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成人の意味・青春の意味 ― 詩を通して考えてみよう
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)

 1月には、日本の各地で成人式が開かれ、時には当日のトラブルが夕方のニュースで取りあげられる。成人式を大学生の時代に迎える人は少なくないだろう。成人式を開催する側は、晴れていくつかの権利を得て成人と見なされることになった青年に自覚を促す。式の壇上からは、社会人としてのあるべき姿が語られ、成人の責任と倫理が説かれ、激励の言葉で式が閉め繰られる。
 だが、式で語られた言葉は参加者の心にどの程度まで響くのだろうか。話し手の情熱が心を打ち、あらたな出発の覚悟を与えるかもしれない。紋切り型の挨拶が退屈な話と受け止められるかもしれない。いくつかの祝辞は、おしゃべりによってかき消されてしまうこともあるかもしれない。いずれにしても限られた時間のなかでの、計画された出来事だ。式が終われば、多くの言葉は記念パーティの騒ぎの中へと紛れこんで、忘れ去られてしまうだろう。
  それに対して、次にあげる「成人の日に」(『魂のいちばんおいしいところ―谷川俊太郎詩集』サンリオ出版、1990年、

成人の日「成人とは人に成ること」

92-94頁)というタイトルの詩は、ずっと読みつがれていくに違いない。谷川俊太郎が期待と祈りの気持ちをこめて新成人に贈る真摯なメッセージは明るくさわやかだが、それと同時に、熟考に値する含蓄に富んだ表現も含まれている。

     人間とは常に人間になりつつある存在だ
     かつて教えられたその言葉が
     しこりのように胸の奥に残っている
     成人とは人に成ること もしそうなら
     私たちはみな日々成人の日を生きている
     完全な人間はどこにもいない
     人間とは何かを知りつくしている者もいない
     だからみな問いかけるのだ
     人間とはいったい何かを
     そしてみな答えているのだ その問いに
     毎日のささやかな行動で

     人は人を傷つける 人は人を慰める
     人は人を怖れ 人は人を求める
     子どもとおとなの区別がどこにあるのか
     子どもは生まれ出たそのときから小さなおとな
     おとなは一生大きな子ども

     どんな美しい記念の晴着も
     どんな華やかなお祝いの花束も
     それだけではきみをおとなにはしてくれない
     他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ
     自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ
     でき上がったどんな権威にもしばられず
     流れ動く多数の意見にまどわされず
     とらわれぬ子どもの魂で
     いまあるものを組み直しつくりかえる
     それこそがおとなの始まり
     永遠に終わらないおとなへの出発点
     人間が人間になりつづけるための
     苦しみと喜びの方法論だ


  谷川の言うように、人間は生成の途上にある存在だ。成人式を迎えた者だけではない。子どもも大人も、老人も皆が成りつつある存在である。20歳で完成された人もいなければ、80歳で完全な人もいない。人はどの年齢にあろうとも、未熟で不完全な存在である。欠点だらけの存在だから、失態を演じることも少なくないし、予想外の事態に巻きこまれていくことも多い。冷笑され、後ろ指をさされていることもあるだろう。完成から遠いがゆえに、過ち、後悔しながら生きていかざるをえないのだ。
  生成の途上にあるということは、質的な意味での変化の途上にあるということだ。年を重ねるごとに、悪質さや邪悪さ、陰険さ、残酷さの度合いが増す変化もあれば、人間的な魅力が増し、内面的に豊かになり、他人への配慮が次第に細やかになっていくという変化もなくはない。心の動きが鈍くなり、貧しくなって反応する力を失い、枯れていく変化があれば、逆に、心がみずみずしさとしなやかさを獲得して、生き生きと変化していく場合もある。
  生成の途上にあって、人はお互いに傷つけあうこともあれば、慰めあうこともある。他人が恐ろしく見えてきたり、いとしく見えてきたりする。谷川の言うとおりだ。友情や愛情で結ばれる関係もあれば、中傷や憎悪、妬み、怒りなどによって心理的に切り刻まれる関係もあり、暴力によって無残に断ち切られる関係もある。誰もが、先行き不透明な関わりの中で、近づいたり離れたり、いじめたりいじめられたり、はじき出したり出されたりして生きていかざるをえない。
  人間を成りつつある存在とみなす谷川は、宿題を出している。それは、誰もがおそらく生涯をかけて注意深く考えていかなければならないような性質のものだ。「他人のうちに自分と同じ美しさをみとめること」と、「自分のうちに他人と同じ醜さをみとめること」、いずれも重い宿題だ。自分には甘く、すぐに自分を許してしまうくせに、他人には厳しい態度をとるのがよくあることだとすれば、自他の公平な観察者になることは容易ではない。自分と他人のなかに美しさ、醜さを公平に見て取ることは一層難しい。そもそも、美しさ、醜さとは何であり、それを判定する基準とは何だろうか。どんな振舞いが美しく、どうすれば醜くなるのだろうか。それを見て取る自分の尺度が十分に磨かれなければ、判定は不可能だ。美と醜を見分けるためには、自分の狭い思い込みを捨てて、自分を他人の視線で見つめることも必要だが、これも容易ではない。
  既成の権威にしばられないこと、状況次第で変わりやすい大勢の意見にまどわされないこと、とらわれぬ子どもの魂で今あるものを組みなおし、つくり変えていくことも簡単にできることではない。先入見に染まりやすく、つい周りに合わせてしまうのが避けられず、魂が水分を失って干からびてしまっても、それに気づきにくいとすれば、谷川の言う試みを死の間際まで持続させることなど不可能に近いかもしれない。
  だが、そうした不可能にも見えることを続けていくのが、谷川の言う成人の意味だ。そのためには、生成の途上にある自分の心と肉体、生の変化を少しでも良くなる方向に導くような工夫と努力が欠かせない。それがないと、心も体も柔軟性を失って、固くなりやすい。自分の傾向に逆らって生きること、変化の向きに敏感であること、悪化しやすい変化を逆の方向に切り替えること、いずれも一筋縄ではいかない、苦しみを伴う作業だ。注意力も忍耐力も必要になる。しかし、その作業を継続するなかで、自分の意志によって自分を変化させることができるのであり、それが成長の喜びとして実感されるかもしれない。困難なことに挑戦して自分を鍛えていく決して楽ではない試みが、いつの日か充足感を持って受け止められるようになるということ、それが、谷川の言う「苦しみと喜びの方法論」のエッセンスであろう。

 谷川は成人を前向きに捉える。自分と成人を重ね合わせてもいる。だから、「成人の日に」こめられたメッセージは、新成人に対してだけでなく、谷川自身にも向けられている。老境にある谷川も、常に途上にある成人として生涯をまっとうしようとしているのだ。
  それに対して、自分の青春を振り返り、その季節に固有の意味をさぐっているのが詩人の茨木のり子である。
「伝説」(『茨木のり子詩集』思潮社、1969年、83-84頁)という詩はこう始まる。

    青春が美しい というのは
    伝説である
    からだは日々にみずみずしく増殖するのに
    こころはひどい囚われびと 木偶の坊
    青春はみにくく歪み へまだらけ
    ちぎっては投げ ちぎっては投げ
    どれが自分かわからない
    残酷で 恥多い季節
    そこを通ってきた私にはよく見える

    青春は
    自分を探しに出る旅の 長い旅の
    靴ひも結ぶ 暗い未明のおののきだ

     ようやくこころが自在さを得る頃には
    からだは がくりと 衰えてくる
    人生の秤はいやになるほど
    よくバランスがとれている
    失ったものに人々は敏感だから
    思わず知らず叫んでしまう
    <青か春は 美しかりし!> と


 通り過ぎて見えてくるものがある。失って初めて気づくものもある。渦中にあっては見えないものがある。青春は、茨木の言うように、からだもこころも激しく揺れ動く季節だ。からだはみずみずしい成長へと動く。しかし、それに反するかのように、感受性に富んだこころはしばしば歪み、つまづき停滞し、崩れる、閉ざされる。その狭間で右往左往し、時に行き場を失う。この季節のなかでは、自分のことが分からず、自分が嫌になったり、他人の存在が分からず、他人が恐ろしく見えてくるなかで、困惑を抱えて生きていかざるをえないことも度々だ。自他の距離を取り違えて残酷な振る舞いに及ぶこともあれば、自意識の地獄に落ちこんで赤面することもある。思い通りにならない、思いがけないことが起きて、ストレスが増え、精神的な労苦が重なるのが青春だ。
 だが、度重なる苦しみや挫折に襲われるこの季節には、それらが契機となって、ひとは茨木の言うように、自分を探して旅に出るのかもしれない。しかし、どこかに探すべき自分がいるわけではない。そこに行けば自分に出会えるような場所があるのでもない。自分の外側に求める自分はいない。自分や他人とかかわり、さまざまな葛藤を含む経験のさなかで、自他の反応や態度から目をそらさず生きることが自己の探究に結びつくのだ。それは、谷川の言う、人に成る過程を生き続けるということでもあるだろう。この過程がよく生きられるとすれば、茨木とは異なり、青春を回顧の対象とする時期をどこまでも遅らせることができるのかもしれない。

 
人物紹介
谷川俊太郎(たにかわ-しゅんたろう) [1931-]

昭和後期-平成時代の詩人。
昭和6年12月15日生まれ。谷川徹三の子。昭和27年「二十億光年の孤独」で登場。以来、詩のほか劇、ラジオドラマ、絵本などを活発に創作する。50年訳詩集「マザー・グースのうた」で日本翻訳文化賞、58年詩集「日々の地図」で読売文学賞、平成5年「世間知ラズ」で萩原朔太郎賞。8年朝日賞。18年詩集「シャガールと木の葉」「谷川俊太郎詩選集1~3」で毎日芸術賞。22年「トロムソコラージュ」で鮎川信夫賞。東京出身。豊多摩高卒。
”たにかわ-しゅんたろう【谷川俊太郎】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2010-12-07)

茨木のり子 (いばらぎ-のりこ) [1926-2006]

昭和後期-平成時代の詩人。
大正15年6月12日生まれ。昭和23年ごろから詩作をはじめ、28年川崎洋と詩誌「櫂(かい)」を創刊。女性詩人としてはめずらしく、金子光晴に通じる反骨をひめた詩風。平成3年翻訳詩集「韓国現代詩選」で読売文学賞。平成18年2月17日死去。79歳。大阪出身。帝国女子薬専(現東邦大薬学部)卒。本名は三浦のり子。詩集に「対話」「見えない配達夫」「人名詩集」など。
”いばらぎ-のりこ【茨木のり子】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://na.jkn21.com>, (参照 2010-12-07)

 

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