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道教、キリスト教、日蓮法華宗
推薦文 : 経済学部 青木 郁夫 教授

 表題をみて、何のことだろうといぶかしがる向きもあることだろう。いずれも宗教にも帰依していない私が、ここで宗教論を語ることはない。一知半解なことがらがでてきたとしても、ご容赦願うことにしよう。
 大阪市立美術館で9月15日から10月25日まで「道教の美術」展が開かれていた。道教とは、「広辞苑」によれば、「中国漢民族の伝統宗教。黄帝・老子を教祖と仰ぐ。古来の巫術や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う」とされる。ここにでてくる黄帝とは、サトウ製薬の「ユンケル黄帝液」の黄帝で、不老長生を説いた『黄帝内経素問』を残したとされている。また、大阪の「薬の町・道修町」で信仰される「神農」さんは『神農本草経』という本草学・薬物に関する書物を著したとされている。道教につながることがらは意外に身近なところにあることに驚くだろう。もう一例をあげれば、滋賀県の「大津祭り」において、山車・「西王母山」別名「桃山」からまかれる「ちまき」には「厄除 不老長寿 大津祭 西王母山」とある。この「西王母」は中国の神仙思想において、東王父に対応して、女仙を統率し、不老不死の仙桃を管理するとされる。あるいはまた、福永光司、千田稔、高橋徹『日本の道教遺跡を歩く――陰陽道・修験道のルーツもここにあった』(朝日選書、2003年)によって、桓武天皇による長岡京造営にあたって道教が果たした役割や交野神社など、さまざまな道教関連の遺跡の存在を知ることができる。

道教、キリスト教、日蓮法華宗

 この展覧会では興味をひかれたのは、道教と陰陽道との関連に関する展示であった。陰陽師として知られる阿倍晴明を描く図像もあった。阿倍晴明は夢枕莫の『陰陽師』(文芸春秋社、1988年)、それを漫画化した岡野玲子『陰陽師』(白泉社)によってブームとなった。京都の堀川一条にある晴明神社(阿倍晴明旧宅跡とされる)も、大阪阿倍野区阿倍野元町にある阿倍晴明神社(阿倍晴明誕生地とされる)もすっかりきれいに整備されてしまい、ブームが起きる前の様子はまったくない。若い女性たちの観光スポットそのものである。それはさておき、阿倍野の阿倍晴明神社は、旧熊野街道沿いにあり、現在は阿倍王子神社の末社となっている。この界隈は松虫あるいは北畠といった旧跡のある地域であり、しかも、「熊野街道」の一部を歩くことにもなるので、訪れてみたらいかがであろうか。そして、阿倍王子神社で、『大阪阿倍晴明神社関係資料集』と志村有弘著『阿倍晴明公伝』を買い求めて、お読みになれば、もうあなたはすっかり阿倍晴明にとりつかれることだろう(本学図書館には、ビジュアル本、土井康弘ほか『阿倍晴明――怨霊都市・平安京を駆け抜けた天才陰陽師』早稲田出版、2000年、がある)。


(大阪阿倍野松虫、同様のものは何カ所かにある)

(阿倍晴明神社、大阪阿倍野元町、左に「阿倍晴明誕生伝承地」の碑がみえる)

 『関係資料集』に収められている「摂州阿倍野実録」によれば、阿倍晴明は、信太の森 の白狐と阿倍保名との間に生まれたこと、幼い頃、浦島太郎と同様に、亀を助け竜宮城にいったこと、そして堀川一条小橋の松でくびれ死んだ後白道仙人によって蘇生したことになっている。これらはいずれも説話の類なのであって、阿倍晴明の実像をつたえているわけではない。阿倍晴明もその後継である土御門家も天文道に携わっていた。その土御門家の菩提寺となっている京都梅小路東中町の梅林寺には、天文観測装置である「渾天儀」を据えた土台石が今も残されている。また、阿倍晴明が蘇生するという話は、京都浄土寺の真正極楽寺「真如堂縁起」にもある。「真如堂縁起」では難病で急死した阿倍晴明が自らの念持仏である「不動明王」の法力によって閻魔大魔王の許しをえて娑婆に戻るというものである。この「不動明王」は現在も真如堂に伝えられている。「道教の美術」展では、「阿倍晴明像」とともにこの「真如堂縁起」の図像が展示されていた。
怪しき縁といおうか、文楽11月公演の演目のひとつは「芦屋道満大内鑑」であった。これはまさに、阿倍保名と信太の森の白狐「葛の葉」との物語であり、二人(?)の間に生まれた「阿倍の童子」こそ、後の阿倍晴明である(そうそう、関西できつね(うどん)のことを「しのだ」というのはここに起源がある。牧村史陽編『大阪ことば事典』講談社学術文庫、 1974年)。今回の公演で「葛の葉」=白狐の人形を遣ったのは吉田文雀であった。久しぶりに文雀の元気な人形遣いをみた。公演パンフレットに吉田文雀へのインタビュー記事があった。そのなかで文雀は自らが遣う狐についてこんなエピソードを語っている。「この狐、実は大変な目に遭っているんです。昭和32年、私の自宅が火事で焼けてしまいました。私は地方公演中で留守だったのですが、家内が火の中へ飛び込んで、この人形を家の中から持ち出してくれたのです。そうそう、文五郎師匠の持っていらした狐の人形も、戦時中の空襲から焼けのこったんですよ。



(阿倍晴明神社、京都堀川一条)

(信太の森葛の葉神社、JR阪和線北信太駅徒歩5分。もっとも「葛の葉子別れ伝説」の舞台は信太山上に ある聖神社であるともされている[阿倍野王子神社 『熊野王子 巡礼ガイドブック』p.36])

(梅林寺 土御門殿御菩提所梅林寺の石柱がみえる)

文五郎師匠の狐は焼夷弾を免れ、私の狐は火事の中から助け出された。師弟の狐がいずれも火をくぐり抜けて生き残り、不思議なめぐりあわせを感じます。」これを読んで目頭が熱くなるとともに想い出したのは、芹沢光治良の自伝的長編小説『人間の運命』(新潮社、1962-68年)にそれに良く似たシーンがあることである。東京空襲から焼け残った土蔵のなかから文楽の娘人形を持ち帰る列車のなかで、多くの人々がその人形を喜色満面でながめ、涙する様が描かれている。空襲に焼かれた東京の灰色一色の街になかに、そこだけ鮮やかな色彩が蘇るようである。それは、人々が生きるうえで美しきものがいかに必要であり、それが生きる力になることを感動をもって伝える文章である。映像的にいえば、ちょうど黒澤映画「天国と地獄」でカバンを燃やした時の煙突からの煙が白黒の画面から一瞬カラー(当時は天然色といった)に変わったように。
 さらに奇しき縁といおうか、10月、京都先斗町歌舞練場で行われた芸妓の踊りの会である「水明会」で、唄に阿倍晴明がでてくる長唄「綱館」が演じられたこともつけくわえておこう。

 京都岡崎にある国立近代美術館では12月27日まで「ボルゲーゼ美術館展」が開かれている。この展覧会の目玉の一つはラファエロの「一角獣を抱いた貴婦人」なのだが、それよりも興味がわいたのは「支倉常長の像」である。それは、もちろん美術的な興味ということではない。展覧会の解説によれば、ボルゲーゼ美術館は17世紀ローマのシピオーネ・カッファレッリ=ボルゲーゼ枢機卿(1576-1633)が自らのコレクションを収めるために建てた『白亜の館』がそれで、叔父にあたる時の教皇パウルス(=パウロ)5世は教皇庁の迎賓館としてこの建物を用いた。完成直後の1615年には支倉常長が率いる慶長遣欧使節団がここを訪れて歓待されている。この時に「支倉常長の像」が描かれている。支倉常長は仙台藩伊達政宗によって、親書を教皇に捧呈し、メキシコとの交易を開かんとした。しかしながら、彼がヨーロッパに向けて出発したころには、すでに江戸幕府によってキリスト教は禁令され、キリシタンは厳しく弾圧されつつあった。遠藤周作は支倉常長をモデルに『侍』を書いている。また、遠藤周作にはキリシタン弾圧とそれに抵抗し信仰を守ろうとする人々を描いた『沈黙』という作品もある。『沈黙』は弾圧によって死を迎えようとするキリシタンが神に救われることを思いながらも、結局神は「沈黙」をまもるのみであったことを描き、犠牲と棄教、そして信仰の意味を問う重要な作品である。
 徳川家康の時代から家光の時代までの日本におけるキリスト教の歴史はレオン・パジェス、吉田小五郎訳『日本切支丹宗門史』(岩波文庫)に詳しい。キリスト経は伝来以降九州を中心にめざましくひろがり、『日本切支丹宗門史』にあげられている当時の信者数は驚くべき多さである。また、日本史の教科書で知る「キリシタン大名」以外にも、われわれが歴史上知る武将たちがキリスト教に改宗している。キリシタンの武将たちは関ヶ原に戦いにおいていずれの側に属していようとも兜に十字架を戴き、首にロザリオを下げて闘ったという。その後、徳川幕府のもとで、しだいにキリシタンは厳しい弾圧をうけ根絶やしにされていくことになる。
 再び日本においてキリスト教が大いにひろがっていくのは、明治維新後のことである。この時期にキリスト者となった人物のなかには、元新撰組の隊員であった結城無二三もいる。結城禮一郎『旧幕新撰組の結城無二三』(中公文庫、1976年)は、息子である禮一郎が、父から語り聞かされたことをもとにまとめられたもので、明治になりクリスチャンとなった父の波瀾万丈の人生を伝えている。このなかで、坂本龍馬を京都河原町の近江屋で暗殺したのは京都見廻り組の今井信郎であったことが記されている(このことについて、その後様々な議論があるが)。結城無二三は静岡などでメソジストとしてキリスト教の布教活動を行っている。今井信郎は幕臣であったため、明治維新後、多くの他の幕臣とともに駿河(静岡県中部地方)に移された。榛原郡初倉村(現島田市)の村長も務めている。今井信郎は後にクリスチャンになっている。
 明治期多くのクリスチャンが生まれたが、地域的なその集団を「バンド」と呼んでいる。徳富蘇峰、徳富蘆花兄弟も属した「熊本バンド」が有名だが(劇作家木下順二が戯曲『風浪』岩波文庫、木下順二戯曲集1、1982年、で描いている)、明治維新後旧幕臣の多くが移された静岡もまた、旧幕臣でもキリスト教に改宗した者がみられ「静岡バンド」につくられた。このことは、太田愛人『明治キリスト教の流域――静岡バンドと幕臣たち』(中公文庫、1992年)に詳しい。

 京都国立博物館で10月10日から11月23日まで『「立正安国論」奏進750年記念 日蓮と法華の名宝』展が開かれた。この展覧会では、日蓮描くところの「日蓮曼荼羅本尊」、国宝日蓮筆「立正安国論」のほか、熱心なる法華信者であった本阿弥光悦の工芸品、あるいは長谷川等伯が描く「絵曼荼羅」などや狩野探幽が描く「日蓮上人瀧之口法難図」などの「宗教画」も展示された。そうしたなかに、「加藤清正像」(京都本圀寺蔵)があった。加藤清正も熱心な日蓮法華宗信者であった。清正は先の『日本切支丹宗門史』には「主計殿」としてあらわれ、九州におけるキリシタンに対する弾圧の中心人物であったことが記述されている。彼の日蓮法華宗への深い帰依が、そうさせたのであろう。加藤清正は豊臣秀吉による「朝鮮出兵」における「虎狩り」でも有名である。その「清正像」が展示された『日蓮と法華の名宝』展が、京都国立博物館で開かれたことも何かの因縁であろうか。なぜなら、国立博物館の西側には「朝鮮出兵」時に朝鮮から持ち帰った朝鮮人たちの「耳」をまつり、鎮魂した「耳塚」があるからである。清正の遺髪などは京都本圀寺(日蓮宗)に「清正宮」(=清正公廟)を建て、奉られた。本圀寺は現在京都山科の疎水沿いにある。ここには、金色の釣り鐘、金色の仁王像がある。
 さて、日蓮は、滝の口の難を逃れて後、漁船にかくれて鎌倉を逃げたのだが、潮か風の具合で船が沼津の海岸に着いた。その時、日蓮はこの土地こそ我が入る道であると、宣言しながら上陸して、身延山へ行ったこととされている。そのことから、この地は我入道(がにゅうどう)と呼ばれるようになったという(芹澤光治良『人間の運命』第1巻第1章)。この「我入道」は芹沢光治良が生まれたところであり、そこには「沼津市芹沢光治良記念館(旧文学館)」が建てられている。 
 これで、「日蓮法華宗」から「道教」の部分に還ることができ、今回の大団円を迎えることができた。円環して「一圓融和」である。「一圓融和」――こんな言葉を使うのは、いかにも、二宮尊徳の教えにもとづく報徳社運動が盛んな地で育った筆者らしい。

 
道教とは?

道教(タオイズム)[宗教]Taoism

中国の民俗宗教。2世紀の太平道・五斗米道(天師道)を源流とし、5世紀に北魏の寇謙之が新天師道を形成して、道教が確立された。神仙思想と道家(老荘)思想を中心にして、陰陽五行説・易・卜占・風水・医術・養生術、儒教や後漢末に伝来した仏教思想・儀礼などを取り入れ、不老不死の神仙になることを求め、宇宙の根本原理を道(タオ)とする教えである。呼吸の調整、断穀による長寿法、不老不死の薬(金丹)の作製法も説く。黄帝(伝説上の帝王)や老子を神格化し、永生の神仙が住む蓬莱山(ほうらいさん)などの仙境を理想郷とする。道教の僧を道士、寺院を道観という。日本には7世紀後半頃に道教の神仙思想や儀礼、修行法が伝えられ、陰陽道(おんみょうどう)や修験道の発生・成立に大きな影響を及ぼした。
”道教(タオイズム)[宗教]【Taoism】”, 情報・知識 imidas, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2009-12-04)

人物紹介

安倍晴明(あべの-せいめい)[921-1005]

平安時代中期の陰陽師(おんようじ)。
延喜(えんぎ)21年生まれ。讃岐(さぬき)(香川県)の人という。天文道を賀茂忠行(かもの-ただゆき)・保憲(やすのり)父子にまなび,天文博士,主計権助(かずえのごんのすけ),大膳大夫(だいぜんだいぶ),左京権大夫を歴任。占いの名声はたかく,「今昔物語集」「大鏡」「宇治拾遺物語」などにその説話がのこっている。土御門(つちみかど)家の祖。寛弘(かんこう)2年9月26日死去。85歳。著作に「占事略決」「馬上占」など。
”あべの-せいめい【安倍晴明】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2009-12-07)

結城無二三(ゆうき-むにぞう)[1845-1912]

幕末の新選組隊士。
弘化(こうか)2年4月17日生まれ。甲斐(かい)(山梨県)の医師古屋景仲の長男。明治元年近藤勇(いさみ)の甲陽鎮撫隊の道案内兼大砲指図役となる。維新後C.S.イビーの洗礼をうけ,東京,山梨などで布教活動をおこなう。明治45年5月17日死去。68歳。名は景祐。通称ははじめ米太郎,有無之助。
”ゆうき-むにぞう【結城無二三】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2009-12-07)

加藤清正(かとう‐きよまさ)[1562~1611]

安土桃山時代の武将。尾張の人。幼名、虎。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一。肥後の半国を与えられて熊本城主となり、文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。関ヶ原の戦いには東軍につき、肥後一国を与えられた。築城の名手で、名護屋城の設計は有名。
”かとう‐きよまさ【加藤清正】”, デジタル大辞泉, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2009-12-07)

 

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