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宗教的経験の諸相―ウィリアム・ジェイムズの探究―

推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』上・下巻(益田啓三郎訳、岩波文庫、1969-1970年)は、エディンバラ大学のギフォード講座での講義(全20回)をまとめたものである。『心理学』や『根本的経験論』などの専門書に比べると、はるかに読みやすい。フランスの哲学者ベルクソンは、彼への手紙のなかで、この本を読んだあと、他のことはなにも考えられないほどに感動したと述べている(下巻、418頁参照)。アメリカの哲学者パースも、ジェイムズを心の洞察にすぐれた、心を描く芸術家と言う表現で賞讃した(421頁参照)。日本では、夏目漱石や西田幾多郎、鈴木大拙なども、ジェイムズの思想への共鳴を折にふれて表明している。本書は、とくに若いひとにすすめたい。そこで考察されている人間存在の不可思議なありように目を開かされ、それがその後の人生に影響を与えつづけるものになると思われるからである。
 ウィリアム・ジェイムズ(1842~1910)は、ニューヨークに生まれた。翌年、弟のヘンリー・ジェイムズ(のちに作家となる)が生まれている。教育熱心な父親の意向で、子供たちはロンドン、ジュネーヴ、パリなどの学校に通った。若きジェイムズは、理系の学問だけでなく、絵画にも関心を示し絵の勉強もしたが、のちに絵の道を断念した。ハーヴァード大学では、生理学、つぎに生理的心理学を教え、最終的に哲学の教師になった。その間に、人生の方向に悩み、鬱病になって苦しんでいる。後年、彼はアメリカを代表する心理学者、哲学者のひとりになった。



 『宗教的経験の諸相』の上巻は、宗教と神経学、主題の範囲、見えない者の実在、健全な心の宗教、病める魂、分裂した自己とその統合の過程、回心、回心―結びの10講義からなる。下巻は、聖徳、聖徳の価値、神秘主義、哲学、その他の特徴、結論の10講義からなる。経験には多種多様な側面がある。人間の能動的な働きに支えられる経験もあれば、人間が受動的に甘受する経験もある。ひととひととの間でいやおうなく生ずる経験があれば、共同で自発的に参加する経験もある。「宗教的」という形容詞がつく経験の場合は、人間と人間を超えた存在の関係のありようが問題になる。ジェイムズは、宗教をこう定義している。「宗教とは、個々の・・・・・・・・人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・る場合だけに生ずる感情、行為、経験・・・・・・・・・・・・・・・・・である」(上巻、52頁、傍点は著者による)。この定義が示すように、本書では、個人の宗教的な経験の諸相について語られている。キリスト教神学や教会組織に関する考察は除外されている。本書の特色は、何よりも個人の宗教的な経験の告白を手がかりにして、その諸相を丹念に記述している点にある。その点が、本書を比類ないものにしている。
 「第二講 主題の範囲」では、ドイツの修道者、トマス・ア・ケンピス(1380~1471)の『キリストにならいて』のなかの文章が、「もっとも強度の宗教的経験」(73頁)の一例として引用されている。「『主よ、あなたは何が一番いいかを知っておられます。これなり、あれなりが、あなたのみ心のままにありますように。あなたのお望みのものを、あなたの望まれるだけ、あなたのお望みになります時に、お与えください。あなたがいちばんいいと知られますように、また、もっともあなたの栄光となりますように、私を処置なさってください』」(72頁)。ここに見られるのは、自分の弱さやもろさを知り、自分で自分をどうすることもできないと実感したひとの、自己を超えた存在への全面的な依存の感情である。ジェイムズはこう述べる。「この精神状態にあっては、自己を主張し、自己の立場を貫き通そうとする意志は押しのけられて、すすんでおのが口を閉ざし、おのれを虚無くして神の洪水や竜巻のなかに没しようとする心がまえが、それにとって代わっているのである」(75~76頁)。宗教とは、傲慢な自己主張や、野蛮な欲望の噴出が幅を利かす水平的な世界から、自己が神の賜物であるという自覚がめざめる垂直的な世界のなかで身を低くして生きることである。信仰者は、この生こそが幸福に通じていると信じて疑わない。「絶対的なもの、永遠なるものにおいて感じられるこの種の幸福は、私たちが宗教以外のどこにも発見しないものである」(77頁)。
 「第三講 見えない者の実在」の冒頭で、ジェイムズは、宗教生活を「見えない秩序が存在しているという信仰」(84頁)、「私たちの最高善はこの秩序に私たちが調和し順応するにあるという信仰」(同頁)から成立すると述べている。この講義は、目には見えない存在の現前を経験したひとびとの報告が中心である。ある人物が手紙のなかで述べた短い覚書が引用されている。「『わたしが話していますと、宇宙全体が、まるで運命が奈落の底からぼんやり姿をあらわすように、わたしの眼の前に立ちはだかりました。わたしは、わたしの内部にもわたしの周囲にも、神の聖霊をそれほどはっきりと感じたことはこれまで一度もありません』」(102頁)。ある教授が収集した手記のなかの文章の一部はこうである。「『神は、わたしにとって、いかなる思想、事物、人物よりも、いっそう実在的である。わたしは神の現前をはっきりと感じている、そして、わたしが、わたしの身体と精神の中に書かれているかのように、神の律法にぴったりと調和して生きていればいるほど、いっそうはっきりとそれを感じる』」(110頁)。同教授が収集した17歳の少年の記述はこうだ。「『自然界の大気のように、神は、わたしをとり巻き給うている。神は、わたし自身の呼吸よりも、わたしの近くにい給う。文字どおり、神のうちに、わたしは生き、動きかつ存在している』」(112頁)。これらの具体的な事例は、感覚的な事実をもっとも重要な論拠のひとつに据える合理主義者からは「たわいもない話」として否定されるだろう。しかし、ジェイムズはこう述べる。「合理主義が説明しうる生活領域は比較的表面的な部分でしかないことを、私たちは認めなければならない」(114頁)。
 この講義のおしまいの方で、ジェイムズは、宗教が人間の存在を収縮させ、憂鬱にするような気分と、拡大するような気分の両方を含むと述べ、前者の気分が反映されたものとして、神の偉大と人間の無力を描く『ヨブ記』をあげている(118~119頁参照)。前者は陰鬱な傾向を伴い、後者は陽気な傾向を伴う。
 「第六・七講 病める魂」では、健全な心で生きられず、苦しみ、悲観的な方向へと傾斜していく人間の魂に焦点があてられている。青年時代にうつ病のどん底のなかでおのれの魂を凝視続けたジェイムズの経験が生きた感動的な講義である。第四・五講では、「健全な心の宗教」の特徴がこうまとめられている。「この宗教は、宇宙の悪い面をかえりみることのないよう人間に命じて、その悪い面を心にとめたり重んじたりするのを組織的に禁じ、思慮深い打算によって悪い面を無視させ、それどころか、時には、悪い面の存在を頭っから否定させるのである」(195頁)。それに対して、「病める魂」を記述するこの講義は、悪い方向へと傾くひとの意識経験を浮き彫りにしている。「悪の意識という重荷を、それほどすばやく投げ棄てることができず、生まれながらにして悪の存在に悩まされるような運命をもった人々を見ることにしよう」(204頁)。こうしたひとびとは、自分が不正な存在、悪徳、邪悪の存在であるという意識から逃れられずに、苦しむ。善を志向し、自己を率直に肯定することは不可能になり、罪の意識にさいなまれて、身を滅ぼしていくことにもなる。
 ジェイムズは、人生の暗黒面についてはこう表現している。「もっとも健全な、そしてもっとも富裕な生活にあってさえも、つねに、病気、危険、災厄などの環がいかに多くさしはさまれていることであろう。昔の詩人が歌っているように、歓楽の泉という泉の底から、思いもかけず、苦いものが、立ちのぼってくる。かすかな嘔吐感、喜びのにわかの消滅、一抹の憂鬱、葬いの鐘を鳴りひびかせるものが」(207頁)。人生においては、なにがおこるか分からない。平凡な日常が自然災害や人間の暴力によって、一瞬にして非日常に変わることは少なくない。一瞬先はまさに闇である。彼はまた、人類の未来に関する当時の悲観的な見解にも言及している。「人類は、越え出る逃げ道のない絶壁にとりかこまれた、凍った湖の上で暮らしている人々に似た状態にある、しかも人々は、氷が少しずつ溶けていることを、氷の最後の層が消えて、人類がことごとく溺死するというあさましい運命を迎える、あの避けようのない日が次第に近づきつつあるのを知っているのである」(215頁)。
 人生は苦の連続であり、人類の未来に明るい展望ももちえないと悲観するひともいれば、苦しみから逃れるために自己否定の道をたどるひともいる。ジェイムズは、両親にあてた書置き二通を残して服毒自殺した19歳の女性の言葉を引用している。「生きることは、ある人にはおそらく楽しいのでしょう。でもわたしは、生きることよりもっと楽しいことを選びます。それは死ぬことです。ですから、お父さま、お母さま、永久に、おいとまします」(223頁)。彼はまた、精神的、肉体的に落ちこみ、悩む患者の手紙の一部を取りあげている。「『おお神よ! 生まれるということは、何という不幸でしょう! 確かに夕方から朝までの命しかない、茸のような運命をもって生まれるのは。(中略)人生には喜びよりも苦しみのほうが多いのです―人生とは墓場まで続く一つの永い苦闘です』」(226頁)。ジェイムズは、このふたりが悪の感情で息の根を止められ、この世界になにか善いものがあると感じられなくなっていると評している(227頁参照)。彼によれば、ふたりの心は絶望的なまでに自己へと閉ざされ、宗教に向かう傾向は遮断されている。
 それに対して、生きる意味を喪失し、絶望にどん底にありながらも、神とのつながりの意識によって立ち直ることのできたトルストイが「宗教的憂鬱」の一例として取りあげられている。死と生という双極に引っ張られるトルストイの葛藤が、その告白から明らかにされている。トルストイは、50歳のころに、どう生きてよいのか分からない「惑いの時期」(231頁)を迎えた。それまで魅力的であったものが、味気ない、しらじらしいもの、死んだものに変わり、その理由も判然としなかった(231~232頁参照)。トルストイは書く。「『自分が何を欲しているのか、私はそれがわからなかった。私は生きるのがこわかった。私は人生に別れたいという気持ちに駆り立てられた。そして、それにもかかわらず、私はなお人生に何かを期待していたのであった』」(233頁)。「『その年の間じゅう縄で首をくくろうか、それとも銃で一発やろうか、どうけりをつけたものかと、私はほとんど休みなしに自分にたずねつづけたが、その間でも、私の考えや観察がそのように動揺するのと平行して、たえず私の心は、あるものを慕うもう一つの感情に苦しみつづけていた。それは、神に飢え渇く感情と呼ぶほかに名づけようのないものである。神を熱望するこの感情は、私の思想の動きとはまったく関係のないものであって―事実、それは思想の働きとは正反対のものであった―私の心情から発したものであった』」(236~237頁)。トルストイを救ったのは、神の感情であったという。
 ふたつ目の「宗教的憂鬱」は、ある作家の場合である。彼の自叙伝からの引用がなされている。「『自分の心が生まれつき汚れていること、それが私の不幸であり、私の悩みであった。そのために、私の眼には、自分がひき蛙よりもいまわしいものに映った。神の眼にもそう映るだろう、と私は思った。罪と汚れが、水が泉から湧き出るように自然に、私の心から湧き出てくる、と私は言ったりした。できることなら、私はどんな人間とでも自分の心を交換したことであろう。心の邪悪とよごれという点で私に匹敵できるものは悪魔のほかにいない、と私は思った。確かに、自分は神に見放されている、と私は思った。こんな状態を私は、永い間、数年間も、続けた』」(239~240頁)。
 ある敬虔な福音伝道者が語る「宗教的憂鬱」を三つ目に引用してみよう。「『私の見る一切のものが、私には重荷のように見えた。大地は、私には呪われているように思えた。すべての樹木、草木、岩、岡、谷は、呪いの重みに押しひしがれて、悲しみと呻きとを纏っているように見えたし、また、私のまわりの一切のものが、私を破滅させようと共謀しているように思われた。私の罪が暴露されたように思えた。そのため、私は、会う人がみな私の罪を知っているにちがいないと思った』」(241頁)。
 ジェイムズは、ここにあげた悪の意識や憂鬱経験に根ざす「病的な心の見方」(246頁)からすれば、健全な心は浅薄に見え、後者からすれば、病める魂の見方はめめしく、病的に見えるとしながらも(246頁参照)、こう結論づけている。「悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである」(247頁)。彼は、悲観的な見解をこう述べてもいる。「私たちの文明は流血の修羅場の上に築かれており、個人個人の生存は孤独な断末魔のなかへ消えてゆく」(247頁)。われわれは人生の途上で、悪に翻弄されたり、憂鬱な経験に巻きこまれたりして生きていかざるをえないのである。鬱状態がこうじて、生きる意味が見失われ、自己否定に行き着く場合もある。「流血の修羅場」では、おぞましいこと、信じがたいこともおこり、ひとびとの不安を掻きたてる。ジェイムズは、宗教が不安からの救済に一定の役割を果たすと考えている。
 彼の講義は、上巻から下巻へとさらに続いていく。インパクトの強い具体的事例を読むだけでも刺激され、考え方の幅が広がり、窮屈な先入観は打ち砕かれるだろう。本書を読み終えた後では、自分の心や、まわりの人間の行動を見る目も変ってくるに違いない。

 ジェイムズの思想を幅広く知りたいひとには、岸本智典編著、入江哲朗、岩下弘史、大厩諒著『ウィリアム・ジェイムズのことば』(教育評論社、2018年)がおすすめだ。ジェイムズ思想の魅力が「ものごとを可能な限り広いつながりのなかで捉える視座」(6頁)にあると見なす編者は、著者たちとの親密な協力と入念な検討を通じて、読者をジェイムズの思想の世界に招待している。他の思想家との関連や、時代背景なども視野に入れて、広い観点から、しかも丁寧に、分かりやすく書かれているので、ぜひ読んでほしい。
 スティーヴン・C・ロウ編著『ウィリアム・ジェイムズ入門 賢く生きる哲学』(本田理恵訳、日本教文社、1998年)もすぐれた案内書だ。ジェイムズの生涯や思想の特徴について簡潔に述べられ、ジェイムズの代表的な文章のいくつかが抜粋されている。



人物紹介

ジェイムズ ウィリアム (William James) [1842-1910]

アメリカの哲学者、心理学者。ニューヨーク州ニューヨークに生まれる。スヴェーデンボリの影響を受けた宗教家ヘンリー・ジェイムズの息子、小説家ヘンリー・ジェイムズの兄。ハーヴァード大学で化学、解剖学、生理学、医学を学ぶ。1865年生物学者アガシーの率いるブラジル探検隊に参加。69年ハーヴァード大学医学部卒業。72年ハーヴァード大学生理学講師、76年心理学助教授、この年アメリカで最初の実験心理学研究室を創設。80年哲学助教授。85年哲学教授、89年心理学教授、1897~1907年哲学教授。彼の研究生活は1890年ごろまでの心理学への関心の時期、1900年ごろまでの宗教心理学への関心の時期、そしてその後の哲学への関心の時期の3つに分かれ、それぞれの分野で影響力の大きな著作を残した。また〈意識の流れ〉という言葉は彼に由来する。その心理学は伝統的な精神科学としての心理学ではなく生理学的な心理学であり、主著『心理学原理』The Principles of Psychology(1890)は心理学における機能的研究方法を確立した。その立場は「心理とは心理のなすところのことである」という言い方に要約される。それはまた価値、真理の指標を効果に求める彼の哲学の方法論、プラグマティズムにも通じている。彼はプラグマティズムという言葉の創造者ではないが、一元論的な主知主義的観念論に反対する多元論的経験論者としてその先導者となった。この方面での著作に『プラグマティズム』Pragmatism(1907)、『根本経験論』Essays in Radical Empiricism(12)などがあり、宗教心理についての著作に『信ずる意志』The Will to Believe(1897)、『宗教的経験の諸相』The Varieties of Religious Experience(1902)などがある。
(折島正司)
" ジェイムズ ウィリアム", デジタル版 集英社世界文学大事典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2018-10-15)


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