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おすすめの一冊 本学の教員や図書館員のおすすめの本を紹介します。
 

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本の世界に魅せられて―外から見た日本―

推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)


 沼野充義編著『つまり、読書は冒険だ。 対話で学ぶ<世界文学>連続講義 5』(光文社、2017年)は、作家、詩人、評論家などを招いて行われた対話をまとめたシリーズの最終巻である。第1巻から第4巻までのタイトルは以下の通りである。1.『世界は文学でできている―対話で学ぶ<世界文学>連続講義』、2.『やっぱり世界は文学でできている―対話で学ぶ<世界文学>連続講義2』、3.『それでも世界は文学でできている―対話で学ぶ<世界文学>連続講義3』、4.『8歳から80歳までの世界文学入門―対話で学ぶ<世界文学>連続講義4』。これらのなかで特に興味深い対話のタイトルをいくつかあげてみる(379~381頁参照)。「越境文学の冒険」(リービ英雄)、「詩を読む、詩を聴く」(飯野友幸)「太宰とドストエフスキーに感じる同じもの」(綿矢りさ)「いま、あらためて考える―『文学』とは何なのか」(加賀乙彦)、「『言葉を疑う、言葉でたたかう』」(アーサー・ビナード)、「外から見た日本の現代文学」(マイケル・エメリック)などである。文学に関する白熱の対話が繰り広げられており、読者に「文学を知らずに死んでいくのはもったいない」と思わせる魅力的な本になっている。


  本書のタイトルは、よく本を読むひとにとっては、自明の事実であろう。読書は、座っていてもできる多種多様な世界への冒険である。われわれは読書を通じて、未知の世界に遭遇し、ときには見知らぬひとの心の奥の世界に深く入りこみ、ときにはひととひとの間の情念のドラマに翻弄させられたりして、文字通り、心身が揺さぶられるような出来事に遭遇するのだ。
 編著者の沼野は、「はじめに―世界文学六カ条」のなかで、文学作品を読むことに関連する特徴を六つあげている。そのなかのふたつだけとりあげてみよう。ひとつは、「文学を読むのは体験だ」(10頁)である。沼野はこう述べている。「知識は忘れてしまえばそれまでですが、読書という体験は―たとえば読んだ小説の筋書きや登場人物の名前を忘れたとしても―一生、読んだ人間に残ります。いい本を読む前と読んだ後では、あなたは少し変わっているはずだし、世界は少し違って見えるはずです」(10~11頁)。よい本は、われわれに衝撃や感動を与え、深く考えこませる。おのれの未熟な思考や無知、狭い了見を打ち砕くのもすぐれた本である。よい本はまた、ひとや世界を見る見方に変更をもたらす。このようにして、読書は人間的な成長の経験につながる。沼野の言うように、いい本を読む前と後では違った人間に変身するのだ。自分を変えたいと願うならば、手ごたえのある本を読むのがもっとも手っ取り早い方法である。
 もうひとつは、「誰もあなたの代わりに本を読んでくれない。世界文学を切り拓く冒険のヒーロー、ヒロインはあなた自身だ」(10頁)である。図書館や書店に並ぶ本は、手にとって読んでくれる読者を待ち望んでいる。読まれない本は、物体としてそこにあるにすぎないが、ひとたび読まれ始めると、本は読者のこころに入りこんで、読書の時間を無限に豊かなものへと変えてしまう。その時間を生きること、それこそが、読書の主人公として、思考や想像力を駆使して文学の世界に入りこむことなのである。
 本書のなかでもっとも強く印象に残るのが、沼野とツベタナ・クリステワとの対話「心づくしの日本語―短詩系文学を語る」である。クリステワは、ブルガリアのソフィア出身で、日本の古典文学を研究してきた。対話の当時、彼女は国際基督教大学で教えている。
 クリステワは、高校の最終学年頃に日本文化や文学に興味をもちはじめ、モスクワ大学の日本語・日本文学学科に入学する。数学も得意科目で選択に迷ったが、数学の教師が嫌な人物で、数学も嫌になったための結果だという。大学では、イリナ・リボヴァ=ヨッフエという著名な日本文学研究者の先生との出会いが彼女の運命を決めた。彼女は、先生から『とはずがたり』を読むようすすめられて、古典文学研究に導かれた。
 ブルガリアに戻ったクリステワは、孤独な日々のなかで、日本文学を知らないひとに、その面白さや独自性を伝えるための勉強をし、周りに相談できる研究者がいないため、ひたすらテクストを読むことに専念した。その結果、「テクスト自体を相手にして、その声が少しばかり聞き取れるようになった」(233頁)と、彼女は言う。
 日本に留学した彼女は、古典文学における「涙」の問題に注目し、研究を深めていく。自国でのテクストとの格闘は、「ステレオタイプに影響されずに和歌を読み、自分なりの発見ができるための力」(同頁)を彼女に与えた。彼女は、会場の聴衆にこう伝える。「皆さんに言いたいのは、好きなことをやれば、人間はかなりのことができるということです。好きでない研究対象は、やめたほうがいいとさえ思います」(同頁)。
 クリステワは、日本の現状をこう批判する。「日本古典文学の研究は、オーソリティーの世界です。誰か偉い先生が何かを言ったら、それに反論することは許されていないような雰囲気です。私はどんなに偉い先生の意見であっても、まずは疑います。決して尊敬していないわけではありません。ただ絶対的であるとは思っていないだけです。納得できる場合もあれば、できない場合もあります。とにかく、疑うことは、考えることの始まりです。だから、学生の皆さんにアドバイスしたいです。疑いなさい。私たちの言っていることも疑いなさい」(234頁)。相手の言うことを、地位や肩書きをのけて、疑ってかかることができるためには、日ごろよく考えて勉強していなければならないだろうし、保守的で閉鎖的な雰囲気に飲みこまれないだけの覚悟も必要だろう。
 対話は、「和歌の消長と行く末」(239頁)に関する専門的なやりとりに移る。和歌と短歌の違い、中国文化の日本文化への影響、仮名文字の完成が日本文化にもたらしたものなどについて、つっこんだ話し合いが進み、「『あいまいさ』の詩学」(247頁)に話題が移ったところで、『源氏物語』の一部が対話のクライマックスとして登場してくる。
 クリステワは、長い間『源氏物語』が嫌いだったが、「帚木」に出てくる、両義的な含みをもった歌に出会って感動し、この歌に「人生の中で求めていた大事なものがあった」(249頁)と気づく。「袖濡るる 露のゆかりと 思ふにも なお疎まれぬ 大和撫子」(251頁)という歌である。焦点は、「なお疎まれぬ」の「ぬ」である。「ぬ」は打ち消しの意味にも、完了の意味にもとれるが、日本の研究者たちは正しい解釈はひとつしかないことに固執すると彼女は批判する。彼女は、どちらもよしとする立場だ。「紫式部があえて二つの正反対の読みを同時に表現できる『疎まれぬ』にしたのは、二つとも活かそうとしたからだ、と推測するのは、ごく自然のことでしょう」(253頁)。この解釈を発表した彼女は、尊敬している注釈者の一人から、「完了説に従わなければ、あなたの研究を支持しない」(同頁)と脅されたという。
 「あれか、これか」とひとつに絞るのではなく、「あれも、これも」とふたつを認めて、「あいまいさ」を積極的に表現する和歌の文法に気づいた彼女には、「新しい宇宙」(254頁)が開かれる。彼女はまた、和歌の文法が成立した背景に、古代中国の思想である道教の影響を認めつつ、古代中国の「あいまいさの哲学」が、日本において「あいまいさの詩学」として生まれ変わったのだと自説を強調している(256頁参照)。
 このようにして、クリステワは、紫式部のなかに両義性を大切にする女性を見出したのだが、それを導いたのは、時代状況を批判する次のような発言である。「たった一つの『正しいイデオロギー』のために、戦争やテロをやったりして、たった一つの『正しい考え方』のために、他者を傷つけたり殺したりする。私たちの目の前にある現実は、あまりにも醜いものです。世の中はダメになってきたんです。どうすれば良いのでしょうか。答えの一つは、『源氏物語』、日本古典文学にあると思います」(249頁)。
 対話は、現代文学のなかに見られる両義性という問題に移るが、そのなかで、もう一度紫式部の和歌について議論がなされる。「疎まれぬ」の「ぬ」の二重の意味は、作者が意図的に仕掛けたものか、読者が「疎まれぬ」を二重の意味で読めるという解釈上の問題なのか、どう考えたらよいのかという沼野の質問に対して、クリステワはこう答えている。「私たちにできるのは、あらゆる『読み』の可能性を検討して、最も説得力の高いものを見分けてみることだけでしょう」(265頁)。
 このように答えつつも、彼女は、両義的な意味をふくむ「疎まれぬ」に、二者択一的な決定論的な解釈を与えようとこだわるところに問題の根がひそむと言う。解釈以前の現実を見ることが大切だとして、中間領域=あいまいな領域に焦点を合わすようになってきた相対性理論と量子力学以後の自然科学が引き合いに出される(同頁参照)。彼女はこうも発言している。「誰か若い研究者に、和歌を物理学の視点から分析してほしいものです。古代中国の『あいまいさの哲学』を物理学と関連づけて、古代日本文学の『あいまいさの詩学』を徹底的に分析してほしいです」(265~266頁)。彼女はこう締めくくっている。「正反対の意味を同時に表す『なお疎まれぬ』のような和歌表現は、私たちの考え方に背いているでしょうが、物理学的には、決しておかしくはないということです」(266頁)。文学をそれ以外の世界に開く大胆な主張が際立っている。
 おしまいに、おすすめの本が紹介されている。『古今集』の特に32番から48番までの「梅の花シリーズ」を読めば、歌を読むことの快楽が覚えられるという(282頁参照)。その他、『雨月物語』、『斜陽』、ウンベルト・エーコの『開かれた作品』と『薔薇の名前』、ジャック・デリダの『根源の彼方に―グラマトロジーについて』と『ディセミナシオン』、バーバラ・ジョンソンの『詩的言語の脱構築』、レヴィ=ストロースの『神話と意味』がすすめられている。沼野は、クリステワの『心づくしの日本語』を推薦している。

 「世界文学と愉快な仲間たち」の第2部「世界から日本へ」では、日本への留学経験をもつ7人の若手研究者が、日本との出会いや印象、日本文学の面白さなどについて、様々な角度から語っていて興味深い。何人かの発言を紹介してみよう。
 ライアン・モリソン(アメリカ、近代日本文学研究者)は、20歳のときに谷崎潤一郎の『痴人の愛』のナオミに心底魅了され、大学院で日本文学を研究することを決意する。その後、20世紀のモダニストの作家たちを好んで読んでいた彼は、類似の傾向をもつ作家、石川淳に強く惹かれ、その研究成果を博士論文にまとめた。
 鄭重(中国、小島信夫のテクスト分析)は、高校卒業後、親のすねをかじりながらふらふらと遊んでばかりいたが、だめ息子の将来を案じた親から日本留学をすすめられて来日した。当時は、X JAPANの歌詞ぐらいしか分からなかったという。彼は、漫画本と文庫本が充実した区立図書館で、まず一通り漫画本を読んだ後、文庫本の「あ行」からかたっぱしに読んでいく決心をした。その間に、気になる作家や、その作家と関連する作家の本も読むようになった。「こ行」まできて、小島信夫の作品と出会い、それが研究テーマとして浮上したという。彼は、ジャッキー・チェンの自伝を日本語に翻訳している(354~358頁参照)。読書に集中できる環境と、多読、精読が、彼を日本文学の研究へと導いたようである。
 ウッセン・ボタゴス(カザフスタン、太宰治を中心とする比較文学研究者)は、カザフスタン大学の東洋学部に新設された日本語学科で、日本語の珍しさに惹かれて勉強し始めたという。当初、日本語の教科書は一冊しかなくて、皆でコピーし合ったという。彼女は、太宰治が用いた「女性の独白体」(362頁)に関心をもっている。太宰は、なぜ女性の文体を用いて、女性の視点で書くことを選んだのか、その深層に迫ろうとしている。
 ソン・ヘジョン(韓国、多和田葉子に惹かれて研究中)は、大学で哲学を専攻するかたわら、ドイツ語、フランス語、日本語などを学び、たまたま日本に留学し、多和田葉子の作品と出会う。いまは、文学における声というテーマで彼女の研究をする一方で、朗読の活動も積極的におこなっている多和田に魅了され、ビデオカメラをもって、世界各地の文学の現場におもむき、身体性に溢れる朗読パフォーマンスを撮影し続けている。
 エルジビエタ・コロナ(ポーランド、世界文学としての俳句を研究中)は、ワルシャワ大学の日本学科で学ぶ。彼女は、中学校の頃に、X JAPAN、GACKT,ポルノグラフィティなどのポップソングを聴いて、日本語の音が好きになった。日本に留学した彼女は、俳句と出会って、日本語の音の美しさを再度実感した。俳句の面白さに気づいたのは温泉旅行中のことだという。浴室の外に置かれた大きな樽に身を浸す。月が水面と肌を照らし、竹の垣根のそばには赤い椿の花。夜空からは雪が降り始めた。それまで俳句を学んでいた彼女は、そこで初めて、その瞬間の感動を俳句で伝えたいと願ったという(372頁参照)。「俳句というのはこのような特別な瞬間とごく日常の風景に新しい枠を与え、一瞬の出来事を宝石のように磨きあげてくれるからです。儚い人生の一瞬を摑み、琥珀に沈んだ虫のように周りに美しく呈示することができます」(同頁)。
 彼女は、正岡子規の俳句を通して、子規の人間性や日本の文化について学んでいる。自国の風景を連想させる句として、「菜の花の中に道あり一軒家」が紹介されている。彼女は、世界を新しい角度から見たいと望むひとに、日本の俳句と、外国語で書かれた「ハイク」の両方を読むことをすすめている(374頁参照)。
 日本の俳句や文学に刺激を受けて研究を深めている留学生たちの発言は、稀少な例に過ぎないかもしれないが、文学のもつ力の不変性と不滅性を感じさせてくれる。沼野は、巧みに日本語をあやつる留学生を前にして、「『日本人の君たちももっと頑張って、これくらい外国語を喋れるようにならなくちゃ駄目だよ』」(376頁)とハッパをかけているが、対話そのものは、なによりも貴重な文学作品の数々を読んで、じっくり考えて生きなさいという強いメッセージになっている。

人物紹介

沼野充義 (ぬまの-みつよし) [1954−]

昭和後期-平成時代のロシア・東欧文学者。
昭和29年6月8日生まれ。昭和56-60年ハーバード大に留学。平成14年「亡命文学論」でサントリー学芸賞。16年東大教授。同年「ユートピア文学論」で読売文学賞。妻はロシア文学者の沼野恭子。東京出身。東大卒。著作はほかに「屋根の上のバイリンガル」,訳書にA.グリーン「輝く世界」など。
©Kodansha
" ぬまの-みつよし【沼野充義】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2019-02-27)

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