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笑門来福
推薦文 : 経済学部 青木 郁夫 教授
『醒睡笑 : 戦国の笑話』 安楽庵策伝著 ; 鈴木棠三訳 平凡社, 1964.11

 いまだに幾分か暑さを残しながらも、しだいに秋の気配が濃くなる10月初旬、キンモクセイの香りとともに、毎年、高校時代の友人の一人が上洛してくる。彼が京都に来るのは京の秋を楽しむためではなく、新京極桜之町にある誓願寺(浄土宗西山深草派総本山)で催される「策伝忌」にでるためである。今年生誕百年を迎えた太宰治の「桜桃忌」に多くのファンがつめかけたということは記憶に新しいことであろう。「~忌」というのは、ある人物の亡くなった命日を記念し、冥福を祈る行事である。「策伝忌」は、浄土宗の僧侶にして、笑い話=落語の祖といわれる「安楽庵策伝」の命日に因んだものである。「策伝忌」に因んで落語奉納が行われており、ここ数年ますます盛大となり、今年などはお堂に人々が満ちあふれるほどの盛況ぶりであった。この日に毎年東京からわざわざ上洛してくる私の友人は、落語家、三遊亭圓王である。
 安楽庵策伝(1554~1642)の生涯については、その研究家である関山和夫氏によって明らかにされつつある。策伝は慶長18(1613)年に60歳で誓願寺第55世法主になった。ということは、策伝は戦国時代から江戸時代にかけてその生涯をおくったということになる。その策伝が残したのが、笑い話を集めた『醒睡笑』(鈴木棠三訳『醒睡笑―戦国の笑話』東洋文庫31、平凡社、1964年、巻末解説参照。巻末解説も関山和夫氏の研究を参照し
ている)である。

笑門来福

『醒睡笑』に載せられている笑い話のなかには、既に現代のわれわれにとってはそのおもしろみを理解できないものもあるが、確かに現代風にアレンジすれば笑いをとれる話柄も多い。
 策伝は誓願寺の法主を務めた後、同寺に竹林院を創設しそこで余生を送り極楽往生を遂げた。誓願寺には策伝の墓があることもあり、また、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を語る内容の謡曲「誓願寺」のなかで和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、舞踏家の間に和泉式部信仰が生まれたこともあり、誓願寺には「扇塚」がある。芸道上達を願って芸に志す多くの人々が扇子を奉納するという(「誓願寺」パンフレットより)。


(安楽庵策伝上人、誓願寺)

 策伝忌を記念しての奉納落語会は、策伝研究家である関山和夫氏が音頭を取り、始められたもので、今年で43回目を迎えた。
 奉納落語会は東京江戸落語家と上方落語家とが競演する場でもある。今年3月に他界した二代目「露の五郎兵衛」も常連であった。今年文化勲章を受章した「坂田藤十郎」は2005年に231年ぶりにその名を襲ったことで話題になったが、「露の五郎兵衛」は、同じ年に、1703年に亡くなったとされる初代の名を300余年ぶりに継いだわけで本人もこのことを頻りに強調していた。脳出血に倒れ、さらに奇病の原発性マクログロブリン血症から回復しつつあるなかで、高座に復帰しようとする頃に襲名したこともあり、その年の策伝忌落語奉納のあとの打ち上げでもそのことを語っていた。この年の打ち上げには、三遊亭圓王に誘われて私も参加させていただいた。そういえば、その場には、『醒睡笑』にもでてくる京都の有名な医師・日本医療の中興の祖といわれる「曲直瀬道三」(1507~1594)の墓がある十念寺(寺町今出川上る鶴山町――境内には、日本医学史学会などが建立した「初代曲直瀬道山顕彰碑」がある)の住職とそのお嬢さんがおいでになったことを思い出した。きっと『醒睡笑』が結ぶ縁なのであろう。十念寺はもと誓願



(扇塚、誓願寺)


(十念寺、右側に 「曲直瀬道三墓所」
の碑がみえる。)

寺内に足利義教将軍が1431年に塔頭住房宝樹院を建てたのが始まりで、その後現在地に移転したとされる。この寺を訪れて奇縁だと思ったことは、この寺の本堂は現代的なコンクリート造りなのだが、それを設計したのは「インフルとは誰のことかと・・・」で紹介したあの一心寺の住職・高口恭行住職であるということである。

 三遊亭圓王が奉納落語会で話したもののなかで書き留め置きたいのは「    」(注:空白)である。これは創作というよりも、「抜け雀」の改作である。「抜け雀」はこんな筋の噺である。落ちぶれた風の侍が宿賃の代わりに衝立に画いた雀が、朝日があたると衝立を抜けて餌をついばみ、また衝立に戻る。これが評判になってその宿屋が繁盛する。(同じような筋のものに、左甚五郎の鼠がある)。その宿屋に人品卑しからぬ絵師が訪れ、この衝立に雀の止まり木と籠を書き加える。この噺の落ちは、噺の枕に対応している。枕では、駕籠屋=駕籠かきには、追いはぎまがいの連中がいる。昔は「卑しい連中」だったという。落ちは、二人の絵師が親子だということが分かり、息子は親が籠を書き加えたことを知り、「親に恥じをかかせた。親を籠=駕籠書きにした」。「抜け雀」で駕籠かきを差別的に表現しているが、落語の世界では落語家の名に「五街道雲助」(現在五代目)というのがあるくらいで、決して差別的なためではなく、反骨的なのだと思う。
 それはともかく、圓王は、この差別的な落ちを嫌って、衝立に描かれるものを雀に代えて、朝顔にする。衝立に描かれた萎んだ朝顔に朝日があたると一気に花開く。噺を聞いていて、えっと思った。「抜け雀」の噺の結構であるのに、「朝顔」なんて聞いたことがない。どんな落ちになるのだろう? そういえば、枕も駕籠屋ではなかった。落ちは「俺は親に恥じ(鉢)をかかせた」だった。なるほどと思った。これで、駕籠屋を差別的に扱うこともないのだ。

 しかしながら、朝顔といえば、当然、路地植えも多いわけで、「鉢(恥)をかかせた」をスンナリとは理解できない向きもあるかもしれない。「鉢植えの朝顔」は小学校時代の夏休みの理科の観察課題だったことはあるかもしれないが。しかしながら、東京では、夏の風物詩の一つに、「入谷の朝顔市」がある。入谷といえば、御存知、「恐れ入谷の鬼子母神(キシモジン)」の入谷である。現在でも、7月上旬に朝顔市が開かれ、多くの人々がここを訪れ、朝顔を買い求めていく。同じく7月9・10日には浅草浅草寺では鬼灯(ほおづき)市は開かれる。こんな江戸・東京の風物詩があればこそ、圓王の「落ち」がスット分かるというものである。つまり、人々の日常の暮らしにピッタリと即しているのである。


(入谷朝顔発祥之碑)

 わたしが落語を好むようになったのは、子どもの頃に、洋服仕立て職人であった親父の仕事場で、働く親父を見ながらラジオからながれる落語をきいたからであろう。昔のラジオはよく講談や浪曲などとともに落語を放送していた。誰の落語を聞いたかなどは全く覚えていないが、恐らく、古今亭志ん生、桂文楽、その後、三遊亭円生、林家三平、古今亭今輔などであろう。やがて、古今亭志ん朝のファンになり、志ん朝没後もCDでしばしば彼の落語を聞いている。そういえば、「抜け雀」は志ん生、志ん朝のおはこでもあった。
 テレビ朝日の久米宏の「ニュース・ステーション」内の「最後の晩餐」シリーズに出たとき、志ん朝は「鰻断ち」をしているといっていた。何の縁か、自由民権運動期、自由党左派の大井憲太郎らによる所謂「大坂事件」犠牲者の慰霊碑を見るために訪れた、天王寺区四天王寺、四天王寺東門の北にある浄土宗壽法寺の観音堂には、諸芸上達の観音様のご縁から古くから噺家の墓が多く、「笑福亭松鶴 初代~六代」「二代目・三代目三遊亭円馬」「二代目 立花家千橘」「二代目~四代目 桂文三」「二代目 桂木鶴・岩太郎」などの墓がある(壽法寺HPから)。ここには「鰻塚」があった。何故に、ここに「鰻塚」があるのだろう。また壽法寺を訪れた時に、住職に確認してみよう。
 大阪の大学に入学して、はじめて関西の地に住むことになった。大阪できく落語、上方落語は東京の落語とは随分違った。演台と結界がある高座。そして場面の変わりを鳴り物であらわす。1970年代の初めの上方落語は、今年文化勲章を受章した桂米朝の奮闘によって、そして笑福亭松鶴、桂春団治、桂小文枝によって、ようやく再興しつつあるころだったように思う。米朝の端正で、ある意味できまじめな落語に触れ、江戸落語にはない「地獄八景」や商家を舞台とした落語に大いに興味をそそられた。その後、今年生誕70年を迎える故桂枝雀が新境地を開き、上方落語のブームがおきた。江戸・東京落語に馴染んだわたしには、枝雀の落語は確かにおもしろいのであるが、なかなか親しめなかった。

 これを書いている時に、五代目三遊亭円楽が亡くなった。円楽が得意としたのが人情話である。毎日新聞の死亡記事にも出ているようであるが、1977年文化庁芸術祭優秀賞を受けた「藪入り」をたまたまテレビでみたが、噺家自身が涙を流すほどの熱演であり、健気で賢いこどもの親を思う心と、藪入りで帰ってくる息子を迎える親の「バカ」がつくほどの情愛がじつにしみじみと伝わり、聞く者も涙を誘われる上々出来であった。その他、「子別れ」あるいは芝居話でもある「中村仲蔵」などが得意ネタであった。引退を決意するきっかけとなった最後の落語は「芝浜」だった。 
 「芝浜」は、三遊亭圓朝が「酔っぱらい」「革財布」「芝浜」というお題から創作したといわれている三題噺の傑作である。三遊亭圓朝は「死に神」「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」「塩原多助」など多くの怪談話、人情話の傑作を残した幕末・明治初期の落語家であり、「近代落語の祖」といわれる(『文学増刊 没後百年記念特集 圓朝の世界』2000年9月、岩波書店)。圓朝の作品には歌舞伎などの舞台にかけられるものも多い。その創作能力において、三遊亭圓朝を継ぐ者は未だにでてこない。

 笑うことは免疫力を高めるともいわれるから、大いに笑うべし。
  
    神無月 神々は出雲と謂うけれど 家に在る山と貧乏
           粟屋 伊蔵 (あわや いぞう)
         (アワ オ ク イゾウ) 

    11月、霜月と掛けて、何と解く、
    中年女性の「アンチ・エイジング」と解く
      その心は、顔を皺にすまい、「しわにすまい」、「師走前」
           伊賀 工夫(いが からくり) 
         (イガ カラ クリ)
 
お後がよろしいようで。

 
人物紹介

安楽庵 策伝 (あんらくあん-さくでん)[1554-1642]

織豊-江戸時代前期の僧。
天文(てんぶん)23年生まれ。浄土宗。京都禅林寺で智空に師事,慶長18年京都誓願寺55世。板倉重宗のすすめで笑話集「醒睡笑(せいすいしょう)」をまとめ,落語の祖といわれる。寛永19年1月8日死去。89歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。法名は日快。別号に醒翁。

”あんらくあん-さくでん【安楽庵策伝】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2009-11-10)

 

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