蔵書検索(OPAC)
HOME > 資料案内 > 新しく入った本 > おすすめの一冊
新着資料 ベストセラー 学生の購入リクエスト
映画・ドラマの原作 テーマ図書 おすすめの一冊
おすすめの一冊 本学の教員や図書館員のおすすめの本を紹介します。
 

前の本へ

次の本へ
抒情の陰翳―室生犀星と中原中也―

推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)


 パスカルは、成人の精神を「幾何学的精神」と「繊細の精神」に分けたが、10~20代の青年の精神を特徴づけるのは「抒情の精神」だろう。この時期を生きる若者は、個人差はあるものの、さまざまな情感におそわれる。風景に触れて、ひととの間で揺れて、生きものの生と死に遭遇して、悲哀や喜び、苦しみの感情があふれ出す。多くの感情は、ことばになる前に、現われるやいなや過去へと消え去ってしまうかもしれない。しかし、つかの間の感情の揺れ動きは、ひとたびことばによって表現されれば、いつまでも形となって残る。室生犀星と中原中也というふたりの詩人は、現在も読みつがれる抒情的な詩を数多く残した。

 室生犀星(1889~1962)は金沢市に生まれた。母親が誰であったかは分っていない。1週間ほどして、犀川河畔の雨宝院住職と内縁関係にあった女性にもらわれ、育てられた。1900年に長町高等小学校に入学するも、2年後には退学し、金沢地方裁判所で働き始めた。その後、俳句、詩と創作活動に打ちこみ、活動の場を東京に求めて、1910年に上京した。しばらくは金沢、東京間を往復する生活が続いたが、やがて東京に居を定めた。



 彼は俳句や詩だけでなく、小説や随筆、説話、映画評論なども書き、生涯に膨大な数の作品を残した。2002年にオープンした「室生犀星記念館」には、161の初版本の表紙が展示されている。来館者の記録帳には、たくさんの中・高校生も感想を書きしるしている。
 『抒情小曲集・愛の詩集』(講談社文芸文庫、1995)には、「忘春詩集」もおさめられている。若き室生犀星のこころの詩である。「抒情小曲集」の「自序」は、詩を読む前にぜひとも読んでほしい。彼はこうしるす。「この本をとくに年すくない人人にも読んでもらひたい。私と同じい少年時代の悩ましい人懐こい苛苛しい情念や、美しい希望や、つみなき悪事や、限りない嘆賞や哀憐やの諸諸について、よく考へたり解つてもらひたいような気がする。少年時代の心は少年時代のものでなければわからない」(23頁)。「少年時代に感じた季節の変移の鋭い記憶とその感覚の敏活とは、ほんとに何にたとへて言つていいか解らない。まるで『触り角』のある虫のやうに、いつもひりひりとさとり深い魂を有つてゐるものだ。それはまだ小児の時代の純潔や叡智がそのまま温和にふとり育って、それが正確に保存されてゐるからである」(24頁)。室生は、少年時代の自分の感情の経験を顧みて、その内実を若い世代に伝えようとしている。
 「抒情小曲集」は、3部構成である。折々の自分の感情を詠ったもの、小さな生きものたちや植物への激励の賛歌、風景との交感を刻んだものなど多彩な詩がならんでいる。いくつか引いてみよう。

 まずは、1部「小景異情」の「その六」である。あんずへの愛の深さが強く印象に残る詩だ。

     あんずよ
     花着け
     地ぞ早やに輝やけ
     あんずよ花着け
     あんずよ燃えよ
     ああ あんずよ花着け (35頁)

 つぎは、「桜と雲雀」と題する詩だ。

     雲雀ひねもす
     うつらうつらと啼けり
     うららかに声は桜にむすびつき
     桜すんすん伸びゆけり
     桜よ
     我がしんじつを感ぜよ
     らんまんとそそぐ日光にひろがれ
     あたたかく楽しき春の
     春の世界にひろがれ (48頁)

 「蛇」と題する詩には、小動物を愛する室生のこころの傾きが現われている。

     蛇をながむるこころ蛇になる
     ぎんいろの鋭き蛇になる
     どくだみの花あをじろく
     くされたる憤井の匂ひ蛇になる
     君をおもへば君がゆび
     するするすると蛇になる (52頁)

 2部の「永日」には、不遇な幼年期に傷つき、苦しんだ室生の心情が直裁に詠われている。

     野にあるときもわれひとり
     ひとり、たましひふかく抱きしめ
     こごゑにいのり燃えたちぬ
     けふのはげしき身のふるえ
     麦もみどりを震はせおそるるか
     われはやさしくありぬれど
     わがこしかたのくらさより
     さいはひどもの遁がれゆく
     のがるるものを趁(お)ふなかれ
     ひたひを割られ
     血みどろにをののけど
     たふとや、われの生けること
     なみだしんしん涌くごとし (56頁)

 興味をおぼえたひとは、詩のみならず、小説や随筆なども読んでほしい。室生には、『我が愛する詩人の伝記』(講談社文芸文庫、2016年)という傑作もある。彼の生涯についてくわしく知りたいひとには、富岡多恵子の評伝『室生犀星』(講談社文芸文庫、2015年)がおすすめである。

 中原中也(1907~1937)は山口県の小村に生まれた。1915年、弟が病死し、その死を歌にしたのが詩作の始まりとなった。1920年、山口中学校に入学するが、文学にふけり、学業を怠り、1923年に落第する。同年、京都の立命館中学第3学年に編入学後、詩作活動を開始する。フランスの象徴派詩人ランボーやヴェルレーヌの詩に傾倒した。翌年、長谷川泰子と同棲し、1925年に共に上京し、小林秀雄や大岡昇平を知る。この年に長谷川は小林のもとに去った。1931年には、もうひとりの弟も病死する。1933年の結婚の翌年に生まれた長男もわずか2歳で病死した。1937年の1月、中原は神経衰弱で千葉市の療養所に入院。退院後は鎌倉に移った。7月には、故郷に帰ることを決意していたが、10月に結核性脳膜炎を発病し、かなわなかった。30歳の若さでなくなった。
 中原の生涯を彩るのは、死と愛である。弟や長男の死は、中原のこころに哀しみと悔恨の陰影を与え、長谷川泰子との予想外の別れは、中原を「口惜しい人」にした。愛と愛の喪失が詩の主題となった。
 『中原中也詩集』(大岡昇平編、岩波文庫、1981年)には、「山羊の歌」、「在りし日の歌」
の他に未完詩篇などがおさめられている。大岡は、1929年に、中原と同人雑誌『白痴群』を創刊している。
 中原の詩の多くには、やわらかいこころの悲しみや苦しみ、嘆きや痛みがしみわたっている。生の倦怠感や憂鬱感がこもる詩もある。中原にとって、生きることは詩の創作に全霊をつくすことであり、詩を書くことは、ひとや生きものや自然に触れてゆれるこころを歌うことであった。「山羊の歌」のなかから「帰郷」という詩を引いてみよう。

     柱も庭も乾いてゐる
     今日は好い天気だ
          縁の下では蜘蛛の巣が
          心細さうに揺れてゐる

     山では枯木も息を吐く
     あゝ今日は好い天気だ
          路傍の草影が
          あどけない愁(かなし)みをする

     これが私の故里だ
     さやかに風も吹いてゐる
          心置なく泣かれよと
          年増婦(としま)の低い声もする

      あゝ おまえはなにをして来たのだと……
     吹き来る風が私に云ふ (38~39頁)

 室生にとっても、中原にとっても、故郷は生涯こころのなかで生き続けた。故郷が語りかけてくる声が消えることはなかった。
 
 「在りし日の歌」のなかから、「一つのメルヘン」と題する後期の代表作を引用してみよう。中原のこころのなかで広がる秋の夜の空想は、どこまでもしんとして、冷たく、幻想的で、読むもののこころに深く刻みこまれる詩だ。

     秋の夜は、はるかの彼方に、
     小石ばかりの、河原があって、
     それに陽は、さらさらと
     さらさらと射してゐるのでありました。

     陽といっても、まるで珪石か何かのやうで、
     非常な固体の粉末のやうで、
     さればこそ、さらさらと
     かすかな音を立ててもゐるのでした。

      さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
     淡い、それでゐてくつきりとした
     影を落としてゐるのでした。

     やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
     今迄流れてもゐなかった川床に、水は
     さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました…… (247~248頁)


 「在りし日の歌」の「後記」で、中原はこうしるした。「私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に託し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。/扨、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。/さらば東京! おゝわが青春!」(285頁)。この詩集は、中原の死の翌年、1938年に出版された。同年には、次男も病でなくなった。

 大岡昇平の『中原中也』(講談社文芸文庫、1989年)は、特筆すべき中原論である。大岡は、「中原中也伝―揺籃」のなかで、自分の疑問をこう要約している。「中原の不幸は果して人間という存在の根本的条件に根拠を持っているか。いい換えれば、人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか」(10頁)。大岡は、中原を「生涯を自分自身であるという一事に賭けてしまった人」(13頁)と見なし、そのような人間が生きなければならなかった不幸とその意味を丹念に追跡している。

人物紹介

室生犀星 (むろう-さいせい) [1889−1962]

大正-昭和時代の詩人、小説家。
明治22年8月1日生まれ。逆境の幼少期をへて詩人をこころざす。大正2年北原白秋の主宰誌に「小景異情」を投稿し、生涯の友萩原朔太郎と知りあった。7年「抒情小曲集」を刊行。30歳代から小説に転じ、「あにいもうと」、「杏(あんず)つ子」(昭和33年読売文学賞)、「かげろふの日記遺文」(34年野間文芸賞)などの代表作がある。芸術院会員。昭和37年3月26日死去。72歳。石川県出身。本名は照道。作品はほかに「我が愛する詩人の伝記」など。
【格言など】私をすくうてくれた女の人は、悉(ことごと)くはたらく場所にいた人達である(「顔というもの」) ©Kodansha
" むろう-さいせい【室生犀星】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2018-09-10)

中原中也 (なかはら-ちゅうや) [1907−1937]

昭和時代前期の詩人。
明治40年4月29日生まれ。高橋新吉の影響で詩作をはじめ、富永太郎を通じてフランス象徴派の詩人を知る。大正14年上京し、小林秀雄とまじわる。昭和9年第1詩集「山羊の歌」を刊行し、「四季」「歴程」の同人となった。昭和12年10月22日死去。31歳。山口県出身。東京外国語学校(現東京外大)卒。詩集に「在りし日の歌」など。
【格言など】思えば遠く来たもんだ 此の先まだまだ何時までか生きてゆくのであろうけど(「在りし日の歌」) ©Kodansha
" なかはら-ちゅうや【中原中也】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2018-09-10)

ページトップへ戻る