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映画・ドラマの原作 テーマ図書 おすすめの一冊
おすすめの一冊 本学の教員や図書館員のおすすめの本を紹介します。
 

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活字との共存-本を読む経験の意味―

推薦文 :和田 渡 (経済学部 教授)

 シネコンの娯楽映画にはたくさんのひとが集まり、スマホは多くのひとをとりこにして離さない。ミニシアターの「名画」に足を運ぶひとは少なく、電車内でスマホの代わりに文庫本を手にするひともほとんど見かけなくなった。子供でも大人でも近づきやすいもの、わかりやすいものが喜んで受けいれられ、むずかしいもの、理解しにくいものは遠ざけられる。
 本でも同じことだ。書店の店頭に並べられているのは、読みやすい本、わかりやすい本や、派手な表紙の雑誌が大半だ。目につきにくい本棚に並べられたむずかしい本は、期限がくればすぐに返品される。
 本は読まなければならないものだろうか。片手で操作できる電子機器には夢中になっても、本などに興味をもたないひとに読書の大切さを語っても無視されるだけだろう。読書をすすめる本は少なくないが、それを読んで本を手にとるひとは、日ごろよく本を読むひとだ。本を読まずにすますひとの数は増えていく。本にこだわりをもつひとも少なくなるばかりだ。読書は、もはや必要のない習慣にも思える。

 だが、本当にそうだろうか。周りに本がないひとや、生活に追われて本を読む暇のないひと、本を読めない状況にあるひともいる。しかし、たいていの大学生にとっては、本を読む時間はたっぷりある。にもかかわらず、本を読まないというのはよいことだろうか。面倒なことを先送りし、誰もがしている平凡なことしかせずに過ごしたければ、それもよいだろう。しかし、それでは平凡な、いや、平凡以下の大学生にしかなれないし、これから出会ういくつもの壁を乗りこえることはできない。より高い自分をめざすならば、避けて通りたいむずかしいことを一日にせめてひとつやふたつはすることだ。
 大学生は、まだ非力で、未熟な若者にすぎない。体力はあるかもしれないが、じっくりと本を読む、読んで深く考える、考えたことをきちんと書くといった力は、まだまだ一人前とは言えないだろう。それらの力を鍛えなければ、魅力的な大人にはなれない。そうした存在になるためにはなにが必要だろうか。だれにもできることは、自分なりのやり方で「アクション」をおこすことだ。自発的になにかをすることによって、多くのことに気づくことができる。体力に自信があると思っていても、いざ走ってみると、思うほどには走れない場合がある。スポーツにかぎらず、さまざまの場面で、自分のイメージと現実にギャップがあると気づく。普段あまり本を読まないひとが本に挑戦すれば、むずかしい漢字が読めない、内容が理解できない、したがって内容についてなにも考えられないといった弱点があらわになる。
 アクションを通じて自分の非力、いたらなさを骨身にしみて感じるか否かが、重要な分かれ目なのだ。アクションをおこさず、自分の貧しい現状に気づかなければ、そこで終わりだ。自分が無知で無力なばか者、空っぽの存在でしかないと気づき、それを恥と感じるならば、次のステップが見えてくる。それは、肉体的に、精神的に、脆弱な自分を自分で強化していくという困難な試みに挑戦するステップだ。
 本嫌いにとって、むずかしい試みのひとつが本を読むことだ。好奇心が弱く、読む気力も、読む力も欠けていると、満足に本は読めない。読めない自分から目をそらし、本なんて読んでも仕方ないと居直れば、非力な大学生にとどまる。だが、辛抱して読み続けていると、確実に読む力がついてくる。読むことが楽しくもなってくるだろう。読書は、自分の狭い世界を自分で広げていく挑戦、自分で自分をつくっていく試みである。狭い世界で、だれもがしていること、簡単にできることしかしないと、時代を生きぬく実力が身につかない。したくないこと、避けてしまいたいことを敢えてすることこそが、青年に望まれる。
 本を読むという冒険に挑戦し、実力を強化しよう。

 ヘルマン・ヘッセの『ヘッセの読書術』(岡田朝雄訳、草思社、2013年)は、ヘッセ研究の第一人者であるフォルカー・ミヒェルスが編集したものである。冒頭に、「書物」と題する詩が置かれている。最初の4行を引用してみる。「この世のどんな書物も/きみに幸せをもたらしてはくれない。/だが、それはきみにひそかに/きみ自身に立ち返ることを教えてくれる」(7頁)。本を読む時間は、本を読んでいる自分を読む時間にもなる。その時間を生きるなかで、他を見て自己を振り返る経験が生まれてくるのだ。

  ヘッセは読書家として知られている。マウルブロン神学校を中退し、高校も卒業しなかったが、生涯にわたって読書の習慣をもった。30年の間に、新聞や雑誌に3000以上の書評を書いたという。1904年に出版された『ペーター・カーメンツィント』(邦訳『青春彷徨』)の成功によって作家として独立した。『デミアン』は、日本では青春の書としてよく読まれている。
 『ヘッセの読書術』には、本の選び方、読書の効用と意味などについて、さまざまな角度から述べられている。「本を読むことと所有すること」のなかの一文を引用しよう。「年を取っていようが、若かろうが、他人の助言と親切な配慮が役に立つとはいうものの、やはり私たちはそれぞれが本の世界に通じる自分自身の道を見つけ出さなくてはならない」(51頁)。友人や教師が熱心にすすめる本でも、自分の興味と合わなければ読んでも面白くない。本を読みたいという意欲と、さまざまな問題に対する強い好奇心があって本を手にするのだが、どの本を選ぶかは自分で決めなければならない。なによりも自分で選んで本を読むことで、知らなかったことがわかり、知りたいことが増えてくる。大切なことを知らないですましていた自分の愚かさにも気づく。それは、本を読む前とは違う自分に変身することである。
 ヘッセはこうも述べる。「書物を読んで自己を形成し、精神的に成長するためには、ただ一つの法則とただ一つの道があるのみである。それは自分の読んでいるものに敬意をもつこと、理解しようとする忍耐力をもつこと、他者の意見を認め、それを注意深く聞くという謙虚さをもつことである」(51~52頁)。ヘッセは、読書が精神的な成長に欠かせないと確信している。読書を娯楽と見なすひとには窮屈な見方かもしれない。だが、ある程度の苦痛や忍耐を伴わなければ効果がないのは運動や筋トレと同じである。
 「世界文学文庫」のなかでは、教養について言及されている。「≪教養≫すなわち、精神と情緒を完成するための努力もまた、(中略)私たちをよろこばせ励ましながら私たちの意識を拡大し、私たちの生きる能力と幸福になる能力を豊かにすることなのである」(81頁)。ヘッセによれば、われわれを教養に導くもっとも重要な道のひとつが、「世界の文学作品を地道に読むこと」(82頁)である。第一級の作家や思想家、あるいは詩人の作品を丁寧に心をこめて読み、理解することによって精神的にも情緒的にも洗練されるからである。読書だけがわれわれの教養のレヴェルを引きあげるわけではないが、ゲーテやシェイクスピアの作品を読むのと読まないのでは、精神的な成長に雲泥の差が生じる。
 「世界文学に対する読者の生き生きとした関係にとって重要なのは、とりわけ読者が自分自身を知ること、それとともにまた、自分にとくに感銘を与える作品を知るということであって、何らかの基準あるいは教養の計画などに従わないということである。読者は、本に対する愛の道を行くべきであって、義務の道を行くべきではない」(85頁)。本が嫌いなひとには読書が苦痛になるが、本好きには、読書が計り知れない効果をもたらす。教師から「これを読みなさい」「読書は大切です」などと言われても、読書は長続きしない。「誰でも各自の性質にふさわしい作品でまず読むこと、知ること、愛することをはじめなくてはならない」(同頁)。他人の指示に従うのではなく、自分になにが欠けているかを自分で把握し、欠点を修正するためにどのような本を読むべきかを考えて、選んだ本を熱心に読むことが大切だ。
 ヘッセは、生涯に数万冊の本を読み、そのうちの数冊は何度も読み返したと述べている(213頁参照)。再読の意義はこう語られる。「あらゆる思想家の本、あらゆる詩人のあらゆる詩行は、どれもそれをくりかえし読む者に、数年ごとに一つの新しい顔を見せるであろう。以前とは違った解釈ができるようになり、それまでとは違った共感を呼び起こされるであろう」(198頁)。再読の経験は、われわれの質的な変化、成長を物語るのだ。何度でも読み返せる本があるということは幸いである。

 小川洋子の『心と響き合う読書案内』(PHP研究所、2009年)は、文学作品を紹介するラジオ番組で放送されたものをまとめたものである。放送時の語り口がそのまま本書に再現されているので、きわめて読みやすい。春夏秋冬の4章構成で、各章で13の作品が紹介されている。いずれの案内も、やわらかく美しい日本語で語られており、心に残るものが多い。目次を見て、興味を引く本があれば、そこから読み始めていけばよい。小川は、「まえがき」の終わりでこう述べている。「私がラジオ番組とかかわって得た最も大きな収穫は、再読の喜びを知ったことでした。どれほどの時間が空こうと、本はちゃんと待ってくれています。年齢を重ねた自分に、必ずまた新たな魅力を見せてくれます。本は、人間よりもずっと我慢強い存在です」(5頁)。本は変わらないが、読み手は年を重ねて変わっていくから、同じ本でも読み方や印象が変わってくる。繰り返して読む本が多いのは幸いだ。そのたびにあたらしい経験ができるからだ。
 小川は、本書のタイトルに「心と響き合う」という巧みな表現を選んでいる。読書は、読み手の歴史を含んだ時間と、物語の時間やそこで登場する人物の時間とが溶けあって織りなされる豊かな時間を生きる経験である。読書は、読み手の心のなかで個人の時間と物語の時間が響きあい、経験の変容が生じる至福の出来事なのである。本書は、本を愛する著者の心と読者の心が交流しあう空間を開いている。
 春の章では、金子みすゞの『わたしと小鳥とすずと』、川上弘美の『蛇を踏む』、マルグリッド・デュラスの『ラマン』、バーネットの『秘密の花園』、中勘助の『銀の匙』、中島敦の『山月記』などの作品が選ばれている。『銀の匙』についての印象的な文章を引用してみよう。「私は少年を描いた文学に殊更いとおしさを感じ、主人公が少年であるというだけで無条件に手に取ってしまう傾向があります。その中でもこの『銀の匙』は特別です。少年の内面をここまで繊細に描き出した作品はほかにないと思えるほどです」(71頁)。「『描写がきれいで細かいこと、文章に非常な彫琢があるにかかわらず不思議なほど真実を傷つけていないこと、文章の響きがよいこと』」(75頁)という夏目漱石の賞賛のことばも引用してある。
 夏の章では、カフカの『変身』、ミヒャエル・エンデの『モモ』、村上春樹の『風の歌を聴け』、夏目漱石の『こころ』、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』、ファーブルの『昆虫記』などが紹介してある。小川の心に残ることばとして、『モモ』のなかの一節が引用されている。「『光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある』」(107頁)。「時間がない、忙しい」を口癖にするひとの時間は時計の時間、目で確かめられる時間であって、心で感じとられる時間ではない。『モモ』は、日常の時間とは違う時間を生きる喜びを教えてくれる一冊だ。
 秋の章のライン・アップは、サン・テグジュペリの『星の王子さま』、カズオ・イシグロの『日の名残り』、カレル・チャペックの『ダーシェンカ』、宮本輝の『錦繍』、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』、島尾敏雄の『死の棘』などである。『朗読者』は、1995年にドイツで出版され、のちに20以上の言語に翻訳された。ハンナという女性の強制収容所での犯罪が中心的なテーマである。この小説は、どんな読者の心にも、おそらく一生消えることのない影響をもたらすだろう。ハンナは、主人公の少年ミヒャエルと出会い、やがて姿を消す。その後、大学生になったミヒャエルは、ハンナが被告人となった裁判の場で再会する。ハンナは、裁判の過程で、ゲーテやツヴァイクやそのほかおおくの本を読んで人生を学んでいき、それによって罪を償うことになる(226頁参照)。小川は、この小説が本を読んで学ぶことの大切さを伝えていると言う(224頁参照)。「それが『朗読者』というタイトルにつながって、結果的に本のすばらしさを描いた小説になっています」(226頁)。
 冬の章には、アリステア・マクラウドの『冬の犬』、トルーマン・カポーティの『あるクリスマス』、中上健次の『十九歳の地図』、V.E.フランクルの『夜と霧』、武田百合子の『富士日記』、佐野洋子の『100万回生きたねこ』などが並んでいる。カポーティは、『冷血』という傑作でお金と名声を手に入れたが、その後書けなくなってしまう。アルコールやドラッグに頼る晩年の不遇な生活のなかで、おそらく父の死を契機にして、『あるクリスマス』という幼児期を回想する自伝的な小品が生まれた。カポーティは、この作品を発表した2年後に心臓発作でなくなった。小川は、『あるクリスマス』をこう評している。「よけいな飾りを省き、技巧を廃した、大変素直な文章です。だからこそ、心に沁みてきます。苦い思い出も、甘い思い出もひっくるめて、読み手自身の『あるクリスマス』を思い出させる、触媒となる作品です」(263頁)。
 いずれの読書案内も、抑制の効いた優しい語り口で表現されていて、余韻の残る一冊である。

 森本真一と白石英樹の『ユニバーサル文学談義』(作品者、2015年)は、ふたりの文学を愛する英文学者による、真摯だが、けっして堅苦しくはない対談の記録である。全7章で、文学、表現、他者、芸術と宗教、芸術と社会などが話題になっている。表題に含まれる「ユニバーサル」は、文化のファスト化を促進する現今のグローバリゼーションに対抗する意味をこめてつけられている(9頁参照)。ふたりが守ろうとしているのは、「深い地下水脈でゆっくりと受け継がれてきた文化」(8頁)、「こころの奥底へ静かに潜っていく文化」(9頁)である。ふたりは、この文化こそが、速度と経済を重視するグローバリゼーションの波とは違って、読者の心に「種」をまき、花開き、それが未来の世代へも受け継がれていくと信じている。
 巻末に付記されている「ユニバーサリティをまなざす若い読者のためのブックガイド100」には、内外の古典や近現代の詩歌や小説、思想書などが選ばれている。短い推薦メッセージがついているので、図書館や書店で本を手にとってみるきっかけになるだろう。

人物紹介

ヘッセ 【Hermann Hesse】 [1877-1962]

ドイツの詩人・小説家。1923年、スイスに帰化。第一次大戦中より絶対平和主義を唱え、のち、人間の内面性を追究しつつ、東洋思想にもひかれた。1946年ノーベル文学賞受賞。小説「ペーター‐カーメンチント」「車輪の下」「デミアン」「荒野の狼」「ガラス玉演戯」。
" ヘッセ【Hermann Hesse】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-03-28)

小川 洋子【おがわ‐ようこ】 [1962-]

小説家。岡山の生まれ。「妊娠カレンダー」で芥川賞受賞。「博士の愛した数式」は第1回本屋大賞を受賞。他に「ブラフマンの埋葬」「ミーナの行進」など。
" おがわ‐ようこ【小川洋子】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-03-28)

森本 真一【もりもと-しんいち】[1951-]

1951年、東京都世田谷区生まれ。上智大学大学院英米文学専攻修士課程修了(文学修士)。現在、昭和女子大学教授。著書に『天翔る詩魂―フォークナー小論』、『表現者の意匠―命を宿す言葉』(以上近代文藝社)など、訳書に、シャーウッド・アンダーソン『もしや女たちは』、同『幾度もの結婚』(以上近代文藝社)などがある。―本書より

白岩 英樹【しらいわ-ひでき】[1976-]

1976年、福島県郡山市生まれ。早稲田大学卒業。AP通信社勤務等を経て、大阪芸術大学大学院博士課程修了。博士(芸術文化学)。現在、国際医療福祉大学総合研究センター語学教育部講師。著書に、『シャーウッド・アンダーソン論―他者関係を見つめつづけた作家』(作品社)など、訳書に、『シャーウッド・アンダーソン全詩集―中西部アメリカの聖歌/新しい制約』(作品社)などがある。―本書より

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