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古典の森を散策してみよう(6)―ニーチェの誘惑―
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)

 ニーチェ(1844~1900)は、マルクス、フロイトと並んで現代思想の潮流にもっとも強い影響を及ぼした。ニーチェの著作は、宗教批判や時代批判、認識論、価値論、道徳論、身体論といった文脈で多種多様な読み方を許すが、人間の成長論としても読むことができる。ドイツ文学の世界には、人間が教育や経験を通して内面的に成長する過程を描く「教養小説」の伝統と、それを批判する反「教養小説」の系譜が存在する。前者の代表は、ゲーテやトーマス・マンであり、後者の代表は、ローベルト・ムジ―ルやハインリッヒ・マンである。ニ-チェの著作の一部は、精神の遍歴や変身を主題化する内容を含むという意味で、その伝統を継承している。代表作の『ツァラトゥストラ』(上、下、吉沢伝三郎訳、ちくま学芸文庫、1993年)は、ニーチェの意図がどうであれ、青年の心を強烈に刺激し、生きる態度の改変を迫り、成長をうながす教養書としても読める。
 『ツァラトゥストラ』の第1部から第3部までは、1883~84年にかけて、それぞれ約10日間で一気に書かれている。第4部は1年後に完成した。「万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書」という副題がついている。ニーチェは、この本を


超人を目ざす生は大地に根ざす

だれもが読むべきだと見なした。しかし、この本はただ読むだけではとうてい理解されない。自分を変化させ、成長させる意欲をもつ者が、自分の情熱と本の内容とを交差させながら主体的に読む、身を切る覚悟で読むことを通じてしか、この本は理解できない。しかし、そういう読み方をする人はほとんどいないだろうから、結局この本はだれのためにも書かれていないのだという、ニーチェの屈折した自意識と皮肉がこの副題に反映していることは否定できない。
 ニーチェが人間に期待するのは「成長」である。成長のモデルはニーチェ自身である。ニーチェの生涯は、アカデミズムとの対決、キリスト教批判に見られる「伝統的なもの」への抵抗についやされた。彼は、ヨーロッパの社会にひそむ病巣をえぐりだすことに執念を燃やした。他方で、自分の病とも闘い続けた。ニーチェは、反時代的な批判精神を貫き通すことで、自己の認識の不断の拡張と向上を実現した。その経験が、人間への期待に反映している。とはいえ、その期待がかなうなどと、ニーチェが信じていたわけではない。彼は、人間不信のペシミストであり、それゆえに楽観的にも見える言説を積極的に駆使したのである。
 『ツァラトゥストラ』のなかで、ニーチェは主人公に人間の成長のヴィジョンを語らせる。


     わたしはきみたちに超人を教える[・・・・・・・・・・・・・・・]。人間は、超克されるべきところの、何ものかである。
    きみたちは、人間を超克するために、何をなしたか?(上、22頁)

超人の原語はÜbermenschで、人間を超えるという意味をもつ名詞だが、ニーチェはこの言葉に動詞的な意味をもたせている。すなわち、超人とは、「われわれが人間という身分を超えて進んでいく」ということだ。超人はわれわれの外部に見いだされるのではない。われわれが主体的に自分の存在を乗り超えるようにして前進するときに、われわれにおいて超人が姿を現すのである。超人という存在に目ざめるということは、われわれが人間を超えていく途上にあり、自己生成する存在であることを自覚し、超克に必要な試みを持続させていくことにつながる。そのためには、超人としての存在を意志的に目ざし、意欲的なあり方を選択しなければならない。


      超人は大地の意味である。きみたちの意志は言うべきだ。超人を大地の意味たらしめよう[・・・・・・]! と。
     (上、23頁)

超人を目ざす生は、大地に根ざす。身体的実存の強調だ。それは、大地を踏みしめる足の感覚の感受や、風や光を感じながら歩く喜びの享受、歩行に伴う疲労や苦痛の体感とむすびつく。超地上的なものへの希望を拒否し、身体よりも魂に重きを置く偏見を排して、みずからの身体的実存をまるごと肯定することへのすすめだ。


     人間は、動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱である、― 一つの深淵の上に
    かかる一本の綱である。
      一個の危険な渡り行き、一個の危険な途上、一個の危険な回顧、一個の危険な戦慄と停止、
    である。(上、26頁)

人間の成長は、だれかが準備してくれるものではない。群れのなかにまぎれて右顧左眄する日常や、だれもがすることしかしない生活から生まれてくるものでもない。人間の成長を妨げるものはいくつもある。われわれ自身が、自己の成長に対して抵抗する場合もある。その力に逆らって、困難なこと、面倒なことをあえて企て、実行する行為のなかから成長の芽が育つのだ。成長は、安易なものを拒否し、よりむずかしいことに挑戦する意志によって支えられる。怠惰な日常と決別して難関に挑む行為には、労苦だけでなく、悔恨や屈辱、失敗や挫折も伴う。危険な道行きである。だが、危険を生きるからこそ、生きてあることの喜びも味わえるのだ。
 ニーチェがツァラトゥストラに語らせる「力への意志(Wille zur Macht)」は多義的な意味を含む。そのひとつは、だれにもひそんでいるはずの「自分をよりパワフルな存在にしたい」、「より力強く生きたい」という意欲を形にすることこそ生きることだという意味である。ここでも、Machtという名詞は、machenという動詞の意味で捉えた方がよい。「力への意志」には、自己を超克する、自己を不断に強化するという、自分で自分をつくる行為への期待がこめられているからだ。自分のもとにとどまる、自分のなかに閉じこもるのではなく、自分を超えて進む、自分を力強い存在にすることのすすめだ。そのためには自力独行が不可欠である。流通する認識の枠組みを拒絶し、宗教的な伝統への依存を断ち切り、行為においても、認識においても自律的であろうとすることが大切なのだ。しかし、ニーチェは、この種の行為に身を投じる人間がいるなどとは、おそらく信じていなかっただろう。にもかかわらず、ニーチェはツァラトゥストラに激励の言葉を語らせた。


      そなたたちが高く登って行きたいのなら、そなたたち自身の足を用いよ!
     ひとに運び上げてもらうな、他人の背や頭に乗るな!(下、279頁)

この呼びかけは、ニーチェの同時代人の耳には届かなかった。他人の敷いたレールに乗りなれたわれわれにも、この言葉は響いてきそうにはない。
 社会のさまざまな場所では、しばしば、個人の自律性や思考力をそぎ落とし、個人を飼いならそうとする力が働いている。結果として、個人は集団のなかへと吸収されていく。ニーチェは、そうした傾向に断固として「No」を突きつけた。個の力が衰弱し、集団の威力がます社会を嫌悪したのだ。

 ハイデガー、クロソフスキー、バタイユ、ドゥルーズなど、ニーチェについて語った人は多い。日本では、「超訳」と称するつまみぐい的な訳本がよく売れている。じっくりとニーチェの本を読み、その世界を知りたい人には、道案内の書として、永井均『これがニーチェだ』(講談社現代新書、1998年)と、須藤訓任『ニーチェ <永劫回帰>という迷宮』(講談社選書メチエ、1999年)の2冊をすすめる。いずれも、ニーチェとの長いつきあいから生まれた読みごたえのある力作だ。
 リヒャルト・ストラウスは、この著作からインスピレーションを得て、交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」を作曲した。この作品の導入部は、キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」の冒頭で用いられた。
 1977年には、監督のリリアーナ・カヴァーニが、「ルー・サロメ 善悪の彼岸」という映画を作った。ルー・サロメという女性を軸にして、パウル・レー、ニーチェとの友情と交情を中心に描いたもので、日本では1985年に、英語版が性描写に40箇所以上の修正を加えて公開された。2006年になって、イタリア語版がほぼノー・カットで上映された。

 
人物紹介

ニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche) [1844―1900]

ドイツの哲学者。実存哲学の先駆者。キリスト教的・民主主義的倫理を弱者の奴隷道徳とみなし、強者の自律的道徳すなわち君主道徳を説き、その具現者を「超人」とする思想に達した。機械時代・大衆支配時代に対する批判は、一面ファシズムの支柱ともなった。著「ツァラトゥストラはかく語りき」「善悪の彼岸」「道徳の系譜学」「権力への意志」など。
”ニーチェ”, 日本国語大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.jkn21.com>, (参照 2012-09-20)

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