあつまった。昭和30年3月2日死去。78歳。宮城県出身。明治女学校卒。旧姓は星。本名は良(りょう)。著作に「黙移」「広瀬川の畔(ほとり)」など。
”そうまこっこう【相馬黒光】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2009-07-30)

 

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