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歴史小説を読んでみよう―吉村昭の方法―

推薦文 :和田 渡 (経済学部 教授)

 歴史・時代小説といえば、定番は司馬遼太郎や池波正太郎、藤沢周平、山本周五郎といった作家の作品であった。近年では、歴史・時代小説の形式をとりながらも、従来の作品群とは描き方のまったく異なるタイプの、いわゆる「ニューウエーブ時代小説」が人気を得ている。畠中恵や和田竜がその代表だが、彼らは史実をベースにしながらも、映画や漫画の手法を用いてそれを大胆に加工したり、劇画化したりして、読者をおおいに楽しませようというサービス精神旺盛な時代もの娯楽作品を書いている。
 吉村昭(1927~2006)は、世代的に前者のグループに属しながらも、いずれとも一線を画している。彼は、歴史小説を書くにあたって、史実をなによりも重んじ、史料の収集と読解に最大限の注意を払った。「私と歴史小説」(『わたしの取材余話』河出書房新社、2010年所収)のなかでこう述べられている。「歴史小説の記録は、あたかも庭の飛び石のように点々と並んでいて、石と石の間の空間―記録のない部分を想像で埋める以外にない。まちがいなくこうであったはずだ、という確たる信念のもとにその空間を埋めるのだが、それはフィクション同様の創作で、その作業に戦史小説では味わえぬ自由な喜びをおぼえたのである」(227-228頁)。他方で彼は、歴史の舞台を踏査する過程で、各地の郷土史家の協力を得て、記録に残されていないと思われた石と石の間の庭土のなかにも石を発見することもあったと述べている(228頁参照)。

歴史小説を読んでみよう

  「冬の鷹」(『吉村昭歴史小説集成』第7巻、岩波書店、2009年所収)は、小説、戦史小説をへて、吉村が書いた初めての長編歴史小説である。ドイツの『解剖図表 Anatomische Tabellen』のオランダ語訳書『ターヘル・アナトミア』(1734年)の和訳に心血をそそいだ中津藩医前野良沢を主人公としている。共訳者の一人、杉田玄白は後年「蘭学事始」を書き、困難をきわめた翻訳について語った。その写本を読んだ福沢諭吉は、訳者らの勇気と情熱に感涙したという。
 中学、高校の社会科の教科書で、『解体新書』と真っ先にむすびつけられるのは杉田玄白である。しかし、和訳の中心人物は、乏しいながらもオランダ語の知識をもっていた良沢であり、玄白にはその知識がほとんどなかった。玄白の役割は、良沢の翻訳を傍らで支援し、医学の進歩のために出版への道筋をつけることにあった。出版された『解体新書』の訳者を記す箇所には良沢の名前がない。その名前は、オランダ通詞である吉雄耕牛(幸左衛門)による序文のなかで現われるのみである。背後に、いったいどのような事情があったのか。
 『ターヘル・アナトミア』の翻訳という一大事業に関心を抱いていた吉村は、その顚末を史料と想像にもとづいて「冬の鷹」という作品に仕上げた。出だしはこうだ。

 江戸の町々に、春の強い風が吹きつけていた。
 日本橋に通じる広い道を、中津藩医前野良沢は総髪を風になびかせながら歩いていた。
 風がおこると、乾いた土埃が馬糞をまじえてまきあがる。そのたびに両側につづく商家ののれんが音をたててはためいた。(3頁)


 良沢の行き先は、出島のオランダ商館長ヤン・クラウス一行が投宿する「長崎屋」である。オランダ語に強い関心をもっていた良沢は、ひとりで行くことに気おくれして、かねてから面識のあった小浜藩医玄白を誘う。玄白は、前年すでに、洋学をまなんでいた平賀源内に連れられてここを訪れていた。
 「長崎屋」で、オランダ大通詞西善三郎から、習得の至難さを聞かされた良沢は、かえって勉強の意志を強め、江戸のオランダ語研究者であった青木昆陽に師事する。良沢は、昆陽の書いた「和蘭文字略考」を一心に勉強し、筆写した。しかし、それでは納得のいかない良沢は、ついに長崎でオランダ語を学ぶ決意をするが、思うようにははかどらない。長崎遊学の終わりごろに、通詞から入手を勧められたのが『ターヘル・アナトミア』である。
 この小説のひとつのクライマックスは、1771年、玄白とその親友の中川淳庵(若狭小浜藩の漢医)、良沢が刑場で初めて人体の内部を肉眼で見る場面だ。3人は刑死した人間の「腑分け」を実見する機会を得るのである。彼らは、『ターヘル・アナトミア』に描かれた解剖図の正確さに驚き、感動をおぼえた。帰りがけに、玄白が熱意をこめて提案する。

 いかがでござろうか。このターヘル・アナトミアをわが国の言葉に翻訳してみようではありませぬか。もしもその一部でも翻訳することができ得ましたならば、人体の内部や外部のことがあきらかになり、医学の治療の上にはかり知れない益となります。オランダ語をわが国の言語に翻訳することは、むろん至難のわざにはちがいありませぬ。しかし、なんとかして通詞などの手もかりず、医家であるわれらの手で読解してみようではござらぬか。(64頁)


 こうして、良沢をリーダーにして、3人による翻訳という難事業が始まり、途中から桂川甫周(幕府の医官)が加わる。難渋きわまる作業が続いたが、1774年出版へとこぎつける。吉村が執筆にもっとも時間をついやしたという、良沢らの悪戦苦闘の描写が「冬の鷹」のハイライトである。玄白は、序文を翻訳の主導者である良沢に依頼するが、良沢は、オランダ語の研鑽は名をあげるためではないという理由で断り、訳者に名を連ねることにも同意しなかった。吉村は、それが表向きの理由にすぎなかったと見なす。誤訳の多い翻訳を刊行することを語学者としての良心が許さなかったというのが吉村の推測である。完全主義者の良沢と距離をとった玄白は、医学界への貢献の方を重視して出版を急いだ。
 この出版を境にして、玄白はオランダ語研究からは遠ざかったが、蘭方医としての名声は高まる一方だった。多くの弟子も集まり、巨額の富も得た。他方で、良沢は人づきあいを避け、出版の後もオランダ語の研究にうちこんだ。貧しい生活が続き、晩年は借家を転々とし、次女の嫁ぎ先に引きとられて八十一歳で寂しい死を迎えた。「通夜にも葬儀にも焼香客はほとんどなかった」(181頁)。他方、玄白は八十五歳で大往生した。「通夜につぐ葬儀には江戸市中のみならず遠方からも多くの医家や患家の者たちが参集し、小浜藩の重臣らも姿を見せ、おびただしい香煙が邸の内外にみちた」(183頁)。
 吉村は、巻末作品余話「孤然とした生き方」のなかで、こう述べている。「良沢の生き方は、社会人として決して賢明とは思えない。かれは、必要以上に世俗的なものに背を向け、自分の殻の中にとじこもって頑固に生き、そして死んだ」(594頁)。「孤然という言葉があるが、かれはそれに徹することによって、自らの安息を得ていた節がある。が、そうしたかれの生き方が、偶然かも知れぬが、かれをとりまく環境をそれにふさわしいものに変化させる結果をあたえた」(595頁)。
 「冬の鷹」は、終始感情を排した客観的な筆致で書かれた作品でありながら、読み進むにつれて、作者の良沢への共感と敬愛の念がしみじみと心に伝わってくる。この作品はまた、牢死した平賀源内に関してもページを割き、良沢と自決に追いやられた高山彦九朗との交流の一端についても、江戸の時代状況とからめて重層的に描いている。

 笹沢信の『評伝 吉村昭』(白水社、2014年)は、吉村の生涯をたどった、全11章からなる力作である。興味深いエピソードがいくつも書かれているが、司馬の歴史小説との違いに触れた箇所が特に印象的だ。1999年、吉村は、第一回司馬遼太郎賞の受賞の打診を受けたが、逡巡の後、辞退している。笹沢は、その理由のひとつを末國善己の次の表現に求めている。「自分の好きな人物だけを取り上げ、そのマイナス部分には触れないまま英雄的な活躍のみを活写する列伝形式を好んだ司馬の作品が、読者を楽しませるためなら虚構を描くことも厭わなかった渋柿園の系譜の“歴史小説”の延長にあるならば、吉村は徹底して史料にこだわる“史伝”の伝統を継承する作家といえよう」(357頁)。「歴史小説に対する自分の方法への絶対的信頼が、受賞辞退につながった」(358頁)というのが、笹沢の推測である。  笹沢はまた、「作者が鳥のように高所にいて、中心人物を眺め下ろす方法」(358頁)としての「鳥瞰」に依拠する「司馬史観」と、「主人公に寄り添うように等身大の人物を描く」(358頁)吉村の手法との違いを明らかにしている。
 最終章では、吉村の覚悟の死にいたるまでの壮絶な経過が描かれている。死の床についた吉村は、延命を拒否して、自分で点滴の管をはずし、カテーテルを引き抜いたという(391頁参照)。その数時間後に死が訪れた。吉村という作家の強固な意志にもとづいた生の締めくくり方が重く心に残る。

 
人物紹介

吉村 昭 (よしむら-あきら) [1927−2006]

昭和後期-平成時代の小説家。
昭和2年5月1日生まれ。津村節子の夫。はじめは人間の生と死をみつめた短編がおおく,昭和41年「星への旅」で太宰治(だざい-おさむ)賞。同年の「戦艦武蔵」で一転して戦史小説に挑戦,「海の史劇」などを発表。48年菊池寛賞。また「ふぉん・しいほるとの娘」(54年吉川英治文学賞)以来,幕末・明治の歴史小説にのりだし,「桜田門外の変」「生麦事件」を執筆。60年「破獄」で芸術選奨,読売文学賞。徹底して史料をしらべ,史実をしてかたらしめる手法に定評があった。62年芸術院賞。芸術院会員。平成18年7月31日死去。79歳。東京出身。学習院大中退。作品はほかに「冷たい夏,熱い夏」「天狗争乱」など。
"よしむら-あきら【吉村昭】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2014-07-28)

司馬 遼太郎 (しば-りょうたろう) [1923−1996]

昭和後期-平成時代の小説家。
大正12年8月7日生まれ。産業経済新聞社勤務中の昭和35年「梟(ふくろう)の城」で直木賞。36年作家生活にはいり,変革期の人物を題材に,「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「翔(と)ぶが如く」などの歴史小説を多数発表した。紀行「街道をゆく」のほか,司馬史観とよばれる日本論,日本人論もおおい。平成5年文化勲章。芸術院会員。平成8年2月12日死去。72歳。大阪出身。大阪外国語学校(現大阪外大)卒。本名は福田定一。 【格言など】智はときに深く秘せられねばならない(「新史太閤記」)
"しば-りょうたろう【司馬遼太郎】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2014-07-28)

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