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生きものへのまなざし―南方熊楠と柳田國男―

推薦文 :和田 渡 (経済学部 教授)

 『南方マンダラ』(中沢新一編、1991年、河出書房新社)は、≪南方熊楠コレクション≫全5巻の第1巻である。第2巻から第5巻はそれぞれ、『南方民俗学』『浄のセクソロジー』『動と不動のコスモロジー』『森の思想』である。いずれも読みやすいものではないが、南方の思想世界の全体像を見通すには最適のコレクションである。
 南方熊楠(1867~1941)は、和歌山県に生まれた。少年時代の熊楠は、知人の家で読んだ『和漢三才図会』に感動し、その内容を記憶し、家に帰って写した。後には借り出して筆写を続け、数年をかけて全105巻の筆写を完成させた。1884年に東京大学予備門に入学し、秋山真之、夏目漱石、山田美妙、正岡子規らと机を並べるが、2年後に退学して帰省する。その後、渡米し、1887年にミシガン州の州立農学校に入学するも、翌年には退学。1891年にフロリダ州に移り、菌類、地衣類、藻類を採集する。翌年にイギリスに渡り、大英博物館で東洋関係資料の整理を助ける。1893年に、『ネイチャー』に最初の論文「東洋の星座」が掲載される。この年に、真言宗の僧侶である土宜法竜(1834~1921)と出会い、親交を深める。ふたりの間では、書簡を通じて激しい論戦が繰りひろげられた。1900年、和歌山に戻り、約3年間、粘菌の研究に没頭した。その後、国による神社合祀政策に反対する活動に精力的にとり組んだ。この運動に協力したひとりが柳田國男である。1911年、柳田國男との約6年にわたる文通が始まる。晩年は神島の保全に尽力した。


 『南方マンダラ』は、「解題 南方マンダラ」「第一部 事の世界―ロンドン書簡」「第二部 マンダラの誕生―那智書簡」「ポストリュード―最後の書簡」からなる。詳細な解題は編者が執筆している。マンダラとは、サンスクリット語mandalaの音訳で、「本質(manda)を得る(la)」という意味だ。この巻では、南方が10年近くの歳月をかけて考えぬいたマンダラ観が、土宜法竜宛の書簡のなかで披瀝されている。その考えの核心に触れる箇所を、一箇所だけ引用してみよう。


 不思議ということあり。事不思議あり、物不思議あり、心不思議あり。理不思議あり。大日如来の大不思議あり。予は、今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ、その順序だけざっと立てならべ得たることと思う。(中略)心不思議は、心理学というものあれど、これは脳とか感覚諸器とかを離れずに研究中ゆえ、物不思議をはなれず。したがって、心ばかりの不思議の学というもの今はなし、またはいまだなし。(295頁)

 南方は、この世界がどのようにして成り立っているのかを見極めたいと願った。南方の観る世界は、物と心が相互にむすびついて事として生起する過程であった。それを支える根源的な働きとして大日如来が視野におさめられていた。こうした密教的な世界観は、土宜法竜から示唆を受けて練りあげられたものである。心と物が縁あって出会うとき、ことばでは言い表せない出来事が生じてくる。それこそが不思議の世界である。この世界を究めようとする南方の苦闘の痕跡は、いまだ十分には解明されていない。中沢新一は、解題のなかでこう述べている。「『南方曼陀羅』が生まれてから、すでに九十年近い歳月が流れた。それは、二十世紀末の人間による解読を待ちながら、いまも生まれたときと同じ、熊野の森のほの暗く、深い緑を呼吸しつづけている」(11頁)。
 南方はまた、不思議の世界の生成的出来事を、因果論的に把握するだけでなく、「縁の論理」によって明らかにしようと試みた。南方は、「縁」を極めようとする自負をこう語る。「今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みあるが)、縁が分からぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり」(341頁)。欧米の科学に特徴的な因果論的思考を相対化し、アジアの縁起的思考に世界把握の活路を求めた南方の覚悟が語られている。
 粘菌という、植物と動物という両義性をもった生きものに魅了された南方は、やがて、森羅万象の生成の神秘にもあくなき好奇心をいだき、探究を続けた。その巨大な足跡は、未踏の領野として残されている。

 頼富本宏、鶴見和子『曼荼羅の思想』(藤原書店、2005年)は、密教学者と比較社会学者による対談の書である。「曼荼羅は静的か動的か―土宜法龍と南方熊楠」「『閉じられた曼荼羅』から『開かれた曼荼羅』へ」「曼荼羅の秘める創造性」「曼荼羅による新しい共生のモデル」の全四場からなる。
 この対談では、曼荼羅のもつ意味や世界観について縦横無尽に語られている。インドや中国、チベット、日本の曼荼羅の違い、多様な曼荼羅についても知ることができる。代表的な金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅のほかに、心曼荼羅と身体曼荼羅、立体曼荼羅と流体曼荼羅などにも話がおよんでいる。立場の異なるものの排除をめざす一元的思考の対極に位置し、異なるもの同士の共存と融和を希求する曼荼羅の思想は、分裂と解体へと向かう時代に対抗する力を秘めている。

 南方の生涯に興味をもつひとには、中瀬喜陽、長谷川興蔵編『南方熊楠アルバム<新装版>』(八坂書房、2004年)がおすすめである。南方という知的巨人の波乱万丈の生涯が500枚の写真資料で再現されている。少年熊楠による魚類、獣類写図帳の一部や、在米、在英時代のノートなどを見ることができる。家族、孫文との交友、粘菌、植物研究所などに関連する写真も豊富である。

 柳田國男の『遠野物語・山の人生』(岩波文庫、2015年[第57刷])は、彼の代表作である。「遠野物語」は、柳田が、遠野人・佐々木喜善(雅号は鏡石)から聴いた説話を味わい深い日本語でまとめたものである。「山の人生」は、山で暮らすひとびとへの柳田の情愛があふれた記録である。
 柳田国男(1875~1962)は兵庫県に松岡操とたけの六男として生まれた。幼少期から読書の習慣をもち、青年期から壮年期にかけては好んで旅行にでかけた。1900年に東京帝国大学卒業後、農商務省に勤める。1901年に柳田直平の養子になった。1902年に法制局参事官になり、1913年には高木敏雄と協力して雑誌『郷土研究』を創刊した。『石神問答』(1910)の出版がきっかけとなって南方との文通が始まった。1914年には貴族院書記官長になったが、貴族院議長との確執から1919年末に辞任した。敗戦後は、1948年に民俗学研究所を発足させ、1953年には季刊『日本民族学』を発行するなど、民俗学の発展のために精力的に活動した。
 
 「遠野物語」(1910)の冒頭の二文はこうである。「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり」(7頁)。里の神、家の神、山の神、山男、山女、魂の行方、雪女、河童、猿、熊、狐などの話は、この世界と異界との共存・交流を語るものが多く、ついつい引きこまれてしまう。ふたつの話を引用してみよう。


 遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。(31頁)

 白望の山続きに離森というところあり。その小字に長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。在る夜その小屋の垂孤をかかげて、内を窺う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。(32頁)

 「山の人生」(1926)には、心に残る話が多い。最初の「山に埋もれたる人生あること」もそうだ。少し長くなるが、全文を引用してみよう。


 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斫り殺したことがあった。
 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。
 この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕み朽ちつつあるであろう。

 また同じ頃、美濃とは遥かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活きていた。ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還ってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲ける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。
 大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹の隙間から、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復った時には、夫も死ねなかったものとみえて、濡れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊って自ら縊れており、赤ん坊は滝壺の上の梢に引懸って死んでいたという話である。
 こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それも十二年までの宥恕があったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅に、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう。
  我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何びとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。(93~95頁)

 日々の暮らしに困りはてたひと、追いつめられたひとのやむにやまれぬふるまいが、この短い文章のなかに凝縮されている。現代でも、新聞の三面記事の片隅には、時々せっぱつまったひとびとの同じような話が載る。忙しくしていると、ごく普通の暮らしをしていたひとの「物深い」(95頁)現実の出来事の細部にまで想像力を働かせることはむずかしい。それがいつまでも記憶に残ることもまれだ。無名のひとびとの、こころに鋭く突き刺さり、こころがかきむしられるような現実は、警察署の記録のなかに埋もれて、忘れ去られていくのだ。

 『青年と学問』(岩波文庫、2015年[第23刷])は、柳田が1924年から1927年にかけて各地で行った10篇の講演原稿からなっている。1928年に日本青年館から発行された。「旅行と歴史」(原題は「歴史は何の為に学ぶ」)は栃木中学校での講演記録である。柳田は、自分の学問的な志を受け継いでくれる若者がひとりでも現われてほしいと願って、熱く語りかけている。
 主題のひとつは旅行である。ひとはなぜ旅をするのだろうか。柳田の答えは明快である。ひとへの好奇心がひとを旅に誘うというのである。旅行の意義については、こう語られる。「生まれた時から周囲の人ばかりと接していては何とも思わなかったものが、一旦その間から抜け出して振り返り、或いは前と後とを比較してみる時に、はじめて少しずつ自分と周囲との関係が分かってくる」(73頁)。自分が何者であり、自国がどのような国であるかは、自分を脱けだし、見知らぬ国をたずねることによってよく見えてくるということだ。自他の違いにとまどったり、驚いたりすることで、見逃していたことがはっきりと見えてくるのだ。
 柳田は、旅行と学問を関連づけて言う。「学問の真の意味を解し、一定の方針を立てて読書する人だけが、これによって生涯を正しく導きうると同じように、この旅行というものの意味をよく知って、短い一日二日の旅でも心を留めて見てあるく人が、時すなわち人生を一番よく使った理想的の旅人ということになるのである」(74頁)。観光ガイドの指示に従ってスケジュールをこなすこと、名所旧跡をあわただしくカメラにおさめて先を急ぐことと、ひとや風景をじっくりとこころを落ちつけて見て歩くこと、こころ惹かれる出来事にじっと向き合う時間を生きることとは相容れない。旅の途上で、ひとや風景と対話しながら、立ちどまることで開かれてくる、中身の濃い時間を生きることこそが、旅行の醍醐味なのであろう。
 柳田は自分の人生観を率直に語っている。「世の中には志の高い善人も多いが、物の分からぬ手前勝手な醜い人も少なくない。双方どちらでもない人も随分あって、場合によってはしばしば悪いこともすればいやな事もする。そうして善い事よりも悪い事の方が、目にも立ち気を取られやすい」(80頁)。柳田は、青年に対して、世の中にはなぜ善と悪が混在し、愛と尊敬の隣に憎悪と闘争が住んでいるのか、その理由を考えてほしいと願う。さらにまた、青年が学問に取り組むならば、「もしや人の生活は方法次第で味わわずとも済むべき苦いものすっぱいものを、わざわざたがいに味わっているのではないかどうか」(81頁)じっくり考察できるようになってほしいと希望を述べている。学ぶということは、考えることが起点になるが、自分で考えるだけでなく、その内実を確かめながら、考えの意味と方向をさぐっていくことだ。過去をかえりみず、先を読まず、手前勝手な思いこみにとらわれてしまうと、善からは遠ざかる。善に近づき、悪を避けることができるように慎重に考えられるようになるということが、柳田の言う学問の意味である。
 この講演のおしまいでは、学問する者の三つの心構えについて語られる。「これだけ学べばもう十分という小さな満足をせぬこと」(89頁)、「本さえ読んでおれば、それで宜しいという考え方」(同頁)をしないこと、「歴史は読むものであって考えるものでないように思うこと」(92頁)を避けることの三つである。「もっと考えよ」(同頁)こそが、柳田の強いメッセージであった。

人物紹介

みなかた‐くまくす 【南方熊楠】

民俗学者、生物学者。日本民俗学の創始者の一人。和歌山出身。アメリカ・イギリスに渡り、大英博物館東洋調査部に勤務しながら動植物学・考古学・宗教学などを独学で研究。帰国後、和歌山県田辺で変形菌類などの採集・研究と民俗学の研究を行なった。著に「南方閑話」「十二支考」「南方随筆」など。慶応三〜昭和一六年(一八六七〜一九四一)
" みなかた‐くまくす【南方熊楠】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-08-22)

やなぎた‐くにお 【柳田国男】

民俗学者。兵庫県出身。旧姓松岡。国文学者井上通泰の弟。東京帝国大学法科大学政治科卒。農商務省法制局、宮内省などの官吏を経て朝日新聞社客員となる。その間、森鴎外、田山花袋らと交わり抒情詩人として期待されたが、次第に民間伝承の研究に進み、民俗学研究所を創設するなど、斯界の第一人者となる。昭和二六年(一九五一)文化勲章受章。芸術院会員。学士院会員。著「遠野物語」「石神問答」「海上の道」ほか多数。明治八〜昭和三七年(一八七五〜一九六二)
" やなぎた‐くにお【柳田国男】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-08-22)

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