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文学の挑戦―イーユン・リーと閻連科 ―

推薦文 :和田 渡 (経済学部 教授)
 

イーユン・リーのデビュー作 『千年の祈り』(篠森ゆりこ訳、新潮社、2007年) は、10の短編からなっている。2005年にアメリカで出版されると、第一回のフランク・オコナー国際短編賞、ガーディアン新人賞などを受賞し、リー自身も、『ロサンジェルス・タイムズ』で05年の「注目すべき人物」のひとりに選ばれた。

 

イーユン・リーは1972年、北京で、核開発の研究者の父と、教師の母のもとに生まれた。文化大革命の嵐が吹き荒れていた時期だ。1989年に起きた天安門事件とその余波は、17歳のリーに政治や国の体制について考える機会を与えた。その2年後に北京大学に入学し、細胞生物学を学んだ。1996年に念願かなって渡米し、アイオワ大学の大学院で免疫学の修士号を取得し、博士課程ではアレルギーやぜんそくの研究にとり組んだ。

 

その後、自分の作家願望に気づいたリーは、同大学の創作科に入りなおし、作家への道を歩き始めた。


 


 

 

 

 ひとは、自分が選んだのではない社会に生まれて、生きていかなければならない。その社会が自由を疎外する抑圧的な社会であれば、自由を求める魂にはストレスがかかる。訳者のあとがきによれば、リーは、政治的な意見をはっきり言えない環境、古い価値観に拘束された共同体といった二重三重の抑圧を受けている間に、次第に自分の発言を自己検閲するようになったという(230頁参照)。中国語で書くことが困難になったのである。しかし、彼女はアメリカに渡り、英語というあたらしい言語を獲得して、自己検閲を脱し、中国語では書きにくかったことが表現できるようになった(同頁参照)。リーは、「千年の祈り」のなかで、娘にこう語らせている。「『父さん。自分の気持ちを言葉にせずに育ったら、ちがう言語を習って新しい言葉で話すほうが楽なの。そうすれば新しい人間になれるの』」(241頁)。

 

 

 本書の短編には、体制や古い慣習などに翻弄されて生きるひとびとが登場するが、老境をむかえた人の描き方は秀逸である。訳者は、「『自分でないものを想像し、見知らぬものを親しいものとし、親しいものを神秘化する作家の能力こそ、その力をはかる尺度となる』」(246頁)というトニ・モリスンの言葉を引いて、リーの想像的な力の卓越性を高く評価している。

 

 「あまりもの」は、51歳で名誉退職を迫られた林ばあさんのその後の顚末を描いた短編である。年金が支給されるあてはなく、いくらつつましい生活をしても、わずかな貯金は2年以内には底をつく。近所に住む王さんの紹介で、奥さんをなくした76歳の唐じいさんと結婚することになる。老人は高血圧で糖尿病をかかえ、アルツハイマーにもかかっている。介護の日々が2ヶ月続くが、唐じいさんは転倒がもとで亡くなる。介護上の不注意を責められた林ばあさんには一銭の遺産も入らない。息子の口利きで、私立学校の寮で働き始めるが、児童の一人の失踪騒ぎの責任を問われ、解雇されて出ていくという話である。終わりの方の文章を引いてみよう。「林ばあさんは道の上に座りこみ、弁当箱を胸に抱く。みんなお腹をすかせているのに、誰も老女から弁当を盗もうとしないのは不思議だ。おかげで彼女は大事なものをなくしたことがない。弁当箱の中には三千元の解雇手当が無事に入っている」(27頁)。ひととの間に波風をたてたりせず、他人の言うがままに流されるようにして生きる林ばあさんの行動がたんたんと描かれているが、哀切感が迫ってくる掌編である。

 

 

 「千年の祈り」は、お互いにすれ違う父と娘の会話を軸にして、過去にこだわり、人間関係に苦労して生きていかざるをえない人間の生の断面を透かし彫りのように浮きあがらせる傑作である。ことばを介するがゆえに葛藤にはまりこむ親子の関係と対照的に、お互いのことばが通じないままに親密な交流を続ける父とイラン人の女性との関係が描かれる。  

 ロケット工学者として働いていた石氏は、離婚した娘の身を案じて中国からアメリカの中西部の町にやってくる。そこで77歳のイラン人女性と親しくなる。「二人とも英語がほとんど話せないのに、おたがいの言いたいことが容易にわかる。それでたちまち友達になった」(227頁)。ふたりは幸福な時間を享受する。

 

 娘の家では、おたがいの心に響くことのない冷たいことばのやりとりが続く。娘の日常や職場のことを根掘り葉掘り問いただし、ときに説教を交える父に、娘はいらだつ。自分のことを棚にあげて娘を責める父への怒りが強まる。娘は、「眼鏡の奥でかっと目を開けて、容赦ない視線で見すえている」(231頁)。険悪な会話は、娘の外出によって断ち切られる。  

 翌朝のイラン人女性との会話で、石氏は、「修百世可同舟」という諺を口にする。「<たがいが会って話すには―長い年月の深い祈りが必ずあったんです。ここにわたしたちがたどり着くためにです>」(233頁)。この短編のテーマが、この諺に集約されている。

 

 その日の晩に、父と娘の間で、とげとげしい会話が再び始まる。こんな調子だ。

 


 「母さんは父さんに話をさせることができていた?」これまで見たことがないほどけわしい目が、父の目をまっすぐ射る。
 「お母さんならそんな挑戦的な態度はとらない」
 「父さん。わたしが無口すぎるって最初は責めていたわよね。それで話しだすと、今度は話し方がまちがってるって言うの」
 「質問をするだけが会話じゃない。会話ってものは、相手について思っていることを話して、それで自分のことをどう思うか言ってくれるように相手をうながすもんだ」
 「あら。いつからセラピストになったの」(235~236頁)
 

 

 娘の離婚についてのふたりの会話もすれちがう。

 


 「わたしが夫とよく話をしなかったのがまずかったのよ。わたしが無口なもんだから、いつも何か隠してるんじゃないかとあの人はうたがってた」
 「愛人を隠していたんじゃないか」
 その発言は無視される。「話をしろってあの人に言われれば言われるほど、黙って一人でいたくなったの。話すのが下手なのね。父さんが言ったみたいに」
 「嘘だ。電話でいま、あんなにべらべら話してたじゃないか。しゃべったり、笑ったり。売女みたいに!」
 どぎつい言葉にぎょっとして、娘の目が石氏の顔に釘づけになる。しかししばらくするとおだやかな声で答える。「ちがうのよ。英語で話すと話しやすいの。わたし、中国語だとうまく話せないのよ」
 「くだらん言い訳だ!」(240~241頁)
 

 

 

 この後の会話で、石氏が仕事のことで母にも娘にも嘘をつき、夫婦関係にもひびが入っていた過去が暴かれる。冷え冷えしたふたりの関係を見つめながら、次第に無口になっていかざるをえなかった娘の過去も明らかになる。

 

 イラン人女性と別れる前の会話で、石氏は自分が偽装していた過去を語る。38年間の研究所勤務のうちで、ロケット工学者として働いたのは最初の3年間だけだった。カードパンチャーをしていた女性と親しく話すようになり、不倫関係を疑われたためだった。「たしかに愛はあったが、みんながうたがうような愛ではない―いつもある程度の距離を置いていて、手も触れたことはなかった。しかし、何でも話せる愛、心が触れあう愛はあった―それも愛ではないのか」(244頁)。石氏は、不倫を認めて自己批判すれば、ロケット工学者として働くことを約束されたが、それを拒否し、養成訓練を受けた者のなかでは最低の地位の仕事に回された。それ以降、石氏は、「仕事中は威厳をたもち、終わると仕事で頭がいっぱいの無口なロケット工学者として、妻のもとへ帰った」(245頁)。

 

 

  閻連科の『年月日』(谷川毅訳、2016年、白水社) は、はるか大昔、日照りが続く村にただひとり残り、メナシという名の盲犬と、一本のトウモロコシの苗を守り育てるために奮闘する老人の物語である。老人は、盲犬と一緒にねずみの肉を食って生き延び、狼との緊迫した対決にも勝利するが、最後には、トウモロコシのために自分の身を捧げる。

 

 この作品は、1997年に雑誌『収穫』に発表され、同年の第2回魯迅文学賞を受賞した。いくつかの外国語にも翻訳されている。フランスでは2009年に仏訳が出版され、翌年には、フランス国家翻訳賞を受賞している。フランスの国家教育センターが、中高生向けの推薦図書に選定している。

 

 閻連科は、1958年に河南省の寒村に生まれ、幼少期は飢えと孤独のなかで過ごしたという。高校を中退し、出稼ぎ労働者として働き、家計を助けた。20歳の時に人民解放軍に入隊し、部隊内に設けられた創作学習班に参加し、作家としての腕を磨いた。

 

 著者は、「もう一人の閻連科―日本の読者へ」のなかで、この作品の成り立ちについてこう語っている。「あの年の何月何日のことだったかは覚えていませんが、病気の治療のため西安に行く途中、悲愴感にさいなまれながら、だだっぴろい、人っ子一人いないトウモロコシ畑を一人で歩いているとき、突然頭が爆発したかのように、『年月日』の物語と登場人物が、轟音を上げて私の中に入ってきたのです。目の前にはっきりと立ち現われたのです。その衝動―降りてきたインスピレーションのもたらした戦慄は、それ以後経験したことはありません。インスピレーションとの遭遇はしばしばありますが、あれほど強い戦慄を感じたことは後にも先にもありません」(147頁)。腰と首のヘルニアで苦しんでいた閻連科は、車椅子に横たわり、特性の執筆ボードに向かい、ひたすら書いて、書いて、書き続けて『年月日』を完成させたという(147~148頁参照)。一種の「お筆書き」経験がこの作品の源にあるのだ。

 

 『年月日』は、長期の猛烈な日照りで誰もが村を離れるなかで、ただひとり村に残った先じいとメナシの楽しく、愉快な交流を、パワーにあふれた文章でつづる物語である。先じいがメナシに話しかけると、メナシがしぐさで答える。老人と犬の友情は濃く、深い。おしまいの方で語る先じいのことばが、なによりもそれを象徴している。「泣くんじゃない。わしが死んだら獣に生まれ変わっておまえになる。お前が死んだら人に生まれ変わってわしの子どもになるんだ。これまでのように仲良くやっていこうじゃないか」(132頁)。  

 自然に関する描写力の強い文体も特徴的だ。冒頭の文章を読めば一目瞭然である。少し長くなるが、引用してみよう。「はるか大昔の日照り続きのその年、年月はあぶられ、ほんのひとひねりで灰のようにボロボロ崩れ、日々は燃えている炭のように張りつき、手のひらをジリジリと焼いていった。毎日毎日数珠つなぎに出てくる太陽は、飽きもせず頭上にかかっていた。先じいは、朝から晩まで一日中、自分の髪の毛が黄色く焼ける焦げ臭さを感じていた。手を空に伸ばすと、またたく間に爪が焦げる黒いにおいがした」(3頁)。日光に関する印象的な描写は次々に出てくる。「斜めに差しこんでくる日の光が金色の液体となって村中に流れこみ、死んだような静けさの中、家の軒先から日の光がサラサラこぼれ落ちていく音が響いてくるようだった」(24頁)。「日の光が強くなると光が重さとなってのしかかってくるのだ」(48頁)。「日の光がぶつかり合っても、月の光が地に落ちても澄んだ音が響いてくるようだった」(143頁)。

 

 ネズミの大群の大移動するさまも迫力に満ちた描写だ。「北の方から雨音がとぎれとぎれに聞こえてくる。先じいにはそれが雨ではなく、ネズミの隊列がやってくる音だとわかっていた。(中略)尾根を越えてやってくるものは、とてもネズミには見えなかった。道に沿って襲ってくる洪水だった。青紫のネズミの叫び声が洪水の先端となって狂ったように暴れながらネズミの軍団を引っぱり、波のような隊列がうねりながら前へ前へとあふれんばかりになだれこみ、近づくにつれてその音は小雨から天地をどよもす暴風雨となった」(65頁)。

 

 この小説のクラマックスは、トウモロコシを実らせるために先じいのとる究極の犠牲的な行動の場面である。「大バカもんが、トウモロコシは実をつけるときに一番肥料がいるんだってことがなんで思い出せなかったんだ!」(129頁)。先じいは、トウモロコがよく実るために、自分を肥料にすることを決意する。先じいは、「トウモロコシの根が出ている方の壁に張りつくように横になり、むしろを頭から足まですっぽりかぶった。土をかぶせるんだ、メナシ、わしを埋めたら北へ行け」(137頁)。

 

 1年後、種まきの季節に村人たちが戻ってくる。実ったトウモロコシのなかで、「爪くらいの大きさの七粒だけが真珠のように艶々としていた」(140頁)。村人たちは、トウモロコシの命をつなぎ、根と一体化した先じいの亡骸を目にして、祖先の墓に移すことを止め、メナシの死骸ともども、その場所に埋葬することにした。

 

 訳者の谷川によれば、閻連科は講演やエッセイで、たびたび「尊厳」ということばを多用し、それは、「人生の中の気品と活力」「人生が内包する意志の力」「人生において示される気骨と風格」を意味しているという(152頁参照)。先じいは、まぎれもなく、それらの要素が凝縮したひととして造形されている。


人物紹介

イーユン・リー (Yiyun Li  李 翊雲)[1972〜]

1972年北京生まれ。北京大学卒業後、96年渡米、 アイオワ大学大学院で免疫学修士号取得ののち、同大学創作科修士号取得。2004年「不滅」でプリンプトン新人賞、プッシュカート賞受賞。 フランク・オコナー国際短篇賞、PEN/ヘミングウェイ賞、ガーディアン新人賞、「ニューヨークタイムズ・ブックレビュー」エディターズ・チョイス賞、ホワイティング賞を受賞。 『グランタ』が「もっとも有望な若手アメリカ作家」の一人に選出。 現在ミルズ・カレッジ文学部創作科助教授。カリフォルニア州オークランドに夫と息子二人とともに暮らしている。

―本書より

閻連科 (えん れんか) [1958〜]

著者略歴 閤連科(えん・れんか、Yan Lianke) 1958年中国河南省嵩県の貧しい農村に生まれる。高校中退で就労後、20歳のときに解放軍に入隊し、創作学習班に参加する。1980年代末から小説を発表し、92年には軍隊文学の新地平を切り聞く中篇『夏日落』を発表するが、発禁処分となる。 その後、精力的に作品を発表し、2003年、中国で「狂想現実主義」と称される本書を発表し、老舎文学賞受賞。さらに2005年雑誌に発表された長篇『人民に奉仕する』が2度目の発禁処分となる。 エイズ村を扱った長篇『丁庄の夢』(2006)は販売差し止め処分。大飢鐘の内幕を暴露した長篇『四書』は大陸で出版できず、2001年台湾から出版された。 2001年中篇『年月日』で魯迅文学賞を受賞。2011年『丁庄の夢』がマン・アジア文学賞最終候補、2013年国際ブッカー賞最終候補、 2014年にはフランツ・カフカ賞受賞。いま最も注目される中国語圏の作家の一人。

―「愉楽(2014)」より

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