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抵抗することと志を持続させること―イラン・ロシア・シリアからの報告―

推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)


 アーザル・ナフィーシーの『テヘランでロリータを読む』(市川恵理訳、白水社、2017年)は、イスラーム革命(1979年)後の18年間をイランで過ごした経験を回想したものである。この間にはイラン・イラク戦争(1980~1988)が勃発しており、無数の市民も犠牲になっている。冒頭に、チェスワフ・ミウォシュの「アンナレーナ」からのことばが引用されている。

この世で起きたことをだれに話そう
だれのためにぼくらは至るところに巨大な鏡を置くのだろう
鏡のなかがいっぱいになり、その状態が
つづくのを期待して

 ナフィーシーは、イランに生まれ、欧米で教育を受けた。革命直後に帰国し、テヘラン大学で教えた。革命後のイランは、超保守的なイスラーム教指導者による圧政のもとにあった。市民の自由は制限され、女性たちの日常は絶え間ない抑圧と恐怖、屈辱に支配され、反体制派には苛酷な弾圧と粛清が課されていた(477頁参照)。訳者によれば、ナフィーシーの教え子のなかにも、政治活動で何年も投獄された学生や、獄中で処刑された学生がいるという(478頁参照)。彼女自身も、1981年には、ヴェールの着用を拒否したという理由で同大学から追放された。その後別の大学で英文学の講義を担当したのち、1997年に渡米し、現在(2017年)はジョンズ・ホプキンズ大学国際問題研究大学院の客員教授として、文化と政治の関係について教えている。




  本書には、彼女が経験した戦争の現実や、現に起きていることに対する思いがことこまかにしるされている。作家のスーザン・ソンタグは、本書を評してつぎのように語った。「急進的イスラームによる女性への迫害にみずから公然と反抗し、また他の人々の抵抗にも力を貸した経緯を物語るアーザル・ナフィーシーの報告に、私は心を奪われ、感動した。彼女の回想録には、神権政治によるすさまじい被害と、他者への思いやり、そして自由の試練に関する重要な、かつ申し分なく複雑な思索がふくまれており―同時に、優れた文学との出会い、すばらしい教師との出会いがもたらす喜びと意識の深まりが感動的に語られている」(480頁)。
 本書は、ロリータ、ギャツビー、ジェイムズ、オースティンの四部構成である。ナフィーシーが息苦しい現実を生き抜くための拠りどころとしているのが英米文学である。彼女が過ごしたイスラーム共和国では、英米文学は西洋的頽廃の象徴とみなされ敵視されていたが、彼女にとって、それは想像力を通じて現実とは異なる世界を描きだし、現実を別の視点でとらえる術を教えてくれるものであった。彼女は作品を深く読みこみ、学生たちとの議論を通じて、現実の軛に抵抗する拠点をつくっていった。本書には、その過程が詳細につづられている。
 第一部の「ロリータ」は、大学を辞めたあと、彼女が7人の女子学生と自宅で続けた2年間にわたる読書・研究会の回想録である。冒頭で、学生の一人が、彼女が教室でよく口にした警告を反芻する。「『どんなことがあっても、フィクションを現実の複製と見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である』」(12~13頁)。
 小説と現実の関係をテーマとするこの研究会では、ペルシャや西洋の古典文学が何冊も読まれ、議論されている。彼女は、そのなかの一冊、ナボコフの小説『ロリータ』についてもっとも情熱的に語り、その内容についていくつもの解釈を提示している。彼女によれば、テヘランで『ロリータ』を読むことで、テヘランの別の顔が見えるようになり、さらに、テヘランが『ロリータ』の見直しを促してくるという(17頁参照)。彼女はこう書く。「ハンバートはロリータを自分の夢見る少女に、死んだ恋人に仕立てあげようとし、彼女の人生をめちゃめちゃにした。『ロリータ』の物語の悲惨な真実は、いやらしい中年男による十二歳の少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したこと、、、、、、、、、、、、、、、、、にある」(53頁)。「ナボコフはハンバートを描くことで、他者の人生を支配するすべての唯我論者の正体をあばいたのである」(同頁)。ハンバートは、「他者を自己の意識の産物としか見ない態度」(58頁)によって、ロリータを「『唯我化』」(同頁)したのである。唯我化とは、相手の存在を自分にとって都合のよい観念のなかに封殺して歪めても顧みない傾向である。ナフィーシーは、全体主義的な体制の圧力によって生き方の変更を迫られたひとびとをロリータの姿に重ねあわせている。彼女はこう回想する。「あるとき、イランの過去の真実は、それを奪い取った者にとって取るに足りないものとなった。ロリータの過去の真実がハンバートにとって取るに足りないものであったのと同じである。ハンバートの妄想、十二歳の手に負えない子どもを愛人にしたいという欲望の前に、ロリータの真実、欲望、人生が色あせるように、イランの過去の真実も無意味なものと化した」(58~59頁)。
 ナフィーシーは、すべての優れた小説はおとぎ話だというナボコフのことばを受けて、こう述べている。「あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど苛酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある」(73頁)。
 現におきている出来事の意味は、その渦中の経験のさなかでは明らかになりにくい。直接的な経験においては、考えることよりも生きることが優先されるからだ。それに対して、ある種の小説は現実から距離をとり、現実の断面に外側から照明を加えることによって、現におきていることの意味を浮き上がらせることができる。ナフィーシーも、過ぎた現実を現在に引き戻す回想の働きを通じて、特定の状況に翻弄されながらも抵抗して生きる経験の意味をわれわれに示している。

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『セカンドハンドの時代 「赤い国」を生きた人々』(松本妙子訳、岩波書店、2016年)は、1991年のソ連崩壊直後から、社会主義の時代を生きたひとびとの声を聴くために、いくつもの聞き取りを行なったその記録である。対象者は、年金生活者、医師、政治家、共産党員、作家、測量技師、アルメニア難民、大学生、強制収容所に送られながらも生きのびたひと、クレムリンの元政治家、地下鉄テロの被害者、デモに参加して逮捕された学生など実にさまざまである。彼女は、自分の耳に聞こえてくるものをどう表現すべきかに長い間悩んだのちに、真実は細かく砕かれていて、世界にちらばっているから、それを集めて表現することが大切だと考えるようになる(602頁参照)。広範囲のひとびとに対する「聞き書き」は、その成果である。教育という名の強制や弾圧、戦争と革命、暴動などに直面し、傷ついたひとびとの嘆きや怒り、苦しみ、悲喜こもごもの声を通じて、激動する時代の「真実」の断面が浮き彫りにされている。アレクシエーヴィチの試みは、ナフィーシーのそれと同様に、個々の人間と時代とのかかわりを直視し、そこで生起した経験の相貌を描き出そうとするものである。声のひとつひとつには、われわれに内省を迫るひとびとの苦悩と切実な叫びがこめられている。
 「セカンドハンド」の意味を示すために、訳者は「あとがき」で著者の現状に関する発言を引用している。「『思想もことばもすべてが他人のおさがり、なにか昨日のもの、だれかのお古のよう。どうあるべきか、なにがわたしたちの役に立つのか、だれも知らず、みなが使っているのは、かつてのわたしたちの知識、だれかの体験、過去の経験。いまのところ、残念ながらセカンドハンドの時代』」(603頁)。自分に固有の思考を失い、あてがわれたものの間を漂流するひとの姿が見つめられている。彼女は、絶望的な感想を口にしたあとで、希望を語っている「『しかし、わたしたちは平静を取りもどしはじめ、世界のなかの自分を認識しはじめている。廃墟のうえで永遠に生きたい人などいない、これらの破片でなにかを建設したいのです』」(同頁)。
 アレクシエーヴィチは、1948年にソヴィエト連邦ウクライナ共和国に生まれ、同連邦白ロシア共和国(現ベラルーシ)で育った。勤務先で研究休暇をとり、第二次世界大戦に参加した女性たちの回想をテープレコーダーに記録し、まとめたものが「ユートピアの声」シリーズ第一作目の『戦争は女の顔をしていない』(1985)であり、その後、『ボタン穴から見た戦争』(85)、『アフガン帰還兵の証言』(89)、『チェルノブイリの祈り』(97)が出版され、本書は同シリーズの最後の一冊である。
 本書は、「共犯者の覚え書き」、第一部 黙示録による慰め、第二部 空の魅力、「庶民のコメント」からなる。アレクシエーヴィチは、「共犯者の覚え書き」のなかで、この本の意図をこう述べている。「わたしは、『家庭の』……『内面の』社会主義の歴史をほんの少しずつ、ちょっとずつ、拾い集めようとしながら書いている。人の心の中で社会主義がどう生きてきたかを。人間というこの小さな空間に……ひとりの人間に……わたしはいつもひかれている。実際に、すべてのことが起きているのは、そのなかなのだから」(2頁)。彼女は、ひとりひとりの心に寄り添いながら、彼らが口にする愛や嫉妬、子ども時代、老後、音楽、ダンス、ヘアースタイル、消滅した生活の細部などについての話を書きとめている。
 その膨大な記録のごく一部をのぞいてみよう。まずは、ビールの売店の前に集まるひとびとの声だ。ひとりの先生が語る。「わたしたちは、いつもいつも苦悩のことを話している……。これはわたしたちがものごとを理解する手段なんです。わたしたちには西側の人間が幼稚に見える。というのも、彼らは、わたしたちのように悩んでいないし、ちっぽけなニキビにだってあっちには薬があるんだからね。それにたいして、わたしたちは収容所で服役して、戦時中は大地を死体でうめつくし、チェルノブイリでは素手で核燃料をかきあつめていた……。そして、こんどは社会主義のガレキのうえにすわっているんですよ。戦後のように。わたしたちはとても人生経験豊かで、とても痛めつけられている人間なんです。わたしたちには自分たちだけのことばがある……。苦悩のことばが。
わたしは、こんなことを自分の学生たちと話そうとしてみた……。面とむかってわらわれましたよ。『ぼくらは悩みたくない。ぼくらにとって人生は、なにかもっとほかのものです』。わたしたちは、自分たちの最近の世界をまだちっとも理解していないのに、もう新しい世界に住んでいるんです。文明はまるごとゴミ箱のなかだ……(42~43頁)。
「喧騒と台所の会話から(2002-2012)」の冒頭の匿名の告白も、想像力を刺激する文章だ。「―エリツィンの90年代……。わたしたちがどんなふうに思いだしているかだって? あれは、幸福な時代……狂気の10年間……おそろしい歳月……夢想的な民主主義者の時代……破滅的な90年代……まさに黄金時代……自己暴露の時代……悪意にみちた卑劣な時代……明るい時代……攻撃的な……嵐のような……あの時代はというとわたしのだった……わたしのじゃないよ!!!」(365頁)。

 「赤い国」を生きたひとびとの語りは、心に響いてくるものばかりだ。拾い読みでもかまわないので、その生の声を聴いて、時代の出来事に翻弄され、抵抗しながら生きることの意味を考えてほしい。

  桜木武史『シリア戦場からの声 内戦2012-2015』(アルファベータブックス、2016年)は、フリーランス・ジャーナリストの桜木によるシリア内戦の現場からの報告である。日本では、断片的な映像や情報でしか知りえない現場の緊迫した状況が生々しく描かれている。
 桜木は過去を回想してこう述べている。「大学生の時、半年間休学して、インドを放浪した。それがきっかけでカシミールという紛争地に深く関わりあうようになった。当時のカシミールはインド軍とイスラム武装勢力が毎日のように戦闘を繰り広げていた。現場に赴き、遺体やその遺族と接する中で戦争の悲惨な現実に直面した。理由もなくある日突然死が訪れる。戦場での暮らしとは常に死と隣り合わせだった。そして私も戦闘に巻き込まれて被弾した」(195~196頁)。
 彼は、シリアの現実と重ねて、自分の死を想像している。「シリアを訪れるようになり、死はますます現実味を帯びてきた。可能な限りの死に様を私は頭に思い描いた。ミサイルで木端微塵になる。スナイパーに頭を撃ち抜かれる。機関銃で蜂の巣にされる。日本で暮らしていては決して想像できないような死に方がシリアには存在する。それらを思い浮かべて。私は身震いした」(196頁)。
 シリアに何度も出かける理由はこう説明されている。「私が死を覚悟してもシリアに足を運ぶのは、そこで暮らす人々が純粋に好きだからである。ジャーナリストとしてシリアの現状を伝えると同時に一人の人間として彼らに愛着を抱き、彼らの生きた証を見届けるために現場に赴いている」(同頁)。
 「あとがき」によれば、桜木は2012年から2015年までに5回シリアに渡り、そこで暮らしている人々の声にじかに耳を傾け、同じ時間を共有している(252頁参照)。本書は、「彼らの生の声を多くの日本人に知ってもらいたい」(同頁)という願いから生まれている。シリアの内戦では、日々、何十人、何百人と犠牲者が出ている。遠くの国では、死者は数でしか示されない。しかし、具体的な死という出来事は重い。本書は、その重さを伝える現場報告である。シリアで現に起きている紛争の内実や背景に関心をもつひとは、ぜひ本書を手にとって読んで、想像力を働かせてほしい。

人物紹介

アーザル・ナフィーシー (Azar Nafisi)

1950年頃、テヘランに生まれる。名門の出で、父は元テヘラン市長、母は国会議員。13歳から海外留学し、欧米で教育を受け、1979年のイラン革命直後に帰国し、テヘラン大学の教員となる。1981年、ヴェールの着用を拒否してテヘラン大学から追放される。その後、自由イスラーム大学、その他で教鞭をとる。1997年にアメリカに移住、現在はジョンズ・ホプキンズ大学教授。ワシントンDC在住。 ―本書より

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ (Свeтлана Алeксиeвич)

1948年ウクライナ生まれ。国立ベラルーシ大学卒業後、ジャーナリストの道を歩む。綿密なインタビューを通じて一般市民の感情や記憶をすくい上げる、多声的な作品を発表。戦争の英雄神話をうち壊し、国家の圧政に抗いながら執筆活動を続けている。『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争―白ロシアの子供たちの証言』(ともに群像社、のち岩波現代文庫)『アフガン帰還兵の証言―封印された真実』(日本経済新聞社)『チェルノブイリの祈り―未来の物語』(岩波現代文庫)など。上記四作を「ユートピアの声」シリーズと位置づけ、本書により五部作完結。2015年ノーベル文学賞受賞。 ―本書より

桜木-武史 (さくらぎ-たけし) [1978-]

1978年、岐阜県高山市生まれ。東海大学文学部広報メディア学科を卒業後、フリーランスのジャーナリストとして、主に南アジアの国々に取材に出掛ける。取材先はインド、パキスタン、アフガニスタンがある。2010年末から中東で起きた「アラブの春」に関心を持ち、2012年3月から2015年4月まで計5度に渡り、シリアに足を運ぶ。2005年11月、インドのカシミールで戦闘に巻き込まれ、重傷を負う。その体験をまとめた著書、『戦場ジャーナリストへの道―カシミールで見た「戦闘」と「報道」の真実』(彩流社)がある。―本書より

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