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本を通して作文力について考えてみよう
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)

 ひとりでにうまい文章が書けるようになるわけではない。人に伝わる文章、事実や感動を巧みに表わす文章が書けるためには、印象に残ったこと、悩んだこと、苦しんだこと、見たこと、考えたこと、耳にしたことなどをこつこつと丁寧に書き表す日常の努力が欠かせない。野球、テニス、サッカーなどでも同じことだ。ボールを投げる、打つ、蹴るといった基本的な練習がなければ、上達は不可能である。何事もレッスンなしには成就しないのだ。
 しかし、練習するだけでは十分ではない。練習に結びつくしっかりとした動機が必要であるし、練習の質や技術力の向上を求めての創意工夫も欠かせない。作文の場合も同様だ。なぜ書くのか、なぜ書かなければならないのかという動機がはっきりし、作文上の技術が確かなものにならなければ、自分が納得できて、同時に読み手をも説得させるような文章は書けない。
 人を書くという行為に結びつけるものはいったい何だろうか。作文とはいったいどういう作業なのだろうか。作文によって何が、どう変わるのだろうか。そこで、一度は「文章を書くこと」の

自分にしか書けないことをだれにでもわかる文章で書く

動機や意味、方法や技術などについて、自分のこととして考えてみるのも悪くはないだろう。
 今回は、作文を書くことの意味、文章を表現する際の秘訣などについて多くの示唆を与えてくれる本を何冊か紹介しよう。

 『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(井上ひさしほか文学の蔵編、新潮文庫)は、岩手県一関市で3日間にわたって開かれた、井上ひさしによる「作文教室」の講義をまとめたものである。聴講した人たちとの質疑応答や、「自分が今いちばん悩んでいること」という課題作文に井上が加えた添削例も含まれている。文章を書く上でのヒントが、ユーモアたっぷりの言い方で語られていて楽しい。「文章とは何か。これは簡単です。作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね。」(32頁)さんざん考えた末の結論だという。誰もが書くような通り一遍のことを書かない。一人よがりの言い方をしない。自分だけが書けることを書く。平凡なようで、意外に難しい作業だ。そのために必要な、文章を書く自分の姿をしっかりと見つめること、書こうとしていることを注意深く観察すること、自分の書いたものを突き放して他人の視線で見ること、これらのことも容易ではない。しかし、これは成長への大切な第1歩であろう。
 白紙に文字を書くことによって、曖昧なままに流れていた思考や関心の所在が自分の目で読めるものになる。肉眼ではけっして見ることのできない心の形や向きがあらわになるのだ。誰もがなんらかの変化・成長の途上にあり、完成された人などいるはずもないから、自分の内面性や気質・性向が目に見える仕方で現れる作文には、必ずなんらかの欠点や修正すべき点が見つかるはずだ。よほど厚顔無恥、傲岸不遜な人は別として、書かれた文字を通して自分の心のぶざまな姿に気づけば、誰でもがそれを恥じて、なんとかして直そうとするだろう。こうして、作文という行為が、自己修正、自己克服という知的改良へのきっかけになる。外見の汚れや乱れは鏡の前でいくらでも修正できるが、内面のみすぼらしい姿やあさはかさなどは言葉を通さなければなかなか見えてこない。言葉で表現することで初めて自分と向き合い、自分の欠点を直すことが可能になる。それは、自分の文字を内面を映す鏡として役立て、書かれたものを手がかりにして内面の世界を掘り下げ、開拓していく知的な冒険そのものなのだ。
 「自分が今いちばん悩んでいること」という作文の課題は、おそらく井上がもっとも腐心して考え出したものだ。この課題は、自分がもう一人の自分に向き合うという経験を要請する。この経験のなかで、自分とは何か、自分が悩み、考えていることは何か、それをどのように表現すべきかといった問題が意識される。よく考えなければ書けないが、書けば書くだけ考えることが増え、自分の未熟さや言葉選びの稚拙さも身に沁みてくる。「自分がいったい、どういう人間なのか、自分のいいところは何だろう、だめなところは何だろう、自分は何を考えていまを生きているのか、将来、どうしたいのか?・・・・」(36頁)こうした問いによって、自分に直面することになるのだ。井上は、この種の問いを抱えこみ、苦しんで生きた人物の一人として夏目漱石をあげ、『私の個人主義』(講談社学術文庫)を引き合いに出しながら、自分の悩みを書くという課題に十分に答えるためには、漱石の言う「自己本位」的な自己研究が避けられないことを強調している。それが作文の基本にもなると言う。
 この本では、読み手のことを考えて書くという心理的な側面についてだけでなく、段落の有効な活用、句読点、括弧の大切さといった技術的側面についても触れられている。作文と長期記憶と短期記憶の関連についても、言葉と格闘する作家ならではの興味深い意見が聴ける。日本語による表現の特色や、方言のもつ意義にも話は及んでいる。日本の国語教育の弊害については舌鋒鋭い発言がある。添削の例からは、作家が言葉に対していかに繊細な人種であるかが一目瞭然だ。彼のメッセージは、次の文章にもっとも端的に示されている。「もうちょっと根本的に変えないと、日本民族の文字を綴る言葉の力というのは、どんどん落ちていく。いまは、ものを良く読まないですよね。読めばおもしろいんです。」(174頁)面白い小説の書き手であり、「書くこと」と「読むこと」、「読まれること」とのつながりを意識していた人の言葉だ。
 井上は、色紙によく次のように書いたという。「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことをまじめに」。書くことに苦しみ悩む人には、心に響いて消えない言葉になるかもしれない。
 井上には、『自家製 文章読本』、『私家版 日本語文法』(いずれも新潮文庫)など、文章を書く上で参考になる本がある。一歩一歩、作文力を向上させるためにも、合わせて読んでほしい本だ。

 中村 明の『文章作法入門』(ちくま学芸文庫)は、文章表現上のいろはから、ことばの選び方、表現上注意すべきこと、文章の構成と仕上げ方などについて、分かりやすく述べたものである。「文章を形成している表層の部分から次第に深層へと入り込み、章や説を追って一歩一歩中核に近づきたい。」(11頁)表層の部分に関しては、「原稿用紙」の書き方、句読点の打ち方、引用の仕方などについて懇切丁寧な説明がなされている。深層に関する部分では、読み手に分かる文章を書くために何が必要かが、井上ひさしや谷崎潤一郎、庄野潤三といった作家のいくつかの小説の一部を用いながら述べられている。
 はっきりと分かりやすく書くことが文章の基本だと言われて、「当然だろう」と言ってすましてしまう人に対して、著者はこう述べる。「文章を執筆しているときに、今、自分ははっきり書いているだろうか、わかりやすく書いているだろうかと、実際に何度か自問したことがあるだろうか。」(172頁)中村によれば、常日頃、自問自答しながら書く習慣を身につけること、それがいい文章を書くための基本である。文章を書くということは、書いた文字を媒介にして反省し、その反省をもう一度書くことにつなげていく試みなのだ。この試みは繰り返して行われる。そこに推敲という作業が関わってくる。読み手に伝わる文章を書くために必要な推敲のポイントとしては、次の5点が強調されている。「内容がしっかりとしているか」「表現意図がきちんと伝わっているか」「素直な文章になっているか」「文中に混乱や不統一な点はないか」「表現や体裁は適切か」。(209-213頁参照)これらのポイントは、自分が書いたものをただ漫然と読み返すだけでは確認されない。他人の目で冷静に読み直し、曖昧な文章や他人に伝わりにくい表現、一人よがりの書き方などを注意深く修正することが必要なのだ。
 この本のおしまいはこう締めくくられている。「表現の技術、文章の作法は、相手を思いやるという一点にたどりつく。人の心に届く文章を書きたい。文章力とはそういう心の働きなのではなかろうか。」(213頁)

 本多勝一の『日本語の作文技術』(朝日文庫)の目的は、「読む側にとって分かりやすい文章を書くこと」(著者による強調、10頁)である。世の中には、すーと読めない文章、何回読み返してもわかりにくい文章は少なくない。その一例として、次の文章があげてある。「私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。」(28頁)修飾、被修飾の関係が不明確なせいでわかりにくい。「鈴木が死んだ現場に中村がいたと小林が証言したのかと私は思った」(29頁)と変更を加えれば、少しは分かりやすくなると本多は言う。別の例。「渡辺刑事は血まみれになって逃げ出した賊を追いかけた」という文章では、渡辺と賊のどちらが血まみれなのか不明だが、「血まみれになって」の後に「、」を打つことではっきりすると言う。こうした分かりやすい例を用いて、本多は、形容詞の位置や語順、句読点などに細かい注意を払って作文することの大切さを強調している。本や新聞、雑誌などの悪文、読者が混乱する文章を具体的に例証しながら話を進めているので、参考になる。

 本多とは違って、やわらかで美しい、とても読みやすい日本語で文章作法について語るのが村田喜代子である。『名文を書かない文章講座』(朝日文庫)は、小倉と博多のカルチャーセンターでの文章講座をまとめたものである。文章を書く時の準備体操は自分の呼吸を整えることだという面白い指摘から幕が開く。口に出して読んで、自分の呼吸のリズムとあわない文章はよくないということだ。やがて核心をつく文章が現れる。「ものを書くということは、ものをどう見るかということである。どう視るか。どう考えるか。書く行為は何より心の運動、精神活動である。自分の心と精神が文章の上に歴然と表れてしまうことに留意しよう。偏った視点で書いた文章は、読む者の共感を得ないだけでなく、自分の視野の狭さをあらわにする。」(43頁)共感の得られる文章を書くためには、日ごろ心をこめてものを見て、深く考え、思考の歪みをチェックし、精神を鍛えることが不可欠だということだ。書くことで、書き手の魂がさらけ出される。恐ろしいことだ。「作者の視線が猥雑であれば、文章も猥雑になる。また作者の視線が中途半端であれば、やはり猥雑になりやすい。」(100頁)しかし、それ以前に、日ごろあまり頭を使わず、書くことを怠っていれば、そもそも文章が書けなくなる。こちらの方が、はるかに恐ろしい。
 エッセイや小説の基本としては、「観念語、哲学用語など生硬な言葉を文中に使わない」、「同じ言葉を使わない」、「形容詞を多用しない」の三点があげられている。(74~77頁参照)生煮えの文章や、単調でくどい文章、焦点の定まらない文章や、ごてごてと飾りたてただけの文章は避けなさいという忠告だ。
 村田は、書くに値するものは読むに値するものであり、読むに値するものは、いつまでも心に残るものであると述べている。(252頁参照)そのための条件が次の三つだ。

   1. 誰もが心に思っている事柄を、再認識させ共感させる。
   2. 誰もが知りながら心で見過ごしている事柄を、あらためて再認識し実感させる。
   3. 人に知られていない事柄を書き表して、そこに意味を発見し光を当てる。(252頁)

この三つの条件は、「良い文章とは何だろう?それは静かな説得力をもって迫ってくるものだ。これには文章の力だけでなく、視点や構成、すべての要素が加わっている」(69頁)という文章を補うものである。誰もが知っている平凡なことを書く必要はない。読むものに新鮮な驚きや感動を与える文章こそ望ましく、そのためには意外な視点からの記述や入念な工夫、準備が必要になるということだ。
 この文章講座には、作文する上でのアドヴァイスが豊富であり、それらはすべて日常生活をよりよく生きること、人や事物を丁寧に観察すること、日々の暮らしのなかで見過ごしていることを発見することへの促しに結びついている。それらが土台になって、はじめて文章も生きてくるのだろう。

 山本麻子の『書く力が身につくイギリスの教育』(岩波書店、2010年)は、自分で考えて書くことをもっとも重視するイギリスで、5~7歳頃の入学前後の時期から、13~15歳の時期に、書くことに関してどのような教育がなされているのかを、わが子の授業ノートなどを手がかりにして考察し、報告したものである。すぐれた教育システムをつくり、指導力豊かな教師をそろえて、子供たちに何年もかけてきちんとした文章を書く力を育てているイギリス人には脱帽する。国語だけでなく、算数や理科、科学などでも書くことを重視するイギリスと、暗記力重視、選択解答が幅を利かす日本との差は決定的だ。ちなみに、13歳過ぎに学ぶ歴史の授業では、よい英語で書くことが要求される。それに関連して、句読点・大文字の正確な使用、文章で書く(段落書き)、幅広く本を読み語彙を増やす、スラングや決まり文句的な表現を避ける、正しい綴り、書く内容と書き方の質を高める、よい習慣をつけるといったことがこまごまと求められている。彼我の差には愕然とするばかりだ。

 若いみなさんには将来がある。何を始めるにしても、遅いということはない。イギリスのみならず、それ以外の国々の教育事情も参考にしながら、読む力、考える力、書く力の重要性を認識してほしい。これらの力は、自立した人間として豊かに生きるために必要な力だ。鍛える努力を惜しまないでほしい。

 
人物紹介

井上ひさし(いのうえ-ひさし) [1934-2010]

昭和後期-平成時代の小説家、劇作家。
昭和9年11月17日生まれ。山元護久(やまもと-もりひさ)と共作のNHKテレビの人形劇「ひょっこりひょうたん島」で注目される。昭和47年「道元の冒険」ほかで「新劇」岸田戯曲賞、同年「手鎖心中」で直木賞。「吉里吉里人」で56年日本SF大賞、57年読売文学賞。59年こまつ座を結成し座付作者。国語問題に関心がふかく、戦後日本語のローマ字化に反対して日本語をまもった女性たちをえがいた「東京セブンローズ」ほかで平成11年菊池寛賞。15年毎日芸術賞。同年日本ペンクラブ会長。16年文化功労者。21年戯曲を中心とする広い領域における長年の業績で芸術院恩賜賞。同年芸術院会員。平成22年4月9日死去。75歳。山形県出身。上智大卒。本名は廈(ひさし)。作品はほかに「私家版日本語文法」「四千万歩の男」など。
”いのうえ-ひさし【井上ひさし】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2010-08-23)

村田喜代子(むらた-きよこ) [1945-]

昭和後期-平成時代の小説家。
昭和20年4月12日生まれ。はたらきながらシナリオをまなぶ。昭和42年結婚。51年「水中の声」で九州芸術祭文学賞をうけ、作家活動にはいる。62年「鍋の中」で芥川賞、平成2年「白い山」で女流文学賞、4年「真夜中の自転車」で平林たい子文学賞、10年「望潮」で川端康成文学賞、11年「竜秘御天歌」で芸術選奨。福岡県出身。作品はほかに「熱愛」「春夜漂流」など。
”むらた-きよこ【村田喜代子】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2010-08-23)

本多勝一(ほんだ-かついち) [1931-]

ジャーナリスト。信州(長野県)伊那谷出身。京都大学から朝日新聞記者、同社編集委員を経て『週刊金曜日』編集委員。代表作に、『新装版・日本語の作文技術』(講談社)、『殺される側の論理』『中国の旅』『極限の民族』(以上朝日文庫)、『疋田桂一郎という新聞記者がいた』(新樹社)、『六十五歳 ますます愉しい山山』(朝日新聞出版)など。 ―表紙カバーより

山本麻子(やまもと-あさこ)

前橋市出身。1986年より家族と共に在英。現在、レディング大学言語識字センターにて講師および研究調査官。専門は日本人の子どもの英語学習、日英両言語の同時学習、英国の国語教育。1992年、レディング大学言語学科にて日本人児童の英語習得をテーマに博士号(Ph.D)取得。ボストン大学院英語教育修了、お茶の水女子大学大学院修了、津田塾大学卒。著書に『ことばを鍛えるイギリスの学校』『ことばをつかいこなすイギリスの社会』(ともに岩波書店)、『子どもの英語学習』(風間書房)、『英国の国語教育―理念と実際』『滞英中の子供の言語発達―両親のためのガイド』(ともにリーベル出版)など。―奥付より

 

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