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女という経験―津島佑子の思考―

推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)


  津島佑子の『女という経験』(平凡社、2006年)は、シリーズ「[問いの再生]<考える>ということの現場へ!」の一冊として書かれた。このシリーズは、現役の書き手の生き生きとした思考の現場に読者を招待するために企画されたものだ。それに応じる津島は、女であるということについての自分の思考のうねりを、生々しく書きつらねている。その試みは、男性が「男であるということ」の経験を考えるきっかけをも与えてくれる。
 本書は、「はじめに」、第1章 出口ナオという経験、第2章 神のことばという経験、第3章 霊力という経験、第4章 処女という経験、第5章 乳房と経血という経験、「終わりに」からなる。一種の自伝的な報告である「はじめに」で、津島は、自分の男女観の一端をこう述べる。「理屈とは関係なく、とにかく生きものの世界では、子を産む性である女が絶対的に中心の存在なのであり、男は言ってみれば、働き蜂のような存在に過ぎず、見ていてちっともおもしろそうではない。/そこで女としては男なるものが哀れになり、少しは力を貸してあげようか、という気持ちになることはある。ところが、現実の世のなかでは、どういうわけか、多くの男たちは自分のほうが劣った存在だとは認めたがらず、プライドだけが妙に高い。女にとっては扱いに手こずる。どうもすなおではない」(15頁)。


たしかに、プライドだけが妙に高い男は少なくない。母権性だった時代をのぞけば、世界の歴史はそうした男たちの角逐と支配がかたちづくってきたと言ってもいい。津島は、平塚らいてうの有名な宣言を引用している。「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。/今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」(21頁)。この宣言が出されたのが1911年である。それから100年以上が経ったいま、現在のこの時代をどう見るべきだろうか。
 第1章の主題は、この宣言に20年近く先立つ1892年に突然神懸かり状態になり、大本教の開祖になった出口ナオという女性である。彼女は、57歳のときに神のことばを口にし、翌年からは、文字を習ったことがなかったにもかかわらず、自然に手が動き、柱や紙に神のお告げを書き留め始めた(33頁参照)。このようにして神のことばが筆記された文書が「筆先」と呼ばれる。彼女が25年間にわたって書きしるした「筆先」は、半紙20枚つづりに換算して約1万冊に達するという(33頁参照)。それらは、ナオの女婿の王仁三郎によって『大本神論』([天の巻]、[火の巻]、[水の巻]、[地の巻])(東洋文庫、平凡社)にまとめられたが、刊行されたのは最初の2巻だけである。
 第2章では、神のことばを自動筆記したナオの経験が詳しく語られる。この経験について、いくつもの疑問が出てくる。なぜ、ナオに神が宿り、神のことばが書きしるされることになったのか。新宗教が次々と生まれ、「ええじゃないか運動」の熱狂が湧きおこった時代背景や、困窮生活に追いこまれたナオ自身の嘆き、子供の連続的な不幸などとのつながりは否定できないだろう。しかし、なぜ神は綾部という地方都市に住むひとりの女性に降りなければならなかったのか。神はなぜ彼女を選んだのか。彼女の感受性が人並みはずれたものだったのか、等々。
 津島は、出口ナオの最初の「神懸かり」を証言する娘たちの記録を、日本思想史研究者である安丸良夫の名著『出口なお』(朝日選書)のなかから引用している。


 そのはじまりは、なおの腹のなかになにかべつの活物がはいりこみ、非常な力でいきむ・・・という感覚であった。/そのさい、はいりこんだ活物は、なおの咽喉元で「ウーム、ウーム。ウーム……」とはげしくいきみ・・・、なおの咽喉からなおのものとはまったく異なった声で叫ぼうとした。そして、やがてなおの咽喉は、自分の声とこの活物の声との二つによって使いわけされたかのようになり、なおと活物との二つの声で問答がはじまった。/
 活物「わしは艮(うしとら)之神であるぞよ」
 なお「そんな事言ふて、アンタは妾を瞞しなはるのやおまへんかい?」
 活物「わしは神じゃから嘘は吐かぬワイ。わしの言ふ事、毛筋の幅の半分でも間違ふたら神は此の世に居らんのじゃぞよ」
 なお「そんな偉い神様どすかい。狐や狸が瞞してなはるねん御座へんかい」
 活物「狐や狸で御座らぬぞ。この神は三千世界を建替建直しする神じゃぞ。三千世界一度に開く梅の花、艮之神の世になったぞよ。この神でなければ世の建て替えは出来ぬのじゃ。天理、金光、黒住、妙霊先走り、艮(とどめ)に艮之金神が現れて三千世界の大洗濯を致すのじゃ。これからなかなか大謨(たいもう)なれど、三千世界を一つに丸めて万劫末代続く神国の世に致すぞよ」
 なお「そんな事言ふて本真どすかい?」
 活物「嘘の事なら、神はこんな苦労はせぬぞ」(53~54頁)


 地元のことばで話す出口なおと、神のかしこまった語り口との対比がユーモラスな雰囲気をかもし出している。神の存在に半信半疑ななおと、なおに自分のことばを信じさせようとする神との間のやりとりには切迫感は薄く、どことなくほのぼのとした感じもただよっている。この生き生きとした会話の箇所は、『大本神論 天の巻』では、以下のように変わる。なおの神秘体験の、王仁三郎による宗教的な教義への変形である。

 
三ぜん世界一度に開く梅の花、艮の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。日本は神道、神が構はな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。…… (54~55頁)
 


  1931年に、「筆先」の開始を記念して建立された「神声碑」には、こう刻まれているという。



 三ぜんせかい いちどにひら九
 うめのはな もとのかみよに
 たてかえ たてなおすぞ
 すみせんざんに こしをかけ
 うしとらのこんじんまもるぞよ
    めいじ二十五ねんしょうがついつか
                  で九ち なお (52頁)


 津島は、『大本神論』や「筆先」のことばに接するたびに、不思議な衝撃を受けるといい、その理由をこう推測する。「たぶん、人間のことばが音の領域から文字の領域に飛びこんでいく、その刹那の、抵抗熱と言うべきようなものが伝わって来る気がするからなのではないか」(57~58頁)。彼女自身の衝撃は、ナオが「神懸かり」を経験したさいの衝撃の連想へとつながる。「音としてのみそれまで存在していたことばが、物理的な空間にぶつかり、文字に変貌する。はじめてその変貌を経験した人にとって、それはどれだけの『衝撃』として感じられたことか」(58頁)。津島は、この音が文字に変貌する経験のなかに「跳躍」(同頁)を感じとる。この「跳躍」を準備したのは、不運がたび重なり、地を這いずり回るようにして生きていたナオの苦悩の日々である。津島は、貧相で凡々たる文学的発想と謙遜しつつ(59頁参照)、ナオのこころのなかの思いをこう予測している。「子どもたちは大丈夫だろうか、明日はどうなるのだろうか、自分が倒れるわけにはいかない、でもすでに病気になっているのかもしれない、ああ、一晩だけでもゆっくり眠れれば、これは夢なのかもしれない、ここはどういう世界なのだろう、子どもたちがなぜ、苦しまなければならないのだろう、なぜ、みんな苦しんでいるのだろう、なぜ、苦しみがいつまでも終わらないのだろう、なにがまちがっているのか、どこに理由があるのか……」(58~59頁)。このようにして煩悶するナオのこころに、一筋の光明をもたらすかのように神のことばが降りてきたのである。神はナオに引き寄せられて到来したのかもしれない。いずれにせよ、「跳躍」がおきたのである。
 この「跳躍」について、津島はこうまとめている。「現世的な判断では、無学な田舎の貧しい女がどのようにして、当時の時代背景を読みとり、政治の混乱を感じとり、文化の根源になるものを見通し、資本主義型近代社会の限界を知ることができたのか、こうしたナオの『神懸かり』への『跳躍』に、人間という存在の持つ不思議な底深い能力を感じ、圧倒されずにいられなくなる、としか私には言いようがない。ここには、確かに、私たちの『常識』を超えた、とんでもない『跳躍』がある」(63頁)。
 われわれの経験においては、しばしば予想もしないことがつぎつぎとおこる。それらの多くは不意打ちという仕方で到来するがゆえに、なすすべもなく一方的に受け入れざるをえない。それに対して、ナオの「跳躍」には、神のお告げを受動的に受け止めるのではなく、それに自分の社会観、世界観を反映させつつ表現するという能動的な側面が認められる。神のことばは、ナオの思考を経由して文字化されているのである。その一例として、津島が引用している「筆先」の一部を引いてみる。「人民は虎狼よりも悪が強いから、欲に限りが無いから、何んぼ物が有りても、満足といふ事を致さん、惨酷い精神に成りて了ふて、鬼か大蛇の精神になりて、人の国を奪つたり、人の物を無理しても強奪くりたがる、悪道な世になりて居るぞよ。(中略)女と見れば何人でも手に懸け、妾や足懸を沢山に抱えて、開けた人民の行り方と考えたり、耻も畏れも知らぬ斗りか、他人は何んな難儀をいたし居りても、見て見ん振りをいたして、我身さえ都合が善ければ宜いと申して、日本魂の種を外国へ引抜かれて了ふ」(68~69頁)。この引用文は、ナオの考えの一端が神のことばとしてしるされたもののように思える。
 第2章の後半では、津島は、鎖国時代の肯定的な女性観が開国後には女性蔑視の方向に傾いたのではないかと推測し、ナオはそれを批判的に見ていたと述べる。津島はまた、平塚らいてうが『青踏』の創刊号に寄せたつぎの一文に、ナオの考え方と通低するものを見いだしている。「『隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ』、こは私どもの内に向つての不断の叫声、押えがたく消しがたき渇望、一切の雑多な部分的本能の統一せられたる最終の全人格的の唯一本能である」(76頁)。両者はともに、女であることにきわめて意識的であった。
 津島は第2章をこう締めくくる。「マイナスの意味であろうが、プラスの意味であろうが、とにかく、ナオは『女』という課題をとくに抽出して、そこから世のなかの意味を彼女なりに考えつづけていた。/その考えはあるとき、神の側からの視野に跳躍して、『変性男子』という新しい概念を産みだすことになる。現世の人間としては『女』でありながら、中身は男の神であるナオとは、『女のけがれ』と『女の霊力』の両方を否定しないままに、それを統一する『男』の力強いことばを得た存在になったのだ。/そのように考えると、ナオの教義はまさに『女』というものを『男女』の新しい関係からとらえ直すものだったとも言えるような気がしてくる」(82頁)。
 神懸かりの状態になり、「筆先」の膨大な文書を残した出口ナオという女性を主題化する本書の第1章と第2章は、時代状況を視野に入れながら、ナオの想像を超える経験の摩訶不思議な側面に迫ろうとする津島の粘り強い思考の軌跡が印象的な章だ。
 第3章から第5章も、それぞれに読みごたえがある。ぜひ、じっくりと津島の思考とつき合ってほしい。

 津島佑子『快楽の本棚 言葉から自由になるための読書案内』(中公新書、2003年)は、ことばを通じて得られる津島自身の喜びの記録である。第1部は、幼年時代から中学時代にかけての読書の記憶が中心である。第2部では、モーパッサンの『ベラミ』、井原西鶴の『好色一代男』、D.H.ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』、オスカー・ワイルドの『獄中記』、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』、谷崎潤一郎の『細雪』など、彼女好みの本が選ばれている。
 おしまいに書かれた文学擁護の文章が共感を誘う。「文学、この一見、なんの役にも立ちそうにない、地味で、世の中の動きからも取り残されているような世界。/でももし、この世界が無かったら、私は自分がこの世の中にひとりの人間として生きていることに、どれだけ退屈し、どれだけさびしい思いに襲われ、失望しなければならなかったか、とそれだけは私自身の経験としてためらいなく言える。/文学を通じて、私は多くの、時代も場所もちがうすばらしい人たちと『直接』出会うことができたし、その人たちが存在しない世界は、今となっては考えられなくなっている。そしてこれからも、そうした私の愛すべき友人たちは増えつづけていくにちがいない。/文学とは、人間が人間であることに希望を失わずに生きるために必要な、現実の世界に付き添いつづけるもうひとつの世界なのだ」(229頁)。
 「書き終えてひとこと」は、こう締めくくられている。「この世そのものがなんと快楽に満ちていることだろう。海の音、山の姿、木々のにおい、鳥や獣たちの鳴き声、人間たちの夢、歌。文学とは、こうした快楽を互いに確認する場なのだと私は思う。たとえ、そこに涙やうめき声が重くのしかかろうと」(232頁)。

人物紹介

津島佑子 (つしま-ゆうこ) [1947-2016]

小説家。本名里子。東京都出身。作家太宰治(だざいおさむ)の次女。白百合(しらゆり)女子大学英文科卒業。在学中に『レクイエム――犬と大人のために』(1969)を発表し、女流新人として注目された。『葎(むぐら)の母』(1976)で田村俊子(としこ)賞を、『草の臥所(ふしど)』(1977)で泉鏡花(きょうか)賞を、『寵児(ちょうじ)』(1978)で女流文学賞を、『光の領分』(1979)で野間文芸新人賞を、『黙市(だんまりいち)』(1983)で川端康成(やすなり)文学賞を、『夜の光に追われて』(1987)で読売文学賞を、『真昼へ』(1988)で平林たい子賞をそれぞれ受けた。ほかに『大いなる夢よ、光よ』(1990)、『風よ、空駆ける風よ』(1995)、『火の山』(1998)などがある。これらの作品では、家、家族の場で、自己に内在しているものの確認、人間関係における孤絶と連帯の実相を執拗(しつよう)に追求する。自在な発想と、のびやかな文体は、父太宰治から受け継いだものと評される。[岡 宣子][橋詰静子]
" 津島佑子", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2019-01-21)

出口なお (でぐち-なお) [1837*−1918]

明治-大正時代の宗教家。
天保(てんぽう)7年12月16日生まれ。大本(おおもと)の開祖。宇宙創造神艮(うしとら)の金神(こんじん)(国常立尊(くにのとこたちのみこと))が、明治25年なおに神がかりし、「お筆先」とよばれる教義原典を仮名文字でしるし、大本をひらく。大正7年11月6日死去。83歳。丹波福知山(京都府)出身。
©Kodansha
" でぐち-なお【出口なお】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2019-01-22)

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