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対話の喜び―ブーバーの祈り―

推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 アランは『定義集』(神谷幹夫訳、岩波文庫)のなかで、「おしゃべり」をつぎのように定義した。「これは無意識的な会話である。相手に言葉を取られないように、沈黙を満たす必要は、おしゃべりのなかに見られるもので、たえずせき立てられたこの気がかりから、おしゃべりは、何でもかまわず話し、しまいには疲れ切って、諦めて、相手の言うことを聞くようになる」(36頁)。目の前のひとに向かって、自分の言いたいことを一方的に話し、相手が話し出してもそれに耳を塞ぎ、相手が話すのを止めるとすぐにまたしつこく話し始めるひとをよく見かける。相手は、自分のおしゃべりのために利用されているにすぎない。アランは、しゃべり疲れたひとが、最後には相手に耳を傾けるようになると述べたが、相手を利用してしゃべり続けるひとのおしゃべり欲には際限がない。
 対話は、おしゃべりと違って、ことばのキャッチボールである。対話は、相互に自分の考えを伝えあい、お互いの考えを深めていくプロセスである。対話が実りあるものになるためには、日ごろ関心のある問題について自分でよく考え、考えたことをわかりやすく表現する訓練が大切である。相手の言うことをきちんと理解する力も養わなければならない。相手がちんぷんかんぷんなことを言い出して理解できないこともあるが、それを一方的に相手のせいにすることはよくない。自分の思考の狭さに起因することもあるからだ。だから、相手の考えそうなことを、自分でも考えておくことは大切だ。いずれにせよ、対話の時間を豊かにするためには、自主的な思考、正確な思考表現、相手の思考の的確な理解が欠かせない。暇にまかせて、相手のことを配慮せずに、考えなしにしゃべるのとはわけが違うのだ。


 対話の重要性を強調したのがマルティン・ブーバーである。ブーバーの『我と汝・対話』(植田重雄訳、岩波文庫、2014年[第45刷])は、「私は考える」というモノローグ的な視点で書かれた書物の出版に抗して、ダイアローグこそが根本問題であると主張する書物である。自分の都合だけを優先させれば、相手の考えや立場をないがしろにしかねない。結果として、言い争いや暴力、紛争にもつながる。世界大戦にいたった原因のひとつを、相手に対する敬意の忘却ととらえたブーバーは、相互に尊重しあえる経験の可能性を模索した。
 ブーバー(1878~1965)はウィーンで生まれた。大学では哲学、芸術学などを学ぶ。ユダヤ人国家の建設によって、ユダヤ人の差別や迫害を克服しようとするシオニズム運動に参加した。1923年にフランクフルト大学に新設されたユダヤ哲学の教授になったが、ナチス政権の誕生後はパレスティナに移住し、ヘブライ大学で社会哲学を教えた。当地にユダヤ人とアラブ人の共存する二重国家の建設を訴えたが、保守的な正統派から批判された。ブーバーは、なによりも人類の相互理解を力説して多くのひとの共感を得たが、宗教的な対立と闘争のなかに身を置くひと達からは憎まれ、孤立する場面もあった。
 『我と汝・対話』は、「我と汝」と「対話」からなり、それぞれ3部構成である。「我と汝」といえば固い響きだが、要するに、「私と君」である。君なしに私はありえないし、私なしに君はありえないという相互の対等の関係性が強調されている。あたりまえのことのように見える。ところが現実には、目の前の相手を無視して傍若無人なふるまいをするひともいれば、相手よりも自分を優位に置くことに神経をとがらせるひともいる。相手を衝動的に自分の欲望の餌食にするひともいて、私と君との間の対等で穏やかな関係というのはなかなか構築されにくい。いったん成立したとしても、維持していくことは容易ではなく、しばしば亀裂が入って崩壊するのである。
 ブーバーの根本的な主張が表れた文章を引用してみよう。「<われ>は<なんじ>と関係にはいることによって<われ>となる。<われ>となることによってわたしは、<なんじ>と語りかけるようになる。/すべて真の生とは出合いである」(19頁)。私は、君と関わることを通して私となるのであり、相互の関係がまず先行するのである。「我思う、ゆえに我在り」という、デカルト的な孤立した私中心主義的な発想は拒否され、君との交わりのなかで生きる私こそが真の私だという、関係性を第一義とする見方が打ち出されている。デカルト的な私の前にはだれもいない。ブーバーの言う私は、君との関係のなかにいる。
 この関係を生き生きとしたものにするのはことばである。相互に見つめ合いながら交わされることばが、単なるおしゃべりとは違う対話の時間を開く。相手の語りを通して相手の世界に反応するだけでなく、自分の語ることを咀嚼することで自分の姿を見つめなおすこともできる。相手にも同じことが起こるだろう。お互いが、考え方や感受性の類似性や差異性に気づいて、しばし考えこむこともあるだろう。いずれにせよ、語り合う関係によって、相互の成長が育まれる。いわば、ことばによって美しい音楽を奏でるような時間が生きられるのだ。おしゃべりの相手は、自分にそれを許してくれるひとならだれでもよいが、対話の場合はそうはいかない。ブーバーはこう述べる。「対話の生活とは、人々と多くの関わりをもつことではなく、関わるべき人々と真に関係にはいることにある」(206)。
 しかし、ブーバーは、われわれが真に関係する相手を人間に限定しているわけではない。動物や植物に対しても対話的な関係が可能だと考えるのである。「人間は、動物に近づいたり、語りかけたりするとき、驚くほど積極的な応答を、動物の側から時々受けとることに成功した。一般的にいって、人間の関わり方が真の<なんじ>を語ることが多ければ多いほど、動物の応答も強く直接的である」(154頁)。動物と親密な仕方で交流するひとには共感を得る発言だろう。ブーバーは植物についてもこう述べる。「あの樹木の生き生きとした全体性と統一性は、何かを探り出して知ろうとするだけの鋭い眼にたいして拒絶するが、<なんじ>と呼びかける者の眼ざしにたいしては、自らを打ち明けるのである。呼びかける者があるとき、樹木はまさにそこに存在していることを告知し、存在する樹木であることを示す」(155頁)。今日では、人間の話しかけに対する植物の応答は、微量の電流を測る装置を用いた実験によって確認できるらしいが、<なんじ>を動物や植物にまで拡張して柔軟に考えるブーバーは、直観によってその知見を先取りしていたことになる。
 他方で、ブーバーは、「われとなんじ」の豊かな対話的世界に「われとそれ」の貧しく、冷たい世界を対置している。後者は、現代世界のある一面として特徴づけられている。「現代における労働と所有の発展自体は、向かい合うものとの生活、すなわち、意味深い<われ-なんじ>の関係の痕跡をほとんど根絶してしまっていないであろうか」(61頁)。ブーバーの時代診断によれば、「われ-それ」の世界では、権力をもった主体としての私、横暴な私が目の前の事物や人間を支配し、意のままにしようとする体制が幅をきかせている。この世界では、事物は利用し利潤を生み出すための資材であり、人間もそのための人的資源でしかない。ブーバーによれば、病んだ時代においては、<それ>の世界は、生き生きとした<なんじ>の世界からの流れに潤されて、豊かな土壌を与えられることはもはやなくなり、分離、停滞し、巨大な泥沼の幻影となって人間をおびやかす。二度と<なんじ>が現存とはなり得ない世界で満足することによって、人間は敗北するのである(68頁参照)。「われとなんじ」の共存や人間の精神的成長よりも、経済成長が重視される数字優先的な社会では、人間は利益のみを追い求めるようになる。ブーバーは、こうした現代世界の一断面を糾弾している。「勝手気儘な我意の強い人間は、運命を信ぜず、出合いに生きることもない。このような人間は、<なんじ>との結合を知らない。彼はただ外にある熱狂的な世界と、これを利用しようとする猛烈な快楽だけしか知らない」(76頁)。
 「われとそれ」の冷たい関係が優勢を占める時代は、ブーバーにとってけっして許容できるものではなかった。そこで彼は時代批判を徹底するために、「われとなんじ」の人格的な関係を、「われと永遠のなんじ(神、究極の実在、聖なるもの)」の関係にまで拡張して宗教哲学的な考察をおこなっている。若い頃にドイツ神秘主義に心酔し、のちにはユダヤ教的な神秘主義にも共感したブーバーにとっては自然ななりゆきであった。彼は第三部の冒頭でこう述べる。「さまざまの関係を延長した線は、永遠の<なんじ>の中で交わる。/ それぞれの個々の<なんじ>は、永遠の<なんじ>へのかいま見の窓にすぎない。それぞれの個々の<なんじ>を通して根源語は、永遠の<なんじ>に呼びかける。(中略)生まれながらの<なんじ>は、それぞれの関係の<なんじ>を現実化しはするが、しかし、いかなる<関係>をも完全なものとはなし得ない。ただ絶対に<それ>となり得ない<なんじ>と直接関係にはいるときにおいてのみ、完全となるのである」(93頁)。個々の<なんじ>の彼方に永遠の<なんじ>をかいま見て、その存在との関係に入ることによってのみ、現実のわれとなんじの関係が真に成就するという主張は、信仰をもたなければ分かりにくい。しかし、われわれが等しく神のまなざしのもとにあると信じることで、居ずまいをただし、他者とのよりよい関係をこころがけるようになると言えば理解しやすいのではないだろうか。
 ブーバーは、人間的<なんじ>と、永遠の<なんじ>としての神との関係についてこう述べる。「神に語りかけることなく、ただ人間だけに語りかけようとするものの言葉は成就しない。しかし、人間に語りかけることなく、ただ神だけに語りかけようとするものの言葉は、誤りにおちいる」(197~198頁)。二種類の<なんじ>との不断の語りかけこそが真の関係に通じるというブーバーの確信である。
 ブーバーの言う永遠の<なんじ>は、信仰をもつひとの経験に比類ないアクセントをもたらす。「われわれがその前に立って向かい合い、その中に生き、そこへとはいり、そこから出てゆくことによって生きるところの<なんじ>の神秘は、関係を結ぶまえも、あとも、変わることなく存在する」(140頁)。信仰者にとって、神の神秘はわれわれの生のあらゆる局面に浸透している。「神との対話は、日常生活以外のところ、あるいはその上の方で生起する何かとして理解されてはならない。人間にたいする神の語りかけは、われわれそれぞれの生のうちに現われる。それは、われわれを囲む世界におけるすべての出来事や、すべての個人の生涯や、すべての歴史的な出来事などを貫いており、またあなたにとってもわたしにとっても道しるべや要請たらしめるものである」(167頁)。
 神は、「それ」として対象化されることもなければ、その存在が証明されるわけでもない。神は人間の側からの計らいを超えた存在である。ブーバーによれば、神は創造や啓示、救済の行為のなかで人間との直接的な関係に入ってくるのであり、そうしたことを通じてのみ、われわれは神をまざまざと感じることができるのだ(165頁参照)。
 ブーバーは、対話論を通じて、「なんじ」との関係において「われ」が成立するという、他者優位の観点を強調し、「われ」の自己中心性や横暴性をいさめた。その声は、いたるところで日常的に暴力が繰り返され、紛争の止むことのない時代のなかで、平和という一筋の狭い道につながっている。

  『我と汝・対話』が読みづらいというひとには、斉藤啓一の『ブーバーに学ぶ 「他者」と本当にわかり合うための30章』(日本教文社、2003年)をすすめたい。本書は、ホスピスのカウンセラーである斉藤がブーバーの根本思想を30に分けて述べたものである。そのなかでは、アインシュタイン、ローゼンツヴァイク、ヘッセなどとの交流、ナチスの迫害に対する抵抗、世界平和のための運動にも言及され、ブーバーの生涯と思想が浮き彫りにされている。
 斉藤は本書のねらいについて、「まえがき」でこう述べている。「彼の説いた『我と汝』の関係性を、読者ご自身が日常生活において実現していくためのヒントを提供することにある。すなわち、すばらしい出会いに恵まれ、深く理解し合える関係性を築き、真実の自分と、人生の意味を発見していただくこと、そしてその波紋を全世界に連鎖的に広げていただくこと、これが本書の目的である」(XVIII頁)。30のなかから四つだけ見てみよう。
 [2]は、「真の人間性は、利害関係のない人や、立場が下の人に対して、どのような態度を取るかでわかる。―人間を孤独にし社会を殺伐とさせる<我-それ>の関係―」という表題をもち、人間関係に利害や打算が入りこみ、人格的な関係が疎外されがちな現代社会を批判する1章である。ブーバーの主張がこうまとめてある。「自分の利益を得るための道具として、相手を見てはならない。まずは心を開き、相手の全存在をありのままに受け止められる大きな人間になること」(16頁)。
 [25]は、「暴力が人と人を結び付けることはない。/ 敵対状態か、奴隷状態をもたらすだけである。―ユダヤとアラブの和解に向けて不屈の戦いに挑む―」という表題で、ブーバーが危険を顧みず尽力した、ユダヤ人とアラブ人との平和的な共存を求めての政治活動に焦点を定めている。
 「人間にとって致命的なのは宿命を信じることだ。/ 宿命を否定することで人間は自由になる。―ブーバー思想の精神療法への応用―」という表題の[27]は、相手を冷たく観察するのではなく、こころから見つめることの大切さを強調している。彼は、だれと話すときも全神経を集中させて耳を傾け、相手からあるがままを受けとめてもらえるという信頼を得たという(273頁参照)。ある人物の証言によれば、ブーバーは何よりも見るひとであり、その目は冷静で率直であり、真の興味にあふれた目だったとのことである(276頁参照)。ブーバーは、相手をやさしく見つめ、すべてを受けいれる態度で接することこそが患者のこころを癒すと考えた。今日、ブーバーのような目で患者を愛情深く見つめることが治療に効果をもたらす例は、いくつも報告されている。「愛し合うことが真の癒しであり、真の癒しとは愛し合うことである」(283頁)。
 「新しく始めることを忘れてしまわないならば、/ 老年というのは一つのすばらしい事柄である。―最晩年の活動と死―という標題の[30]は、ブーバーの最期の姿を描いている。「犬があなたを見つめたとき、そのまなざしに応えるがよい。/ 子供があなたの手をつかんだとき、その触れ合いに応えるがよい」(321頁)という彼の残したメッセージが引用されている。

人物紹介

Alain (アラン) [1868―1951]

フランスの哲学者、評論家。本名はエミール・オーギュスト・シャルチエEmile Auguste Chartierで、筆名は中世詩人アラン・シャルチエにちなむ。3月3日、ノルマンディーのモルターニュに生まれる。ミシュレ校時代、哲学に目を開かれ、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)ではサント・ブーブ、ルナン、テーヌ、ブリュンチエールらに熱中し、のちアリストテレス、プラトン、とくにカントに深い感銘を得た。ドレフュス事件でジャーナリズムに初めて執筆し、1900年ルーアンの高等中学校(リセ)で哲学教授となる。ルーアンでの生徒の一人アンドレ・モーロアの『アラン』(1949)によれば、教師としての彼は、抽象的な理論よりも身近な実例をあげ、それを分析することにほとんどの時間を割き、また「偉大な書物のなかにはかならず哲学がある」との信念に基づいて、ホメロスやバルザックを読ませたという。ルーアン滞在中にアランの筆名で土地の新聞に、日々のできごとについての考察「語録」を掲載し、この短文形式が彼の思想を表現する最適なものとなった。パリのアンリ4世校在任中、第一次世界大戦が起こり、46歳の彼も志願兵として従軍し、その体験が『マルス、または裁かれた戦争』となり、愛国者の憤激を買った。『精神と情熱に関する81章』(1917)、『諸芸術の体系』(1920)もこの間に執筆された。1951年6月2日、パリ近郊ルベジネで83歳で没するまで多彩な著述活動を続け、主著に『幸福論』(1925)、『教育論』(1932)、『人間論』(1947)などがある。[谷長 茂]
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" アラン(哲学者、評論家)", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2019-03-28)

Martin Buber (ブーバー)[1878―1965]

ウィーン生まれのユダヤ人思想家。フランクフルト大学名誉教授を経て、1938年以後エルサレム大学教授。中世ドイツ神秘主義思想の影響を受けるとともに、18、19世紀に東ヨーロッパのユダヤ人に広まったハシディズムの神秘思想の復興に尽くし、またヘブライ語聖書のドイツ語訳を行った。宗教的、文化的シオニストととして、ユダヤ・アラブ両民族の共存に努めた。彼の思想の根本は対話の思想にある。彼によると、人間がとりうる態度ないし関係には、我=汝(なんじ)の関係と我=それの関係があり、後者は人間と物、主体と客体のような対象化と利用の関係であるが、前者は人格と人格、主体と主体の相互的関係であり、この出会いないし対話において人間は真の人格として現れる。さらにこの対話的関係は人間と永遠の汝としての神との間にみいだされ、こうして完全な我=汝の関係は直接に神と結び付くことによって実現されるとした。著書『我と汝』(1923)など。[千田義光]2018年4月18日
©Shogakukan Inc.
" ブーバー", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2019-03-28)

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