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江戸時代と今―貝原益軒と佐藤一斎の思想―

推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 貝原益軒の『慎思録』(伊藤友信訳、講談社学術文庫、1996年)は、学問や人間の生き方、ひととのつき合い方などに関する自分の考えを、漢文ではなく、和文で書いて、多くのひとに広く伝えようとしたものである。分かりやすく、主張も明快である。『方法序説』を、学者向けのラテン語ではなく、庶民向けにフランス語で書いたデカルトを連想させる。
現代に書かれたものしか読まなくても、現代がどういう時代なのかはある程度まで分かるだろう。しかし、江戸時代に書かれたこの本を読むと、われわれが今どういう時代に生きているのかが透かし彫りにされる。この本は、現代を照射する鏡の役割を果たしているのだ。「江戸? 古い!」などと速断せずに、ぜひ手にとって読んでみてほしい。きっと、はっと気づくことがあるだろう。
 貝原益軒((1630~1714)は、江戸時代前期の儒学者、博物学者である。号は損件で、晩年に益軒と改めた。貝原は、青年期には朱子学と陽明学を集中的に学び、その後も朱子学の勉強に熱を入れたが、晩年にはその観念的な傾向に疑念を抱き、『大疑録』で批判した。この本は、貝原の没後50余年を経て世に出た。



  『慎思録』は、1714年、貝原が85歳のときに書かれた。「慎思録自序」の冒頭には、孔子にならって、学ぶことと考えること(思うこと)が学問の要諦であると宣言され(35頁参照)、この主張は、随所で繰り返されている。結びではこう語られる。「この愚作は、やがて後世の学者によって改められるであろう。私はその日をまつばかりである。あえてこれを達識(すぐれた見識)として伝えようと思っているのではない。ただ衰えそこなわれて忘れられていくことに備えようとしたまでである」(36頁)。モンテーニュは『エセー』序文で、「たいしたことは書いていない」と謙遜し、デカルトは『方法序説』で、「間違ったことを書いていれば批判してほしい」と述べた。3人には、試行錯誤を重ねつつ、人間に共通する思索の正しい道筋を求め続けた謙虚さが共通している。
 『慎思録』は全6巻で、800以上の項目に分かれている。長いものも、わずか一行という短いものもある。第一巻の「1 人はなぜ学ぶのか」の中間部で、再度先の主張が繰り返される。「人間たるものはかならず学問しなければならない。そして学んだものは道のいかなるものかを心得て、その道を実行しなくてはならないのである」(37頁)。終わりはこう結ばれる。「真に道を識る人はきわめて少ないのである。それゆえに人は、学びかつ思い、判断する工夫を欠いてはならないわけである」(同頁)。「人間の本分は学ぶところにある」という貝原の信念はゆるがない。しかし、ただ学ぶだけでは不十分で、それに考えることが伴わなければならない。何を考えるのか。ひとの道である。ひとの道を考えるとは、ひととしていかに生きるべきかを丁寧に考えることである。けれども、どう生きるかを考えるだけではまだまだである。考えたことを実際に行動において示すことが大切なのである。学ぶこと、考えること、実践することの合一を強調する貝原の考え方は、ひととしての道を生きるという日々の生活のなかで検証して磨かれ、鍛えられていくものである。
 学ぶという姿勢は、自分に固有な関心や興味がないと生まれない。学んで考え、考えを深めるためには、なにを考えて生きているのかを俎上にのせる必要がある。ひととしてどう生きるかを考えるためには、自分がどんなふうに生きているのかを冷静に顧みなければならない。さらにまた、ひとはひとりでは生きられないので、他のひととどのように共存するかを見つめることも欠かせない。よりよい共存を可能にするためには、「判断する工夫」がいる。自分ひとりのあり方と、他人とともにあるあり方を慎重に考えることが求められるのだ。さらに、考えるだけにとどまらず、考えたことのなかで実現可能なことは実行に移すことも課せられる。
 貝原の人間関係論には、簡潔にしてつぼを押さえたものが多い。ひとつだけ、少し長いものを引用してみよう。「人びとと交際するには、みずからの心を平静にして、気持ちをやわらげて慈愛の心をもち、ひとを恭敬する念を忘れず、怒ることなく、欲を少なくすることが大切である。さらにみずからを反省し、自己の欠点を責め改めて、苦しみに耐え忍び、物ごとを受容する大らかさを保って、日頃から善行を実践することを楽しみにするような交際をすべきであろう」(38頁)。現実の人間関係においては、逆のことが頻繁におこる。相手の言動にすぐ腹をたて、相手を憎んだり、口汚くののしったり、悪口を言いつのる。名誉欲、支配欲、性欲といった多種多様な欲望に身をゆだねる。自分の非は脇において、相手の欠点を容赦なく責める。けち臭い根性で邪悪な振る舞いに及ぶ等々。
 スペインの文筆家であり、イエズス会士でもあったバルタサール・グラシアンは、人間を愚者と賢者に分類したが、貝原は、人間を君子と小人に分けている。つぎの文に両者の違いがはっきりと述べられている。「君子と小人とは、その人間において、好むところと嫌うところが常に相反するものである。君子の好むことについては小人はこれを憎み嫌う。君子の嫌悪することを小人は好み、それに沈溺してしまう。思うにそれは、生まれつきの好悪と幼児における習慣によるものから生ずる違いであろう」(108~109頁)。ひとが好んでしていることを見れば、君子と小人の区別が可能になるということだ。君子は、だれもがする簡単なことを遠ざけ、だれもが避けてしまう難儀なことにとり組むことによって、小人を脱することができる。貝原によれば、君子が好むのは正義であり、小人は利益を好む。小人はまた、みだらなものや、卑しいものを好むが、君子は良質で典雅なものを好む(86頁参照)。
 貝原の人間観察がさえた文章を引用しよう。「いまの人びとは飲食物や玩具などの嗜好(好み)するものは、日々工夫をこらして精巧をきわめている。だがしかし、日常にふみ行なう道についてはまったく心を用いて反省することがない。だからすべての考え方が粗末で誤り多く道理を理解していない。/今の人びとが善を行わないのは当然であろう。自省すべきことである」(162頁)。グルメ情報があふれ、精巧な電子機器が流通する今日の日本の状況の一面を描写しているかのようでもある。ものとのつき合いに忙殺されていると、倫理や道徳にかかわる問題はひとびとの視野から外れて、悪行が幅をきかせる。善行の道は狭まるばかりだ。
 貝原によれば、仁が善行の総称であり、仁とは、「人をいつくしみ愛する道理」(同頁)である。この道理が学問と直結している。「学問する方法は、仁の心を把握することが根本である。まず親に孝行を、兄によく仕えて従順であることから出発し、文を博く学び、礼を慎み守って精励し、君子(人格者)たることを目標とするものである」(同頁)。憎しみを発端とする親族間の暴力や殺人が横行するいまの日本は、貝原の目にはどう映るだろうか。
 『慎思録』は、われわれがこの世界でどのように生きて、なにをするのが最善なのかを考える手がかりを与えてくれる。時代を超えたアドヴァイスの数々も含まれている。読んでみれば、間違いなく生きるうえでの指針が得られるだろう。

  佐藤一斎の『言志四録(一)言志録』(川上正光全訳注、講談社学術文庫、1978年)『言志四録(二)言志後録』(1979年)『言志四録(三)言志晩録』(1980年)『言志四録(四)言志耊録』(1981年)は、漢文による語録である。言志録は42歳から約11年間にわたって書かれた。言志後録は57歳から約10年間、言志晩録は67歳から約12年間にわたって書かれ、言志耊録は80歳の時に起稿された。
 佐藤一斎(1772~1859)は、江戸末期の儒学者である。美濃岩村藩の家老職の家に生まれた。藩主の三男でのちの林述斎(林羅山から8代目の大学頭)と儒学を学んだ。1805年に林家の塾長になって門下生の教育にあたった。述斎没後の41年に昌平坂学問所の先生となり、講義を行なった。
 一斎の門下生は数千人を数えるというが、著名人としては、佐久間象山、横井小楠、渡辺崋山などがいる。象山の門下生は、勝海舟、坂本竜馬、吉田松陰、小林虎三郎などである。松陰の門下からは、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文などの幕末の志士が輩出した。西郷隆盛は、「言志四録」のなかから百一条を抄録して、座右の銘とした。
 『言志四録』の話題は、佐藤の人間観、人生観、政治観、精神論、君子論、道徳論、読書論、人間関係論、教育論、健康論、武道論など多岐にわたる。キーワードのひとつは、書名にも現われている「志」である。「言志録」から語録32を引用してみよう。「(聖賢たらんと)志を立て、これを求めれば、たとえ、薪を運び、水を運んでも、そこに学問の道はあって、真理を自得することができるものだ。まして、書物を読み、物事の道理を窮めようと専念するからには、目的を達せないはずはない。/しかし、志が立っていなければ、一日中本を読んでいても、それはむだ事に過ぎない」(58頁)。佐藤によれば、志を立てて学ぶことが学問の道の鉄則であり、立志とは、明確な目標に向かってこころを奮い立たせ、すべきことに積極的に取り組んでいくことである。志が立たないと、生きる方向が定まらず、しなくてもすませられること、する必要のないことにかかずり合うことになりかねない。
 佐藤が繰り返して力説する「志」は、学問上の要であると同時に、生活上の中心原理でもある。鋭敏な志気によって生活を導くことが佐藤の願望である。彼がみずからに求める端正な行い、品位、広い見識、深い学問などは、生活の核心部を構成する志気がなければ獲得されないだろう。佐藤は、ストイックな姿勢を貫いて生きることによって、自己の理想を飽くことなく追求している。
 「言志後録」の語録33は、佐藤の対人関係論をみごとに集約している。「春風を以って人に接し、秋霜を以って自ら粛む」(51頁)である。訳文には、「春風のなごやかさをもって人に応接し、秋霜のするどさをもって自らを規正する」(52頁)とある。他人には厳しく、自分には甘いひとには頂門の一針である。人に春の風のように優しく接し、自分には秋の霜のように冷厳な態度で接するのは容易ではない。自分が愚かで、間違いを繰り返す存在であることを自覚し、批判はまっさきに自分に向けるべきものであることを肝に銘じていれば、ひとに寛大な態度をとることができるかもしれない。しかし、自分の非を認めず、他人の荒さがしに忙しければ、ひとはいつも攻撃の対象になる。訳者は、「付記」のなかで、山本玄峰禅師のことばを紹介している。「『人には親切、自分には辛切、法には深切であれ』」(52頁)。貝原の見方にも通じている。
 「言志晩録」の語録60は、もっとも知られている。「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。/壮にして学べば、則ち老いて衰えず。/老いて学べば、則ち死して朽ちず」(80頁)である。ひとの生涯は、過去に何をしたかで現在が決まり、現在何をするかで未来が決まる。いつの時節も懸命に学ぶことを続けていきたいという佐藤の覚悟がうかがえる言い回しだ。
 語録204は、「苦労」をすすめている。「薬の中で甘味が苦味のなかから出て来るものに多く効能がある。同様に、人もまた艱難辛苦を経験すると、考えが自然に細かなことにゆき届き、よく物事を成就する。これとよく似ている」(232~233頁)。万事平坦な人生はありえない。だれもが壁にぶつかって悩み苦しんだり、困難なことに遭遇して生きていかねばならない。その苦労がひとの思考を深め、成長させるきっかけとなる。「艱難辛苦」を受け止めて生きぬこうというのが佐藤のアドヴァイスである。佐藤は、「言志耊録」の語録31でも、苦しみ、思慮分別に悩んでこそ本当の智慧が現われるのであり、暖かい着物を着て、安らかに生活していると思慮の力が薄れると述べている(41頁参照)。
 佐藤が折にふれて書きためた『言志四録』は、どのページを開いても、自分や他人や社会の動きを考える上でのヒントにあふれている。困った時の道しるべになる。(一)から(四)のどれでもよいので、暇を見つけて目を通してほしい。きっと江戸時代が身近に感じられてくるだろう。

  垣内景子の『朱子学入門』(ミネルヴァ書房、2015年)は、「今さら、朱子学?」といぶかるひと向けの、よく練りあげられた入門書である。本書は大学の一般教養科目の講義を下敷きにしているため、大変分かりやすい。帯には、「朱子学を知ることは、私たちの過去・現在・未来を見つめ直すことだ」とある。著者は、朱子学を「何やらお堅い封建道徳のイメージ」(ⅰ頁)と重ねて過去の学問と見なすひとに異議を唱え、朱子学は今日のわれわれの考え方や感じ方を暗黙のうちに規定していると考える。朱子学は過去の遺物どころか、われわれを拘束しているというのだ。それゆえに、自由にものを考えるためには、朱子学の正体を知ることが大切だと著者は言う。「おわりに」では、こう締めくくられている。「日本という世界の辺境で、いま改めて朱子学について問うてみることは、自分たちのこれまでを見つめ直し、これからの世界において日本人がどう生きていくかを考えることなのである」(206頁)。
 本書は、第2章「気のせいって何のせい?―朱子学の世界観」、第4章「たがが心、されど心―朱子学の優先課題」、第7章「ああ言えば、こう言う―朱熹と朱子学」、第8章「心の外には何もない―朱子学と陽明学」、第9章「朱子学を学ぶと人柄が悪くなる?―日本の朱子学」などの章立てである。学生の関心を少しでも惹きつけようという工夫と戦略が見える。
 本書は入門書でありながら、儒教と朱子学の歴史的なむすびつきや、朱熹の朱子学の根本問題を簡潔に論じ、朱子学と陽明学の比較検討を行い、朱子学の影響を受けた日本人の思想問題にも言及する、射程の広い好著である。

人物紹介

貝原益軒 (かいばら‐えきけん) [1630−1714]

江戸時代前期-中期の儒者、本草家、教育家。
寛永7年11月14日生まれ。貝原寛斎の5男。筑前(ちくぜん)福岡藩主黒田光之につかえ、京都に遊学。寛文4年帰藩。陽明学から朱子学に転じるが、晩年には朱子学への疑問をまとめた「大疑録」もあらわす。教育、医学、本草などにも業績をのこした。正徳(しょうとく)4年8月27日死去。85歳。名は篤信。字(あざな)は子誠。通称は久兵衛。別号に損軒。著作はほかに「大和本草」「養生訓」「和俗童子訓」など。
【格言など】心を平(たいらか)にして気を和(なごやか)にする。これ身を養い徳を養う工夫なり(「養生訓」)
" かいばら-えきけん【貝原益軒】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2018-02-14)


佐藤一斎 (さとう-いっさい) [1772−1859]

江戸時代後期の儒者。
明和9年10月20日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)岩村藩家老佐藤文永の次男。藩主松平乗薀(のりもり)の子の林述斎(じゅっさい)とともにまなぶ。林家の塾頭をへて昌平黌(しょうへいこう)教授となる。朱子学と陽明学を折衷した学風で、門人に渡辺崋山(かざん)、佐久間象山(しょうざん)らがいる。安政6年9月24日死去。88歳。名は信行、のち坦(たいら)。字(あざな)は大道。通称は幾久蔵、捨蔵。別号に愛日楼。著作に「言志四録」など。
【格言など】春風をもって人に接し、秋霜をもって自らつつしむ(「言志後録」)
" さとう-いっさい【佐藤一斎】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2018-02-14)

垣内景子(かきうち-けいこ)

1963年生まれ。1986年、早稲田大学第一文学部哲学科東洋哲学専修卒業。1993年、早稲田大学大学院文学研究科単位取得満期退学。現在、明治大学文学部教授。博士(文学)。―本書より抜粋

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