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本を通して宗教の世界を覗いてみよう
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)

  宗教が何かを知らなくても、今日の世界で起きている出来事や紛争にイスラームやユダヤ教、キリスト教が深く関与していることは分かるだろう。宗教について知ることは、人間とその歴史、神(超越者)を志向する人間の観念の特性、霊性と世俗性の交錯した世界の仕組みなどについて知ることにもつながる。今回は、宗教の考え方の魅力や面白さが分かるいくつかの書物と、聖典の一部を紹介しよう。

  釈徹宗の『ゼロからの宗教の授業』(東京書籍、2009年)は、くだけた調子ながら、宗教の詳細を教えてくれる愉快な入門書だ。釈は如来寺の住職だが、神道、キリスト教、イスラームなどにも詳しい。「私は、『人間の営み(衣・食・住、政治、経済、法律、性、睡眠、社会、家族など)すべてにおける意味づけの源泉』であり、『この世界、この社会を超える物語(来世とか前世とか理想界とか)をもっているもの』が宗教だと思います。」(31頁)マンガ好きという著者の語り口は自在で、神道が『アンパンマン』がらみで語られ、『スラムダンク』はプロテスタントのエッ

本を通して宗教を知る旅に出発してほしい

センスの説明に一役買っている。僧侶らしく、時に説教が入る。「ぜひとも学生時代に、あるいは心身が柔らかいうちに、自分の基本フォーム(思考・実践の順序)を身につけるように心がけてみましょう。」(144頁)そのために必要なアドヴァイスが、「何か興味のあること・好きなことを掘り下げること」と「興味のないことについて関わったり考えたりすること」である。(144頁参照)前者と比べれば、後者はそんなに簡単ではない。しかし、最初は関心がないことでも、あえて関わることで視界が開けるきっかけになる。政治と宗教が結びつき、経済の背後に宗教の世界が見えてくる。釈は言う。「イスラームは、まさに『自分のフォーム』をもつ宗教です。」(146頁)第5章の仏教に学ぶ「宙づり状態が心身を鍛える」は、特に熱のこもった1章である。「心と身体を調え、執着をなくす」と「大きな慈悲の世界に受容される」という二点が強調して取り出されている。(191頁参照)
 著者には、『宗教聖典を乱読する』(朝日新聞出版、2009年)という本もある。ヒンドゥー教、神道、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、仏教を、聖典の一部と共に紹介した六つの講義からなる。それぞれの宗教の根幹が分かり、もっと宗教を知りたいという知的欲望が掻きたてられる一書だ。この本をスタート台にして、宗教を知る旅に出発してほしい。その旅を通じて、人間や世界の見え方が変わってくるはずだ。

  世界の宗教の特色や問題点などについて幅広く知るには、橋爪大三郎の『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫)も役立つ。大学の宗教社会学の講義プリントが下敷きになっている。大学生に基本的なことをしっかりと伝えようという意図が明確で、分かりやすい内容だ。

  釈徹宗は『ゼロからの宗教の授業』のなかで述べている。「仏教は、仏陀(目覚めた人)が説いた教えであり、私たちが目覚めて仏陀となる道を提示する宗教です。」(199頁)「目覚める」とは、執着にとらわれた自分の姿に気づき、それを調整する方向に心身を動かし始めることを意味するだろう。仏教の知恵は、心身の修練にきわまる。『ブッダの真理のことば・感興のことば』(中村元訳、岩波文庫、1978年)は、自分や他人のふるまいを観察して語ったブッダのことばをまとめたものである。まず読んでみることが、仏教の核心に迫る最短の道であろう。いずれも平明だが、含蓄のあることば、生きるうえの示唆に富んだ語り口に魅了される。いくつか取り出してみよう。「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、『愚者』だと言われる。」(19頁)ソクラテスの「無知の知」が思い浮かぶ。要するに、「うぬぼれるな」という戒めのことばだ。「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの智慧は増えない。」(31頁)「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」(32頁)周りが気になり、ともすれば他人に引きずられやすい人には響くことばだ。「避けねばならぬことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(=必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。」(54頁)類似のことばを加える。「よく修行を始めて、常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、諸の汚れがなくなる。」(174頁)われわれは、往々にして、大切なこと、すべきことが何かを頭では分かっていても、それをすることを先送りにし、しなくてもよいことをして過ごしやすい。修行からは遠く隔たり、身体の危険を察知せず、欲に掻きたてられ邪悪な思いに傾いていくことも少なくない。ブッダのことばは、汚れて崩れやすい、危険な存在としてのわれわれを撃つ。そんなことばをもう二つだけ追加しよう。「人が生れたときには、実に口の中に斧が生じている。ひとは悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである。」(186頁)「善いことばを口に出せ。悪いことばを口に出すな。善いことばを口に出したほうが良い。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす。」(187頁)同じ訳者による『ブッダのことば』(岩波文庫)と合わせて読んで、ブッダの内省的な思索と隣人の振る舞いの観察が炙り出す、われわれの心の脆さ、人間の口にすることばや行動の危険性、人間関係の難しさ、もつれやすさ、こわれやすさについて、自他の振る舞いを顧みながらじっくりと考えてほしい。

  「旧約聖書」にも、示唆的なことばは数限りない。完璧で永遠の存在としての主との対比で語られる、不完全で有限な存在としての人間に関する微に入り、細に入る批判は、現代の人間にもそっくり当てはまる。一つだけ挙げよう。箴言の6からの引用だ。

   主の憎まれるものが六つある。
   心からいとわれるものが七つある。
   驕り高ぶる目、うそをつく舌
   罪もない人の血を流す手
   悪だくみを耕す心、悪事へと急いで走る足
   欺いて発言する者、嘘をつく証人
   兄弟の間にいさかいを起こさせる者。(『聖書 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、1993年)998頁。

  「書物の中の書物」と言われる「新約聖書」もことばの宝庫だ。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」(同上書、(新)44頁参照)がよく知られている。「旧約聖書」の「レビ記」にも類似の表現が現れる。イエスは、人が神よりも自分を愛し、しばしば隣人を愛するよりも、憎み、殺す方向に傾く存在であることを意識し、果たされることの困難な宿題として、このメッセージを残した。イエスの予想を証明するかのように、その後、隣人愛を説くキリスト教の教えが浸透していたはずのヨーロッパでは、大小さまざまな戦争が幾度となく起き、人々は憎しみ、殺し合った。布教の名の下で繰り返された先住民の虐殺、今も続く争いの歴史も、人間と宗教の微妙な関係を思い起こさせる。
  「新約聖書」はイエスの生前の言行録を中心に編まれているが、それ以外にも刺激を受ける箇所は数限りない。その多くは、信仰を持たぬままに生きる、愚かで、残酷で、悲惨な人間への警告のメッセージだ。たとえば「ヤコブの手紙」のある箇所には、ブッダの視線をも連想させる文面が見られる。「舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」(同上、424頁)「テモテへの手紙 1」では、金銭への渇望がもたらす生の結末の断面が抉り出されている。「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(同上、(新)389頁)

  預言者ムハンマド(モハメット)が啓示を受けて記した神の言葉は、『コーラン(上・中・下)』(井筒俊彦訳、岩波文庫)で読むことができる。(最近は、より原語に近いとして、クルアーンと表記される。)「旧約、新約聖書」の記述と同様に、神の栄光と嫉み心や、悪徳、罪、強欲に苦しむ人間の悲惨との対照が鮮やかだ。神からの人間に対する忠告の言葉も随所に散見される。「汝ら、信徒の者、忍耐強くあれ。互いに忍耐を競い合え。己が護りを固うせよ。アッラーを畏れかしこめ。さすれば汝らやがて栄達の道に行くであろう。」(上巻、127頁)財産の浪費には警戒の言葉が記され、お互いの殺し合いには、地獄の劫火による火あぶりの刑が宣告されている。(上巻、135以下参照)「汝らは我に隷属するもの、身を正して我に従え」という神の垂直の言葉は、世間という水平軸でしか生きていない者には違和感しか残さないかもしれない。しかし、信仰の世界に生きる者は、神の視線の不断の意識化によって自己の行為の倫理性を強化し、宗教的規範にのっとった行為へと自らを縛ることをよしとするようになるのだ。
  『コーラン』と並んで重要な位置を占めるのが、預言者ムハンマドの言行録を編集した『ハディース(上・中・下)』(牧野信也訳、中公文庫)である。 この2冊がイスラム教の根幹へのもっとも重要な通路になる。広いパースペクティヴを得たい人には、井筒俊彦『イスラーム文化』(岩波文庫)がおすすめだ。講演を活字化したもので、読みやすく、理解しやすい。小杉泰の『イスラームとは何か』(講談社現代新書)も、イスラームの世界を理解するには最適の本だ。副題に「その宗教・社会・文化」とあり、イスラームの教義、共同体のあり方、スンナ派とシーア派の違いなどについて幅広く知ることができる。今日ヨーロッパのいくつかの国では、従来とは異なる仕方でイスラームへの対抗姿勢を強めつつある。その背後に潜むものを理解するために、「現代世界とイスラーム」(第9章)は役に立つ。

  アメリカのプラグマティズム運動の主導者であるW・ジェイムズ(1842~1910)の『宗教的経験の諸相』上、下巻(桝田啓三郎訳、岩波文庫)は、宗教のもつ比類ない特色を浮き彫りにした宗教心理学的な書物である。彼によれば、宗教とは、「個々の人間が孤独の状態にあって[・・・・・・・・・・・・・・・]いかなるものであれ神的な存在と考えられるもの[・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・]と自分が関係していること[・・・・・・・・・・]を悟る場合だけに生じる感情[・・・・・・・・・・・・・]行為[・・]経験[・・]」(52頁)である。ジェイムズは、個人において生ずる宗教的な経験の諸相を深く、豊かに描いて、信仰と無縁の読者にも信仰をもつ人間の内的世界で起きる出来事の意義を、生き生きと感動的に伝えてくれる。信仰が人をどんな世界に導くのか、信仰によって人がどのように変身することになるのかをあまさず描く、不朽の書物である。夏目漱石や鈴木大拙などの愛読書でもあった。たいした理由もなく宗教を毛嫌いする人、宗教を遠ざける人には特に一読をすすめたい。宗教に対する見方の変更を迫る1冊である。
  この書物の内容が今日でも古びていないことは、チャールズ・テイラーの『今日の宗教の諸相』(伊藤他訳、岩波書店、2009年)を読むとよく分かる。「ウィリアム・ジェームズ再考」という副題がついている。テイラーは、この本の前書きで、『宗教的経験の諸相』が「ほぼ百年前に書かれたというよりも、昨日書かれたものといってもおかしくないのではないか」(v~vi)と述べて絶賛している。テイラーは、その一方で、ジェームズの個人主義的な色彩の強い宗教理解からは抜け落ちてしまう宗教的な儀式や教会の組織といった側面にも目を向けている。ジェームズとの対話と対決の一書である。

 
人物紹介

釈徹宗(しゃく-てっしゅう)

1961年大阪府生まれ。兵庫大学生涯福祉学部教授経て、2010年現在、相愛大学人文学部教授。
NPO法人リライフ代表理事。専門は宗教思想、人間学。浄土真宗本願寺派・如来寺住職。著者に『親鸞の思想構造-比較宗教の立場から』(法蔵館)、『宗教聖典を乱読する』(朝日新聞出版)、『不干斎ハビアン-神も仏も棄てた宗教者』(新潮選書)、『いきなりはじめる仏教生活』(バジリコ)、『仏教ではこう考える』(学研新書)など。

 

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