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暗い時代を疾走したシモーヌ・ヴェイユ ―『重力と恩寵』の世界―
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)

 アンドレ・モロワが「世界中でもっとも美しい本のひとつ」と評した『幸福論』(岩波文庫、1998年)を書いたアラン(1868~1951)は、教室でシモーヌ・ヴェイユ(1909~1943)に哲学や文学を教えた。アランは、その教え方のスタイル、教える内容を通して生徒にもっとも強い影響を与え続けた人のひとりとして知られる。『幸福論』には、幸福についての93のプロポ(断章)がおさめられている。「92 幸福にならねばならない」では、こう書かれている。「幸福になろうと欲しなければ、絶対幸福になれない。これは、何にもまして明白なことだと、ぼくは思う。したがって、自分の幸福を欲しなければならない。自分の幸福をつくり出さねばならない」(312頁)。アランは、「幸福への意志」をもつことを、誰よりも強くわれわれに促した。幸福は、棚からぼたもち式には与えられないからだ。
 ヴェイユには、幸福を自分で工夫して作りだせるものと考えた師とは異なり、不幸が中心問題のひとつになった。彼女にとって不幸とは、厳しい条件のもとで過酷な労働を強いられ、虐げられて苦しむ労働者たちの現実にかかわるものだった。彼女の不幸のヴィジョンは、たとえば、こうしるされる。

暗い時代を疾走したシモーヌ・ヴェイユ

「不幸があまり大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される」(14頁)。「この世の生き地獄、不幸の中にあって、すっかり根をもぎとられていること」(53頁)。不幸がひろがる社会の改革への志向と、「この世に不幸な人がいる限り、私は幸福にはなれない」という心情は通底していた。宮沢賢治との親近性が感じられる。
 ヴェイユは、アンリ四世高等中学校でアランに学び、ギリシア哲学に目覚めた。20代の彼女は、女子高校の哲学教師として、受験とは無縁の授業をして当局ににらまれ、高校を転々とした。その一方で、労働組合運動や平和運動に積極的にかかわり、集会やデモにも参加した。ナチスの台頭し始めたドイツに行き、報告記を書き、スペイン内戦に参戦し、かろうじて死をまぬがれた。彼女はまた、休職期間中に工場労働を体験して、過酷な現実のありさまを『工場日記』にまとめた。その後、キリストの現存を感じるという神秘的な体験が、宗教的な思索を深めるひとつの契機となった。
 1940年のパリ陥落、ユダヤ人排斥法の発令により、マルセイユに避難した後、アメリカに亡命した。しかし、フランスでのレジスタンス参加への意志が固く、いったんロンドンに留まり、入国の機会をうかがった。その間の寸暇を惜しんでの執筆活動の無理がたたり倒れ、栄養不良と急性肺結核がもとで亡くなった。年譜の最後にはこうしるされている。「医師の熱心な説得にもかかわらず、食物を拒否、飢餓にひとしい状態におちいり、8月24日夜死ぬ」(377頁)。自分の存在を無にしたい、自分を否定したいという意識をもった過去が、彼女の最期の死の形と結びついているように思われる。
 ヴェイユは、1942年にマルセイユを離れる直前に、それまで書きためた10冊ばかりのノートを世話になったギュスターヴ・ティボン神父に渡した。それらは神父による編集を経て、『重力と恩寵』(田辺保訳、ちくま学芸文庫、1995年)として1947年に出版された。ブランシュヴィクの編集によって世に出たパスカルの『パンセ』と事情がよく似ている。両者とも、未完の断片が一定の編集方針のもとで本に仕上げられたものである。
 「愛は重力である」と述べて、「重力」を人間に関する思索のキーワードにしたのはアウグスティヌスである。ヴェイユはこうしるす。「たましいの自然な[・・・]動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される」(9頁)。二人とも、人間において働く力に注目している。
 『重力と恩寵』は、「こんな問題を、こんなふうにして、こんなところまで徹底的に突きつめて考えるひとがいるのだ」と驚かずにはいられない断章がつまっている。神父のつけた項目の一部をしるしてみよう。「重力と恩寵」「真空を受け入れること」「執着から離れること」「消え去ること」「愛」「悪」「不幸」「暴力」「十字架」「清めるものとしての無神論」「注意と意志」「中間的なもの」「大怪獣」「労働の神秘」などである。各断章は長短さまざまだが、胸に突き刺さってくるものが多い。その一例をあげよう。他人との関係のなかで誰にも訪れる一瞬のエゴイスティックな情念のぶれへの注意と悔恨と内省が、対人関係のもつれについての省察へとつながっている。

 わたしは、頭痛の折りふしに、発作がひどくなると、ほかの人のひたいのちょうど同じ部分をなぐりつけて、痛い目にあわせてやりたいとつよく思ったものだ。このことを忘れないこと。
 これと似た思いは、人間において、じつにしばしば起こるものだ。
 そんな状態のとき、わたしはなぐりはしなかったものの、人を傷つけるような言葉を口にするという誘惑に負けてしまったことが何度もある。重力に屈してしまったこと。最大の罪。こうして、言語の働きがそこなわれる。言語の働きは、もの[・・]もの[・・]との関係を表現することであるというのに。(11頁~12頁)

  21歳のヴェイユを急に襲った激しい頭痛(潜伏性副鼻腔炎)は、その後もたびたび彼女を苦しめた。その身体的な苦痛の経験は、どん底で苦しむ人間たちへの共感と重なって、彼女の思索に深い陰影をもたらした。
 他方で、他人は、慎重にかかわるべき、警戒の存在でもあった。「読み」のなかで、こうしるされる。

  他人とは、その人がすぐそこにいる場合(あるいは、その人のことを考えている場合)に、自分が<読み>とっているものとは別なものだということを、つねに認める心がまえでいること。でなければ、むしろ、その人は自分が<読み>とっているものとは、確かに別なもの、おそらくは全然別なものであることを、その人において<読み>とること。(218-219頁)

 他人を自分の狭い尺度をあてはめてわかったと思うこと、他人が自分の理解の尺度を超えた存在であることがわかること、他人を他人に即してわかること、その違いが示唆されている。他者との関係において生ずる理解と誤解の断面が切りとられており、自己と他者の省察へといざなわれる。

 シモーヌ・ヴェイユは未来の思想家である。彼女の思想が理解されるためには多くの年月を必要とするだろう。フランスではシモーヌ・ヴェイユ全集が刊行中である。日本では、現在、『シモーヌ・ヴェイユ選集Ⅰ初期論集:哲学修業 1925-1931』(2012年)『シモーヌ・ヴェイユ選集 Ⅱ 中期論集:労働・革命 1931-1936』(2012年)がみすず書房から出版されている。後期の論集、霊性・文明論をおさめたⅢで完結する。シモーヌ・ヴェイユを論じたものとしては、選集の訳者でもある冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』(岩波書店、2002年)がおすすめである。戦争と反ユダヤ主義の時代に生きたユダヤ系女性の生涯と思想の変化を丹念にたどる力作である。伝記としては、ジャック・カボー、山崎他訳『シモーヌ・ヴェーユ伝』(みすず書房、新装版、1990年)が読み応えがある。この本の最後は、教え子の死を知らされたアランの言葉で終わっている。「それは嘘だ。彼女は戻ってくる。そうじゃないかね?」(454頁)。

 
人物紹介

シモーヌ・ベーユ (Simone Weil) [1909―1943]

フランスの思想家。パリのユダヤ人医師の娘として生まれる。才媛(さいえん)の誉れ高く、エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)卒業。学生時代から左傾、「赤い処女」とよばれた。卒業後、リセ(高等中学)の哲学教師となるが、つねに抑圧された者の側にたち続けた彼女は、自ら被抑圧者となるために、1934年ほぼ1年間教職を離れ、女工となって働き、さらに1936年スペイン内戦が勃発(ぼっぱつ)するや、ファシストと戦うためスペイン共和政府軍に志願して従軍するなど、己の思想を実践を通じて精査し続けた。しかしそうした実践からもたらされた幻滅から、しだいに神秘的傾向が生じてくる。1942年ニューヨークに逃れたが、祖国の危機を傍観することができず、単身ロンドンに渡って「自由フランス政府」に参加、そこで解放される祖国のありうべき姿を『根をもつこと』(1949)のうちに描き出した。しかし祖国の抑圧された同胞の苦悩を分けもつため、進んで食を断ち、餓死に近い形で、祖国解放の1年前イギリスで客死した。彼女の作品のほとんどは死後編纂(へんさん)されたもので、初期のコミュニズム批判を展開した『抑圧と自由』(1955)、宗教的瞑想(めいそう)集『重力と恩寵(おんちょう)』(1948)などがある。
[渡辺一民]
”ベーユ(Simone Weil)”, 日本大百科全書(ニッポニカ), ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.jkn21.com>, (参照 2013-07-22)

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