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本が開く世界―小池昌代・川上弘美・須賀敦子―

推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 本を読みたいが、どんな本を読んだらいいのかわからないと逡巡するひとには、すぐれた読み手の書評をのぞいてみることをすすめる。ぜひとも読んでみたいと好奇心を刺激される本がきっと見つかるはずだ。まず一冊手にとって読めば、つぎに読みたい本も出てくるだろう。
 今回は、とっておきの書評書2冊と、本の記憶をしなやかな文でつづったエッセイ1冊を紹介しよう。

 小池昌代の『文字の導火線』(みすず書房、2011年)は、私小説的な色合いの濃い書評集である。一冊の本にどう反応し、なにに驚き、なにを考えさせられたかが、彫りが深く、含みの多い言い回しで表現されている。本書は、言わば本を読む経験の告白書である。小池は、「あとがき」でこうしるしている。「わたしは自分が、本のなかに何を読むのかを知りません。本を読む人は迷う人です。いつも迷いながら、何かを探しに、階段を深く降りて行く人です」(211頁)。読書はひとつの不可思議な経験である。一種の冒険といってもよいかもしれない。本を読む前は、どんな経験をするのか分からない。しかし、読んだからといって、なにを経験しているのか分からないことは多い。読むことによってなにかがおこっていることは分かるが、それがなにかは判然としない。小池が言うように、本を読む人は、しばしば、迷い人になる。それでも本の世界になにかを求めて降りていくのをやめられない。迷いは消えず、深くなるばかりかもしれないが、その道を歩むのが本を読むという経験なのだ。



 本書は、「人と人の間に、釣り糸をおろして」、「草をわけ、声がいく」、「灰だらけの希望に」、「無が白熱する迫力」、「煙草を吸う子供」の5部構成である。それぞれに、ばらつきはあるものの、およそ2頁程度の書評が収められている。こころに残る表現のなかから、いくつか引用してみよう。やまだ紫の『性悪猫』(小学館クリエイティブ)について、小池はこうしるす。「やまださんの漫画は切実である。こちらの感情が、思わぬところでゆらりとゆれる。画面の空白が効いていて、その白が、読み手の空虚や空漠のようなもの、鬱屈や哀しみを柔らかく包み込んでくれる。包み込みはするが、掃除機のように吸い取ってくれるわけではない。自分の内なる空漠から、むしろ目をそむけないようにと促される」(6~7頁)。おしまいは、こう締めくくられている。「身の内を見れば、どの女もひっかき傷だらけ。おそらくそうだ。そんな内側が、いきなりめくれあがって空へと融ける。心の深部を慰藉されて、つーっと涙が湧いてくるが、それは哀しみの涙ではない」(7頁)。
 石牟礼道子の「詩文コレクション6『父』」(藤原書店)に対しては、特に思いのこもった書評が捧げられている。「わたしはここに集められた文章を、最初に旅先のインド・コルカタで読んだ。インドの旅のあいだじゅう、かたわらに石牟礼道子の文章があった。読んでは揺さぶられ、ぼうぼうと泣いた」(53頁)。小池は、石牟礼道子の父についての推測をこう表現する。「石牟礼道子さんの書いた文章を読んでいると、実にしばしば、源のところに触った感じを受けるが、彼女の根本には、この父がいた。その事実にこの巻を読むと幾度もつきあたる。まぎれもない石牟礼道子個人の父であるが、文章の力は、個人を超えて、かつての日本にこのような人間が生きていたのだという、石のように確かな事実にまで読者を連れていく」(52頁)。その父が家を建てるときに、道子に言った。「家だけじゃなか、なんによらず、基礎打ちというものが大切ぞ。基礎というものは、出来上ってしまえば隠れこんで、素人の目にはよう見えん。しかし、物事の基礎の、最初の杭をどこに据えるか、どのように打つか。世界の根本を据えるのとおんなじぞ。おろそかに据えれば、一切は成り立たん。覚えておこうぞ」(54頁)。家の基礎はひとがつくり、ひとの基礎、根幹をつくるのもひとである。しかし、ひとの基礎は他人まかせにはできない。「しゃんとしろ」という父のことばの力が身にしみる。
 父の死後の顚末を読んだ小池は、最後にこう述べる。「読み終えて、わたしは死者のてのひらから、熾火のような、生のぬくもりを押し当てられたような気がしている。/ここに集められた文章に出会ったことを、わたしは稀有な幸福に思う」(56頁)。

 川上弘美の『大好きな本 川上弘美書評集』(文春文庫、2010年)は、新聞紙上の短い書評や、文庫本、全集の解説文を集めたものである。川上は、「あとがき」で「『好きな本があるよ、いい本があるよ、みんなもよかったら読んでね!』」(466頁)という声を聞きとってほしいと願っている。全部で144冊の本がとりあげられている。
 本書の特徴のひとつは、それぞれの書評に、本のエッセンスの紹介にとどまらず、本を読んだときに生ずる身体の反応が巧みに混ぜあわされていることである。読むことが、体で感じることだという一種の体験記になっているのだ。その意味で、この書評集にも小池のそれと同様の私小説的匂いがただよう。一例をあげてみよう。レイナルド・アレナスの『夜明け前のセレスティーノ』(安藤哲行訳、国書刊行会)からの引用である。「いったい何がいいんだか、どの文章が好きなんだか、物語がどう進んでいるのだか、自分でもぜんぜんわからないまま、ただ虜になっていた。ただ体の表面全体がぞわぞわと何かを感じていた。ただ心のどこかが、読みたい、読みつづけたいと、ばかみたいに繰り返していた。ただここにある字を一つ残らずのみこみたいと願っていた。そういう感じを、久しぶりに、思い出したのだ。/快楽だろう。読書そのものの持つ快楽。純粋な。まったく意味のない。そもそも物語の中にある意味を探るということなどすっかり忘れてしまうくらい、深くて心地よい。/たとえば恋人とのくちづけのような。たっぷり汁を持つ香り高い果物を口にふくんだときのような。そんな、ただ体で感じるだけの快楽を、読書はほんの時たま与えてくれるのだった」(145-146頁)。読書をなんとなくうっとうしい、めんどうくさいと感じているひとには意外にうつるかもしれないが、読書は官能的な経験ともなりうるものなのだ。
 本書のもうひとつの特徴は、川上が、随所で読書のよろこびを直截に語っていることである。そのうちふたつをとりあげてみよう。ひとつは、須賀敦子『遠い朝の本たち』(筑摩書房)の書評のなかからの引用である。「読書のよろこびは、しかし現実から目をそむけるというところにあるのではない、ということも、著者は幾度でも語りかける。読書することによって、現実の中にあるさらに深い何かを見つけることができるようになるのですよ。そう著者は語る。/ある夜テーブルの上のコップに挿した花の香りをかいで、『春だな』と感じ、『きっと、この夜のことをいつまでも思いだすだろう』と考え、そのうえで『夜』の中の『自分』の居場所を広いこの世界の中で一瞬のうちに俯瞰する著者の意識の流れを描きだした文章が、作中にある。その文章の、なんと美しいことか。それは、本を愛することと同時に、現実の世界を愛することをしてきたひとの、厚みのある言葉ゆえの美しさである。/読書はいい。読みおわって、しみじみと思った」(30頁)。一冊の本がもたらす極上の経験が、やわらかく、やさしいことばで表現されている。
 もうひとつは、清水眞砂子『そして、ねずみ女房は星を見た』(テン・ブックス)の書評のおしまいの箇所である。「物語を読むことの、よろこびと、驚きと、幾分かの苦味。読みつづけるかぎり、それらは常に姿を新たに、わたしたちを訪れつづけるということが、なんと顕かに、本書には書かれていることだろう」(259頁)。読書は、快楽の経験をもたらすだけでなく、われわれに変身を促す機会ともなるということだ。「読書はいい」、そう身をもって実感できる経験が増えれば幸いだ。

  須賀敦子『遠い朝の本たち』(筑摩書房、1998年)は、幼い頃の出来事を本につなげて語る回想の書である。須賀は、病床にあっても、本書に最後まで加筆や修正をくわえ続けたという。本に対する深い愛着のこもった一冊である。
 長田弘は、人間を「読書する生き物」と定義したが、須賀は、過去を現在に引き寄せて、美しく、繊細な文章でつづる「記憶のひと」である。須賀は、過ぎ去った経験の細部の諸相を見つめ、ことばによってていねいに織りあげていく。その織物が、読者には映画の映像のようにあざやかにたち現われてくる。川上弘美が書評集で言及したのは、本書の「『サフランの歌』のころ」である。女学校2年のときの卒業式の日の思い出がつづられている。長くなるが引用してみよう。「小さな丸いテーブルのうえのコップにさしたミモザの、むっとするような匂いが、明かりを消した部屋の空気を濃くしていた。/春だな。それが、最初に私のあたまにうかんだことばだった。そして、そんなことに気づいた自分に私はびっくりしていた。皮膚が受けとめたミモザの匂いや空気の暖かさから、自分は春ということばを探りあてた。こういうことは、これまでになかった。もしかしたら、こんなふうにしておとなになっていくのかもしれない。論理がとおっているのかどうか、そこまでは考えないままに、私はそのあたらしい考えをひとりこころに漂わせて愉しんだ。/だが、その直後にあたまをよぎったもうひとつの考えは、もっと衝撃的だった。それは、『きっと、この夜のことをいつまでも思いだすだろう』というもので、まったく予期しないまま、いきなり私のなかに一連のことばとして生まれ、洋間の暗い空気のなかを生命のあるもののように駆けぬけた。『この夜』といっても、その日の昼間がごく平凡であったように、なにもとくべつのことがあったわけではない。それでも、ミモザの匂いを背に洋間の窓から首をつき出して『夜』を見ていた自分が、これらのことばに行きあたった瞬間、たえず泡だつように騒々しい日常の自分からすこし離れたところにいるという意識につながって、そのことが私をこのうえなく幸福にした。たしかに自分はふたりいる。そう思った。見ている自分と、それを思い出す自分と」(65~66頁)。
 須賀は、感覚的な経験がことばによって意味的な経験に生まれ変わる瞬間に気づいた驚きを語っている。「春だな」と感じたのは「私」だが、そのことばは「私」におとずれたのである。ことばが「私」に探りあてられたそのときは、ことばがその瞬間を待っていたときでもある。そのようにして、大人になっていくということは、ことばと「私」の相互交流を深めていくことである。ことばが「私」を育て、「私」は、ことばによって生きるようになるのである。
 「私」はことばに支えられて生きるが、ことばはまた、「私」が現実に経験していることから距離をとることを可能にしてくれる。「きっと、この夜のことをいつまでも思いだすだろう」という思いは、「私」のなかに生まれ、生き物のように駆けぬけたと須賀はしるす。しかし、その思いの到来を、もう一度自分のこととしてつかみなおすとき、少女時代の須賀は、自分の生涯が思い出す経験とのむすびつきなしにはありえないと悟ったのかもしれない。
 石牟礼道子にとって、父の刻印はずっと消えなかったが、須賀にとっても、父は一面では導きのひとであり、生涯にわたって文学的な影響が残った。須賀は「父ゆずり」のなかでこうしるす。「父におしえられたのは、文章を書いて、人にどういわれるかではなくて、文章というものは、きちんと書くべきものだから、そのように勉強しなければいけないということだったように、私には思える。そして、文学好きの長女を、自分の思いどおりに育てようとした父と、どうしても自分の手で、自分なりの道を切りひらきたかった私との、どちらもが逃れられなかったあの灼けるような確執に、私たちはつらい思いをした。いま、私は、本を読むということについて、父にながい手紙を書いてみたい。そして、なによりも、父からの返事が、ほしい」(38~39頁)。文章を書くことについての基礎をきびしく教えてくれた父の記憶は、「葦の中の声」のなかのつぎの一文につながっている。「やがて自分がものを書くときは、こんなふうにまやかしのない言葉の束を通して自分の周囲を表現できるようになるといい、そういったつよいあこがれのようなものが、あのとき私の中で生まれたような気もする」(107頁)。アン・リンドバーグのエッセイを読んだときに生じたことの回想である。そのあこがれがゆっくりと醸成されて、後年、先に川上の書評から引用した「現実の中にあるさらに深い何かを見つけること」が可能になったように思われる。
 小池は、読書を迷い人になる経験に重ねあわせた。須賀は、それを連想させることを「アルキビアデスの箱」のおしまいで述べている。「山を歩いていて、前方の霧がふいに霽れ、自分がめざしている方向が一瞬のあいだだけ見えることがある。小学生の私がプルタルコスの話に読みとったものは、どこかそんな旅人の経験に似たものではなかったか。もちろん霧はまたすぐにすべてを包みこんでしまうから、旅人は、自分がめざしていたのはたしかあっちのほうだった、というたよりない記憶だけにたよって、ひとり歩きつづける」(195頁)。本は、ときにはひとをまどわせ、迷わせる。しかし、さまよい歩くことで、初めて出会える経験もあるのだ。

  今回とりあげた3冊の著者は、いずれも「読書はいい」という思いを静かに伝えてくる。本を読む経験は、疑いもなくある種の幸福に通じている。

人物紹介

小池昌代 (こいけ-まさよ) [1959-]

詩人 作家。
業績: 詩集「水の町から歩きだして」(思潮社、1989)「青果祭」(思潮社、1992)「永遠に来ないバス」(思潮社、1997)「もっとも官能的な部屋」(書肆山田、1999)「夜明け前十分」(思潮社、2001)「雨男、山男、豆をひく男」(新潮社、2001)「地上を渡る声」(書肆山田、2006)「ババ、バサラ、サラバ」(本阿弥書店、2008)「コルカタ」(思潮社、2010)「ロベ-ル・ク-トラス作品集-僕の夜」(エクリ、2010)/対詩集「対詩 詩と生活」(思潮社、2005)/エッセイ集「屋上への誘惑」(岩波書店、2001)「黒雲の下で卵をあたためる」(岩波書店、2005)「詩についての小さなスケッチ」(五柳書院、2014)/短編集「感光生活」(筑摩書房、2004)「ルーガ」(講談社、2005)「井戸の底に落ちた星」(みすず書房、2006)「タタド」(新潮社、2007)「ことば汁」(中央公論新社、2008)/小説「怪訝山」(講談社、2010)「転生回遊女」(小学館、2012)「たまもの」(講談社、2014)/編著「かさぶたってどんなぶた」(あかね書房、2007) 「通勤電車でよむ詩集」(NHK出版、2009)「恋愛詩集」(NHK出版、2016)/絵本の翻訳数冊
入選・受賞: 第6回ラ・メール新人賞(1989) 第15回現代詩花椿賞(「永遠に来ないバス」で、1997) 第30回高見順賞(「もっとも官能的な部屋」で、2000) 第17回講談社エッセイ賞(「屋上への誘惑」で、2001) 第33回川端康成文学賞(「タタド」で、2007) 第10回小野十三郎賞(「ババ、バサラ、サラバ」で、2008) 第18回萩原朔太郎賞(「コルカタ」で、2010) 第42回泉鏡花文学賞(「たまもの」で、2014)

" 小池 昌代 (こいけ・まさよ)", 朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」, 人物, http://database.asahi.com, (参照 2018-05-23)

川上弘美 (かわかみ-ひろみ) [1958−]

平成時代の小説家。
昭和33年4月1日生まれ。お茶の水女子大で生物学を専攻、自然との共生をまなぶ。卒業後、田園調布双葉女子中・高校の理科教師をつとめる。平成6年「神様」でパスカル短編文学新人賞をうけて本格的に小説にとりくみ、8年「蛇を踏む」で芥川賞。12年短編集「溺レる」で伊藤整文学賞、女流文学賞。19年「真鶴」で芸術選奨文部科学大臣賞。27年「水声」で読売文学賞。異形のものとの交流をえがく幻想的な作品がおおい。東京都出身。
" かわかみ-ひろみ【川上弘美】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com, (参照 2018-05-23)

須賀敦子 (すが-あつこ) [1929−1998]

昭和後期-平成時代のイタリア文学者、随筆家。
昭和4年2月1日生まれ。フランス、イタリアに留学し、イタリア人と結婚。昭和46年夫の死去で帰国。上智大教授となり、13年間のイタリア生活を回想した「ミラノ 霧の風景」で平成3年女流文学賞、講談社エッセイ賞。平成10年3月20日死去。69歳。兵庫県出身。聖心女子大卒。訳書にタブッキ「インド夜想曲」など。
" すが-あつこ【須賀敦子】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com, (参照 2018-05-23)

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