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新春を迎えて
推薦文 : 経済学部 青木 郁夫 教授

 歳を重ねるのにともなって、しだいに新しい年を迎える高揚感のようなものが薄れていくように思う。そうなると迎春の準備はほどほどにして、それこそ「寝年末、寝正月」となってしまう。手持無沙汰のあまりついついテレビをつけることになるが、見るほどの番組もない。そこで、NHKの「去る年来る年」で、旧年を送り、新年を迎えることが、例年の習わしになり、下鴨神社に初詣にいく人々の声を聞きながら寝に就くことになる。
 年があらたまると、元旦の夜はウィーンフィルハーモニーによる「ニューイヤー・コンサート」を聞く。数年前までは生中継ではなく、録画が2日になってから放送されていた。国際的な中継になり、番組の構成・内容もより視聴者が楽しめるようになってきている。ワルツなどの場合には、バレエがつくようになった。今年の場合だと、「ウィーン美術史美術館」のフロアでバレエが踊られていた。「ニューイヤー・コンサート」の会場には、日本人と思われる聴衆も見える。ウィーンまででかけてコンサートを聴くことは無理だとしても、その雰囲気と音楽を味わわせてくれるコンサートが「ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラ」によるニューイヤー・コンサートである。

新春を迎えて

それに、「with森麻季」であれば、どうしても聴きに行かざるをえない。昨年につづいて、神戸文化ホールまででかけた。このオーケストラには、バイオリンとコントラバスに日本人がいることもあって、しばしば来日している。プログラムは、ウィーンフィルによるコンサートと同様にヨハン・シュトラウスの曲を中心に構成され、「美しき青きドナウ」、森麻季が歌う「春の声」などの定番があり、コンサートの最後は「ラデツキー行進曲」で締めくくられる。このオーケストラを率いるペーター・グートの陽気な性格を反映して、聴衆も一緒になって楽しいコンサートである。
 バレエの会場となっていた「ウィーン美術史美術館」の収蔵品の展覧会は、2003年に京都国立近代美術館で開かれたことがある。3月14日まで京都国立博物館で開催されている「THEハプスブルグ」展の出品作品は、ハプスブルグ家が支配した地域からしても、この「ウィーン美術史美術館」と「ブダペスト国立西洋美術館」からのものである。展示されている作品数も多く、また、多くの名だたる芸術家の作品があり、ぜひ御覧になっていただきたい。マリー・アントワネットの母であるマリア・テレジア11歳の肖像画は、幼くして既に気品を備える彼女の様を表すものである。まさに、「栴檀[せんだん]は双葉より[かんば]し」である。歴史上の人物を思い描くのも楽しみである。また、美術工芸品も秀逸である。

 正月の2日3日は「箱根駅伝」に尽きる。今でこそ箱根駅伝はテレビ中継されるようになっているが、私のこどもの頃はNHKラジオが定時のニュース放送の前5分間レースの途中経過を伝え、往路は箱根の山登り、復路は有楽町読売新聞社前ゴールを中心に1時間程度中継放送するのみであったと記憶している。それでも、その5分ほどの放送をそれこそラジオにしがみついて聞いていたものである。当時は、監督車はジープが使われており、監督車からは途切れることなく、選手を叱咤激励する声がかけられ、それがラジオの中継車を通して伝わってきた。ブレーキを起こし立ち止まってしまった選手に屈伸運動を命じ、号令をかけるということもあった。早稲田大学競走部の監督であった中村清さんは、「都の西北」を歌い続けていたように記憶する。「箱根駅伝」が終わるとともに、私の正月も終わる。


 今年は3日が日曜日であったこともあって、この日から大河ドラマ「龍馬伝」が始まった。坂本龍馬と三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎とを両軸として話が展開していくようだが、初回から描かれているような両者の青年期からの交流は史実としては確認できない。この「龍馬伝」は、あくまでも、虚実を綯い交ぜにしたものである。それは、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』でも同様である。森鴎外の一連の「史伝」とは、その結構が異なる。
 さて、坂本龍馬関連書はかなりの数にのぼる。ここでその一々をとりあげることはできない。龍馬の人となりに直接触れることができるのは、彼が書いた手紙であろう。それをまとめたのが、宮地佐一郎著『龍馬の手紙――坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』(講談社学術文庫文庫、2003年)である。この本は、龍馬の手紙を活字化しただけでなく、現物の写真を載せているので、龍馬の手跡も知ることができる。手紙にはかしこまった候文のものだけでなく、姉乙女宛てのくだけた「口語文」のものもあり、龍馬に親しみのもてるものが多い。また、手紙についての解説、あるいはその由来などが付されており、その手紙をめぐる事柄から「龍馬の時代」を広く思い描くこともできるだろう。
 坂本龍馬および盟友であった中岡慎太郎について、より歴史に即して描かれたものに、郷土史家にして坂本龍馬研究家である平尾道雄の『坂本龍馬 海援隊始末記』(中公文庫)、『中岡慎太郎 陸援隊始末記』(中公文庫)がある。いづれも復刊予定であるので、必読。



(現在の寺田屋。幕末期寺田屋事件のころの建物は「戊辰役鳥羽伏見の戦い」で焼尽。伏見。)


(坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地。近江屋事件の碑。河原町蛸薬師あたり。)

この両者の確執を基軸にストーリーが展開し、龍馬暗殺までを描いた映画に、『竜馬暗殺』(ATG、1974年、監督黒木和雄、坂本龍馬:原田芳雄、中岡慎太郎:石橋蓮司)がある。Softbankのコマーシャルで「龍馬かぶれ」ででてくる武田鉄矢原作、小山ゆう作画のコミック「おーい龍馬」もおもしろい。

 龍馬の師としてあげられる人物には勝海舟がいる。海舟が龍馬や残された記録が殆どない岡田以蔵(人斬り以蔵)についても語っているものに、『氷川清話』がある。ついでに、海舟の幼少期を知るには、父親の小吉の『夢酔独言 他』(勝部真長編、東洋文庫、1969年)がある。青年期の龍馬の眼を海外に向けて開かせた人物は、ジョン万次郎を取り調べ、『漂巽紀略』を著した河田小龍(絵師でもあった)とされている(京都衣笠の等持院に墓がある)。河田小龍は明治期には、琵琶湖京都疎水の全景図を描いている(『琵琶湖疏水圖誌』京都府立総合資料館蔵。同資料館のホームページ「貴重書データベース」で検索すれば、すべてを閲覧することができる)。それは、疎水建設を行った当時の京都府知事北垣国道がかつて高知県令を務めていた時期に交流があったからである。
 土佐での勤王運動の中心人物で土佐勤王党を組織したのは武市瑞山であり、彼のもとには多くの同志が集まった。そんななかで、時代に先駆けて激発した者たちは天誅組事件などをおこした。天誅組事件の中心人物として吉村寅太郎があげられるが、そのなかに安岡嘉助もいた。この安岡嘉助は、武市瑞山が切腹を命じられることになる吉田東洋暗殺事件の暗殺犯の一人であった。作家安岡章太郎は自らの血縁者である安岡嘉助の事蹟を追い、天誅組事件を詳細に調べ、冷静な眼で『流離譚』(新潮社、1981年)を書き上げている。幕末期の土佐の若い下士たちが何を考え、どのように行動したかの一面を知ることができる。



(武市瑞山、吉村寅太郎寓居跡。三条小橋上がる)


(戊辰役・鳥羽伏見の戦い激戦の跡
石碑は東軍(幕府軍)戦死者埋葬碑)


 年末年始にも新しい生命が誕生する一方で、冥界へ旅立つ人々もある。新聞の死亡広告に青年座の女優東恵美子の名があった。東恵美子の舞台を見たはずなのだが、それが何であったのか今となっては思い出せない。東恵美子の夫は社会心理学者であった南博である。この二人の関係は「日本のサルトルとボーヴォワール」といわれた「別居結婚」「自由結婚」であった。
南博は社会心理学者として著名であるが、ここでは南博編著『日本モダニズムの研究――思想・生活・文化』(ブレーン出版、1982年)、南博+社会心理研究所『大正文化』『昭和文化』(勁草書房)ととりあげておこう。経済社会のなかでのスポーツ、音楽、映画、写真、マスメディアからファッション、風俗、はては性までをとりあげ、その時代相を明らかにすることで、人々の行為のあり方は時代情況に制約されながらも、また時代情況を切りひらいていくものでもあることを描いている。大正、昭和戦前期における「モダニズム」が大都市におけるものとしてだけでなく、地方都市にどのようにひろがり、地域の思想・生活・文化にあたえた影響を克明に描き出していくことは、未だに十分になされていないように思われる。
 
 ああ、やはり、

 正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし(一休、真偽は??)

 というところかな。

 
人物紹介

岩崎弥太郎(いわさき-やたろう)[1835*-1885]

明治時代の実業家。
天保5年12月11日生まれ。土佐(高知県)の地下(じげ)浪人岩崎弥次郎の長男。安積艮斎(あさか-ごんさい),吉田東洋に師事。長崎,大坂の藩営の商社土佐商会で手腕を発揮。明治6年三菱商会をつくり社長。台湾出兵,西南戦争などでの軍需輸送により海運界を支配。さらに鉱山,荷為替,造船などに事業を拡大し,三菱財閥の基礎をきずいた。明治18年2月7日死去。52歳。名は寛。号は東山。
【格言など】創業は大胆に,守成には小心なれ(遺訓)
”いわさき-やたろう【岩崎弥太郎】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2010-01-28)

中岡慎太郎(なかおか-しんたろう)[1838-1867]

幕末の尊攘(そんじょう)運動家。
天保(てんぽう)9年4月13日土佐(高知県)安芸(あき)郡柏木村の庄屋の家に生まれる。文久元年土佐勤王党にくわわる。3年脱藩し,坂本竜馬(りょうま)らと薩長同盟を成立させた。慶応3年陸援隊を組織。同年11月15日京都で竜馬とともに幕府見廻組におそわれ,17日死去。30歳。名は道正。号は迂山。変名に石川清之助など。
【格言など】天下の大事はひとえに岩倉公が負荷せられんことを願うのみ(最期の言葉)
”なかおか-しんたろう【中岡慎太郎】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2010-01-28)

勝海舟(かつ-かいしゅう)[1823-1899]

幕末-明治時代の武士,政治家。
文政6年1月30日生まれ。勝惟寅(これとら)の長男。幕臣。嘉永(かえい)3年江戸に蘭学塾をひらく。長崎の海軍伝習所で航海術を習得。安政7年遣米使節の随行艦咸臨(かんりん)丸の艦長として太平洋を横断。帰国後,軍艦奉行にすすみ,神戸海軍操練所をひらき坂本竜馬らを育成した。慶応4年陸軍総裁となり,西郷隆盛と会見し,江戸無血開城を実現。明治6年海軍卿兼参議となるが8年免官。下野ののちは徳川家の後見と旧幕臣の生活救済につとめるとともに,旧幕府史料を編修し「開国起原」「吹塵録」などをあらわした。21年枢密顧問官。伯爵。明治32年1月19日死去。77歳。江戸出身。名は義邦,安芳(やすよし)。通称は麟太郎。
【格言など】事を遂げるものは愚直でなければならぬ,才走ってはいかぬ
”かつ-かいしゅう【勝海舟】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2010-01-28)

武市瑞山(たけち-ずいざん)[1829-1865]

幕末の武士。
文政12年9月27日生まれ。土佐高知藩士。郷士の家の長男。江戸で尊攘(そんじょう)派とまじわり,土佐勤王党を結成。文久2年公武合体派の参政吉田東洋を党員に暗殺させ,一時藩政をにぎる。前藩主山内豊信(やまうち-とよしげ)の勤王党弾圧により投獄され,慶応元年閏(うるう)5月11日獄中で切腹。37歳。名は小楯。通称は半平太。別号に吹山など。
【格言など】幽囚何をか恥ずべし,只(ただ)赤心の明らかなる有り
”たけち-ずいざん【武市瑞山】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2010-01-28)

 

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