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古典の森を散策してみよう(7)―戦場のマルクス・アウレーリウス―
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)

  マルクス・アウレーリウス(121~180)は、ローマ皇帝として敵の侵入阻止や叛乱の平定などに奔走する傍ら、わずかな時間を見つけては書きとめたものを残した。それが後に、『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫、1993年、第51版)として編集され、読み継がれてきた。私的なノートが本にまとめられるまでの詳細な過程は不明である。『自省録』は、「自分自身に」とつけられた標題からもわかるように、彼が自分自身を相手にして語りかけたものであり、他人に読まれることをほとんど期待していない。それだけに、率直で、飾り気のない、自分自身との内面的な対話の記録である。アウレーリウスの自己への問いかけ、自己批判、自己叱責、自己への叱咤が主旋律を形成している。鮮烈な印象を与える数々の言葉には生き生きとした力がこもり、心に響いてくる。『自省録』は、今も多くの読者をひきつけ、人間の生と死、人間関係、人間の運命について考える者に最良の導き手となっている。
  リドリー・スコット監督の映画「グラディエーター」の前半で、戦場で指揮を取る一方で、空いた時間に私室で書を読み思索にふけり、ペンを走らせるアウレーリスが登場する。この映画の成功によって、あらたに英訳された『自省録』は異例の売れ行きを示したという。



古典の森を散策してみよう

  アウレーリウスは、部下と危機を共にする戦争の時間と、一人で部屋にこもって過ごす思索の時間を生きた。ひとは過去を振り捨てることはできない。幼少期からの文学、音楽、舞踏、絵画、哲学などの学びが、後年の生活の思索的な骨格を築いた。彼の思索は、死と背中合わせの戦地で深められた。
  『自省録』の第1章は回想録であるが、北方からの敵の侵入を阻止するためにダニューブ河畔に遠征し、陣地を構えての長きにわたる戦争のさなかに書かれた。同河畔の近くで書かれた第2章には、利己的な衝動にあやつられることなく、理性的な存在として生きて、死にたいというアウレーリウスの願望が書きとめられている(21頁参照)。また、自分が欠点が多く、過ちを冒しやすい存在であるがゆえに、自分に対する警戒心を失わずに注意深く生きたいという願望も書かれている。それは、たとえば次のような文面に現れている。

  他人の魂の中に何が起っているか気をつけていないからといって、そのために不幸になる人はそうたやすく見られるものではない。しかし自分自身の魂のうごきを注意深く見守っていない人は必ず不幸になる。(23頁)

  そうだろうか。たしかに、他人の心のなかに関心をもたないでいても、無関心な時間が過ぎていくだけで、そのせいで不幸になることはないだろう。しかし、人間の魂にはゆがんで崩れたり、深く根をはる我執によって悪へと向かう傾向が強いために、よく注意していないとその傾向に引きずられてしまいかねないことは否定できない。その先にある種の不幸な事態が出現すると仮定すれば、アウレーリウスの断定にも一理あると見なしてよいだろう。
  彼は、人間の魂が自己を損なう例をいくつか挙げて、魂を裸にしている。その例として、他人への嫌悪感をいだくこと、他人に対して暴力的なふるまいをすること、快楽や苦痛に打ち負かされること、仮面をかぶって不正直な発言や行動をすること、目的意識をもたず、でたらめなことをして過ごすことなどが挙げられている(27頁参照)。こうした傾向が過剰なために、個人においても、相互の人間関係においても、損傷が絶えない。それを少なくするためには、「魂の動きを注意深く見守る姿勢」が必要となるのだろう。
  第3章でも、「魂への注意」との関連でこう記されている。「突然ひとに『今君はなにを考えているのか』と尋ねられても、即座に正直にこれこれと答えることが出来るような、そんなことのみ考えるよう自分を習慣づけなくてはならない」(32頁)。自分がなにを考えているのかを意識しながら生きることはできそうでできない。今考えていることをひとにきちんと語れることも簡単ではない。心のなかでは、ひとには語れないようなこと、ひとに語れば赤面せざるをえないようなことが現れては去っていく。その流れに掉さして、考えを組織化することの大切さが強調されている。他人がなにを言い、なにをしているかに気をつかうのではなく、自分が思考のレヴェルでどの位置にあるかを配慮して生きることが望ましいということだ。
  アウレーリウスは、自己の魂にすくう悪と存在の有限性を意識しつつ、善を希求してこう書きとめた。

  あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。(48頁)

  隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮る者は、なんと多くの余暇を獲ることであろう。[他人の腹黒さに眼を注ぐのは善き人にふさわしいことではない。]目標に向ってまっしぐらに走り、わき見するな。(同頁)

  自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう。(116頁)

  周りのひとのことばかりを気にして、みんながしていることしかしないと、周りのペースに引きずられ、追いたてられ、忙しくなる反面、自分がすべきことが見失われ、目標も見えなくなる。アウレーリウスが自己に向ける批判は、多忙な生活に翻弄されるわれわれ現代人にも向けられている。

  アウレーリウスの考え方の特色や、彼の生涯とその時代、本の歴史的背景などについて幅広く知りたいと思うひとには荻野弘之の『マルクス・アウレリウス『自省録』精神の城塞』(岩波書店、2009年)がおすすめである。「書物誕生 あたらしい古典入門」シリーズの一冊である。研究の蓄積が明快な文章に結実している好著である。荻野は、エピローグで、アウレーリウスの森羅万象につながりを見てとる卓見を引用している。「いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことを常に心に思い浮かべよ」(204頁)。

  ミシェル・フーコー、田村俶訳『性の歴史Ⅲ 自己への配慮』(新潮社、1987年)の第2章「自己の陶冶」では、アウレーリウスやセネカ、エピクテトスといったストア派の人物たちの特徴が「自己への配慮」という観点から詳細に記述されている。「自己への配慮」が個人的実践のみならず、社会的実践としても把握されている点に、この章の特徴がある。また、「自己への配慮」という主題は、医学的な実践とも関連づけて詳しく語られている。この本は、古代ギリシアからキリスト教社会にいたるまでの性の歴史を語る実に刺激的な歴史書であり、ぜひ熟読をすすめたい。

 
人物紹介

マルクス・アウレリウス・アントニヌス【Mārcus Aurēlius Antōnīnus】 [古代ギリシア・ローマ 121.4.26-180.3.17]

 
古代ローマの五賢帝の一人(在位161−180)。哲学者。ローマの名家に生まれる。父の早世(130頃)のため、初め祖父のもとで、次いで母のもとで育てられた。家庭教師に就いて修辞学、文法、哲学、数学などを修めたが、その中にはフロントなどと並んでユニウス・ルスティクスらストア派の哲学者が多く、その感化を受けることになった。
 著作として広く知られた『自省録』Ta eis heautonはギリシャ語で書かれ、12巻よりなっているが、長短さまざまな警句・断想を順不同に並べたものといってよい。元来、公表を意図した作品ではなく、生涯最後の10数年、遠征の陣中などで自身を慰めかつ励ますために書き継いだ〈内省の日記〉である。ストア哲学に基づく実践倫理思想を背景に、自らの良心の糾明がなされ、一般的な道徳・人生訓と並んで、神的な存在ないしは魂の内なる〈指導的部分(ト・ヘーゲモニコン)〉への従順、死の恐怖の克服などが繰り返し説かれる。また、エウリピデスなどギリシャ作家からの抜き書きも多数見られるが、ラテン文学にはいっさい触れていない。なお、この書のほか、師フロントとの往復書簡(ラテン語による)も伝存する。(山沢孝至)
”マルクス・アウレリウス・アントニヌス”, 世界文学大事典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.jkn21.com>, (参照 2013-09-26) より、一部抜粋

フーコー 【Michel Foucault】[1926~1984]

フランスの哲学者・歴史学者。構造主義の立場から思想や知の認識論的研究に大きな業績をあげた。著「狂気の歴史」「言葉と物」「性の歴史」など。
”フーコー【Michel Foucault】”, デジタル大辞泉, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.jkn21.com>, (参照 2013-09-26)

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