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植物と土と水 ― 未知の世界へ ―

推薦文 :和田 渡 (経済学部 教授)

 植物は、せわしなく動き回っているひとを、じっと静かに見つめている。忙しいひとは、立ちどまって、道端の草に目を向けたり、頭上のイチョウやケヤキの樹を見あげて植物の時間に思いをはせたりはしない。あちこちを移動しているとき、その運動を支えている地面や、その上を歩くひとのことを考えてみることもめったにないだろう。植物園や庭や公園といった特別の場所以外では、植物も土も水もあまりひとの注意を引かないように思える。

 植物に対するわれわれの蒙をひらく画期的な本が出版された。ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラの『植物は<知性>をもっている 20の感覚で思考する生命システム』(久保耕司訳、NHK出版、2015年)だ。原題は、VERDE BRILLANTE: Sensibilita e intelligenza del monde vegetale(輝く緑~植物界の感覚と知性)であり、2013年に出版された。マンクーゾはフィレンツェ大学の教授で、同大学付属の「国際植物ニューロバイオロジー研究所」の創設者兼所長(2015年現在)である。人間の植物に対する無知と傲慢さを批判し、われわれに植物とかかわる態度の変更をせまる一冊だ。

新しい種をまこう

  ジャーナリストで、カリフォルニア大学バークレー校の教授であるマイケル・ポーランが、2015年の英語版に序文を寄せている。彼は言う。「私たちは、人間の驕りという高い垣根を想像力で飛び越える必要がある。さもないと、自分たちが植物に完全に依存しているということも、植物は見た目ほど“受け身“ではなく、むしろ彼らの世界、さらには私たちの世界のドラマにおける“したたかな主人公”なのだということも、理解できないだろう」(9頁)。ポーランは、この本を読めば、われわれが動物の専売特許と信じている「知性」や「学習」「記憶」「コミュニケーション」の力が植物にも共通していると確信できるだろうと述べている(10頁参照)。序文はこう締めくくられている。「二、三時間ほど、慣れきった人間中心主義を忘れて、豊かで驚異に満ちあふれた別世界へと足を踏み入れてみよう。けっして後悔することはないだろう。その世界から戻ってきたときには、あなたの考えは以前とはがらっと変わっているはずだ」(11~12頁)。
 この本は、「はじめに」で始まり、「問題の根っこ」「動物とちがう生活スタイル」「20の感覚」「未知のコミュニケーション」「はるかに優れた知性」の全5章をへて、「おわりに」で閉じられる。「はじめに」のなかで、動けなくなり、「かろうじて生きている状態」(18頁)にあるひとのことを、平気で「植物人間」と呼ぶ人間の植物に対する傲慢ぶりが批判される。
 第1章では、ヨーロッパを中心にして、人間が植物を見くだしたり、持ちあげたり、神聖視したり、悪魔呼ばわりしてきた複雑な歴史の諸相が描かれている。その一例を示す文章を引用してみよう。「キリスト教の異端審問で魔女として告発された女性たちは、植物を使って秘薬を作っていると信じられていた。そのため魔女たちといっしょに、なんと、にんにく、パセリ、フェンネルまでもが裁判にかけられたのだ!」(24頁)。デモクリトスやアリストテレスの相対立する植物観の一端や、ダーウィンの植物研究についても紹介されていて興味深い。
 『旧約聖書』の「創世記」は、「初めに、神は天地を創造された」という一節で始まるが、この章の冒頭には、それをもじって、「はじめに緑があった。つまり植物細胞の混沌があった」(19頁)という一文が置かれている。著者は、動物よりも植物を過小評価する人間の傾向に異議を唱え、「地球上で生物が生きていけるのは植物のおかげであるという事実」(24頁)を認識すべきだと幾度となく強調している。
 第2章の根本的な問いかけはこうである。「どうして植物は人間にとって、原料、栄養源、装飾品でしかないのだろうか? 私たちが植物への一面的な見方を捨て去ることができないのは、なぜなのだろうか?」(46頁)。その理由のひとつとして、われわれが植物の進化の歴史を知らないという点があげられている。話は、植物と動物が分化しはじめた5億年前の世界に戻る。この太古の時代に、植物は定住を、動物は移動を選択し、植物は、地面や空気、太陽から、生きるために必要なものを得るように進化した。その過程で、植物は、自分の体を分割可能なパーツを組み合わせたモジュール構造にし、肺がなくても呼吸でき、口や胃がなくても栄養が摂取でき、骨格がなくても直立できるようにし、脳がなくても判断できるようにした(55~56頁参照)。「植物は本当は人間と同じように、長い進化プロセスを経て洗練された、社会的な生物だ」(58頁)。
 地球上の生物量のなかで、植物は99・5%を占め、人間も含めて動物は0・1~0・5%しか占めていないという(63頁参照)。植物は酸素をつくり、動物の住める環境を用意し、食料や薬品の原料になって、人間の生存を支えている。われわれは植物のおかげで、かろうじて生きられているのだ。
 第3章は、植物が、人間の5感覚(視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚)以外に、15もの感覚をもっているという話だ。動物のようには動かない生き方を選択した植物が、生きぬくために必要な戦略とは、まずは感覚を研ぎすますことらしい。植物の「屈光性(光をめざして動く性質)」や、「避陰反応(日陰からの逃走)」については知られているが、根には光から遠ざかろうとする「負の屈光性」がある。根は暗闇を求め、茎のいくつかの部分は、秋になると「目を閉じて」眠りにつくとのことだ(76~78頁参照)。においに敏感な植物もあれば、自分でにおいを出す植物もある。植物は、上に伸びていくと同時に、自分を支えるために根を地中深くに広げていかねばならない。そのために、植物特有の味覚を駆使して、特定の化学物質を探しだし、それを栄養素として取りこんで成長している。
 植物は、地面の湿りぐあいや、遠くの水源、さらに、重力や磁場を感知でき、空気中や地中の化学物質を正確に測定できるという。植物には、人間が作りだした危険な有害物質を無害化する驚異的な能力も備わっている。
 植物のコミュニケーションの多様なスタイルについて述べた第4章は、この本のなかでもっとも刺激的である。植物は、それ自身の内部では、電気信号や、水、化学物質を信号として使っているという。植物同士では、空気中に無数の化学物質を放出したり、独自の姿勢をとったり、接触を避けたりして相互にコミュニケーションをとっているらしい。植物はまた、「根圏(根が触れている土壌の範囲)」の生物(微生物、細菌、菌類、昆虫など)すべてと交わり、動物との交流も活発におこなっている。
 第5章は、われわれに知性概念の拡張を迫る章だ。著者は、知性を「問題を解決する能力」(165頁)と定義すれば、その能力をもつ植物は十分に知性的な存在だと断言する。知性は人間の特権的な能力などではないのだ。「あらゆる植物は、大量の環境変数(光、湿度、化学物質の濃度、ほかの植物や動物の存在、磁場、重力など)を記録し、そのデータをもとにして、養分の探索、競争、防御行動、ほかの植物や動物との関係など、さまざまな活動にまつわる決定をたえずしなければならない。植物のこうした能力を知性といわずしてなんといえばいいのだろう?」(172頁)。この章では、晩年まで植物への関心をもち続けたダーウィンの根端に関する研究についても詳しい記述があり、進化論以外のことをあまり知らない者には、示唆的である。
 「おわりに」で、スイスの「ヒト以外の種の遺伝子工学に関する連邦倫理委員会」によって、2008年末に「植物に関する生命の尊厳―植物自身の利益のための植物の倫理的考察」と題する報告書が提出されたことがしるされている(204頁参照)。植物にも敬意を払う時期が到来しているということのようだ。インドの科学者で、インド現代史に大きな足跡を残したジャガディッシュ・チャンドラ・ボース(1858~1937)のことばが引用されている。「これらの樹木は、われわれと同じ生命をもっており、食事をし、成長し、貧困にあえぎ、苦しみ、傷つく。盗みをはたらくこともできれば、助けあうこともできる。友情を育むこともできれば、自分の命を子どもたちのために犠牲にすることもできる」(205頁)。
 この本を読み終えたあと、われわれは植物に対する偏見や固定観念を捨て去っている自分に気づくだろう。目の前には、親しい隣人として植物とつきあうあらたな道筋が示されている。

 藤井一至の『大地の五億年 せめぎあう土と生き物たち』(山と渓谷社、2015年)は、「土のすごさ」を教えてくれる一冊である。同時に、土とのつきあいかたを誤ると人間の未来が危うくなることを警告する本である。日ごろ、農業や園芸などで土に親しんでいるひとでも、土に多様な色があり、5億年の歴史があることなどを知るひとは少ないだろう。著者によれば、human(人間)の由来は、humus(腐植)、つまり土であり、われわれの身体に必要なリン、窒素、カルシウムなどは土から供給されているという(18頁参照)。まさに、「土はいのちのみなもと」なのである。
 著者の専門は、土壌学および生態学で、日本の各地や、インドネシア、タイの熱帯雨林、カナダの永久凍土などに出かけ、珍しい生き物を求め、スコップ片手に土を採集する日々を過ごしているという。
 本書は、プロローグ「足元に広がる世界」に始まり、「土の来た道:逆境を乗り越えた植物たち」「土が育む動物たち:微生物から恐竜まで」「人と土の一万年」「土の今とこれから:マーケットに揺れる土」の全4章と「あとがき」からなる。
 第1章は、5億年の歴史を概観している。45億年前に地球が誕生し、土壌が誕生したのは5億年前だという。この時期に生物が陸上に進出したが、大地は不毛な岩石砂漠だったと考えられている(18頁参照)。そこにどのようにして土が誕生したのか。著者の説明を引こう。「地球では、岩石からつくられた粘土や砂の上に、植物が死ぬとパタパタと堆積し混ざり合う。これが土である。植物が存在する地球にのみ土がある」(36頁)。土の起源が植物だとすると、岩石をすみかとし始めた植物がいたということになる。「岩石の露出する荒涼とした大地において、進化の末にタフさを獲得したコケと地衣類が最初の開拓者だった」(38頁)。かれらは、「さらに1億年かけてこつこつと水辺に砂や粘土を堆積してきた」(40頁)。その後のシダ植物の繁殖によって、4億年前に本格的な土壌が誕生したという(同頁参照)。
 第2章は、土によって育てられる植物や微生物、ヒトの活動についての具体的な記述が多く、興味深く読める。ざっと各章の見出しをあげてみよう。「ウツボカズラの戦略」「シロアリとヒトの仁義なき戦い」「微生物の持つ酵素の力」「瀕死の微生物たち」「ミミズの王様と腸内細菌」「土を食べる奇行」などである。「え?」と驚くような例をひとつだけ引用してみよう。著者によれば、ミミズとヒトの腸内細菌はよく似ており、酸素が欠乏した条件で発酵を担う細菌が多いという(111頁参照)。生物学的な研究にも熱意を注いだアリストテレスは、ミミズを「大地の腸」と名づけていたそうだ。「2000年という時を超え、腸内細菌も機能もヒトの腸にそっくりだということが、遺伝子レベルで証明された」(111頁)。
 第4章は、土の専門家がこれまでの研究の成果をわかりやすく伝えている。急速に進む地球温暖化や森林伐採、酸性雨などに関する報告は、文明の切迫した危機を指し示している。著者は、おしまいの方でこう述べている。「本書を要約すれば、決して楽園ではない土に、必死に居場所と栄養分を求めてきた植物・動物・人間の試行錯誤の歴史の末に今がある、ということになる。(中略)生き物たちの歴史は、『自然との共生』という生やさしい言葉で収まるものではなく、土をめぐる競争と絶滅の繰り返しであった。私たちの生活も、この自然の摂理と無関係ではなく、土を保全しなければ文明が崩壊することは歴史が教えてくれている」(220頁)。著者は、破滅を回避するためのひとつのヒントを読者に投げかけて、第4章をむすんでいる。「先人のまいた種を育てつつ、新しい種をまく。それは国家や企業、農業まかせではなく、審査員でもある私たち消費者が食卓を見つめ直し、スーパーマーケットの商品の裏側をにらむことからはじまる」(221頁)。
 五億年という時間スケールのなかで、日ごろ、あまりスポットライトを浴びることのない土の力を浮き彫りにした本書は、文明のたそがれの時期を生きることになるかもしれない若い世代に特に読んでほしい。身近な食卓を見つめ、その背後の現実を洞察し、賢い消費者になることは「新しい種をまく」ことにつながると、著者とともに期待したい。

 北野康『水の科学[第三版]』(NHK出版、2009年)は、「水ほどありふれたものはない。しかし水ほど不可思議なものもない」(9頁)という思いを胸に、長年にわたって水と向きあってきた研究者の総決算の書である。この本は、初版刊行以来、40年にわたって内容を更新して版を重ねている。「まえがき」に、著者(86歳)の執筆の覚悟と願望が表明されている。「私がこの60年間感動し切ってきた、地球の自然自体の言語に絶する見事な美しく微妙なバランス、それがあればこそ私たちは生存できるのであり、その限りなく優しい自然の一面を、急がばまわれ、情緒的・定性的ではなく、数値を示して定量的に、一人一人の方々に理解してもらえるように私の残された時間と体力を使うべきだということであった。自然のすばらしさを理解していただいて、各自が地球環境問題への各自の対応を決め、行動して欲しいと念願するのである」(11頁)。
 本書は、第一章「序論」に始まり、「地球における水の存在」「地球生物の誕生と進化」「現在の地球における生物生存場の物質像」「氷床コアが示す古代の地球大気の物質像」「地球大気の起源と進化」「海水の起源と進化」「地球温暖化という課題」「酸性雨」「環境ホルモンと水」「忍び寄る水資源の危機」の全11章からなっている。後半では、深刻な水問題に関連する貴重な報告がいくつもなされている。自然科学の記述に慣れないひとには少し読みづらいところもあるが、いずれの章にも図や表が載っていて、事実を正確に理解することができる。
 著者は、旧制中学の「“初めに法則ありき”」(251頁)式の、一方的な知識伝達型の物理と化学の授業についていけず、やる気をなくしていたときに、寺田寅彦のつぎのような文章に出会う。「『頭がいいと思い、利口だと思う人は先生になれても科学者にはなれない。科学者は物分かりの悪い呑み込みの悪い朴念仁でなければならない。頭の限界を自覚して、大自然の前に頭の悪い自分を投げ出して飛び込み、大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって初めて科学者になれる。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はその恋人にのみ真心を打ち明けてくれるものである』」(同頁)。寺田によって自然科学の道へと後押しされた著者の最終報告が、『水の科学[第三版]』である。

人物紹介

ステファノ・マンクーゾ 【Stefano Mancuso】

イタリア・フィレンツェ大学農学部教授、フィレンチェ農芸学会正会員。―本書より

アレッサンドラ・ヴィオラ 【Alessandra Viola】

フリーランスの科学ジャーナリストで、さまざまな新聞や雑誌に数多くの記事を書いている。―本書より

藤井 一至 【ふじい-かずみち】 [1981-]

1981年富山県生まれ。2009年京都大学農学研究科博士課程修了。京都大学博士研究員、日本学術振興会特別研究員を経て、現在は森林総合研究所研究員。専門は土壌学、生態学。国内各地、インドネシア・タイの熱帯雨林からカナダの永久凍土まで、おもしろい土と生き物を求めて、スコップ片手に飛び回っている。第一回日本生態学会奨励賞(鈴木賞)受賞。第三十三回日本土壌肥料学会奨励賞受賞。―本書より

北野 康 【きたの-やすし】[1923-]

1923年、山梨県に生まれる。1947年、北海道帝国大学理学部化学科卒業。北海道大学、神戸大学理学部を経て名古屋大学教授、名古屋大学水圏科学研究所所長、椙山女学園大学学長。現在、名古屋大学名誉教授、椙山女学園大学名誉教授。―本書より

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