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日記を読む
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)


 洋の東西を問わず、これまで多種多様な日記が世に出ている。日本では、平安から鎌倉時代にかけて「日記文学」が花開いた。女性の手になるものがほとんどであった。『更級日記』、『蜻蛉日記』、『紫式部日記』などすぐれた作品が目にとまる。現代でも、武田百合子の『富士日記』、辻邦生の『パリ日記』、『福永武彦戦後日記』など、数多くの日記が読者を魅了している。『アミエルの日記』、『ゴンクールの日記』などは、翻訳で読むことができる。
他人の目に触れることを想定して書かれた日記もあれば、そうでない日記もある。子供に先立たれた親が、書き残された日記に修正を加えて本にする場合もあれば、子供が親の日記を公刊する場合もある。日記は、創作と異なり、しばしば書き手の肉声そのものであり、赤裸々な記述も含むがゆえに、読者ののぞき見心理を刺激するということもあるだろう。今回は、いくつかの日記を紹介しよう。

日記を読む

 H.G.O.ブレーク編、山口晃訳『ソロー日記 春』(彩流社、2013年)は、『森の生活』でよく知られるアメリカの作家ヘンリー・ソロー(1817~1862)が残した膨大な日記の一部である。「夏」「秋」「冬」編も刊行が予定されている。彼は、四季の自然の歩みと自身の精神状態を重ねながら、風景や動物、植物と心をこめて対話し、刻々と移行するその表情や微細な変化を書き記した。自然に包まれながら、神や人間、いのちについての思索の時間が実った。凝った表現はなく、簡潔で端正な文章が特徴である。「風景は魂の状態である」と述べたアミエルをはじめ、季節の感受を巧みに表現したジュリアン・グラック、国木田独歩、徳富蘆花などの文章には、自然との親密な交流の記述が見られる。ソローはその真骨頂といっていい。自然は、ソロー自身の内面を映す鏡にもなっている。
 この日記は、編者ブレークの着想によって、異なる年の同じ月日の記述ごとにまとめられている。春をほめ讃え、春と交歓し、春の贈与に感謝を捧げる文章をいくつか抜き出してみよう。自然と共に生きる喜びが率直に示されている。

 愛は自然のすべての頌歌の主題であり、鳥たちのさえずりは祝婚歌である。花々の結婚は低湿地にまだらの変化を与え、真珠とダイアモンドをかかえる房飾りで生け垣を作る。深い水の中や上空において、森、草地、大地の内部において、まさにこれがあらゆるもののなすべき営み、存在の条件である。(43頁)

 夜明け前。
 何という無限のそして疲れを知らない期待と布告で、オンドリたちは夜明けごとに案内役をつとめることか。これまで夜明けがなかったかのようだ。そして犬たちはあいかわらず吠え、地衣の葉状体は出てくる。だから自然はなかなか死なないのだ。(153頁)

 今日は昨日と何とちがっていることか。昨日はひんやりとし輝いている日であった。大地は雨ですっかり洗われ、強い北西風が私たちの春の海にかなりの高波を作り、風景に注目すべき生命と精神を与えていた。ところが今日は申し分なくおだやかで暖かく、湖の上でさざ波によって水面がかき乱されることはない。(167頁)

 鳥たちのさえずるあの春の朝がやってくるとたちまち、私は早起きの人になっている。自分の守り神によって目覚めさせられ、ふつうだと聴き取ることのできないメロディに気づく。とても静かで喜びに満ち期待感をいだいて夜明けを待っている自分に驚く。私は春と約束している。彼女は私を起こすために窓のところへ来る。そして私はふだんより一、二時間早く戸外へ出る。私が目覚めるのは特別な計らいによるのである。荒々しくではなく、幼児が目覚めさせられるように優しくである。実は私たちが二重に目覚めるとき、つまりふつうの夜の眠りからだけでなく、昼のまどろみからも目覚めるとき、私たちはふつうの生活という葉状体を突き破り、力強さとともに生き返るのである。(205頁)

 『アンネの日記 増補新訂版』(深町眞理子訳、文春文庫、2003年)は、ナチスの支配するドイツを逃れ、オランダの隠れ部屋に潜伏する緊迫した状況のなかで、少女アンネが書き続けた日常の観察と内省の記録である。原題は「隠れ家」である。『聖書』につぐ大ベストセラーとも言われるから、多くの人が少年期、青年期に一度は読んでいるかもしれない。ソローは広大な自然のなかを自由に歩きながらノートをとったが、ユダヤ出自のアンネ(1929-1945)は、8人のユダヤ人と隠れ住んだ家の一室で自分の思考や、家族、隣人の観察を文章にした。見つかれば殺されるという恐怖が支配していた。一歩も外に出られないアンネにとって、自然の風景は、窓枠によって狭く切りとられたものでしかなかった。
 彼女は、自分のためにだけ書き記した日記の他に、本にすることを意識して修正を加えた日記を残した。13歳から15歳までの日記である。アンネは密告によって逮捕され、最終的にドイツのベルゲン-ベルゼン収容所に送られ、チフスに罹って亡くなった。1947年に「短縮版」、1986年に「学術資料版」が出版され、本書は、後者を読みやすくしたものである。アンネ・フランク財団編『目で見る「アンネの日記」』(文春文庫、1988年)は、写真を通じて当時の状況や背景を明らかにしている。かつて映画化され、劇団民藝によって戯曲化されもした。
 1942年6月12日、アンネは日記に向かって「あなた」と呼びかけてこう記す。「あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話しできそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね」(14頁)。「あなた」という自己内部の対話者を得て、アンネの内省と問いかけの旅が始まる。1944年8月1日の最後の日記のしめくくりにはこう書かれている。「そしてなおも模索しつづけるのです。わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです、もしも……この世に生きているのがわたしひとりであったならば」(582頁)。2年あまりにわたって書かれた日記には、「心の底に埋もれているものを、洗いざらいさらけだしたい」(22頁)と望んだ少女の自己探究の軌跡が読みとれる。閉ざされた狭い空間のなかでの限定された人間関係に揺れ動く心の動きや、刻々と変わる戦争状況を知るなかでの一喜一憂も繊細に書きとめられている。
 1944年7月21日の日記で、アンネは、ユダヤ人の絶滅を企てたヒトラーの暗殺計画が失敗に終わったことに触れている。画家を志望していた青年ヒトラーは、政治活動家へと転進した。ミュンヘン一揆が失敗し、投獄されたヒトラーは、獄中で『わが闘争』をヘスらに口述筆記させ、反ユダヤ主義的な構想を練りあげていった。人種の違いや立場を認めない非寛容な思想は、やがてドイツの現実を支配した。ヒトラーは、1945年の4月に、敗戦を目前にして自殺した。作家を夢見ていたアンネが強制収容所で命を落としたのは、そのおよそ2ヶ月前である。収容所が英軍によって解放されたのは4月である。アンネは15歳という若さで戦争の犠牲になったが、日記は、彼女にかわって今も命脈を保っている。アンネは、1944年4月5日の日記にこう書き記していた。「わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!」(433-434頁)。
 『アンネ・フランクの記憶』(角川文庫、1998年)の著者小川洋子は、アンネから小説を書く動機を与えられたという。「わたしが一番最初に言葉で自分を表現したのは、日記だった。その方法を教えてくれたのが『アンネの日記』なのだ」(11頁)。この本は、アンネ・フランクの生と死の軌跡をたどる約1週間の旅の記録である。アムステルダムの隠れ家やフランクフルトの生家、アウシュヴィッツを訪れたときの心の動揺や思いが抑制された文体で描かれている。出かけるときの心情はこう書かれている。「特別に大事な古い友人、例えば長年文通を続けてきた才能豊かなペンフレンドの、若すぎる死を悼み、彼女のためにただ祈ろうと願うような思いで出発するのだ」(16頁)。『アンネの日記』を繰り返し読んで、最後の日記を読むときの心の気配はこう表現されている。「ここへたどり着くたび、わたしは続きが読みたくてたまらない気持に陥る。この日記はもう、決して先へ進むことはできないのだと気づく時、わたしは一人の人間が死ぬということの真の意味を、思い知らされる」(259頁)。アンネと向き合う作家の真摯な姿勢が伝わってくる本だ。
 池上彰『世界を変えた10冊の本』(文春文庫、2014年)では、『アンネの日記』がその一冊に選ばれている。池上は、この日記のなかに、ユダヤ人としての自覚に目覚めるまでの少女の成長の軌跡を見ている。池上はまた、この日記を国際政治の文脈のなかに位置づけている。おしまいで、イスラエルによって壁で包囲されたパレスチナに住み、恐怖に怯えて暮らす少女が、アンネのように日記を書いている光景が想像されている。

 多和田葉子『言葉と歩く日記』(岩波新書、2013年)は、22歳でドイツに移住し、その後、創作活動を続けている作家の日常観察日記である。出版を意図して書かれている。「日本語とドイツ語で小説を書きながらベルリンで生活し、よく旅に出る人間の頭の中を日記という鏡に映してみようと思いたった」(12頁)。この日記の主題は、タイトルに示されているように、言葉である。国であれ、言葉であれ、その外に出て初めて見えてくることがある。多和田は、広辞苑(第4版)や他社の辞書の「日本」に「わが国の国号」と説明されているのに気づいて「あれっ」と思う(64-65頁参照)。一人称の、内向きで、外部の視点を反映しない不十分な定義だからだ。多和田の定義は、「アジアの東端に位置する島国」(65頁)である。
 2ヶ国語で文章を書くことによって、それぞれの言語を相対化する視点が得られる。表現の特徴や、表現の仕方の差異なども意識するようになる。言葉を用いて生きることの意味も問われてくる。多和田は、興味深いことを述べている。「言語はわたしにとって体系ではなく、一種の『できごと』なのではないかと気づいた時、日記という形式がわたしにとっては言語について書き記すのにふさわしいのではないかと思った。自分の身に毎日どんなことが起こるか、予想できないし、操作もできない。誰に会うかは、相手が拒否しない限り、ある程度自分で決められるが、その人が何を言い出すかは予想できない。言葉は常に驚きなのだ」(64頁)。言語を体系として客観的に勉強することは大切である。しかし、言葉が驚きとして現れてくるような状況を見つめ、言葉が生きられる現実の多様な出来事に気を配ることも決して欠かせないのだという作家の信念がうかがえる。

 
人物紹介

ヘンリー・ソロー (Thoreau Henry David) [1817-1862]

アメリカのエッセイスト、思想家。7月12日、マサチューセッツ州コンコードに生まれる。ハーバード大学卒業時の演説「商業精神」で、週に1日のみ働き、「あとの6日は愛と魂の安息日として、自然の影響にひたり、自然の崇高な啓示を受けよ」と語り、一生この主旨に沿った生き方を試みようとした。家業の鉛筆製造事業のほか、教師、測量、大工仕事などに従事したが、定職につかず、コンコードに住む超絶主義者のエマソンや彼の周辺の人々と親交を結び、日々の観察と思索を膨大な量の日記として残した。
 作品には、兄のジョンと1839年に行ったボート旅行をモチーフにした随想と詩『コンコード川とメリマック川での1週間』(1849)と、ウォールデン池畔に小屋を建て、自然の啓示を受けて単純素朴に生きる実験を行った2年2か月の生活を、初夏から次の春までの1年分にまとめた『ウォールデン――森の生活』(1854)がある。ソローは具体的事物を細かく観察したが、事物を単に事実としてのみ見ずに、ウォールデン池について、「この池が一つの象徴として深く清純に創(つく)られていることを私は感謝している」「私が池について観察したことは、倫理においても真実である」と説くように、具体的事物のかなたに普遍性を読み取ろうとした。それが「自然の崇高な啓示を受ける」ことにほかならず、このためには、観(み)る行為が正確で純粋でなければならないと同時に、観察した事象について時間をかけて思索する必要があった。ソローは62年5月6日、44歳で死んだが、思索を十分練らないままに残された旅行記は、『メイン州の森』(1864)、『ケープコッド』(1865)、『カナダのヤンキー』(1866)の3冊にまとめられ、それぞれ死後刊行された。
 ソローはまた若いころから家族ぐるみで奴隷制に反対し、奴隷制を許す体制を批判して人頭税納付を拒み続け、1846年7月投獄された。1日で釈放されたが、このときの体験がのちに『市民としての反抗』としてまとめられた(1849)。個人の良心に基づく不服従を説き、「まったく支配しない政府が最上の政府である」と主張するこの書物は、のちにガンジーやキング牧師に愛読された。
[松山信直]
”ソロー(Henry David Thoreau)”, 日本大百科全書(ニッポニカ), ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.jkn21.com>, (参照 2014-02-24)

フランク アンネ(Anne Frank) [1929-1945]

正式名はアンネリース・マリー・フランクAnnelies Marie Frank。ドイツ生まれのユダヤ人少女。フランクフルト・アム・マインでユダヤ系実業家の娘として生まれ、1933年、ナチスの圧迫を逃れ、両親と共にオランダのアムステルダムのユダヤ人街に移住し、第二次大戦中、オランダがドイツ軍に占領され、ユダヤ人狩りが始まると、市の中心部にある西教会の裏手にあるプリンセン運河沿いの家(プリンセン・フラフト263番地)に隠れ住んだ。彼女の一家がドイツ占領軍に発見されて、ドイツに強制連行される日まで、彼女はこの隠れ家での経験(1942.6.12−44.8.1)をオランダ語で日記に綴った。
 彼女の一家は父親オットーを除き、下部ザクセンのベルゲン=ベルゼン強制収容所で殺された。死後、緊迫した隠れ家での生活と多感で知的な思春期の内的な葛藤(かつとう)や思索を記した彼女の日記が発見され、『隠れ家』Het achterhuis(46、邦題『アンネの日記』)として、父親の手により刊行され、大きな反響を呼び起こした。『アンネの日記』はドイツ語をはじめ世界各国語に訳され、また映画化、劇化され、ナチスのユダヤ人迫害に対する比類のない告発として全世界の人々に知られるに至った。前記のほか、子供向けに書かれた『まだ覚えていますか、物語とお伽(とぎ)話』Weet je nog? Verhalen en sprookjes(49)、『隠れ家の周囲の物語』Verhalen rondom het achterhuis(60)がある。
 1957年、アンネが生前希求した、よりよき世界の実現を目指す若人の協力を目的として、彼女の名前を冠したアンネ・フランク協会が設立され、国際的な会議が催されている。協会は第二次大戦の原因と背景を明らかにする多くの資料を彼女の隠れ家に収集し、公開している。この隠れ家はまたアンネ・フランク博物館とされ、多くの観光客が訪れるアムステルダムの名所となっている。
(栗原福也)
”フランク アンネ”, 世界文学大事典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.jkn21.com>, (参照 2014-02-24)

小川洋子 (おがわ-ようこ) [1962-]

昭和後期-平成時代の小説家。
昭和37年3月30日生まれ。川崎医大につとめ,昭和61年退職し結婚。63年デビュー作「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞。平成3年「妊娠カレンダー」で芥川賞。16年「博士の愛した数式」で読売文学賞,「ブラフマンの埋葬」で泉鏡花文学賞。18年「ミーナの行進」で谷崎潤一郎賞。25年「ことり」で芸術選奨文部科学大臣賞。同年坪内逍遥大賞。岡山県出身。早大卒。作品はほかに「完璧な病室」「アンジェリーナ」「密(ひそ)やかな結晶」「薬指の標本」など。
”おがわ-ようこ【小川洋子】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.jkn21.com>, (参照 2014-02-24)

多和田葉子 (たわだ-ようこ) [1960-]

平成時代の小説家。
昭和35年3月23日生まれ。ドイツの書籍輸出会社にはいり、昭和57年ハンブルクに赴任し、のち退社。現地にすみ、通訳、家庭教師のかたわら日本語とドイツ語で小説をかく。平成3年「かかとを失くして」で群像新人文学賞、5年「犬婿入り」で芥川賞。8年ドイツのシャミッソー文学賞。15年「容疑者の夜行列車」で伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞。21年坪内逍遥大賞。23年「尼僧とキューピッドの弓」で紫式部文学賞。同年「雪の練習生」で野間文芸賞。25年「雲をつかむ話」で読売文学賞(小説賞)、芸術選奨文部科学大臣賞。東京都出身。早大卒。著作はほかに「ヒナギクのお茶の場合」(泉鏡花文学賞)、「球形時間」(Bunkamura ドゥ マゴ文学賞)。
”たわだ-ようこ【多和田葉子】”, 日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.jkn21.com>, (参照 2014-02-24)

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