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エピクテートスは、50年頃に生まれ、135年頃に没したとされる。奴隷として生まれ育ったが、向学心が強かったために、主人は当時名の知れたストア哲学者のムソニウス・ルーフスのもとに弟子入りさせた。のちに奴隷の身分から解放されたエピクテートスは、ローマで哲学の話を続け、聴衆を魅了した。『人生談義』は、弟子のアリアーノスの筆録にもとづいている。哲学というと、日常生活とは縁の薄い、かたくるしい抽象的な学問を連想するひとも多いかもしれないが、だれが聞いても分かるように心を砕いたエピクテートスの話しぶりは、平明で、ユーモアに富み、卓抜な比喩がいたるところにちりばめられている。この本は、2000年以上も前のローマ人の考え方や行動の一端を明らかにするものであるにもかかわらず、21世紀に生きる者たちのことを書いているとしか思えないような箇所も多い。過去の光で現代を照射し、時代の動向と人間のふるまいを考えてみるには最適の読み物だ。
この全2冊には、「語録」の全4巻と「断片」、「提要」が収められている。アリアーノスは冒頭で、自分の勉強のために師のことばをそのまま書きとめたものが、いつの間にか世間に出てしまったと述べている((上)の12頁参照)。彼によれば、師は、「明らかに、ただ聴いている人たちの心を最善なるものに向わせようと目ざしていた」(同頁)。
第1巻の第1章は、「われわれの権内にあるものとわれわれの権内にないものとについて」である。「権内」という訳語は少しかたくるしいが、自分にできることと、自分にはできない、自分ではどうすることもできないものとをきちんと区別して生きることが大切だということだ。大半の自然現象は、われわれにはどうすることもできない。たとえば、雲の動きや、風の向き、木漏れ日などを自分でつくりだすことはできない。風景を明るくすることも、闇を深くすることもできない。われわれにおきることにも、自分ではどうすることもできないことが少なくない。災害にあう、嵐に襲われる、病気になるなどは、われわれが受容するしかない出来事である。しかし、自分の力ではどうするもこともできない出来事がつぎつぎとおこるなかにあっても、われわれには、ある力が与えられている。それが「理性的能力」(14頁)である。
理性を与えられた人間は、その力を存分に駆使して、自分のできる最善のことをするのが望ましい。これがエピクテートスのもっとも強調する点である。理性の力は、心像を正しく使用する働きとかかわる。心像ということばは分かりにくいが、平たく言えば、心におとずれるさまざまな出来事を意味する。われわれは、自分自身や他人のことで悩んだり、周囲の環境や自然などについてさまざまなことを思い浮かべたりして生きているが、それぞれの局面で、心のなかにたえず生起しているのが心像である。それはつねになにかを欲したり、拒否したりしながら生きており、そのいずれの状態にあっても、刻々と生成し、変容し続けているのである。理性は、状況に応じて気ままに移ろい、ともすれば不正な方向に流れやすい心像のありさまに目を配ることができる。理性はまた、それぞれの心像がどのような向きに向かっているかを正確に理解することもできる。
それにもとづき、心像に一定の秩序を与えて、心像を正しく使用する動因となるのが意志である。理性が、いわば、心像の監視役であるとすれば、理性の理解にそって、心像を正しく使用するように導くのが意志なのである。結果として、意志は具体的な行為とむすびつく。もしも意志が悪意をもって心像を操作すれば、悪質な振る舞いがなされるだろう。逆に、意志が心像を修正することができれば、振る舞いは良質なものになるだろう。エピクテートスはこう発言している。「人間の善や悪は意志の中にある」(95頁)。意志が振る舞い方を決めるがゆえに、意志についてはとくに配慮が必要になるのである。意志次第でふるまいの善し悪しが決まるとすれば、意志のもち方には警戒が必要だ。自分の意志の邪悪さを放置して悪行へとつなげるのではなく、善行をなすために意志を美しく磨くことが大切になるのだ。この問題は、意志の化粧論として第3巻で展開されている。
第3巻の第1章は「おしゃれについて」だ。だれもが多かれ少なかれ、髪型に工夫をこらす、念入りに化粧をする、服装に気を配るなどして、自分を飾ることに忙しい。外面的な部分は、肉眼で見ることができ、また鏡に映すこともできるので、修正はむずかしいものではない。
しかし、エピクテートスの言うおしゃれは、外見を飾ることではない。かつて、下村湖人という作家は、鏡をのぞくときには、自分の顔の表面ではなく、その奥にあるものを見つめるようにするべきだと述べたが、エピクテートスの考えも同じだ。彼によれば、われわれを美しくするのは、徳という、それ自身は肉眼で確かめることのできないものである。「君ももし美しくありたいのならば、ねえ君、人間の徳に骨折るがいい」((下)の9頁)。徳に骨折るひとの例として、正しいことをし、節度を守り、自制心を働かして生きるひとがあげられている。儒教的な徳目と共通している。「君が君自身を何かこのような者とするならば、いいかね、君は君自身を美しくすることになるだろう。だが君がこれらのことをおろそかにしている限りは、たとい君が美しく見えるようにあらゆる手段を尽しても、君は醜いのが当り前だよ」(10頁)。いくら外見をきれいに飾ったところで、ふるまいに品位や洗練さがなければ、ちっとも美しくはないということだ。
エピクテートスの求める美は、内面的なこころの働きに化粧をほどこすことによって獲得される。彼がもっとも重視するのが、さきに述べたように、意志の働きである。意志は、心像をよい方向へと向ける働きである。「もし君が意志を美しく持つならば、君は美しいだろう」(16頁)。美しい意志がめざすのは、よいふるまい以外のなにものでもない。ソクラテースは、見栄えのする男アルキビアーデスに、「美しくあるように努力しなさい」と忠告したという。エピクテートスは、その意味を、髪の毛をなでつけ、脚の毛をむしりとることではなく、意志を飾り、くだらない考えをとり除くことだと理解する(同頁参照)。
目につく欠点を隠して見えなくすることは容易だが、意志や思考といった働きは、肉眼では見えないために放置されやすい。邪悪な意志が育ち、思考が劣悪化しても、修正が効かず、結果として、醜悪なふるまいが表に出てくることも少なくない。それを回避して、美しいふるまいを心がけようというのが、エピクテートスの内面的化粧論である。
第2巻の第18章「心像に対していかに戦うべきか」のテーマは、内面を飾ることに無頓着だと、愚かしい心像に引きずられて、いかに悲惨なことになるかである。われわれの身体は運動をしないと、次第に柔軟性を失って固くなってしまう。エピクテートスは、魂も放置してなんの手入れもしなければ、身体と同じことになるという。彼の言い分を聴いてみよう。「確かに、魂の病も成長して行く、と哲学者たちがいっている。というのは、もし君が一度金銭に対する慾を起した時、もし悪いことだと意識させるように、理性が適用されたならば、その欲望はとまって、われわれの指導能力は、最初の処におさまるけれども、もし君が何ら治療手段を講じなかったならば、もはやその同じ処へは帰らないで、むしろ再び対応した心像によって刺戟され、以前よりももっと速かに、欲望を焚きつけることになるからである。そしてこれが連続的に生起するならば、結局硬化して、その魂の病は貪慾を固定してしまうことになるのである」((上)の199頁)。昔も今も、多くのひとの心に住みついて離れないのは金銭的な欲望であり、われわれの心像は、しばしば、その種の欲望によって染めあげられてしまう。そうなると、口を開けばお金の話ということになる。
そこで、エピクテートスは、理性に登場願って、心像に対して次のように問いかけることを提案する。「『心像よ、ちょっと待ってくれ給え。お前は何なのか、何についての心像なのか見させてくれ給え、君をしらべさせてくれ給え』」(201頁)。このようにして、立ち止まって問いかけなければ、心像に支配されるがままになってしまうだろう。そうならないためにこそ、理性が心像の身分を明らかにすることが必要になる。要するに、いまの自分がなにを欲し、なにを考え、なにをしているのかを冷静に見極め、「このままではまずい」と思う点を正確に理解することである。
その理解にもとづいて、日常の具体的なふるまいを指図するのが意志の役割である。たとえば金銭欲について言えば、お金のことで心が騒ぐ状態にブレーキをかけて、別のことに向かうように仕向けるのが意志のつとめである。意志がそのように働かなければ、エピクテートスの言うように、心は金銭的な欲望のとりこになって、貪慾という病におちいる。彼によれば、心像に絶えず警戒して、自分自身を鍛える者が本当の修行者である(同頁参照)。彼の忠告を聴こう。「じっとしてい給え、ねえ君、心像にさらわれぬがいい。この戦いは偉大であり、この業は神聖なのだ、王国のために、自由のために、幸福のために、平静のために」(同頁)。理性を追い払う強烈な嵐となって吹き荒れる心像との戦いは厳しく、過酷ではあるが、それを避けてはならないということだ。
『人生談義』には、人間関係論も豊富だ。第3巻の第16章「注意して交際せねばならぬということ」を見てみよう。エピクテートスは、繰り返し自分の心像とのつきあい方に注意をうながす反面、具体的な他人との交際にも用心が必要だと語る。周りのことばかり気にして、相手のペースでしか生きていないと、他人の奴隷になってすりきれてしまう。かといって、自分のペースでつっぱってばかりいると他人との間に軋轢が生じて、お互いにストレスがたまる。
エピクテートスは、人間関係についてわかりやすく述べている。「煤のついた人と親しく交際する者は、自分も煤で黒くならざるを得ないということを記憶して置かなくてはならない」((下)の58頁)。「朱に交われば赤くなる」ということだ。「提要」の33では、同じことをこう語っている。「外部の人々や普通の人たちとの宴会は避けよ、だがそういう時があるならば無教養なことに陥らぬように注意せよ。けだし仲間が汚れていれば、当人はたまたま綺麗でも、彼と交わる者は汚れざるを得ないからだと知るがよい」(272~273頁)。ひととのつきあいでは、相手から影響を受けると同時に、相手にも影響を与えるという相互的な関係が生じるが、エピクテートスがこの言い方で強調するのは、前者の側面である。グループのボスの言動は、部下たちに伝染していくし、師のふるまいは、弟子を感化する。相手からのよい影響を受けたければ、よい相手を選ばなければならない。つきあう相手の選択を誤ると、痛い目にあうから、注意が必要になる。「琴を弾く人が、リラを取って絃に触るとすぐ、合わないものを識別して楽器を調節するが、ちょうどそういう心構えを諸君の中の誰が持っているだろうか」(58~59頁)。日頃からひとを見る目を鍛えておこうというアドヴァイスだ。
第4巻の第2章「社交について」でも、ひととのつきあい方のこつが語られる。「何よりも前に君が注意せねばならないことは、誰か従前の知り合いや、友人と深くつき合って、その結果、彼と同じ程度まで成りさがることの決してないようにするということである。もしそうでなければ、君は君自身を破壊することになるだろう」(163頁)。人とのつき合いは、くれぐれも用心するにこしたことはないのだ。エピクテートスは、付和雷同よりも、自主独立をすすめている。「君が飲み友だちともう一緒に飲まないならば、君は前と同様彼らの気に入ることはできない。それでどちらでも選ぶがいい、君はのんだくれとなって、彼らの気に入りたいか、それとも白面で気に入られたくないか。(中略)もしもつつしみとたしなみとのあることの方が、人から『気に入った人だ』といわれることよりもよりいいならば、他のことは棄て、断念し、身をそむけるがいい、君とそれらのものとを無関係ならしめるがいい」(164頁)。ひととのつき合いでは、しばしば、相手の気持ちを忖度して動いたり、相手から嫌われたくないために、ずるずると相手のペースにはまって身動きがとれなったりする。飲みたくない酒の席に嫌々同席する場合もある。しかし、相手に合わせてしたくないことばかりしていると、本当にすべき大切なことができなくなる。だから、相手から嫌われることを恐れず、自分の主義、主張を貫くことがのぞましい。他人との同調圧力に屈しやすいひとには、素直には受けいれがたい助言かもしれないが。
自分がもうひとり人の自分(自分の心像)とどのようにかかわって生きているのか、自他のつき合いがどのような特徴をもっているのか、どのようなつき合いが望ましく、避けたほうがよいつき合いとはどのようなものか、こういった問いをもち始めたひとには、エピクテートスの語りがよく響いてくるだろう。読んで、生きるヒントを得てほしい。
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