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古典の森を散策してみよう(12)―アリストテレスのことば―

推薦文 :和田 渡 (経済学部 教授)

 『アリストテレス「哲学のすすめ」』(廣川洋一訳・解説、講談社、2011年)は、庶民に向けてわかりやすく書かれた「哲学のすすめ」である。古代社会で広く読まれた。万学の祖・アリストテレスが、哲学の必要性を繰り返し情熱的に語っている。哲学というと、固い響きのする漢字のせいもあって、堅苦しいもの、難解なもの、うっとうしいものと見なされがちである。哲学と聞くだけで敬遠してしまうひとも少なくないだろう。しかし、「フィロソフィア=知、知恵(賢明さ)を愛し求める」というギリシア語の意味に立ち戻って考えれば、哲学とは、自分に欠けているもの=知恵を求めて生き、知恵を身につけてもっと賢くなろうとする試みにほかならない。少しでも自分の愚かさを修正するためには、狭い考え方にしがみつき、硬直した姿勢のまま頑固に生きていてはいけない。生きるとはどういうことか、自分や他人とどうつきあったらいいのか、なんのために生きるのか、どういう生き方が望ましいのか、不幸と幸福を分けるものはなにか、幸福はなにによって得られるのかといった問いについて、じっくり考えて生きることが大切だ。それこそが哲学だとすれば、哲学をむずかしい学問と誤解して避けてはいられないはずだ。それは、よりよく、より深く生きるために必要な訓練なのだから。

 第1章で、アリストテレスはこう述べる。「われわれが政治に正しくたずさわり、われわれ自身の生を有益に過ごそうとするなら、われわれは哲学すべきである」(23~24頁)。逆に言えば、哲学を義務として引き受けなければ、間違った政治に翻弄されるがまま、無益な生を過ごすことになりかねないということだ。政治の場面にはしばしば不正や悪がはびこり、われわれ自身の生も偏見や無思慮、虚栄心やエゴイズムによって破綻しやすい。現実を見つめ、よく考えてみるためには哲学が必要なのである。アリストテレスによれば、哲学とは、正しく判断し、理性を活用し、完全な善を観照することである(24頁参照)。哲学が理想の生を実現する手助けとなるのだ。
 だが現実には、われわれは、浅慮に支配され、善や悪、正義や不正についての明確な認識をもたずに軽率な仕方で行動してしまうことがたびたびである。アリストテレスは、当時のひとびとのふるまいを見つめて、今日と変わらない特徴をつぎのように指摘している。精神的な欲望よりも、物質的な欲望に駆られて忙しく生きている。よく生きようとせず、ただ生きている。自分自身の意見にもとづいて判断するのではなく、他人の意見に追随する。財物は追い求めても、美しいもの、善いものには関心を示さないなどである(28~29頁参照)。そうした一般的な傾向に陥ることをよしとせず、ふるまい方を反省して、よりよく、美しく生きるためにこそ哲学が求められる。アリストテレスによれば、哲学するためには道具も場所もいらない。考えることが哲学することのすべてであり(30頁参照)、そのために道具を買いこんだり、どこかにでかけたりすることも必要ではない。哲学は「善きもののうちの最大のもの」(30頁)であり、「哲学を熱意をもって心に受け入れるよう努めることは価値あることである」(同頁)。
 第2章では、理知を働かすこと、認識することが人間にとって望ましく、有益だと強調される。よく考え、先を読んで、慎重に行動すれば、よいふるまいも可能になる。逆に、後先を考えず、軽率なふるまいに走れば、善からは遠ざかる。アリストテレスは、人間のある部分が魂であり、他の部分が身体であり、魂のなかでも理性や思考をあわせもつ部分こそがもっともすぐれていると見なしている。この部分が卓越した働きをすれば、望ましい事態が実現されるはずだというのが彼の見解である。
 第3章では、望ましい生の実現のためには理知の働きを活性化することが必要であると、再度強調される。魂が目覚めていること、思考が活発に動くことこそが大切である。分別の力が弱く、魂が眠ったままであれば、人間はしばしば劣悪なことをしでかす。「ひとからよく見られたい」「名前を知られたい」といった欲望にとらわれて、「言語に絶する愚かさ」(50頁)に染まることにもなる。ひとはまた、肉体からほとばしる欲望に引きずられて残酷なふるまいにも及んでしまう。それゆえに、思慮をつくして危険な生に一定の秩序を与えることが大切だ。考える力を行使できれば、「われわれの生は、それが本来悲惨で、困難なものであろうとも、なお賢く整えられていて、他のものに比べれば、人間は神であると思われるほどなのである」(51頁)。
 第6章は、哲学することの楽しさと喜びを生き生きと伝える章だ。知性に即して生きることこそが、もっとも楽しく生きることにつながるというアリストテレスの信念が語られる(76頁参照)。現実の世界では、われわれは愚かなことをしでかしたり、悲劇的な出来事に巻き込まれたりする。原因のひとつは、「こういうことをすれば、こういう最悪の事態になる」と思慮を働かせずに、発作的、衝動的に動くことにある。結果として、軽率な行動に走る者にも、その行動の犠牲になる側にも悔恨と苦痛の日々が残り、生きることが不快なものになる。アリストテレスによれば、そうした不快を遠ざけ、われわれの生を楽しいものにするのが理知の働きである。「魂に多くのはたらきがあるとしても、それらすべての中で最も本来的なものは、最も高度に理知をはたらかすことである。こうして、理知をはたらかすことと観照することから生じる楽しさこそ、唯一の、あるいはすべてにまさる、生きることから生じる楽しさでなければならないことは明らかだ」(82頁)。哲学することによって、楽しく生きて、真の喜びを感じとることができるというのだ(同頁参照)。哲学こそがひとを快楽に導くというのは、たいていのひとが思いつかないことだけに、いっそう新鮮に響く。
 第7章は幸福論だ。アリストテレスが見てとっていたように、不幸になりたいと思って生きるひとはいない。だれもが幸福を求めて生きていることは疑いようがない。問題は、幸福をどう定義するかである。古代ギリシア人の多くのように、幸福を、お金や健康と若さ、外見の美しさ、友人と酒を酌み交わす青春の日々とむすびつけることもできる。アリストテレスは、幸福を理知、知恵、徳、善、最高の生きる喜びとつなげた。幸福に生きるためには、よく考え、知恵を磨き、よいふるまいをして、友だちと楽しく過ごすことが大切なのだ。とはいっても、それはたやすいことではない。われわれはつい先を読まずに軽率な行動に走って他人を傷つけ、その結果、自分も不愉快な思いをしがちである。アリストテレスの生きた時代もそうであった。「今日、われわれは真に善きことをおろそかにし、日常必要なことばかりを為しつづけているからだ」(87頁)。
 そこで哲学の登場だ。「哲学することは、最も善きこと、われわれにとって最もふさわしいこととして、それに確固として参加する価値があるのだ」(87~88頁)。哲学するのが最善というのだ。なぜなら、哲学は理知の働きを強調し、われわれに「よく生きること」を教えてくれるからである。よく生きるとは、生きることについてよく考え、思考を通じて生を幸福な生へと導くことである。
 哲学と幸福をむすびつけるアリストテレスの考え方には、嵐でかき曇った空の一角に、つかのま現われる青い空のように、われわれをなごませるものがある。あまり考えず、漫然と生きていると、われわれの生は不幸の雲に覆われやすい。それを追い払って、生を楽しくするためには考える工夫がいるのだ。幸福は思考とともにやってくる。

 アリストテレスの『弁論術』(戸塚七郎訳、岩波書店、2013年[第25版])は、後世の弁論術や修辞学に多大な影響をもたらした。3巻からなる。第1巻では、幸福、よいもの、より大なる善・利益について面白く語られ、第2巻では、怒り、温和、友愛と憎しみ、恥と無恥、妬みなどについての記述が興味深い。青年、老年、壮年の特徴分析や説得についての記述も含まれている。第3巻では、表現の技法が語られている。弁論における演劇的要素としての「声」についての語りが特に印象に残る。いずれ自己表現力や会話力を試されることになる大学生にとって参考になる点も多々含まれている。
 アリストテレスは、第1巻第5章「幸福」で、当時のひとびとにとっての幸福について語っている。ほとんどすべてのひとに認められているものとして、以下のような定義があげてある。1)徳を伴ったよき生、2)生活が自足的であること、3)安定性のあるもっとも快適な生、4)財産が豊かで身体も恵まれた状態にあり、それらを維持し、働かせる能力があること(56頁参照)。当時と現代とひとびとの生活スタイルは大きく変わっても、幸福の定義はまったくといっていいほど変化していないのではないだろうか?
 第6章「よいもの」では、よいものとはなにかについて述べられている。アリストテレスが例にあげるのは、幸福、正義、勇気、節制、寛大、鷹揚さといった精神の徳、健康、美しさ、富、友情、名誉、語る能力と行動する能力、恵まれた素質、記憶力、理解のよさ、鋭敏さ、知識・技術などである(67~68頁参照)。「それの反対が悪であるものは、よいものである」(68頁)。これらの例を、自分や周囲の人間の具体的なふるまい方と重ねあわせて観察し、考える習慣が身につくと、幸福の意味も少しずつ明らかになってくるだろう。
 第2巻第12章「年齢による性格(1)―青年」では、アリストテレスの青年観が興味深い。青年の欲望についてはこう語られる。青年は、「身体に関わる欲望の中でも特に性的な欲望を追い求めがちで、自分でこれを抑制する力がない。また、欲望に対しても気移りし易いし、飽き易く、激しく求めるかと思えば、さっと止んでしまう」(224頁)。青年の特徴としては、「激しやすい」「短気」「衝動に流されやすい」「プライドが高い」「他に抜きんでたがる」などの点があげられている。面白い表現が見つかる。「彼らは、世の醜悪なところをまだ見ていないため、気立ては悪くなく、むしろお人好しであるし、まだ色々と欺かれたことがないので、人を信じ易い」(同頁)。昔も今も、青年は変わらないということだろうか。この時代の青年たちが急に身近なものに思えてくる。
 その他の特徴をいくつかあげてみよう。「気力にあふれ、希望に燃えている」「気持ちが大らかで、まだ卑屈ではない」「損得勘定よりも、品性にしたがって生きている」「他の年配に比べ、友人や仲間を愛し、共に暮らすことを悦ぶ」「行動に行き過ぎがあり、失敗しやすい」「腹黒いところがない」などである(225~226頁参照)。学生時代の友人は生涯の友となると言われるが、社会人になると用心深くなり、裸のつきあいは薄れ、真の友人はできにくい。青年はすれていないだけに失敗することも多いかもしれないが、友人と親しく交わり、輝かしい季節を生きている、アリストテレスにはそう見えた。
 第13章「年齢による性格(2)―老年」では、盛りを過ぎたひとびとの特徴が細々と描かれている。騙されたり、失敗を重ねてきた老人は断定を避ける。ひがみ根性や猜疑心が強くなる。他人を信用しなくなる。生活のため卑屈になり、心も狭くなり、けちになる。臆病になり、先々に不安を抱くようになる。生への執着が強くなる。必要以上に自己中心的になる。希望を失う。品性よりも損得勘定で生きる。愚痴をよくこぼすようになり、洒落をとばしたり笑ったりすることもなくなるなどである(227~230頁参照)。アリストテレスが描くような老人になりたくなければ、若いときから賢く生きる工夫をこらすべきだろう。

 小林正弥の『アリストテレスの人生相談』(講談社、2015年)は、「生きること」がどういうことか分からなくなったり、生きることにつまずいて悩んだり、絶望的になったりしやすい青年に生きるヒントを与えてくれる本である。路上の交通信号や山道の標識は進むべき方向を指し示してくれるが、われわれの人生には明確な道標がない。生き方やふるまい方を丁寧に教えてくれるひとも少ない。そこで、困ったときに頼りになるのがアリストテレスである。
 小林は、アリストテレスを「生きる方法」の教師と見なしている。小林によれば、生き方を教わったことがなければ、しばしば人生において迷い、苦しむことになる。生き方を知らない人間は、いわば海図を持たずに航海に出る船のようなものである(2頁参照)。「本当は、若い頃から『人生の教科書』のような本を読み、それを出発点にして人生を歩み始めたほうがいいのです」(3頁)。小林は、太字で強調している。「アリストテレスは難しい哲学の教師であるだけでなく、人生の優れた教師でもある。だからこそ私たちは、アリストテレスから、人間としての善い生き方、優れた生き方を学ぶことができるのです」(6頁)。
 この本は、序章と9章からなる。小林は、編集者が読者に代わって出した質問(Q)に答えるかたちで話を進めている。質問は全部で70ある。例をあげてみよう。「アリストテレスのいう真の幸福とは、どのような状態なのでしょうか?」(Q1)、「大学高校で天職は見つけられるのでしょうか?」(Q18)、「電車や街中で、乱暴な若者を叱るべきでしょうか、許すべきでしょうか?」(Q30)、「賢慮があれば異性関係にも波風は立たないのでしょうか?」(Q51)、「友の裏切りを許すべきでしょうか?」(Q58)などである。われわれがときに疑問に思うことや、身近で遭遇する出来事が質問に組みこまれている。
 第1章「善き生―人生の目的とは何か?」のなかでは、もっとも善いことをして幸福になることが人間の目的にかなうというアリストテレスの倫理的幸福論が示されている。問題は、「善き生」をどのようにして実現するかである。この本には、それを考えるヒントがいくつも隠されている。
 第2章「幸福の原理―自己実現の完全メソッド」は、アリストテレスの幸福論の特徴を簡潔に記述している。アリストテレスによれば、人間は、植物や動物と違って、魂の卓越した働きとしての理性にもとづいて行動できる。この働きに支えられた活動が幸福にむすびつく。「彼の幸福原理は、人生全体における『最高の美徳に基づく魂の活動=幸福=最大の目的』なのです」(94頁)。悪徳商人のふるまいは他人を悲しませ、不幸な事態を招きかねないが、美しい徳を身につけたひとのふるまいは、そのひとだけでなく、まわりのひとをも快い状態にする。それこそが幸福だというのがアリストテレスの信念である。
 ひとを幸福にする美しい徳は、だれにでもひとしく潜在しているものだ。それは、自分や他人のふるまいを見つめながら、ふるまい方を学んで生きる習慣のなかで顕在化してくるものなのだ。その習慣が欠けたままの生活だと、ふるまいは粗野なままにとどまる。
 アリストテレスは、生きもののうちに「潜在的なもの、素質」がやがて「現実的なもの」になる成長の過程を見てとった。どんぐりの種は、しかるべき環境のもとでは樫の木に成長する。まぐろの稚魚には巨大な魚に育つ可能性がはらまれている。ひとにもそれぞれ固有な資質が潜在し、それは本人の努力や環境によって開花する。小林は、アリストテレスのこうした成長論をひとの幸福論とつなげてこう述べている。「自分の資質の特色ないし個性を見極め、それに向いた仕事や役割を見つければ、幸福を実現できるはず」(118頁)。
 第3章「天職と運命―幸せになるための仕事の見つけ方」は、自分がどんな人間で、なにをするのに向いているかを慎重に見極めて、職業の選択をしなければならない大学生にとって有益な章である。
 第4章「中庸―東洋思想も西洋哲学も示す幸福への近道」は、徳と善と美を密接に関連づけて考察したアリストテレスの幸福論を明快に説明している。小林は、アリストテレスの言う美徳をこうまとめている。「『美徳とは、幸福を実現するために最も重要な魂の性質であり、それを身に付けるということは、幸福になる方法を習得することに他ならない』」(158頁)。美徳は知識として教えられるものではない。ひととの交わりから、心地よいふるまいやぶしつけな言動とはどのようなものかを学び、自分の愚かなふるまいがひとにどのような影響をもたらしているかを推測し、よいふるまいを心がける習慣こそが美徳を育てるのだ。人間のふるまいは、しばしば、「過剰な運動や運動不足、食べ過ぎや飲み過ぎ」(162頁)といった両極端に向かいやすい。それを観察して、アリストテレスは中間を選ぶのが最善だという「中庸説」を述べた。状況に応じて過剰や過不足を避ける「賢慮」が働けば、幸福実現の可能性は増すだろう。
 第6章「お金と振る舞いの美徳―マナーを磨いて上質な人生を」は、醜いふるまいをし、悪質な人生を過ごしやすい凡人に対するアリストテレスの忠告を手際よくまとめた章だ。アリストテレスによれば、幸福に生きるためには精神に磨きをかけるだけでは不十分であり、マナーやエチケットといった他人の目に映るしぐさをきれいなものにする必要がある。幸福はひととひととの間で花開くものなのだ。
 この本には、よく生きるヒントが満載である。生き方に悩んだり、わずらわしい人間関係に消耗しやすいひとは、ぜひ手にとって読んでほしい。

人物紹介

アリストテレス 【Aristotelēs】 [前384-前322]

古代ギリシャの哲学者。プラトンの弟子。プラトンがイデアを超越的実在と説いたのに対し、それを現実在に形相として内在するものとした。アテネに学校リュケイオンを開いてペリパトス学派(逍遥学派)の祖となる。「オルガノン」(論理学書の総称)「自然学」「動物誌」「形而上学」「ニコマコス倫理学」「政治学」「詩学」などを著し、古代で最大の学問体系を樹立した。
" アリストテレス【Aristotels】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-06-20)


小林正弥 【こばやし-まさや】 [1963-]

千葉大学教授。1963年、東京都に生まれる。東京大学法学部卒業。1995-97年、ケンブリッジ大学社会政治学部客員研究員。専門は、政治哲学、公共哲学、比較政治学。慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘教授、日本ポジティブサイコロジー医学会理事などを兼任。ハーバード大学のマイケル・サンデル教授と交流が深く、2010年に放映されたNHK「ハーバード白熱教室」では解説と監訳を勤め、日本の「対話型講義」の第一人者でもある。著書には、『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)、『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)、『人生も仕事も変える「対話力」』(講談社α新書)などがある。―本書より

" アリストテレス【Aristotels】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-06-20)

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