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古典の森を散策してみよう(11)―『荘子』を読む―

推薦文 :和田 渡 (経済学部 教授)

 『荘子』の成立は、約2300年前の中国戦国時代中期にまでさかのぼる。当時は、殺し合いが繰り返される戦乱の世であり、ひとびとは不安や絶望の渦中にあった。荘子は、血なまぐさい争いが続く時代を見すえながら、その潮流に飲みこまれることのない考え方、生き方をひとびとに示そうとした。
 この本は荘子(荘周)自身が書いたもの(内篇7篇)と、弟子が書き継いだもの(外編15篇、雑編11篇)からなるが、それらの截然とした区別をそのまま受けいれている研究者は少ない。内篇には、「逍遥遊篇」「斉物論篇」、外篇には、「天地篇」「天運篇」、雑篇には、「則陽篇」「寓言篇」などが含まれている。
  『荘子 内篇』(福永光司、興膳宏訳、筑摩書房、2013年)は、訓読、原文、現代語訳、注によって構成されている。現代語訳は、一般の読者を想定してわかりやすく和訳されているので、荘子の思想に親しみやすい。訳者の福永によれば、荘子は常識的な思考や世俗的な価値観に縛られて窮屈に生きる人間を嘆き、哀れみ、笑いとばした諧謔の哲学者であり、天成の大ユーモリストである(282頁参照)。

古代中国戦国時代の思想家「荘子」を読む

福永は言う。「荘子ほど人間の醜さと愚かさと卑屈さと驕慢さを知り抜いている思想家は稀であろう。荘子ほど人間社会の暗さと険しさ、傷つきやすさと覆り易さを味わいつくしている哲人は稀であろう。(中略)彼は周到にかつ冷静に人間を凝視する。彼は精確にかつ切実に人間の社会を観察する。そして、その凝視と観察の底に彼が捉えた現実は、身動きならず縛りあげられた人間の”生”のみじめさであった。彼の超越がそこから始まるのである」(同頁)。福永によれば、超越とは、絶対に自由な精神の世界の帝王となること、何ものにもとらわれない自由な自己の生活を生きることである(283頁参照)。浅慮や偏見、対立や闘争にがんじがらめになってしまうと、人間の世界は窮屈で息苦しいものになる。その世界を超越し、卑小な区別をとっぱらって、自由自在な境地に遊ぶことこそが、荘子の求めたものであった。パスカルは、人間のみじめさ、悲惨さを超えた世界を宗教のなかに見出したが、荘子は社会のなかで、社会を超えることをめざした。
 『荘子』の最大の特色は、具体例や寓話が豊富な点である。それらは、しばしば笑いを誘い、心のこりを和らげる効果をもっている。天と自然、人と生き物が等しく視野に納められている。そのなかで、人間に関する語りをみてみよう。たとえば、世間のひとびとの暮らしぶりはこんな調子で描かれる。「[世人]は寝ている間も魂は世事に交わってうなされ、目が覚めれば身は世間を向いて落ちつかない。人づきあいでもんちゃくを起こし、日々争いに心をすり減らす」(46頁)。次に、世人の心変わりする様が描かれる。今日でも変わらない風景だ。「喜んだり怒ったり、悲しんだり楽しんだり、恐れたり嘆いたり、心変わりしたり意地を張ったり、科作ったりはめをはずしたり、あけすけにしたりもったいぶったりと、さながら楽音が竹管からとびだし、蒸れた湿気から茸が出るようなありさまで、それが昼となく夜となく目前に生滅しながら、しかも何によって生じるのかは分からない。よそう、よそう。明け暮れこうしたことが起こるのは、何かのゆえあって生じていることなのだから」(47頁)。荘子は、ひとが自分の心の動きの主ではなく、その動きはなんらかの縁によって生じているにすぎないと見ている。荘子はこう続ける。「こうした心のありかたを除いて自分というものはなく、自分がなければこうした心のありかたも現われようがない。これが真実に近いところだ。だが何がそうさせているのかは分からない。真の主宰者が存在するようではあるが、その形跡はついにつかめない。そのはたらきが実在することは確かだが、その実体を見きわめることはできず、作用はあっても姿はないのだ」(47~48頁)。私の主体性を疑わずに、「私は私である」と信じこんで生きているひとに通じにくい主体観が語られている。
 次にあげる薄影と影の会話も、主体とはなにかを問うている。「罔両(影の周囲にできる薄い影)が影にたずねた。『君はさっき歩いていたのに、今は立ち止まっている。さっきは坐っていたのに、今は立ちあがっている。なんて節操のないことなんだ』。/影がいった。『ぼくは依存するもの(形)があってそうしているんだろうか。ぼくの依存するものも、また別に依存するものがあってそうしているんだろうか。ぼくはあの蛇がうろこに頼り、ヒグラシが羽に頼るように、何かをあてにしているんだろうか。どうしてそうなんだろう。またどうしてそうでないんだろう』」(90頁)。なにものも自分以外のものに依存しなくては存在しえないことを巧みに表現している。
 「人間世篇第四」には、ひとの交わりや徳、忠義について述べたものが多い。荘子が見た酒の席の光景は、今と変わらない。「礼法にのっとって酒を飲んでいる者は、始めこそ優雅にしていても、きまって最後はだらしなくなり、度が過ぎればらんちき騒ぎになってしまいます。一事が万事で、始めは上品でも、きまって最後には下品になるのです。だから始めをないがしろにしていると、最後にはとんでもないことになってしまいます」(135頁)。「りっぱなことは長い時間をかけて成就され、悪いことはしでかした後で改めるのはむつかしいものです。だから慎重でなければなりません」(136頁)。
 「大宗師篇第六」の「一」の主題は、凡人の対極に位置する「真人」である。「真人」とは、天とともに自然に生き、人については、既得の知によって未知の事象を探ろうとする人のことである(200頁参照)。「いにしえの真人は逆境にも逆らわず、栄達にもおごらず、思慮をめぐらしてことを謀ろうともしなかった。こうした人は、失敗しても後悔せず、成功しても得意がらない」(同頁)。真人は、「自己の存在の始めを忘れぬと同時に、その終わりについても詮索はせず、与えられた生を喜んで受け入れ、すべての執着を忘れてそれを自然に返す」(201頁)。「こうした人は、心は一切を忘れ、表情は静かで、額は高く秀でて、ひきしまった秋の空気のような、あるいはやわらかな春の日ざしのような雰囲気があり、感情の動きは四季の推移のごとく自然で、外界の事象にしなやかに対応しつつ、極まるところを知らない」(同頁)。「天の立場と人の立場が混然と融和した存在」(203頁)、それが荘子の言う「真人」である。
 同篇の「三」で、荘子の思想の根幹である「道」について語られる。「いったい道とは、確かに実在するものだが、何のはたらきも形もなく、受けとることはできても人に伝えることはできず、体得はできても見ることはできない。道自体の内に存在の根源を有し、天地の開ける前から、確乎として存在する。鬼神や上帝に霊妙さをもたらし、天と地を生み出した。宇宙の極みにあっても高いとはいえず、世界の深淵にあっても深いとはいえない。天地に先んじて生まれながら久しいとはいえず、上古の昔からずっとありながら古びてはいない」(212~213頁)。ものの成り立ち、動物や人間、生物の来歴を思いおこすとき、「万物の起源」に思いをこらすこともあれば、現にあるもの、生きてあるものを見つめるとき、それらをそうあらしめているものの存在を考えることもある。しかし、思考を重ねても、形あるものに到達できることはない。形あるものの歴史を支えている、形の見えないはたらきが荘子の言う「道」である。

  ジャン・フランソワ・ビルテールの『荘子に学ぶ』(亀節子訳、みすず書房、2011年)は、荘子の思想を論じた書物である。ビルテールは1939年にスイスのバーゼルで生まれた。青年時代に当地で開催された「書」の展覧会で衝撃を受け、中国学の研究者への道を歩み始めた。1987年から1999年まで、ジュネーヴ大学で中国学を教えた。
 本書は、2000年の秋にコレージュ・ド・フランスで4回にわたって行なわれた講義をまとめたものである。「物のはたらき」「活動のレジーム」「混沌の弁明」「主観性のパラダイム」の四講からなる。ビルテールは、第一講のはじめの方で、『荘子』にはこれまであまりにも多くの注解や、評言、説明がなされてきているが、それらが不明瞭な点を指摘し、テキストそのものの注意深い研究がおろそかになっていると述べている(6頁参照)。彼は、『荘子』の簡略化、曲解、我田引水の歴史に抗し、テキストに帰ろうとしている。それは、テキストのなかに、荘子が自分に固有の経験をどのように記述しているかを読みこむことである。彼が導きの糸としているのは、「ひとはどこかで説明の作業から、純然たる記述のそれに移らねばならぬ」(10頁)というウィトゲンシュタインのことばである。ビルテールは、「記述」するために必要なことをふたつ指摘している。ひとつは、眼前に、あるいは眼中にある物を注意深く調べるには、われわれの習慣となった活動を一時停止しなければならないということであり、もうひとつは、われわれが知覚することを正確な仕方で表現することである(11頁参照)。
 ビルテールの講義のキーワードは、「経験」である。荘子自身の経験の記述と、自分自身のそれとを重ね合わせて、できる限り経験そのものに迫ることがもっとも重視されている。多種多様な経験の細部の出来事をくまなく見通すことはむずかしい。できなかったことができるようになるときに、なにが起こっているのか。ことばと沈黙の間には何が生起しているのか。見えているものが見えなくなったときに、見えていたものはどうなったのか。経験の多面的な変成を、記述によっては汲みつくすことはできない。経験の不思議に驚いたひとだけが、その試みを何度でもくり返して、一歩一歩経験の諸相に迫るしか方法はない。
 第四講で、ビルテールは荘子という人間に、「われわれが結んでいる、自身との、他者との、そして物との関係を、ばらばらにしては根っこから作りかえる」(162頁)才能を認めている。ビルテールによれば、この作り変えは、個人にとっても、共同体や社会にとってもきわめて重要である。われわれの結んでいる諸関係の解体と再定義を要請するこの作業は、われわれが慣れ親しんで疑わないパラダイムの転換を促して、経験を見つめなおすことを迫ることになるからである。
 第四講はこう締めくくられる。「もしわれわれが、月並みな解釈と通念を退けたうえで、きちんと時間を割いて『荘子』を注意深く読むならば、荘子は、洞察力に富んだ正確で深淵な哲学者であると同時に、驚くべき、底知れない、かけがえのない著者であることが明らかになるのであると」(168頁)。『荘子』は自説を述べるだけの道徳論ではなく、具体的な事例が豊富な「小説」からなる。それゆえに、知性よりも、想像力や読み手の経験とそれを解読する自己反省的な力量が試される。その力が増せば、読み方も変わってくる。生涯つきあうことのできる本になるだろう。

  玄侑宗久の『荘子と遊ぶ 禅的思考の源流へ』(筑摩書房、2010年)は、荘子をかけがえのないひとと見なしている著者が、『荘子』の魅力を語ろうとしたものである。「あとがき」で著者はこう述べる。「本当は、いちばん好きな『荘子』については、書くまいとも思っていた。良寛がどこへ行くにも二冊組の『荘子』を携え、また芭蕉も明らかに『荘子』の影響を感じさせながら、どこにもはっきりとは荘子のことを書いていない。そのような内密の同伴者として、『荘子』だけは置いておこうかと思ったのである」(259頁)。しかし、何度読んでも面白く、笑える小説という側面をもつ『荘子』のすばらしさをひとに伝えずにはいられなくなったようである。たしかに、『荘子』には分かりにくい箇所が随所にあり、それを書いた荘子自身も謎めいた人物として映るが、それだけに一層、『荘子』はわれわれを魅了してやまない。
 序章で著者はこう述べる。「どうも『荘子』を読めば読むほど分からなくなる」(15頁)。おそらく、『荘子』が分かりにくいのは、われわれのありふれた日常の経験を、荘子と同じような仕方で見つめることができていないからである。荘子のまなざしは、経験の変性の過程に届いている。凡人はそれに気づかない。そのギャップが、『荘子』の理解を妨げる。『荘子』が少しでも分かるためには、テキストの字面を追うだけでなく、それを書き残した荘子という人間を生き生きと思い描いてみなければならない。著者は、『荘子』を孔子や老子とむすびつけて理解する司馬遷に逆らって、こう宣言する。「あらゆる枠組みを否定する『無方の人』として、荘子を見つめ直してみたいのである」(16頁)。
 第一章の冒頭で、著者はこの本の狙いが、「『荘子』という書物を通してできるかぎり生身の荘子に近づくこと」(19頁)にあるとしている。ビルテールは、テキストそのものに迫り、テキストを通じて荘子の経験を記述しようとしたが、著者は荘子がどんなふうに生きた人物かを想像しようと考えている。
 この本のもっとも興味深い点は、副題に示されているように、荘子の思考と禅的な思考の類似性を強調していることである。たとえば、荘子の「万物斉同」の世界が、禅の「絶対平等」観と重ねあわされている。著者はまた、荘子も禅も、「没主観」による「和」を目指していると言う。その説明はこうだ。「『没主観』というのは、きっと『我』が宇宙大に広がって自然と『和』した状態なんでしょうね。万物が斉しく同じで、釣り合っているという見方も、主観がなくなるから可能なんですね」(26頁)。
 荘子が孔子に語らせたという「心斎」についての話は、思考のパラダイム転換を迫るものだ。「『心のはたらきを統一し、まずは耳で聞かないで心で聞きなさい。それができたら今度は心で聞かずに『気』によって聞きなさい。耳はただ聞くだけだし、心は勝手なイメージを作ってしまうけれど、『気』というのは空虚だからどんなものでも自在に受け容れることができる。道というのはこの虚だけに宿るのだよ。虚になることが心斎なんだ』」(36頁)。「我」を捨てて、「気」につながる境地が示されている。

  日本では、荘子の考え方に魅された僧侶や俳人、作家、科学者は数知れない。『荘子』を生涯の友としたひとも少なくない。いくつになっても読める本だということだろう。

 
人物紹介

荘子/荘周 【そう‐し/そう-しゅう】

中国、戦国時代の思想家。道家思想の中心人物。名は周。字(あざな)は子休。南華真人と称される。宋の蒙(河南省商邱)の人。孟子と同じ紀元前四世紀後半の人で、儒教の人為的礼教を否定し、自然に帰ることを主張した。世に老子と合わせて老荘という。著に「荘子」がある。生没年未詳。
" そう‐し[サウ:]【荘子】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2015-08-19)

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