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古典の森を散策してみよう(8)―パスカルのパンセ―
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)

 天気予報で常に耳にする「ヘクトパスカル」は、気圧の原理を発見した物理学者パスカルの名前に由来している。ブレーズ・パスカル(1623~1662)は数学の才能にも恵まれ、16歳で「円錐曲線試論」を発表した。19歳で、税務監督官としての父親の大量の計算を助けるために歯車式計算機を発明した。これは、コンピューターが普及する20世紀後半まで使用された。晩年には、微分積分学への道を開く功績を残した。
 パスカルは、理系の分野でめざましい活躍をしたが、ふたつの別の顔も見せた。モラリスト(人間研究家)とキリスト者の顔である。彼は、社交界に出入りし、人間の活動の諸相を観察し記述する一方で、人々をキリスト教信仰に誘うための数々の断片を書き残した。それらは『パンセ』という名の一冊の書物にまとめられた。何ヶ国語にも翻訳され、今なお世界の各地で熱心に読まれ続けている。39歳で病死した。
 『パンセ』(前田陽一、由木 康訳、中公クラッシクス、2001年)は、全部で14章からなる。邦訳は、ⅠとⅡに分けて出版されている。1670年にパリで、未完の書として出版された。

就職活動中の大学生や悩みを抱えるすべての人へ贈る。パスカルの残した考えるヒント。

『死後、書類の中から見出された、宗教および他の主題に関するパスカル氏のパンセ』が正式の題名である。フランス語の「パンセ」という名詞には、考え、思想、着想などの意味が含まれる。この本の眼目である7章以降は信仰にかかわり、聖書に興味のない人や信仰から遠い人には読みづらいが、それ以前の人間学的な章には、一度読めば、生涯記憶に残るような断章が数多い。キーワードは、理性(筋道を立てて考える力)と情念(人間を衝動的な行動へと駆りたてる力)という対立する働きである。
 誰もがおそらくどこかで読んだり、耳にしたことのあるもっとも有名な断章347を引用してみよう。

 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。(248~249頁)

 「人間は考える葦である」。パスカルによれば、人間はもろく、みじめな、葦のように弱い存在である。しかし、人間はよく考えることによって、偉大な存在になることができる。考えることをしなければ、あるいは、よく考えなければ、卑小な存在にもなるということだ。「だから、よく考えることを努めよう」、そう言う背後で、パスカルは、しばしばよく考えずに行動する、愚かなことを考えてしまう、邪なことを思い描くといった人間に目を向けている。よく考えることは難しい。そのためには、自分の考えていることのレヴェルに注意を払い、吟味する必要がある。考えていることを考える醒めた姿勢が欠かせないのだ。ぼんやりと考えるくらいなら、いっそ考えないほうがましだということになりかねない。
 パスカルは、思考にともなうこうした二面性を意識し、断章365のおしまいでこう述べる。「考えとは、その本性からいって、なんと偉大で、その欠点からいって、なんと卑しいものだろう」(258頁)。よく考えるように努めればすばらしい、魅力的な存在になりうるが、よく考えることを怠ればみすぼらしい、あわれな存在にしかなれないということだ。思慮深さはふるまいを道徳的なものにする確率が高いが、浅慮はふるまいを非道徳的なものにしかねない。
 人間を短絡的な行動や衝動的なふるまいにつれていくのが情念の働きである。情念は、よく考え、先を読んで慎重に行動することを妨げる。情念は、人間を邪欲に憑かれた本能の生き物にする。断章104で彼は言う。「われわれの情念が、われわれに何ごとかをさせるときには、われわれは自分の義務を忘れてしまう」(86頁)。発作的に何かよからぬことをしでかすときには、こんなときにはこうすべきだという自己強制の意識が薄れてしまっているということだ。情念が優勢になると、よく考えれば決してしないことが、やすやすと行われてしまうのである。
 こうした相対立する傾向を注視したパスカルは、断章412で人間を戦争と関連づけて述べている。

 理性と情念とのあいだの人間の内戦。
 もし人間に、情念なしで、理性だけあったら。
 もし人間に、理性なしで、情念だけあったら。
 ところが、両方ともあるので、一方と戦わないかぎり、他方と平和を得ることができないので、戦いなしにはいられないのである。こうして人間は、常に分裂し、自分自身に反対している。(281頁)

 引き裂かれた人間のイメージである。パスカルの目には、人間はおのれの内部に理性と情念の内戦を抱えこみ、両者の間で分裂した存在と映る。しばしば外敵との戦争に明け暮れる人間の内部で、実はもうひとつの戦争が繰り広げられているのだ。この内戦においては、「こうすべきだ、こうしなければならない」という理性的な義務の意識が希薄になり、「~したい、~が欲しい」という情念的な欲望がむき出しになる。その露出が他者との戦争を招くこともある。人間は、内的にも、外的にも、まさに戦いなしには生きられないのである。
 パスカルは、人間の研究に取り組んだだけではない。望遠鏡と顕微鏡の視点を兼ね備えていたパスカルは、人間の外部と内部に、それぞれ無限に広がる宇宙を見いだしていた。理性と情念の間で引き裂かれ、内戦状態を生きる人間は、ふたつの世界(大きい無限と小さい無限=虚無)の間でも生きている。このヴィジョンは、断章72のなかで、鮮烈な言葉で表現されている。

 そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対しては立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がそのなかへ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである」(47頁)。


 ふたつの無限の間で生きる人間の不安定な位置が凝視されている。この断章は、「人間はどこからきて、どこにいくのだろう」という答えの出ない問いを突きつけてくる。中間的存在としての人間の定めなさを描いた章である。
 断章115では、パスカルの視線は内なる無限へと向かっている。平明な言葉で奥行きの広がる世界が描かれている。

 人間は一つの実体である。しかしもしそれを解剖すれば、いったいどうなるだろう。頭、心臓、胃、血管、おのおのの血管、血管のおのおのの部分、血液、血液のおのおのの液体。
 都市や田舎は、遠くからは一つの都市、一つの田舎である。しかし、近づくにつれて、それは家、木、葉、草、蟻、蟻の足、と無限に進む。これらすべてのものが、田舎という名のもとに包括されているのである。(92頁)

 クローズ・アップの手法だ。顕微鏡によって内部の無限を映し出す現代科学の手法が先取りされている。わずか数行に、「一即多、多即一」の真理が捉えられている。
 パスカルの残した断章の数々は、「考えるヒント」としてわれわれに贈られている。パスカルに共感して考えるにせよ、逆らって考えるにせよ、人間と自然の刺激的なヴィジョンを伝えるパスカルの言葉は今も魅力的である。

 野田又夫『パスカル』(岩波新書、1953年)は、世に出て久しいが、今でも古びていない。パスカルの生涯と時代背景、その文理両面での活躍や宗教論の細部を知るためには有益な一冊である。著者は青年期に断章347を初めて読んだときのことを振り返って、「大変切なく胸を突かれるように感じたのをいまも忘れない」(3-4頁)と述べている。その理由は、ただ一言こう書かれている。「それは『考える葦』という言葉の魅力であったろうか」(8頁)。

 吉永良正『『パンセ』数学的思考』(みすず書房、2005年)は、≪理想の教室≫第1回シリーズの一冊。『パンセ』に数学的な思考の展開を見る著者は、「考える葦」「永遠の沈黙」「人間の不釣り合い」「虚無と無」「賭け」といった断章を最新の宇宙論やフラクタル理論などと結びつけて興味深い考察を繰りひろげている。
 著者は、15歳の春にはじめて『パンセ』を読み、その後も5年、10年をおいては何度も読み返してきたという(104-107頁参照)。「パスカルが好きという人の多くは、専門家にかぎらず、だいたい一五歳から一八歳くらいのあいだに『パンセ』と出会っているようです。それよりも若すぎるともちろんですが、あまり年をとりすぎてから読んでも、一生、記憶に刻まれるような感動は得られにくいのかもしれません」(106頁)。読書にも旬の季節があるという説だ。同感である。知の旅が始まる思春期にパスカルを読む経験は、おそらく後々まで深い痕跡を残すことだろう。


 
人物紹介

ブレーズ・パスカル (Blaise Pascal) [1623-1662]

フランスの思想家、数学者、物理学者。数学的確実性を信じ、懐疑論に反対。のち宗教的回心を経てヤンセン主義に共鳴し、イエズス会による異端審問を批判した。思想的には現代実存主義の先駆とみなされる。数学では、円錐曲線論・確率論を発表、物理学では、流体(液体・気体)の圧力に関する法則「パスカルの原理」を発見した。主著「パンセ」の「人間は考える葦である」ということばは有名。
”パスカル”, 日本国語大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.jkn21.com>, (参照 2014-01-22)

野田又夫 (のだ-またお) [1910-2004]

昭和-平成時代の哲学者。
明治43年12月10日生まれ。京都帝大で田辺元、九鬼周造にまなぶ。昭和28年京大教授。のち関西学院大教授、甲南女子大教授などを歴任。デカルトを中心とする近代ヨーロッパ哲学を研究。平成16年4月22日死去。93歳。大阪出身。著作に「デカルトとその時代」「哲学の三つの伝統」など。
©Kodansha
”のだ-またお【野田又夫】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.jkn21.com>, (参照 2014-01-22)

吉永良正 (よしなが-よしまさ) [1953-]

大東文化大学助教授。専門は哲学。日本におけるサイエンス・ライターの草分け的存在であり、著作活動は数学、生命科学、宇宙論、複雑系など多岐にわたる。『数学・まだこんなことがわからない』で第七回講談社出版文化賞科学文化賞を受賞。最近の研究テーマは数学概念を介した哲学と数学の交渉/没交渉の歴史とその再解釈。著書に『ひらめきはどこから来るのか』(草思社)、『「複雑系」とは何か』(講談社)、『数学を愛した人たち』(東京出版)、『ふたつの鏡』(紀伊國屋書店)ほか。―本書奥付より

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