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夏目漱石の『こころ』を読む-欲望の結末-
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)

  夏目漱石の『こころ』(ワイド版岩波文庫、2002年)は、これまで、中、高校の国語の教科書にその一部が掲載されることが多かったため、10代で読んだひとは少なくないだろう。それぞれの経験と資質に応じて、受けとめかたは変わる。この本の記憶をながく心にとどめるひともいれば、一過性の読書経験で終わるひともいるだろう。

 

  『こころ』は「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の三部構成である。底知れぬ深さを秘めた作品であり、多種多様な読みが可能だが、話の軸は「先生」の自殺にいたる過程にある。「なぜ死ななければならなかったのか」、「先生」の遺書がその詳細を物語る。

「こころ」欲望の結末

 「上 先生と私」のなかで、「先生」は「私」にこう語る。「田舎者は都会のものより、かえって悪い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし、悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです」(74~75頁)。「私」は、人間がいざという時に豹変するということがなにを指すのかを底まで聞きたいと思い、「いざという間際」の意味をたずねる(76~78頁参照)。「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」(78頁)という答えが返ってくる。先生はこうも言う。「君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立っても二十年立っても忘れやしないんだから」(80頁)。その後に、決定的なことが語られる。「私は他(ひと)に欺むかれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺むかれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否や許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を子供の時から今日まで脊負わされている。おそらく死ぬまで脊負(しよ)わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れることが出来ないんだから。しかし私はまだ復讐をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現に遣っているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」(80~81頁)。「先生」の親戚不信は、人間不信にまで拡張されている。

 

 「下 先生と遺書」では、三角関係の顚末が描かれる。「先生」と、僧侶となるために勉学に励む親友Kが、下宿先の娘を好きになる。最初に切ない恋の気持ちを打ち明けたのはKである。そのときの「先生」の動揺が描かれる。腋の下から気味の悪い汗がにじみ始める。「Kはその間何時もの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けて行きます。私は苦しくって堪りませんでした。恐らくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上に判然(はっき)りした字で貼り付けられてあったろうと私は思うのです」(227頁)。先を越された「先生」は、どうすべきか思いあぐねて、心が定まらない。幾日かが過ぎて、運命的な一日がやってくる。恋情と勉学のはざまで右往左往している自分をどう思うかと、Kは「先生」に助言を求める。「Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打(ひとうち)で彼を倒す事が出来るだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです」(238頁)。「先生」は、かつてKが自分に言った言葉をKに返す。「『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』」(238頁)。それまで精進を人に説き、禁欲、摂欲を自らに課して歩んできたKの心に、この言葉が突き刺さる。恋情にふらついて、向上心を失っている自分を顧みて、Kは、「馬鹿だ」「僕は馬鹿だ」とつぶやく。「先生」は、その後に、「狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食い付くように」(241頁)、Kの日ごろの言動と現状との間の矛盾を問いただす。

 

 ふたりの間のやりとりが終わって程なくして、「先生」は、唐突に「奥さん、御嬢さんを私に下さい」(247頁)、「下さい、是非下さい」(同頁)、「私の妻として是非下さい」(同頁)と懇願する。よく考えてのことか念を押した後で、奥さんは「宜(よ)ござんす、差し上げましょう」(248頁)と言う。「先生」はこうしるす。「私の本来の運命は、これで定められたのだという観念が私の凡てを新たにしました」(249頁)。

 

  「先生」が、結婚の件についてKに言いそびれている間に、この件は、奥さんの口からKに伝わる。「『道理で妾(わたし)が話したら変な顔をしていましたよ。貴方もよくないじゃありませんか、平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは』」(253頁)。奥さんの語ったことが、Kの心に最後のとどめを刺す。2日余りして、Kは沈黙を保ったまま自殺する。

 

 大学を卒業して半年も経たないうちに、先生と御嬢さんは結婚する。「外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出度(めでたい)といわなければなりません。奥さんも御嬢さんも如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒い影が随(つ)いていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました」(263頁)。

 

  「先生」は、過去に、金に目がくらんだ親戚に裏切られて、人間不信に陥った過去をもつ。結婚後の「先生」の心には、Kを自殺にまで追い詰めて得た御嬢さんとの結婚が、自分の黒々としたエゴイズムに染め抜かれていることが棘となって消えない。かつての人間不信が、いまや自己不信へと変わる。「叔父に欺むかれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確(たしか)な気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです」(266頁)。

 

  それ以後、罪の意識から離れられない「先生」は、毎月Kの墓参りを欠かさない。死者の重みは消えず、それと相反的に、生活の意欲は失われていく。乃木大将の殉死が、「先生」に自殺のきっかけを与える。「先生」は、妻を残して旅立つ。

 

 漱石にとって、自己と他者は生涯のもっとも大きな問題であった。欲望も、エゴイズムも、両者の間で生まれ、育つ。ひとは、しばしばそれらに翻弄されて生きていかなければならない。それらに引きずられて、態度が豹変することも少なくない。「どう生きたらよいのか」、「生きる意味をどこに求めたらよいのか」、こうした問いにこだわらずに生きる人も多いだろう。しかし、それができずに長く罪の意識に苦しむひともいる。漱石は、この問題と最後まで執拗に格闘し続け、神経衰弱に苦しみ、胃をわずらい、吐血をくり返して亡くなった。

 

 漱石は、『こころ』完成後に、「私の個人主義」(『私の個人主義』講談社学術文庫、1978年)と題する講演のなかでこう述べた。「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります」(136頁)。この講演の主旨は、次の三点に要約されている。「第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事」(147頁)。漱石は、我執に拘束されて、他者否定に行き着く方向ではなく、自己の欲望を自制して、他者との共存を生きる方向を理想化した。この考え方は、やがて、「則天去私」という言葉に示されるように、自己そのものを否定する境地に結びついたと見なされている。


 出久根達郎の『七つの顔の漱石』(晶文社、2013年)は、漱石という人間の多面的な側面を詩人、俳人、装幀家、市井人など、七つに分類して語っている。意外な顔は、スポーツマンとしての漱石である。漱石は器械体操の名手であり、水泳、ボート、乗馬、庭球、野球も上手かったという(12頁参照)。見るほうでは、大の相撲好きで、午前九時から夕方の六時まで国技館で相撲を見続けた日もあったという(13頁参照)。

 

 教師としての漱石の教室での発言が面白い。本を読む覚悟をこう伝えたという。「『僕は一冊の本を、一回しか読まない。くり返し読んでいたら一生かかっても、たくさん読めない。諸君も本を読む時は、生涯に一度しか読めぬものと思って読め。しかし、この本はと思うものは、字引を見るように何度も読んで、覚えてしまうことだ』」(27頁)。

 

 漱石が影響力の強い教師であったことが、最後の授業を受けた岡本信二郎(後にドイツ哲学の研究者になる)についての記述に示される。「たった半年間しか漱石の謦咳(けいがい)に接しなかったが、その教えを徳として崇め、師の没後、毎年十二月九日の忌日には、たった一人で線香を立て、手向けの句や歌を作り、故人を偲んだ」(29頁)。多くの門下以外にも、漱石の魅力に取りつかれたひとは少なくなかったと思われるエピソードだ。

 

 漱石は二十九歳で愛媛県尋常中学校に赴任したが、校友会誌に「愚見数則」と題する贈る言葉を載せている。出久根は、漱石の教師観、教育観、人生観や人間観が直裁に示されたこの文章が漱石と漱石文学を論ずるさいの根本資料になると見なしている(32頁参照)。そのなかで、漱石は教育者に適さない自分が教師になったのは飯を食うために過ぎず、そんないい加減な教師でもやっていられるのは学生がお粗末すぎるからだと断じている。学生には、立派な生徒となって、私のような者には教師が務まらぬと悟らせるようになってほしいと激励している(32頁参照)。以下、漱石が思い出すがままに書きしるしている学生向けの指針のいくつかを引く。いずれも33頁からの引用である。「善人許(ばか)りと思ふ勿(なか)れ。腹の立つ事多し、悪人のみと定むる勿れ、心安き事なし」「人を観ば其肺肝を見よ」「事をなさんとならば、時と場合と相手と、此三者を見抜かざるべからず」「理想を高くせよ」「理想は見識より出づ、見識は学問より生ず」「人を屈せんと欲せば、先ず自ら屈せよ」。後年、作家となった漱石が描き続けた自他の関係をめぐる問題の根が、若き教師の心にはりだしている。

 
人物紹介

夏目漱石(なつめ-そうせき) [1867−1916]

明治-大正時代の小説家,英文学者。
慶応3年1月5日生まれ。松山中学、第五高等学校で英語教師をつとめ、明治33年文部省留学生としてイギリスに留学。36年母校東京帝大の講師となり「文学論」「十八世紀英文学論」を講じる。38年「ホトトギス」に発表した「吾輩は猫である」が好評を得、40年東京朝日新聞社に専属作家としてむかえられ、近代日本の知識人の自我をめぐる葛藤(かっとう)をえがいた作品をあらわす。正岡子規とまじわり、俳句や漢詩にしたしむ。門下には寺田寅彦、森田草平ら多数。大正5年12月9日死去。50歳。江戸出身。本名は金之助。作品に「坊つちやん」「草枕」「虞美人草(ぐびじんそう)」「三四郎」「それから」「門」「こゝろ」「明暗」など。

【格言など】則天去私(晩年のことば)
"なつめ-そうせき【夏目漱石】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com,

出久根達郎(でくね-たつろう) [1944−]

昭和後期-平成時代の小説家。
昭和19年3月31日生まれ。中学を卒業後、東京月島の古書店にすみこむ。昭和48年芳雅堂書店を開業。古書に関する話をかきはじめ、平成2年小説「無明の蝶」で注目される。4年「本のお口よごしですが」で講談社エッセイ賞、5年「佃島ふたり書房」で直木賞。茨城県出身。作品はほかに「古書彷徨」「猫の縁談」など。

"でくね-たつろう【出久根達郎】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com

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