蔵書検索(OPAC)
HOME > 資料案内 > 新しく入った本 > おすすめの一冊
新着資料 ベストセラー 学生の購入リクエスト
映画・ドラマの原作 テーマ図書 おすすめの一冊
おすすめの一冊 本学の教員や図書館員のおすすめの本を紹介します。
 

前の本へ

  次の本へ
自然・人間・動物―ベルギーとオランダから―

推薦文 :和田 渡 (経済学部 教授)

 マリ・ゲヴェルスの『フランドルの四季暦』(宮林寛訳、河出書房新社、2015年)は、自然の四季の移ろいを繊細な表現でつづったエッセーである。原題は、「流れ星の喜び、もしくは12ヶ月の書」である。ガーデナーの大野八生による約70点の植物画がこの本を飾っている。

 マリ・ゲヴェルス(1883~1975)は、ベルギーのアントウェルペン(アントワープ)近郊で生まれた。ベルギーは、言語境界線で国が二分され、線の北側はフラマン語(ベルギー人が話すオランダ語)、南側はワロン語(ベルギー人が話すフランス語)が公用語である。ドイツとの国境に接した一部の地域では、ドイツ語が公用語である。フラマン語圏に生まれたゲヴェルスは、学校ではオランダ語を習い、自宅では母親からフランス語を学び、後に多くの作品をフランス語で書くようになった。小説、紀行文、詩集、童話作品などを残した。ベルギー文学を代表する作家のひとりである。


 


 自然との交流の喜びや感動が生き生きと豊かに書きしるされている。ゲヴェルスは、この本の最初のエッセー「天象の楽しみ」で、こう述べている。「天象とは聞き慣れない言葉でしょうか。天翔ける星辰や、流れ星や、雷だけを天象と呼ぶ習慣が、いつの間にか出来上がってしまいました。でも本当は、大気中で起こるすべての現象を、この美しい名前で呼ぶことができるのです。雹も、霧も、あらゆる方位から吹きつける風の薔薇の花びらも、すべて天象ですし、霧氷も、霰も、雪解けも、虹や月の暈も、それにまた七月の夜空に満ちた不安を一気に放出する、無音で暑熱のこもった遠雷も天象なのです。そして夕暮れの空が赤く照り返すのも、夜明けの空に兆す緑の光も、同じく天象なのです」(8頁)。ゲヴェルスの感受性は、天と地の間で自然が繰り広げる出来事や、自然の奏でる音楽に共振する。一例をあげてみよう。「時おり、氷の表面に落ちた木の葉がびくりと震え、一斉に走り出します。風に吹かれた木の葉は橇に姿を変えて走り、凍りついた水面をこすることで三番目の、ひときわ高い摩擦音を、うちふるえる藘のざわめきと、樹冠を剪定したコナラの木で風に吹かれる葉のつぶやきに加えるのです」(16頁)。

 ゲヴェルスにとって、自然はただ外側から観察するだけのものではなく、そばに近づいて、五感で味わうものでもある。自然と触れあうさまが描かれた文章を引用してみよう。「一緒に来てください。マツユキソウが林の落ち葉の下で芽を出しました。体を屈めてください。真新しい水の次は、真新しい土に手を触れてみるのです。べったりと地面に張りついた落ち葉を剥がし、落ち葉に覆われていた腐葉土は取り除きましょう。雨は思ったよりも温かだったようです。土が匂いますから。十二月以来ずっと閉じ込められていた土からは、刺激臭とともに黴の臭いも立ち昇ります。ありました、ほら、マツユキソウがそこに。(中略)今年最初の慈雨が置いていった、すぐに壊れてしまいそうな純白の卵。茎の先端を上下の唇ではさみ、舌の先で蕾に触れてみてください。少しばかり酸味を帯び、少しだけ苦みがあって、内気で何かに驚いたような、なんとも不思議な味がします」(30~31頁)。林や庭と親しむ園芸家にはなじみの世界かもしれないが、コンクリートの空間のなかで生きるひとには想像しにくい世界が描かれている。

 自然と交わって生きるゲヴェルスはまた、目に見え、体で感じられる自然を超えて、目には見えず、手で触れることもできない世界を想像力によってつかまえる。想像力こそは、目に見える世界とそうでない世界、生者と死者をつなぐものである。ゲヴェルスは、ふたつの世界のつながりをこう表現している。「大地は透明な世界であり、水の中と同様、土の中でも自由に動くことができると仮定してみましょう。目を凝らした先に、やがて見えてくるのは、木の根だけが集まった地中の森です。地上の木と同じように地中の根も分岐し、ねじれた太枝を出し、太枝が分かれて小枝となり、小枝がさらに分かれて幾百幾千もの側根を生やしていきます。分岐する根は、地に浮かび、ウェヌスの髪という名を与えられた藻類と同じくらい繊細で、優美な姿をしているにちがいありません。死の湖に潜ることができるとしたら、そこに何が見えるでしょうか。そこにはたぶん、私たち生者の根となり、私たちが活力と、生命と、魂を得るもととなった先祖の人たちが、それこそ樹木の根と同じくらい密に繁茂しているのでしょう」(189頁)。

 『フランドルの四季暦』からは、自然を親しい友として生きるひとの幸福が伝わってくる。ひととのつきあいで疲れることの多いひとにとっては、オアシスのような本である。

 

 メイ・サートン(1912~1995)もベルギー生まれの作家である。第一次世界大戦の戦火を避けるため、4歳の時に両親に連れられてアメリカに亡命し、マサチューセッツ州のケンブリッジで成人した。1938年に最初の詩集を出版し、その後、小説、日記、自伝的な作品などを数多く残した。

 『一日一日が旅だから』(武田尚子編訳、みすず書房、2001年)には、サートンの残した500篇以上の詩のなかから21篇が選ばれている。書かれた時期はまちまちだが、いずれの詩にも、日々の暮らしや、季節の移ろい、自身のこころやからだのつかのまの変化がくっきりと写しとられている。「オリーブの園」という詩を見てみよう。40代のときの詩である。

 


ここオリーブの園のなか
コバルト色の円蓋の下に
太古の精霊が躍動し
光はふるさとに帰ってくる

光は白銀の葉にやどり
梢こずえを雲と化し
妙なる調べをつむぎつつ
行ったり来たりにいそがしい。

枝には天の贈りもの
霊こもるたわわな果実
葉はことごとく樹の根から
光明を慕ってのびあがる。

地上の世界の欲望が
天を夢みるこの園で
たぐいもまれなリラの音は
銀と緑をひびかせる。

光と影にたわむれる
天使は青葉の衣をまとい
オリーブの園を賛歌となす
山辺はあげて天の歌。

オリーブの銀と影とのまたたきは
われらの頭上にゆらめいて
いずれが光か果実かも
今はわかたぬ夢の森……(13~15頁)

 

 サートンにとって、自然はまさしく神からの贈り物である。天上の光が地上の植物と交わって、世界の表情を刻一刻と美しく変えていく。そのさまが喚起力の強い文章によってみごとに描きだされている。

 

 つぎの「至福」という詩は、80代のときに書かれた。

 


夜のなかば
寝室は月の光に洗われ
外には
引き潮の
ひそやかなつぶやき
欠けてゆく月の
まぢかに
ヴィナスが見える

いたずら好きなふくろうは
ごきげんでホーホーと鳴き
猫のピエロットはごろごろと
掌の下でさざなみをたてる
そしてこのいっさいが
薔薇の香のなかで沐浴
ベッドのかたわら いつも
木や花のふんだんにあるところで。

夜もなかば
生きていることの至福よ! (67~68頁)

 


生活上の心配が絶えず、仕事の事や人間関係が気にかかる青壮年期には、これから先の「未来」がたえず意識され、こころが現在に落ち着くことはまれだろう。しかし、終わりが視野に入ってくる老年期には、不確かな未来よりも「現在」の方がはるかに重みを増してくる。いま生きてあること、あるいはいま生かされてあることの幸福が神秘的な奇蹟のように感じられてくる。この詩は、一夜のひとときの絵画のような情景と喜悦をおごそかに表現している。

 

 トーン・テレヘン(1941~)は、オランダ南部の島で生まれた。母親はロシア人で、ロシア革命のときに、両親とともにオランダに移住してきた女性である。テレヘンはユトレヒト大学で医学を学び、ケニアで3年間マサイ族の医師を務めた。その後、アムステルダムで開業医となった。動物を主人公とする本を50作以上書いている。訳者のあとがきによれば、子供向けの作品だが、大人にもよく読まれ、結婚式や葬儀などで一部が朗読されることもあるという。

 『ハリネズミの願い』(長山さき訳、新潮社、2016年) のテーマは「孤独」である。ひとりぼっちのハリネズミは、いろんな友達が遊びにきてくれないかと願い、招待の手紙を書く。「親愛なるどうぶつたちへ/僕の家にあそびに来るよう、/キミたちみんなを招待します」(6頁)。少し迷ったあと、「でも、だれも来なくてもだいじょうぶです」(同頁)と書き足す。極度に臆病なハリネズミは、自分の気持ちを率直に外に出せないまま、だれも来ない事態を先取りして、自分の失望のなかに閉じこもってしまうのだ。結局、招待状は戸棚の引き出しにしまわれたままになる。

 ハリネズミは、招待状に誘われてやってくる動物たちとの出会いの場面をあれこれと想像する。カタツムリ、カメ、ヒキガエル、サイ、クマ、ゾウ。キリン、クジラたちとの「交流」が、ハリネズミのひとり芝居のなかでつぎつぎと空回りする。不意に孤独感に襲われる。「自分が深淵に落ちていくさまを想像してみた。しだいに深く落ちていったが、底は見えてこなかった。体がぐるぐると回転し、ハリがピンと逆立っていた」(39頁)。他方で、自分が自分といつも一緒にいるのだから孤独ではないとも思う。自分がだれだか分からなくなる。「ハリネズミはためいきをついて冷笑的に思った。この自分自身というやつが存在しないとしたら……そういうこともあるはずだ。鏡を見たらだれも映っていなかったら……それこそがほんとうのひとりぼっちだ!」(42頁)。

 ハリネズミは夢を見る。どうぶつたちがそろって遊びにくる。何百もの手紙が届く。誘われて森の空き地に行くと、どうぶつたちが勢ぞろいして待っている。歓待が、やがて自分へのいじめに変わっていくところで目が覚める(60~63頁参照)。

 ハリネズミは自分のこころをのぞきこむ。「ぼくはもしかしたら自分が訪問客を望んでいないことを知るためにのみ、だれかに来てほしいのかもしれない、と思った」(159頁)。自分が本当はどうぶつたちになにを期待しているのか、いないのかわからない。屈折した自意識がハリネズミを苦しめる。

 ある日、リスが訪ねてきて、ドアをノックする。「だれ?」「ぼくだよ」「リス。入れてくれる?」「なんで?」「わからない。ただなんとなく。だれか訪ねてきたらハリネズミが喜ぶかもしれないって思ったんだ」というやりとりのあと、ハリネズミはドアを開ける(163頁参照)。最初、ぎこちない時間が過ぎる。「ハリネズミとリスは紅茶を飲み、ハチミツを舐め、ときどきうなずきあった」(165頁)。やがて、ハリネズミもリスも共にいることが気持ちよくなり、「時間が止まればいいのに」(165頁)と、幸福感に満たされる。

 ある真夜中に目を覚ましたハリネズミは、どうぶつたちが書いてよこす手紙の文面を想像する。「招待しないでくれてありがとう。みんなキミの友だちだし、これからもずっと友だちでいつづけるから、訪ねる必要はまったくない」という内容だ(168頁参照)。リスはこう書いてくると予想する。「とっても楽しかったね、ハリネズミ。また会おうね!」(同頁参照)。おしまいはこう締めくくられる。「ハリネズミはぎゅっと目をつぶって深いためいきをついた。また会おうね……それはハリネズミの知るもっともすてきな言葉だった。/それからハリネズミは眠りに落ち、冬じゅう眠りつづけた」(同頁)。

 ハリネズミの空想の場面と現実の出会いとの対比を通して、存在することの孤独と共存のよろこびがあざやかに浮かびあがる。期待と絶望、自己卑下と矜持が目まぐるしく交錯している。ハリネズミのひとり舞台は、せつなく、そして、いとおしい。わたしたちのだれもがハリネズミなのだ。


人物紹介

マリ・ゲヴェルス(Marie Gevers) [883−1975]

ベルギー仏語文学を代表する作家の一人。1983年から王立フランス語フランス文学アカデミー会員。ベルギー国内を南西から北東に流れるスヘルデ川の下流域、アントウェルペン近郊で生まれる。生家は17世紀に遡る城館のような屋敷で、建物を取り巻く広大な庭園は繊細な自然描写の源泉となった。小説に、『堤防監視人の娘(1931)』『大潮(1937)』『生命線(1937)』『田園のやすらぎ(1941)』『マダム・オルフェ、あるいは五月の夜想曲(1933)』『グルデントップ(1922-1965)』など、紀行文に、『スヘルデ川のたび(1947)』『千の丘から九の火山へ(1953)』などがある。ほかに詩集、童話、オランダ語からの翻訳作品も多い。―本書より


メイ・サートン (May Sarton) [1912−1995]

アメリカの女性詩人,小説家。ベルギーに生まれ,4歳で学者の父と共に渡米,1924年帰化する。ボストンの高校卒業後,劇団員となる。詩集『4月の出会い』Encounter in April(1937)以後は諸大学で創作を教えながら,詩,小説,日記を次々に発表。『沈黙への途上』Halfway to Silence(80),『メイン便り』Letters from Maine(84)の2詩集を出す。愛用のソネット形式よりも日本の俳句風の短い自由詩型の『内密な神話』A Private Mythology(66)が代表作とされる。自伝に『深く夢みる植物』A Plant Dreaming Deep(68)がある。
" サートン メイ【May Sarton】", デジタル版 集英社世界文学大事典((c)Shueisha), JapanKnowledge, http://japanknowledge.com,

トーン・テレヘン ( Tellegen,Toon) [1951−]

1941年、医師の父とロシア生まれの母のもと、オランダ南部の島に誕生。ユトレヒト大学で医学を修め、ケニアでマサイ族の医師を勤めたのちアムステルダムで開業医に。1984年、幼い娘のために書いた動物たちの物語『1日もかかさずに』を刊行。以後、動物を主人公とする本を50作以上発表し、国内外の文学賞を多数受賞。取材嫌いでメディアにほとんど登場しないが、オランダ出版界と読者の敬愛を一身に集めている。本書は大人のための<どうぶつたちの小説>シリーズの一冊。―本書より

ページトップへ戻る