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考える力を鍛えるための方法―フランスの教育に学ぶ―

推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 フランス思想を語るうえで欠かせないデカルトとパスカルは、それぞれ「私は考える、だから私は存在する」(デカルト)と、「人間は考える葦である」(パスカル)という表現からわかるように、「考えること」に重きを置いた。パスカルは、「考えることが人間を偉大にする」とも述べた。ふたりによれば、人間としての尊厳は「考えること」のうちにあり、考えることができるからこそ、生きていると言えるのだ。
 とはいえ、考えるとはなにを意味するのか。どのようにすれば、考えることになるのだろうか。「下手な考え、休むに似たり」とも言う。下手な考えと上手な考えとがあるとすれば、両者の違いはどこにあるのだろうか。運動しなければ、身体能力が向上しないのと同様に、自分の頭を使って自分で考えることをしなければ、批判力も洞察力も育たないことは確かだ。しかし、自分で上手に考えることができるようになるために、そもそもなにが必要なのかは、必ずしもはっきりはしていない。
 「自分でよく考えなさい、自分の頭を使いなさい」と諭すひとはいる。しかし、よく考えるための手続きを教えてくれるひとは少ない。自分で考える力の鍛え方を丁寧に説明してくれる人も多くはいない。自分で深く考えるためには、どういう手続きを踏んだらよいのだろうか。運動選手には、運動に応じて能力を強化するためのさまざまな方法があり、それに則して能力の向上を図ることができる。それでは、考える力を深めるための方法はあるのだろうか。




  思考力の深化について教えてくれるのが、中島さおりの『哲学する子どもたち バカロレアの国フランスの教育事情』(河出書房新社、2016年)である。中島は、フランスに留学し、フランス人の夫、二子とともにパリ郊外に住んでおり、当地の教育事情にも詳しい。本書は、Ⅰ子どもを育てるならフランス?、Ⅱ式典がないフランスの学校、Ⅲパリのスクールライフ、Ⅳ哲学する子どもたち、Ⅴバカロレアがやってくる!の5章立てである。フランスと日本の教育の質的な違いを理解するために役立つ。
 日本の教育の現場では、試験が終わればすぐに忘れてしまうような知識を忙しく暗記することが強制される。文学作品の一部について、その内容や構成について考え、考えを文章にまとめたりして思考力を鍛える時間はあまり考慮されない。試験で試されるのは、主として記憶力でしかない。他方、フランスの教育では、じっくり考えないと答えられないような問題を課して、生徒の考える力を鍛えることに力点が置かれている。
 フランスには、バカロレアという大学入学資格試験がある。この試験は論述式であり、長い場合は、4時間かけて文章を作成しなければならない。たとえば、「人間が死について考えることに意味があるか」といった問いに対して、哲学者たちの肯定的あるいは否定的な意見を取りあげて比較検討し、最終的に、自分の考えを展開して結論を導くことが要求される。文字どおり、思考力が試される試験である。
 2016年の文系の試験問題はつぎの三つである。いずれの問題も、細かい知識の習得だけでなく、相当の思考力や分析力を要求している。1道徳的信条は経験にもとづくのだろうか。2欲望は本来際限がないものだろうか。3ハンナ・アレント『真実と政治』(1964)のテクストの抜粋箇所を説明しなさい。理系の場合は、以下の3問である。1労働が減れば、よりよく生きることになるだろうか。2知るためには論証しなければならないだろうか。3マキャベリ『君主論』(1532)のテクストの抜粋箇所を説明しなさい。経済・社会系の場合は、1われわれは、自分が望むものを常に心得ているだろうか、2われわれはなぜ歴史の勉強に興味をもつのだろうか、3デカルト『哲学原理』(1644)の抜粋箇所を説明しなさいである。フランスの高校生は、こうした問題に筋の通った文章で答えることができるように勉強するのである。
 中島は、論述試験で評価される答案を書くためのこつをいくつか紹介している。まずは、「与えられた問題をパラフレーズして、自分の言葉で書き直す」(40頁)ことである。つぎに、自分が使う用語をどういう意味で使うかを明確にして述べることである(41頁参照)。たとえば、「『尊敬するためには愛さなければならないか?』」(41頁)という課題が出された場合には、「尊敬」や「愛」を自分がどのように定義するかを明らかにして論を進めることである(41~42頁参照)。
 3番目に、問題提起をすること、すなわち、「『与えられた主題に、論理の一貫した答えが複数あって、それが互いに矛盾するという構図を作ること』」(42頁)である。「論理的にもっともと思われる説を二つ客観的に展開して、それを突き合わせることが『考える』ということであって、自分の思い込みを一方的に唱えるのは『考える』ということではない。そう学校で教えられていることにまず驚いてしまう」(42頁)。Aという考え方に、それと対立するBという考え方を対置し、両者を徹底して推し進めた先に出会うアポリアを回避するために、最後に自分なりの考えを提示するということである。なるほど、こういう論述式試験ならば、思考力を鍛えておかなければ歯が立たないだろうと実感される。
 先にあげた試験問題の3は、「テクスト評釈」である。テクストがきちんと客観的に読解できるかどうかを試す問題である。自分の思いつきや意見を述べればすむというものではない。「テクストが何を目的にしているか、何を言おうとしているか、そのためにどのような手段をとっているか、その試みは成功しているか、このような テクストは文学史的にどのように位置づけられるか、等々を細部の分析に基づいて解説する」(225~226頁)のが評釈である。評価される評釈文を作成するためには、テクストをさまざまな観点から分析し、掘り下げて読む訓練が欠かせない。
テクスト評釈は、序論、本論、結論という3部形式に従うことが必要である。序論では、テクストの内容を自分の言葉でまとめ、なにを述べるかを提起し、それをどのような順序で述べていくかを明らかにすることが求められる。つぎに書くべきなのは本論ではなく、結論である。「結論は、まず、細部ではなく全体を見渡す文章で自ら序論で提起した問題に明確に答える。次に二、三行で、自分の論評の最も大事な点をまとめ、最後に、テクストをより一般的なコンテクストのなかに置いて見直してみる」(229頁)。その後で本論を書き、序論と結論で概略的に述べたことの実質的な肉づけを行なうことになる。「フランスの高校生は、文系の生徒のみならず全員が、こうした『評釈』を書けるように、テクストの読み方、分析の仕方、分析に必要な概念、文学的な知識を授業で学んでいる」(231頁)。彼らは3年生になると、週10時間以上も「哲学」の授業を受けて、考えて、書くことを実践するのだ。彼らの多くが勉強に忙しく、遊ぶ暇がないというのもよくわかる。
 「一般の高校生に、どうしてかくも高度な論述試験をできるのか」と、日本から来た知人が感慨を洩らしたとき、中島は、「『やり方を教えるからです』」(231頁)と答えている。来日したフランスの大学生には、日本の政治や社会問題について質問しても、「え?わっかりませーん」としか言わない日本の大学生が子どものようにしか見えないらしいが、彼我の教育の質の違いを知れば、「ごもっとも」と言わざるをえない。フランスの高校生が政府の方針に抗議してデモ行進する場面がニュースで報じられたりするが、日本では考えられないことだ。
 この本には、付録として、2015年度の評釈問題と模範解答がついている(231~238頁参照)。高い評価点がつく解答を書ける日本人はいないだろうと思わせるようなハイ・レヴェルの問題に圧倒される。テクストを知的に分析し、客観的に解読できるためには、日ごろからテクストを精読し、内容について深く考え、書く習慣をもつことが大切だろう。中島は言う。「人は質の高い文章を読むことでのみ、書けるようにもなるのである。文章だけでなく、映画でも音楽でもデザインでもなんでもそうだろうと思うけれども、古典といわれる価値のある、過去の優れたものを知ることで、審美眼ひいては確固としたその人独自のスタイルは作られるのであって、同時代のものにしか触れなければ、必然的に質は低下する」(240頁)。
 教育を通じて、読む力、考える力、書く力を鍛えられることの少ない日本の高校生や大学生であっても、質の高い古典や、入念に書かれた文章をじっくり読んで、考え、書く機会はいくらでもある。その気になれば、いい映画や芸術作品に出会うこともできる。しかし、人間を魅力的にするものとのつき合いは、しばしば面倒なことが多く、つい避けてしまいがちになる。その代わりに、安手の娯楽に溺れてしまうのだ。それは、自分の人間的な質を落としていくことにつながる。
 それを避けるためには、やはり「よく考えること」が欠かせないだろう。よく考えるとは、先を読んで生きるということだ。「こんなことしかしていないと、こんな風にしかなれない」、「こういうふうにしていれば、こういうふうにできるようになる」と、現在を将来との関連において位置づけ、先を見越して今を生きることが望まれる。むろん功利的な観点から言っているのではなく、今よりもよい、あるべき自分に向かっていかに道筋をつけていくか、ということだ。そこで必要になるのは、自分で自分を教育する姿勢を保つことだ。フランスの高校生のように生徒の自立を助けるよい教師が周りにいなければ、自分が自分の教師になるしかない。デカルトも、『方法序説』のなかで、自分で自分を導くことの大切さを強調していた。

 ベルトラン・ヴェルジュリの『幸福の小さな哲学』(原章二+岡本健訳、平凡社、2004年)は、考えることの喜びを伝えてくる一冊である。
 ヴェルジュリは1953年にパリに生まれる。エコール・ノルマル(高等師範学校)を卒業し、高等教育教授資格を取得した。パリ政治学院やリセの高等師範学校受験準備クラスで哲学を教えている。本書は、「序論 幸福について哲学するとは?」、「かつては幸福があった」、「幸福の技術」、「幸福と神々」、「人間たちの幸福」、「永遠に向かって」、「結論 幸福になるために何を待っているのか?」からなる。古代ギリシアの時代から現代にいたるまで幸福は多様な文脈で論じられてきたが、著者は幸福がなによりも哲学の問題であることを力説している。
 「序論」は哲学のすすめである。ピアノを弾くために先生に習うことに誰も疑いをもたないという話に続けて、著者は言う。「ところが奇妙なことに、哲学の話になって先生のところへ行かなければならないとなると、みんなが腹を立てる。まるで考えることは教えられない、とでもいうかのように」(17頁)。著者によれば、哲学は音楽と同じで、先生から学ぶものである。「考えることも習うのである」(同頁)。教師の助けを借りずに、ひとりで考えられるようにはならないということだ。著者はこう続ける。「自分の考えを組み立てられるようになるためには、何年もかかる。先生がいて、生徒に哲学の本をきちんと読みこむことを教えて、はじめてそれができる。それができるようになって、本当の歓びが味わえる。それは自分で自分のことを理解する歓びであり、哲学者の深い思想を理解する歓びであり、他人が世界を理解するのを助ける歓びである。それは思想における交感の瞬間であり、魔法の瞬間であり、恩寵の時である。そのとき思想は、いのちの音楽そのものとなり、私たちの内なる世界を照らすだろう」(17~18頁)。考えることの歓びを讃える美しい文章である。
 ヴェルジュリが「習う」範囲に含めていることは広い。考えることのほかに、聞くこと、触れること、呼吸すること、感じること、歩くこと、話すこと、読むこと、表現すること、物語ることなどは、すべてわれわれが習うことなのである(18頁参照)。習うとは、われわれが普段何気なくしていることを見直し、考え直してみることである。「触れること」や「呼吸すること」をいつも意識して、学んでいるひとはごくわずかだろう。「歩くこと」の意味を模索して歩いている人も少ないだろう。そうした不十分にしか意識していないことを習う姿勢を保ち続けると、その歩みがやがて「いのちの音楽」とむすびつき、世界はそれまでとは別の表情を見せ始めるのである。
考えることが習うことだと自覚するひとは少ないだろう。なんとなく自分で考えていると思って生きていると、考えることは学習の対象にはならない。結果として、考えていると錯覚し、実は深く考えずに、漫然と生きている状態にはまりこむことになる。「誰もが考えるわけではない。考えたいと思う人が考えるのではなくて、よく考えようと努力する人が考えるのである」(19頁)。自分が考えずに生きているという状態に気づき、それをよしとせず、よく考えようと決意して、考えることを習い、学び始めることによって、考えることができるようになるということだ。
 著者は、人間についても同じことを言う。「人間になるには準備が必要なのである。ただ単に人間になりたいと思う人が人間なのではない。人間になろうと努力する人が人間なのである」(20頁)。ドイツの作家、ノヴァーリスも、「人間とは人間になる技術である」という意味のことを述べた。人間の格好をしていれば、それで人間だというのではなく、自分の人間としての未熟さを恥じて、人間になろうと努めることで初めて人間と言えるのだという人間観である。完成した人間には努力はもはや必要ではないが、われわれはだれもが未完成で、未熟な存在でしかないがゆえに、成長をめざす努力は欠かせないのだ。
 おしまいに、著者のメッセージを引用しておこう。「考えることの意味を知らない人が誰もいないような社会を築こうではないか。考えることの責任を誰に対しても安んじてゆだねよう」(18~19頁)。
 『幸福の小さな哲学』は、考えることの意味がどこにあるのか、なぜ考えなければならないのかを考える時間を与えてくれる本である。平明な文体で書かれているので、とっつきやすい本でもある。「哲学」と聞いて尻ごみせずに、読んで考える機会を得てほしい。パスカルが述べたように、考えることによって、われわれは卑小な存在から脱出できるのだ。



人物紹介

中島-さおり (なかじま-さおり) [1961-]

1961年、東京生まれ。エッセイスト・翻訳家。パリ第三大学博士準備課程修了。2006年『パリの女は産んでいる』で第54回エッセイスト・クラブ賞受賞。他著書に、『パリママの24時間』、『なぜフランスでは子どもが増えるのか』。訳書に、ダヴィド・フェンキノス『ナタリー』、マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』など。フランス人の夫、二子とともにパリ郊外在住。―本書より

ベルトラン・ヴェルジュリ(Bertrand-Vergely)

1953年パリ生まれ。高等師範学校(エコール・ノルマル)卒。高等教育教授資格(アグレガシオン)取得。現在、パリ政治学院やリセ(オルレアン)の高等師範学校受験準備クラスで哲学を教える。著書に『苦悩 失われた意味を求めて』(ガリマール、1997年)、『カッシーラ 正義の政治』(ミシャロン、1998年)、『禁じられた死』(ジャン=クロード・ラッテス、2000年)などがある。また、本書『幸福の小さな哲学』(ミラン、2002年)に続いて、『軽薄にして荘重な小さな哲学』(同、2003年)、『悲しい日のための小さな哲学』(同、2003年)が出版されている。―本書より

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