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エーリッヒ・フロムを読む―生きることと愛すること―

推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 オリンピックとパラリンピックが閉会すると、選手たちは4年後の活躍をめざして練習の日々を再開する。不本意な結果しか出せなかった選手は、納得できる結果を出すために、ひとびとの協力や支援を受けながら創意と工夫を重ねて、実力の強化に励む。つぎも期待される選手は、いま以上の鍛錬を自分に課して、記録更新のための努力を怠らない。
 大学の新入生にとっても、4年間が人生における重要な区切りである。卒業後の生活には、それまでの日々の過ごし方が反映する。在学中に、なにを考え、なにをめざし、なにをするかによって、将来どの方向に進み、なにをするかが定まる。
 とはいえ、入学したばかりで、4年後の自分の姿を予測できるひと、オリンピック選手やパラリンピック選手のように、明確な目標を設定して生き始めるひとは少ないだろう。最初は高校時代とはまったく異なるカリキュラムや講義形式にとまどいながらも、勉強、クラブ活動、アルバイトなどに忙しい日々を過ごすようになるだろう。だが、大学の4年間に真に必要なのは、忙しく、せかされるようにして生きることではなく、生きるということがどういうことなのかを、立ちどまって、じっくりと考えることだ。その試みを通じて、魅力的な人間として生きていくための資質が養われる。



 今回は、高度に産業化した現代社会のなかで人間が生きることにどのような問題が含まれるのかを、幅広い観点から考察した本を2冊紹介しよう。

 1冊目は、1976年に出版されたエーリッヒ・フロムの『生きるということ』(佐野哲郎訳、紀伊國屋書店、1977年)である。出版以来、多くの版を重ねている。本書は、「序章 大いなる約束、その挫折、新たなる選択」、「第1篇 持つこととあることとの違いの理解」、「第2篇 二つの存在様式の違いの分析」、「第3篇 新しい人間と新しい社会」からなっている。現状批判と、新しい社会への提言を含んでおり、「いま、この時代にあって、どのように生きたらよいのだろうか」と自問するひとには示唆に富む本である。
 フロム(1900~1980)は、ユダヤ系ドイツ人の精神分析学者、社会心理学者である。ドイツのフランクフルトに生まれ、いくつかの大学で心理学と社会学を学んだ。1929年から1932年までフランクフルト社会研究所で研究を続けたが、ナチスの迫害を逃れて1933年に渡米し、帰化したのちコロンビア大学、イェール大学などで教えた。社会や文化の変動を、経済的、イデオロギー的、社会的な観点から分析し、『自由からの逃走』(1941)、『人間における自由』(1947)『正気の社会』(1955)など、多くの著作を残した。
 『生きるということ』は、原題は「TO HAVE OR TO BE ?」である。フロムは、人間のあり方の根本的な側面を「もつこと」(所有)と「あること」(存在)としてとらえ、その違いを明らかにしている。冒頭に、カール・マルクスのことばが引用されている。「君がある・・ことが少なければ少ないほど、君が君の生命を表現することが少なければ少ないほど―それだけ多く君は持ち・・、それだけ多く君の生命は疎外される」(傍点著者)。ひとのひととしての固有なあり方は、ひとがもつことに執着し、もちものを増やせば増やすほど、失われていくということだ。フロムは、マルクスをこう評している。「マルクスはぜいたくが貧乏に劣らず悪であること、そして私たちの目的は多くあることでなければならず、多く持つ・・ことであってはならないと教えた」(傍点著者)(34頁)。両者とも、「ある」または「いる」という自動詞的な生のあり方と、「もつ」という他動詞的な生のあり方とを、互いに相克するものと見なしている。
  フロムは、「もつこと」と「あること」がどう違うのかを、イギリスの詩人のテニソンの詩と、芭蕉の俳句とを対比させながらわかりやすく説明している。まず、テニソンの詩と、芭蕉の「よく見ればなずな花咲く垣根かな」という俳句の口語訳を引用してみよう。


ひび割れた壁に咲く花よ
私はお前を割れ目から摘み取る
私はお前をこのように、根ごと手に取る
小さな花よ―もしも私に理解できたなら
お前が何であるのか、根ばかりでなく、お前のすべてを―
その時私は神が何か、人間が何かを知るだろう

眼をこらして見ると
なずなの咲いているのが見える
垣根のそばに!

 フロムがテニソンの詩に見て取るのは、神と人間の本性を知るためのステップとして、目の前の花を手にとって見ようとする「もつ」姿勢である。それは、「いき物をばらばらにして真実を求める西洋の科学者にたとえられるだろう」(36頁)。それに対して、芭蕉の態度は、フロムによれば、花に触れることも、花を摘むこともせず、花を見るために目をこらすことだけである(36頁参照)。それは、外から距離をおいて花を眺めるだけでなく、花と自分を一体化することである(同頁参照)。テニソンは、真理のために花を所有し、芭蕉は花を生かしたまま、花とひとつになって存在しているのだ。
 フロムは、こうした所有と存在に関する洞察を西洋の産業社会の分析にむすびつけていく。彼によれば、この社会においては、ひとびとの金銭や名声や権力などに対する過剰なまでの所有欲が渦巻いている(39頁参照)。より多くの物をもちたいという欲望は、際限なく肥大化する。彼は、西洋の産業社会に顕著に現われている所有への傾向をこうまとめている。「持つ存在様式においては、世界に対する私の関係は所有し占有する関係であって、私が自分自身をも含むすべての人、すべての物を私の財産をとすることを欲するという関係である」(46頁)。こうした所有への渇望は、日本の社会にもきわだっている。
 それに対して、存在が優位になるとは、どういう事態を示すのか。フロムによれば、「あること」という様式は、「もつこと」とは対照的であり、「生きてあること」、「世界と真正にむすびついていること」を意味する(46頁参照)。「もつこと」の様式においては、われわれは、自分以外のものを渇望して、視線を絶えず外部に向けて生きるのであり、所有されたものは消費されたり、廃棄されたりする。ときには、他の人間や家族でさえも、もののように扱われたり、処理されたりする。所有は、なんらかのものを目的としてめざす他動詞的な様態であるが、存在は、いま、ここに生きてあるという自動詞的な様態である。われわれは、いまここにいるが、いずれ他の場所に移って、ここにはいなくなる。ここにいなくなっても、どこかにはいる。しかし、いずれはどこにもいなくなる。生きていられなくなって、死に迎えられるのだ。
 「生きてあること」は、絶えず変化の途上にあることであり、刻々と成り変わっていくことである。「存在し、愛し、憎み、苦しむ人間の現実から出発すれば、あることはみな同時に、なることであり、変化することである。生きている構造は、なる時にのみありうる。それらは変化する時にのみ存在しうる。変化と成長は生命の過程に内在する特質である」(48頁)。フロムがもっとも強調するのは、「生きてあること」がよりよく変化し、成長することにむすびつくようなありかたを選択することの大切さである。そのためには、「持つこと」への関心とは異なる仕方で、「生きてあること」への関心を深めることが欠かせない。フロムは、後者の問題について考察を深めたキリストやマイスター・エックハルト、マルクス、シュヴァイツァーなどの考え方を検討しながら、人間のあるべき姿を模索している。
 フロムはまた、第1篇の第2章「日常経験における持つこととあること」のなかで、生きて成ることがどういう事態なのかを、学生と講義の関係を手がかりにして具体的に述べている。彼によれば、「もつこと」を重んじる学生は、講義で学んだことを固守し、記憶することに忙しいが、「あること」の次元で生きる学生は、受講したあとには、刺激的な内容の講義の場合は、それを聞く前とは違った人間になるのだ(53頁参照)。後者の学生は、生きることと成長することを一体化させているのである。
 こうした、「生きてあること」が人間の質的な成長につながる方向は、「もつこと」への過剰な欲望が支配する現在の産業社会では見失われやすい。それゆえにこそ、あらためて「生きてあること」の意味を考えてみなければならない、というのがこの本の眼目である。これから生きていくひとが、どういう態度であり続け、なにをもつ存在になるかを考えて生きるためには、ぜひ熟読してほしい本である。

  2冊目は、同じ著者による1956年に出版された『愛するということ』(鈴木晶訳、紀伊國屋書店、1991年)である。この本も、長く読みつがれ、大型書店で平積みされているのを見かける。恋愛マニュアル本とは一線を画し、人間における愛の問題を掘り下げて論じたこの本の力が、多くの読者を魅了しているのだろう。
『愛するということ』の原題はTHE ART OF LOVINGである。「はじめに」、「第1章 愛は技術か」、「第2章 愛の理論」、「第3章 愛と現代西洋社会におけるその崩壊」、「第4章 愛の習練」からなっている。
フロムは、「はじめに」で、この本の根本的な主張をこう述べている。「自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしてもかならず失敗する。満足のゆくような愛を得るには、隣人を愛することができなければならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律をそなえていなければならない。これらの特質がまれにしか見られない社会では、愛する能力を身につけることは容易ではない」(5頁)。愛は、恋愛を特集する雑誌で手軽に知れるようなテクニックの問題ではなく、真摯な態度で身につけなければならない能力の問題だというのである。要するに、ひとを愛せるだけの力量が自分になければ、 愛することはむずかしいということだ。たしかに、浅薄で貧しい内面しかもっていないひとが、だれかを深く愛せるとは思えない。そういうひとは、「恋に落ちる」というつかのまの偶然に身をゆだねることはあっても、持続的に愛をはぐくむことはできないだろう。できるとすれば、そのひとが愛することを学ぶことによって、自分の内面を成長させたときだけである。
 フロムによれば、「生きることが技術であるのと同じく、愛は技術である・・・・・・・」(傍点は著者)(17頁)。愛が技術だということは、愛は音楽や絵画、大工仕事、医学などの技術を学ぶように、学ばなければならないということである。学ぶべきは愛の理論であり、それにもとづく愛の習練が必要であり、そこに向かう関心が強くなければならない。
 第2章「愛の理論」では、「愛は何よりも与える・・・ことであり、もらうことではない」(傍点著者)(43頁)と愛の能動性を語る箇所が強く印象に残る。愛においては、ひとは他人になにを与えるのか。「自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ」(46頁)。この魅力的な表現の意味は、こう説明される。「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ」(同頁)。「このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる」(同頁)。愛における行為の相互性が美しく語られている。相手を豊かにするためには、自分のなかに豊かなものが蓄えられていなければならない。相手にも自分の側の豊かさを感受する力量が備わっていなければならない。そういう相手からは、相手の豊かさが自分に返ってくるのであり、この種の豊かさの相互交換を通じて、お互いにより豊かな存在へと成長することが可能になるのだ。
 フロムは、愛の能動的要素として、配慮、責任、尊敬、知の四つをあげている。配慮については、特には母親の愛を念頭において、こう述べている。「愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」(傍点著者)(49頁)。責任とは、相手の要求に自発的に対応する用意ができているということを意味する(50頁参照)。尊敬とは、「人間のありのままの姿をみて、存在の人が唯一無二の存在であることを知る能力」(51頁)、「他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうこと」(同頁)を意味する。知とは、相手を表面的に知るのではなく、相手の核心にまで届くような仕方で知ることを意味する。「自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる」(52頁)。
 とはいえ、相手をことばによって知ることには限界がある。だれでもひとには話せない秘密をもっている。フロムによれば、それに迫ることを可能にするのが愛である。「愛とは、能動的に相手のなかへと入ってゆくことであり、その結合によって、相手の秘密を知りたいという欲望が満たされる。融合において、私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。ただし、ふつうの意味で『知る』わけではない。命あるものを知るための唯一の方法、すなわち結合の体験によって知るのであって、考えて知るわけではないのだ」(55頁)。身体的な交流がことばによる相互理解を越えると言いうるかは疑問だが、その種の交流を通じてことばにできない出来事が成就していることは確かであろう。
 第4章「愛の習練」は、愛の技術を学ぶための実践論である。フロムは、そのために必要なものとして、「規律、集中、忍耐、技術習得への最高の関心」の四つをあげている。「規律」とは、自分の生活に一定のリズムを刻みながら生きるということである。「集中」にはいくつもの意味が与えられている。第1に、「一人きりでいられるということ」(167頁)である。「一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ」(同頁)。第2に、何事に対しても注意深い姿勢を保つことである。第3には、「いまここで、全身で現在を生きること」(170頁)である。フロムは、この種の集中力を身につけるために、自分に対して敏感になること、自分の心に対する感受性を鋭敏なものにすることが必要であると述べる(171~173頁参照)。現に生きてあり続けるなかで、ひとを愛することができる人間になるためには、まずは孤独な自己のありようを洗練させることが大切だということである。愛するとは、ある意味で自己を捨てることだが、捨てるためにはまず確固とした自己をもたねばならないのだ。「それぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる」(154頁)。暇つぶしのおしゃべりや、事物との際限のないつきあいのなかへと自分を拡散させるのではなく、自己への集中と自己に耐えることを通じて、「あること(存在)」を「なること(成長)」へとつなげる経験が愛へと結晶するのである。
 おしまいに、もう一箇所だけ引用しよう。「思考においても感情においても能動的になり、一日じゅう目と耳を駆使すること、そして、なんでも受け取ってはためこむとか、たんに時間を浪費するといった、内的な怠慢を避けること、これは愛の技術の習練にとって欠かせない条件の一つである。(中略)人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなければならない。そして、そのためには、生活の多くの面でも生産的かつ能動的でなければならない。」(191頁)。
 『愛するということ』は、「ひとを愛することができるようになるためにいかに多くの課題を克服していかねばならないか」を情熱的に語る本である。フロムのことばを積極的に受けとめることで、生きていくうえでの豊かな糧が得られるだろう。

人物紹介

フロム (Erich Fromm) [1900―1980]

ドイツの精神分析学者、社会思想家。ナチスに追われて、アメリカに移住。精神分析とマルクス主義とを結合する。人間のさまざまな悪徳は、社会条件の改革によって減少できると主張し、人本主義的、共同体的社会主義を提唱。著「自由からの逃走」「人間における自由」など。(一九〇〇〜八〇)
" フロム", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com, (参照 2018-03-14)

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