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古典の森を散策してみよう(10)-ショーペンハウアーの魅力―
推薦文 : 図書館長 和田 渡 (経済学部 教授)

 ショーペンハウアー(1788~1860)はドイツのダンツィヒに生まれた。父は裕福な商人、十九歳年下の母は社交界の花形で、文才もあった。ふたりとも子供には関心を示さなかった。のちに、六歳の頃を振り返り、両親は散歩から帰って、深い絶望にうちひしがれている幼い息子に気づいたと語っている。十七歳のとき、父が不慮の死をとげる(自殺説もある)。残された巨額の財産のおかげで、ショーペンハウアーは一生食うに困らなかった。だが、経済的には恵まれていても、若きショーペンハウアーの心には、悪魔が人間の苦しむさまを見て楽しむために人間を創造したのだというシニカルな考えが育っていった。そうした考えが、後年の主著『意志と表象としての世界』(西尾幹二訳、中公クラシックス(全三冊)、2004年)に結実する。欲望がもたらす人生の悲惨と苦悩を描き、生の断念や諦念(ていねん)を説くこの書物は、二十一歳のニーチェの心を魅了した。しかし、ニーチェは、ショーペンハウアーの厭世(えんせい)哲学との長い格闘の末に、やがて生を肯定する思想を練りあげるにいたる。

心の世界が貧弱であれば、世界の美しさ豊かさは伝わらない。

 ショーペンハウアーは、人生は苦悩と受難の連続であるという認識を生涯捨てなかった。人間界を「四苦八苦」と見るブッダの考えにも共感した。とはいえ、他方で彼は、ブッダに倣って、苦しみに満ちた世界から解脱する道を模索した。芸術に生の救済の手がかりを求めもした。彼はまた、この苦々しい世界のなかで、どうすれば快適に生きることができるかを考えた。彼はこの世界に対してつねに斜に構えていたが、苦に染まらない生の実践について言及することもあったのである。


 ショーペンハウアー『幸福について―人生論』(橋本文夫訳、新潮文庫)には、彼の生に対する否定と肯定という両面の姿勢がよく出ている。前者については、まずお決まりのように、皮肉や諧謔(かいぎゃく)を交えて、人間に対する悲観的な見方が示される。こんな具合だ。「人間世界には困窮と苦痛が充ち満ちている。たまたま困窮と苦痛とをのがれた者があれば、至るところに退屈が待ち受けている。おまけに大抵は邪悪が人間世界の支配権を握り、愚昧(ぐまい)が大きな発言権をもっているとしたものだ。運命はむごく、人間はいじましい」(36頁)。辛らつな人間批判も見られる。「人間が一生休む暇もなく努力して幾多の危険、幾多の艱難(かんなん)を冒して追求するところのものは、そのほとんど全部が他人の思惑をよくすることを究極の目的とし、官職や称号や勲等はもとより、富も、さては学問、芸術までが、詮じつめれば、大体こうした目的のために追求され、他人から受ける尊敬を少しでも大きくすることが努力の究極の目的となっているという実状がわかってみれば、これこそ遺憾ながら人間の愚かさのほどを証明するだけのものだ」(69頁)。


 この本は1958年に出版され、その後いくども版を重ねている。原題はAphorismen zur Lebensweisheitであり、「賢く生きるための指針」とでも訳せる。これは、1851年に出版された随想集『筆のすさびと落穂拾い』の一部である。彼はこのアフォリズム(箴言)の冒頭にシャンフォール(1741~1794)の次の文章を置いている。「幸福は容易に得られるものではない。幸福をわれわれのうちに見いだすのは至難であり、他の場所に見いだすのは不可能である」(6頁)。ショーペンハウアーは、「緒言」では、それを受けて、幸福な生活が可能だと見なすのは迷妄にすぎないという主張する。他方で、幸福を願う大方のひとびとのために、自分の本音は脇において、一般的な意味での幸福について語ってみたいと述べている。とはいえ、ときに本音の方が漏れだす。彼の本心は、「われわれはこの世をみまかるときも、この世に生れて日の目を仰いだときと同じく、愚かで悪党であることだろう」(8頁)というヴォルテールの言葉に重ねられている。この本は、ショーペンハウアーの幸福などありえないとする本音と、読者におもねった幸福への一般的な助言という対立した側面がおり合わさってできている。


 幸福は、昔から哲学や宗教、文学のテーマである。アリストテレスは、正当にも、「人間は幸福を求める存在である」と述べた。しかし、「幸福な人生とはどのようなものか」「幸福であるとはどういうことか」「どうすれば幸福になれるのか」といった問題について、明快な解答を得ることはできない。ことさらに幸福の意味を問うのは、不幸に傾きやすい現実を見直すためでもある。これまで、セネカをはじめとして、モンテーニュ、デカルト、パスカル、ニーチェ、アランなどの多くの哲学者が、それぞれの方法で、人間のおちいりやすい不幸を視野におさめつつ、幸福の可能性をさぐっている。


 本書は、「人間の三つの根本規定」「人のあり方について」「人の有するものについて」「人の与える印象について」「訓話と金言」「年齢の差異について」の六章からなっている。ショーペンハウアーは、第一章を、「われわれのうちにある幸福の原因は、外界から生ずる幸福の原因より大きい」というメトロドロス(前330頃~前278頃)の言葉への共感から始めている。われわれの心の世界が貧弱であれば、世界の美しさ豊かさは伝わらない。ショーペンハウアーはこう言う。「どんな 栄耀栄華(えいようえいが) も、愚者の鈍い意識に映じたものであってみれば、セルヴァンテスが居心地よからぬ牢獄でドンキホーテを書いたときの意識には比すべくもなくみすぼらしい」(12頁)。彼の下す結論はこうだ。「幸福がわれわれのあり方すなわち個性によってはなはだしく左右されることが明らかである」(13頁)。しかし、多くのひとは、精神的な教養を積み、個性を磨くことよりも、「富を積むほうに千万倍の努力を献げている」(18頁)。「内面の富、精神の富」(30頁)は、軽視されているのである。それでは、幸福にはなれないということだ。


 第二章でも類似した主張が言い方を変えて述べられる。「善事につけ悪事につけ、特別な災難はともかくとして、自己の生涯にどういうことが起きるかということよりも、その起きたことをどう感ずるかということ、すなわち自己の感受力の性質と強度とが問題なのである」(21頁)。この世界では、慶事もあれば、予想外の悲劇によって穏やかな日常に亀裂が入ることもあるが、起きてしまったこと、とりかえしのつかないことに対してどのように受けとめるかが大切なのである。受けとめかた次第では、次に想定されるとりかえしのつかないことを先回りして回避することも可能になる。不快なことが起きないようにするために何が必要かについても考えるようになる。よいことが起きるための工夫をこらすようにもなる。その態度が幸福への道を開く。


 ショーペンハウアーによれば、ひとを幸福にするのは「心の朗らかさ」である。「朗らかさばかりはいわば幸福の正真正銘の実体、幸福の正貨であって、他のいっさいのものと同じような単なる 兌換券(だかんけん)ではない」(23頁)。それに対して、ひとを不幸にするのが「陰気」である。前者には、ものごとに対する積極的な見方、姿勢が伴い、後者はその逆である。「陰気な人間は十の計画のうち九までが成功しても、この九を喜ばずに、一の失敗に腹を立てる。陽気な人間は、これと逆の場合にも、一の成功でみずから慰め、自分を明朗な気分にする骨を心得ている」(27頁)。だが、そういうショーペンハウアー自身は、たいていは苦虫を噛みつぶしたような陰気な表情をしていた。


 写真で見るショーペンハウアーは、けっしてハンサムとはいえず、どちらかと言えば醜男に属するが、美が幸福につながると考えた。ないものねだりではあるが、ここには珍しく素直な美への憧憬が見てとれる。美は男女に関係なく幸福の重要な要素であり(29頁参照)、「美は事前に人の歓心を買う公開の推薦状である」(同頁)と述べている。美しい顔(気品の感じられる顔、印象的な瞳のひと、笑顔のさわやかなひと、精神的な香気がただようひと)は、おのずとひとを心地よくさせる。言うまでもないが、美は単に外面にかかわるものではない。美とは、先に述べた「内面の富、精神の富」(30頁)を豊かに育てたひとからにじみでるものにほかならない。ただし、ショーペンハウアーからそうした美が感じられたかどうかは定かではない。


 第五章のB「自分自身に対する態度について」のなかで、ショーペンハウアーは、充実した生涯を過ごすためには、なによりもまず「汝自身を知れ」というソクラテスの発言を心得る必要があると言う(161頁参照)。「自分が真に主として何よりもまず欲するものは何か、すなわち自己の幸福にとって最も本質的なものは何か、さらにこれに次いで第二位第三位を占めるものは何かということを知る必要がある」(同頁)。いずれもむずかしい課題だ。自分の真に求めるものや、進むべき方向がわかって生きているひとはまれだろう。現実には、さまざまな欲に翻弄され、道を踏み外し、迷い、うろたえて生きていかざるをえない。ひとは、自分の身体のすべてを鏡などの助けを借りずに直接に目で見ることはできない。同じように、自分の心の全体像も直視することなどできない。直視できないものが操る生の行方がわからないのも当然のことかもしれない。


 ショーペンハウアーは、体を例にあげて自己認識のむずかしさを説いている。「人は自分の体の重みを背負っていながら、他人の体を動かそうとする時とは違って、それを感じない。これと同様に人は自分の欠点や悪徳には気づかず、他人の欠点や悪徳ばかりに気がつく」(228頁)。自分の体の重みを、他人の体の重みを感じるようには感じられないということ、そこに自己存在の目に見えない淵が潜んでいることはたしかだ。しかし、直接的には見えない自己の姿を間接的に見えるようにしてくれるのが他人だと、ショーペンハウアーは言う。「誰にでも、自分のもつありとあらゆる悪徳・欠点・悪癖・嫌味のはっきりと見られる他人という鏡がある」(228頁)。他人の気に入らない言動を非難してすますのではなく、それを自分に映しだして反省の材料にすることができれば、見えていない自分の姿が見えてくるということだ。


 第六章は、世代の比較論である。年老いたショーペンハウアーが、幼年期や青年期を回顧しつつ、それぞれの時期の特徴を描きだしている。青年期に後ろ向きに生きなければならないひともいれば、年を重ねても前向きのひともいるが、未来を遠望する青年は、概して、未来に向けた活動に忙しいため、ひるがえって青年期を生きる意味を問うことは少ないだろう。それに対して、老年期に入った老人には、過ぎた青年期の特徴が見えてくる。その特徴について、彼はこう述べる。「精神能力の最大の活動と最高度の緊張とが見られるのは、疑いもなく青年期、遅くとも三十五歳までのことである」(276頁)。


 青年期と老年期の違いが面白く表現されている。「青年時代にはドアの呼鈴が鳴ると、楽しい気もちになったものだ。どうやら、来てくれたようだな、と思ったからだ。ところが後年になると、同じドアの呼鈴にも、私の感じはむしろ多少恐怖に似たものになった。さあ、来やがったぞ、と思ったからだ」(264頁)。同じ場面でも、年を重ねると、以前とは相反する受けとめ方をするようになるのが常らしい。彼はまた、人生を刺繍した布にたとえてこう述べている。「誰しも生涯の前半には刺繍した布の表を見せられるが、後半には裏を見せられる。裏はたいして美しくないが、糸の繫がりを見せてくれるから、表よりはためになる」266頁)。も(うひとつだけ彼の比較論を引用しよう。「青年期の立場から見ると、人生は無限に長い未来である。老年期の立場からは、きわめて短かった過去である。したがって人生は最初にはオペラグラスの対物レンズを目に当てたときの事物のように見えるが、最後には接眼レンズを当てたときのように見える」(268頁)。生の経過に伴う見方の逆転がたくみに表現されている。


 長く生きた老人は、まだ十分に生きていない青年が実感できないことを書けるようになる。青年はそれを読んで、「生きること」にどんな要素がふくまれているのかをあらかじめ学ぶことができる。かつては、尊敬の意味をこめて長老、老師などの語が用いられたが、近年は、老人という言葉に病人、被介護者、老いぼれといったネガティヴな響きが伴うようになった。老人の言葉に耳を傾ける機会も減りつつある。けれども、老人が社会にとってただの厄介者であってよいはずがない。ショーペンハウアーは老人を讃えてこう言う。「青年期にわかっているつもりになっていたことが、老年期には本当にわかってくる」(276頁)。老人の含蓄のある言葉と知恵に青年が学んでこそ、人間的に成長することができるのだ。


 ショーペンハウアーの皮肉たっぷりな幸福論を読んで興味を覚えたひとには、先に触れた『意志と表象としての世界』をおすすめする。出版当時は黙殺されたに等しい本だが、堅苦しいタイトルに似合わず刺激満載で、意識と無意識、身体、恋愛、生と性、衝動といった問題が縦横無尽に語られている。まだ十分に読みつくされたとはいえない、魅力的な書物である。ショーペンハウアー『存在と苦悩』(金森誠也編訳、白水社、2010年)は、主著からの抜粋を含むアンソロジーである。


 ショーペンハウアー全集(14巻と別巻)が白水社から出版されている。伝記や、その哲学について論じたものも何冊も出ている。エドゥアール・サンスの『ショーペンハウアー』(原田佳彦訳、クセジュ文庫、1994年)は格好の入門書だ。哲学、芸術、倫理の問題が主題的に論じられている。終章の「ショーペンハウアーの現在」では、ニーチェやフロイト、ジッド、サルトル、カミュなどとの思想的類縁性が取りあげられ、ショーペンハウアーの哲学史における位置づけと、現代への射程がともども語られている。この章の最後では、「人生は、われわれに課せられた厳格な授業であって、幸福な人生などというものはありえない」という、彼の本音を示す言葉が引用されている(157頁参照)。


 少し専門的になるが、ハウスケラーの『生の嘆き ショーペンハウアー倫理学入門』(峠尚武訳、法政大学出版局、2004年)もおすすめである。ショーペンハウアーが苦悩の経験をどのように言語化したのかを丹念に追跡して興味深い。

 
人物紹介

ショーペンハウアー 【Arthur Schopenhauer】

[1788〜1860]ドイツの哲学者。世界は自我の表象であり、その根底にはたらく盲目的な生存意志は絶えず満たされない欲望を追求するために人生は苦になると説き、この苦を免れるには意志否定によるほかはないと主張した。主著「意志と表象としての世界」。ショーペンハウエル。
"ショーペンハウアー 【Arthur Schopenhauer】", デジタル大辞典, (C)Shogakukan Inc. JapanKnowledge, http://japanknowledge.com,

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