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「もたないこと」の選択―種田山頭火と尾崎放哉―

推薦文 :和田 渡 (経済学部 教授)

 年が重なるにつれて、もちものは多くなる。自活を始める大学生の部屋は、最初は空っぽでも、すぐにものがあふれ出す。ものが占拠した部屋で、やがて座る場所しかなくなる。一度得たものを捨てられないひともいれば、家に入りきれなくなったものを収めるための部屋を外に求めるひともいる。家の周りにものを積み重ねるひともいる。ものとのつき合いはずっと続く。
 とはいえ、ものを求め続ける生活には限りがあり、もち主はやがていなくなる。ものは消えずに残る。残された家族や友人はものの始末に困りはてる。かくして、高齢化がすすむ今日の日本では、親の残したものの経済効果や流通について語る経済学者があらわれ、雑誌では遺品の整理に関する特集も組まれるようになった。
 ものへの執着を断ちがたいひとは数限りない。しかし、なかにはなんらかの事情で、もたざる生活を余儀なくされるひともいれば、ものとのかかわりを最小限にとどめる道を選ぶひともいる。紆余曲折を経て、もつことのきわめて少ない生活に入ったのが種田山頭火(1882~1940)と尾崎放哉(1885~1926)というふたりの俳人である。ふたりは、もつことを断念し、もつことに急かされる生活のなかでは出会えないものに出会った。

放哉「咳をしても一人」、山頭火「分け入っても分け入っても青い山」

ふたりはまた、身ひとつの生活のなかで、おのれの心と身体をひたすらに凝視し、同時に、自然に包まれて動く心と身体のありさまを俳句にとどめた。書き残された句が今もそこかしこで読みつがれている。

 種田山頭火『山頭火随筆集』(講談社文芸文庫、2002年)には、俳句、随筆と「行乞記抄」がおさめられている。行乞とは、乞食を行ずるという一種の修行のことである。種田は山口県生まれ。その生涯は苦難の連続だった。9歳の時、母親が自宅の井戸に身を投げて亡くなり、その水死体を見た種田には終生トラウマが残る。19歳までに弟と姉を失っている。26歳で結婚し、酒造業に専念するも、32歳の時に酒蔵の酒が腐敗し経営的な危機に陥る。翌年、種田家は破産し、家族は熊本に移り住む。37歳で離婚。41歳で禅門に入り、翌年熊本県の観音堂の堂守となり、翌々年から一鉢一笠の行乞放浪の旅にでる。日本の各地を托鉢しながら、ひたすら歩く日々を過ごす。1940年、自分が催した句会の席の隣室で酩酊していた種田は、心臓麻痺で誰にも看とられずなくなった。本人が望んでいた「ころり往生」であった。
 各地を行脚する旅のなかで生まれた自由律の句集が『草木塔』(1940年)である。扉には、「若うして死をいそぎたまへる母上の霊前に本書を供えまつる」とある。草や木を友にした種田の心境がつづられている。
 本随筆集には、出家以前と以後の句の一部がおさめられている。まず、出家以前の句をいくつかあげてみる。外界とともに揺れる心が詠われている。


   光と影ともつれて蝶々死んでをり (12頁)

   あてもなく踏み歩く草はみな枯れたり (同頁)

   水底いちにち光るものありて暮れけり (同頁)

   月夜の水を猫が来て飲む私も飲まう (14頁)


 次に、出家以後の句である。


   分け入つても分け入つても青い山 (16頁)

   炎天をいただいて乞ひ歩く (同頁)

   どうしようもないわたしが歩いてゐる (20頁)

   うしろすがたのしぐれてゆくか (23頁)

   けうもいちにち風をあるいてきた (24頁)

   風の中おのれを責めつつ歩く (32頁)

   たんぽぽちるやしきりにおもふ母のこと (36頁)

   もりもりもりあがる雲へ歩む (37頁)


 外界の直接的な描写よりも、外界とともにあるおのれの心と身体に向けられた関心が前面に出た句が目立つ。種田の視線は、ときに自己の実存の底へと垂直に下降し、ときにおのれの一身につき刺さる。風のなかを歩くわが身を後ろから見つめる視線もある。いずれの句にも、種田の自意識が生々しく渦巻いている。しかし、それでいて人間的なぬくもりが消しがたく残っている。

 尾崎放哉『尾崎放哉随筆集』(講談社文芸文庫、2004年)は、尾崎の俳句と随筆、書簡を集めたものである。尾崎は鳥取県生まれ。旧制中学時代から句作を始め、荻原井泉水の「層雲」に自由律俳句を発表した。19歳のとき、夏目漱石から1年間、英語を習っている。21歳で酒の味を知り、酒に溺れるようになる。26歳で馨と結婚。38歳のとき、禁酒の誓約を守れず、失職。その後、妻と別れ、西田天香が主宰していた京都の一燈園に入る。托鉢奉仕活動は体力がもたず、いくつかの寺の寺男になる。41歳、咽喉結核で亡くなった。
 村上護は、「解説」でこう述べている。「酒さえ飲まなければ、放哉は傑出した人物であった。けれどいつのころからか、酒の魔性に負けて一生を棒に振ったわけだ。そう思う一方、俗世の栄達を捨てた代償として得たものがあったのではなかろうか。(中略)彼は極北に生きた人間として、常人には見えないものを見、聞こえない音を聞き、その世界をことばによって表現した。その表現世界こそが彼の真骨頂である」(207頁)。とりわけ、結核になって自分の近い死を意識してからの俳句が鋭い光を放っている。
 本随筆集には、定型俳句時代と、自由律時代の俳句がおさめられている。後者のなかからいくつかあげてみる。


   静かなるかげを動かし客に茶をつぐ (24頁)

   一日物云はず蝶の影さす (24頁)

   たつた一人になり切つて夕空 (25頁)

   わがからだ焚火にうらおもてあぶる (27頁)

   こんなよい月を一人で見て寝る (27頁)

   うつろの心に眼が二つあいてゐる (31頁)

   淋しいからだから爪がのび出す (31頁)

   久し振りの雨の雨だれの音 (35頁)

   咳をしても一人 (36頁)

   一つの湯呑を置いてむせてゐる (39頁)

   春の山のうしろから烟が出だした (39頁)


 尾崎にとって、俳句は詩と同時に宗教であった。自分の人格の向上が俳句の進歩につながるとも考えた。そのためには自己の修養につとめなければと思いつめた。余分なものを捨てきった先に残るのが俳句だった。月を眺め、雨だれの音に耳をすましながらも、その状態に没入できず、ただちに感覚を反転させて自己を見つめずにはいられない尾崎の俳句には、しんとした孤独感がただよう。ひとりきりの自分の静けさが、蝶の影や、夕空、月、雨音、咳などによってきわだたされている。一瞬の光と音が心の沈黙に深い影を落としてもいる。自分に厳しくあろうとした人間の心に空や咳が反響して、冷え冷えとした俳句に結晶している。

 村上護『山頭火 名句鑑賞』(春陽堂、2007年)は、種田の俳句の妙味を味わいながら、その生涯を日記や手紙からの引用を交えて語ったものである。「漂泊流転」「再びの行乞」「雑草の其中庵」「旅と草庵」「銃後の市井人」「終焉の松山」「出家以前」からなる。
 村上は、種田が残した日記のことば「自己を自然の一部として観ると共に自然を自己のひろがりとして観る」を引用して、「自己と自然を一体化しようとする態度には一貫したものがあった」としるしている(5頁参照)。村上はまた、「分け入つても分け入つても青い山」という俳句の背景に、禅語として知られる「遠山無限碧層々」を推測し、この句において山と心の無限が二重写しにされている点が肝だとも述べている(6頁参照)。
 「あとがき」の後につけられた「山頭火の生涯と放浪地図」には、種田がいつ、どの場所を、どの方向に歩いたかが図示されている。種田は、「おくの細道」を芭蕉とは逆向きに歩いた。この地図には、途上で詠まれた句のいくつかと年表が加えてある。歩行と生存に必要な最低限のものだけしかもたず、生と死のはざまにあって、自己と自然を一体化する開かれた俳句に賭けた種田の生涯は、不要なものに囲まれて窮屈に生きる人間に一撃をくらわせる。

 金子兜太 村上護『一休・山頭火 定住と漂泊』(本阿弥書店、2013年)は、一休に詳しい俳人金子と、種田や尾崎について多くの本を残している村上との何回かの対談を集めたものである。ⅠからⅣまでは一休と山頭火を比較する対談だが、Ⅴの「山頭火と放哉―人はなぜ放浪の俳人に魅せられるのか」では、金子と村上がふたりの俳人との出会いや、両者の俳句の特徴などについて自由に語り合っている。村上は、山頭火の俳句を漢訳し出版した中国人の発言を引いている。「『山頭火の俳句は言ってみれば点のような最小のものだけれども、その点が雲の中に入った途端に、一気に空の天になるくらい広がりを持つ俳句だ。スケールにおいては、もの凄い広い詩だ』」(160-161頁)。
 対談するふたりは、山頭火がまるごと体で勝負しているのに対して、放哉の方は体よりも頭で勝負しているという意見で一致している(168頁参照)。ふたりの体の動かし方や姿勢が俳句の姿に反映しているということだ。
 種田は苦く重い記憶をいだいてひたすら托鉢して歩きながら、自然のなかの自己と自然としての自己を見つめ続けた。種田は、おのれの冒した数々の愚行を顧みて自分をどうしようもない存在として受けとめ、ときにはその息苦しさから自らを否定の際まで追いつめながらも、歩き続けた。その困難で苦しい歩みがバネとなって、「もりもりもりあがる雲へ歩む」という、雲の動きと自分の歩行を壮大な自然空間のなかで交わらせる一句が生まれた。
 結核に冒され衰弱し、死期をさとった尾崎は、座ったままの姿勢で、体の声を聴き、心の闇をじっとのぞきこんだ。運動を制限された尾崎の精神は、終局に向かって凝縮し、研ぎ澄まされていった。その過程で「咳をしても一人」という一句が生まれた。村上はこう述べている。「放哉は、死ぬことさえ自分で演出しているんですよね。当時、結核といえば不治の病ですから死期もだいたいわかっていたところがあって、それに合わせて一種の断食をし、生命をコントロールしていく。そうして死ぬんです」(167頁)。先にあげたおしまいの俳句「春の山のうしろから烟が出だした」は、死に臨んで詠われたものである。尾崎は、その烟に自分の身の行く末を重ね合わせている。この句において、おのれの死へと集中した尾崎の心は、一転して自然のなかへと解放されている。

 
人物紹介

種田山頭火(たねだ-さんとうか) [1882−1940]

大正-昭和時代前期の俳人。
明治15年12月3日生まれ。山口県の大地主の長男。荻原井泉水(せいせんすい)に師事し,「層雲」に投句。大正14年熊本の報恩寺で出家,放浪の托鉢生活のなかで独特な自由律の俳句をつくる。のち山口県小郡(おごおり)に其中庵(ごちゅうあん)をむすぶが,遍歴をやめず昭和15年10月11日松山市一草庵で死去。59歳。早大中退。本名は正一。別号に田螺公。法名は耕畝。句集に「草木塔(そうもくとう)」など。 【格言など】歩くこと―自分の足で。作ること―自分の句を(「其中日記」) "たねだ-さんとうか【種田山頭火】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2014-11-04)

尾崎放哉(おざき-ほうさい) [1885−1926]

明治-大正時代の俳人。
明治18年1月20日生まれ。大正4年荻原井泉水の「層雲」に参加。東洋生命保険をへて,11年朝鮮火災海上保険の支配人となるが,酒がもとで退職。妻とわかれ,一灯園や各地の寺で生活。14年小豆島の西光寺奥ノ院南郷庵にはいり,独居無言の生活から口語調の自由律俳句を生んだ。大正15年4月7日同庵で死去。42歳。鳥取県出身。東京帝大卒。本名は秀雄。句集に「大空」。 【格言など】春の山のうしろから煙が出だした(最後の句) "おざき-ほうさい【尾崎放哉】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2014-11-04)

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