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古典の森を散策してみよう(3) エラスムス賛歌
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)

 エラスムス(1466-1536)は、トマス・モア、モンテーニュと並んで、16世紀を代表する文人の一人である。「人文学者の王」とも「16世紀のボルテール」とも評される。エラスムスは、オランダのロッテルダムに私生児として生まれた。修道院で少年期、青年期を過ごし、修道士、司祭になり、神学研究に専念したが、後にキリスト教界を批判することも度々で、ルターと並んで宗教改革の火つけ役とも見なされた。最大の功績である『校訂新約聖書』(ギリシア語原典、ラテン校註からなる)の他、古典語・古典文学学習の手引き、倫理的指針の書、教父研究書など誠実な学問的著作を残した。
 それに対して、エラスムスが真面目な宗教者としての自分を離れて、いささか面白半分、冗談半分の気持ちで書いたのが『痴愚神礼賛』(渡辺一夫、二宮 敬訳、中公クラシックス)である。 [ラテン語原文からの翻訳は、『痴愚礼賛』(大出 晁訳、慶應義塾大学出版会、2004年)というタイトルで出版されている。] これは、イタリアからイギリスへの旅の途中に想を得て、ロンドンのトマス・モアのもとで一気に書き上げられた。モアのラテン名モルスからモリア(痴愚の女神)が連想されて、この表題がつけられた。

エラスムス

 「神」と言えば全知全能の神、絶対神、創造神など崇高な存在を連想する人が多いなかで、あえて痴愚神(愚神)をあげて、それを礼賛してみようという企てには意表をつくものがある。痴愚神の礼賛とは、世の中の人間たちの間にはびこる愚かさや狂気を批判・否定する態度とは逆に、馬鹿なことをせずには生きられない人間、時に狂気に引きずられてとんでもない愚行を犯す人間の愚かさを讃えてみせることである。「ごらんなさい、世の中にはこんなにも馬鹿な人がいて、愚かなことが再三再四繰り返されている。まことに馬鹿につける薬はない。人は所詮、ほれぼれするほど阿呆なんですね。」という、愚かさをほめそやす態度だ。キリスト教の信仰に裏打ちされ、神の僕として生きるという「まっとうな生き方」をおのれの生の軸にしていた人間にこそ可能な、余裕を持って愚かな人間を観察する態度だと言えよう。「まったく、まじめなことを軽々しく論じるぐらい、ばかげたことはありませんが、つまらぬことをつまらぬことだとはとても思えないように論じることぐらい、愉快なことはありますまい。」(6頁)とはいえ、こうした悪戯心の裏側には、当時の戦乱の世相や、宗教界のお偉方の愚行に対するエラスムスの憤懣や嘆き、「もうちょっとどうかしたら」という警世の気持ちも潜んでいたことだろう。
 さて、痴愚神の好き勝手な話しが始まる。話題の中心は、人間の多種多様な愚行だ。この神を脇で支えるのは、「自惚れ」「追従」「忘却」「逸楽」、「軽躁無思慮」「放蕩」「美食」「深き眠り」といった神々である。(30頁参照)この神々に支配された人間は、自分を神にも肩を並べる存在だとうぬぼれるかと思えば、他人にはへいこらする。「自惚れ心は自分を撫でさすり、『追従』は他人を撫でさするというだけの違いです。」(124頁)おだてられるとすぐに調子にのる。馬鹿なことをしでかしても、すぐに忘れて同じことを繰り返す。肝心なことはすぐ忘れてしまう。快楽へと引きずられやすい。後先を考えずに行動し、破廉恥なことをしでかして身をもち崩す。「思慮分別は物事を正確に評価することにあり、となさるのなら、よく聞いてくださいよ、まさしく分別ありと自任している人間が、どのくらいそれとかけ離れていることか!」(79頁)うまいものには目がない。惰眠をむさぼる。昔も今も変わることのない「大ばかな人間たち」(42頁)の振る舞いが面白おかしく語られる。男も女も、婦人も老人も馬鹿なことをして楽しく生きているのだ。
 戦争の馬鹿馬鹿しさも話題になる。「結局は敵味方双方とも得よりは損をすることになるのに、なにがなんだかわからない動機から、こんな争いごとをやり始めること以上に阿呆なことがあるでしょうか。」(65頁)「戦争のときには、あまりものを考えず、前へ前へと突進するような、太って脂ぎった人間が入用なのです。」(同頁)戦乱のさなかで、戦争へと駆りたてられる愚か者たちの行状を見据えていた人の言葉だ。
 いっさいの情念を理性の敵として貶めようとしたストア派の学者たちの馬鹿馬鹿しい自惚れぶりや、梅干婆さんたちのあられもない姿も面白おかしく語られるが(88-89頁参照)、だからといって、愚かさが高みから厳しく批判され、叱責され、否定されるわけではない。「文法のことを知らないからといって馬が不幸になるはずがないと同じく、痴愚も人間の不幸とはなりません。なぜならば、痴愚は人間の本性にぴったり合っているからですよ。」(92頁)知ったかぶりするのも、狂ったような振る舞いをするのも愚かさゆえのことであり、愚かさこそがもっとも人間らしい人間の証なのだ。愚かさをこそほめたたえよう。愚かな人間に栄光あれ。
 ところが、こうした愚かさ礼賛は、驚くべきことに、人間に限定されず、キリスト教の神にまで結びつけられる。つい口がすべったのか、意図的であったのか、定かではないが、痴愚神は、パウロの「神の愚は人の知よりも賢い」という言葉を頼りにして、神にも痴愚めいたところがあると見なすのである。(224頁参照)だとすれば、神の創造物である人間は、いかに信仰篤かろうとも愚かであることは自明の理だ。こうした神にも人間にも愚かさを認める考え方が、恐るべき一文につながる。「キリストご自身も、この人間たちの痴愚狂気を救うために、みずからは神の知恵の具現であったにもかかわらず、『人の形で現われたもう』べく人間の本性を担われたときに、いわば痴愚狂気をみずからまとわれたのですし、それと同様に、罪を贖うためにみずから罪人となられたのでした。」(226-227頁)
 信仰篤いキリスト教徒を激怒させかねない「毒」を含んだ『痴愚神礼賛』は、出版後たちまち評判になり、初版の1800部はすぐに売り切れた。当初から、面白がって読む人もいれば、この本を「愚行」とみなして、苦々しく顔をゆがめた人もいたらしい。エラスムスもいろいろと自己弁護しているが、後に『痴愚神礼賛』は禁書の扱いを受けることになった。エラスムスは1558年には、教皇パウルス4世によって第一級の異端者と断定され、全著作が禁断の書となった。
 訳者の渡辺一夫はこの書について言う。「これは『狂気』をほんとうに賛美したものでなく、『狂気』にとりつかれてそれを自覚せず、『狂気』のおかげで甘い汁を吸っているさまざまな人間は、『狂気』を礼賛せざるを得ないということを書いた社会諷刺書人間諷刺書であります。」(『人間模索』、講談社学術文庫、109頁)見かけ上の狂気賛美の裏に、狂気にどっぷりつかって生きている人間が狂気をあげつらうなんてとんでもないという一種の風刺が隠されているという渡辺の指摘は正鵠を得ているだろう。しかし他方で、この書には、人間の狂気を肯定し、愚かな人間のありのままの姿を認めようとする視点、神にさえ愚を見ようとする観点も垣間見られるから、世相を風刺し、人間を風刺する狙い以上の何かがこめられているようでもある。神も人間も「愚の基準」でひとくくりにして平準化した世界像を提示するかに見えるこの書物には、無神論にさえ結びつくエラスムスの無意識がうごめいているとさえ思えてくるのである。

 
人物紹介
エラスムス【Desiderius Erasmus】 [1466ころ~1536]

オランダの人文学者。人文主義的立場から宗教改革の精神に同調したが、ルターの教皇・教会批判には反対した。ギリシャ語新約聖書の印刷校訂本を初めて出版。著「愚神礼讚」「自由意志論」など。
”エラスムス【Desiderius Erasmus】”, デジタル大辞泉, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2010-11-24)

渡辺一夫 (わたなべ-かずお) [1901-1975]

仏文学者、評論家。東京大学名誉教授、学士院会員。東京生まれ。東京帝国大学仏文科卒業。旧制東京高等学校教授を経て1962年退官まで東大文学部でフランス文学を講じた。ラブレーやエラスムスの翻訳、研究、およびルネサンス・ユマニスム研究に画期的業績をあげる一方、太平洋戦争の前後を通じてユマニスムの根源に分け入ることによって得られた深い学識と透徹した批評眼をもって日本社会のゆがみを批判した。とくに寛容と平和と絶えざる自己検討の必要を説き、狂乱の時代に節操を堅持した知識人として若い世代に深い感銘を与えた。『ラブレー研究序説』『フランス・ユマニスムの成立』『フランス・ルネサンスの人々』『狂気についてなど』『まぼろし雑記』など多数の著書の主要部分は『渡辺一夫著作集』増補版全14巻(1976~77・筑摩書房)に収められている。 [二宮 敬]
”渡辺一夫”, 日本大百科全書(ニッポニカ), ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2010-12-01)

 

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