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古典の森を散策してみよう―『バガヴァッド・ギーター』を読む―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 『バガヴァッド・ギーター』(上村勝彦訳、岩波文庫、2016年[第32刷])は、インドの古典中の古典としてもっともよく知られた聖典である。標題は「神の歌」という意味である。『ギーター』は1世紀ごろに成立したと見なされ、大叙事詩『マハーバーラタ』(全18巻)の第6巻に編入されている。
 『ギーター』はインドの諸流派に共通の聖典であり、日本の仏教諸宗派にとっての「般若心経」や「観音経」にあたるものである。古くからアラビア語、ペルシャ語などに翻訳されて広く読まれ、インドでは、建国の父・ガンディーが『ギーター』を自分の行動の指針とした。欧米では、ドイツの文学者のシュレーゲル、アメリカの詩人エマーソンがこの書物を絶賛している。フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユは、サンスクリッド語を学び、抄訳も試みている。そのほか、世界の諸地域で多くのひとびとがこの書物に魅了されている。
 『ギーター』は、まえがき、全18章、訳注、解説という構成である。「まえがき」で、『ギーター』以前と以後の叙事詩の梗概が述べられている。訳者によれば、『マハーバーラタ』全体は人間存在の空しさを説いた作品であるが、編入された『ギーター』の主題は、「この世に生まれたからには、定められた行為に専心する」(16頁)ことである。


  第1章は、一族を滅ぼす戦いの意義について悩み、戦場で戦意を喪失したアルジュナの言動の描写である。
 第2章で、聖バガヴァット(クリシュナ=最高神の化身)がアルジュナに対して、戦闘を鼓舞するための教えを説く。重要な教えの一番目は、輪廻転生的な人間論である。「主体(個我)はこの身体において、少年期、青年期、老年期を経る。そしてまた、他の身体を得る」(34頁)。「人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く」(35頁)。二番目は、行為の結果を先取りして躊躇したりせずに、行為に専念せよという行為論である。「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ」(39頁)。三番目は、智者論である。「意にあるすべての欲望を捨て、自ら自己においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。/ 不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる」(40頁)。四番目は、智者の境地を述べる寂静論である。「すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する」(42頁)。
 第3章では、こうした理想的な人間像を聴いたアルジュナが尋ねる。「それでは、クリシュナ。人間は何に命じられて悪を行うのか。望みもしないのに。まるで力ずくで駆り立てられたように」(48頁)。ユダヤ教やキリスト教、仏教の諸宗派でも主題となる悪に関する問いかけである。聖バガヴァットはこう答える。「それは欲望である。それは怒りである。激質という要素から生じたものである。それは大食で非常に邪悪である。この世で、それが敵であると知れ」(同頁)。欲望や情念が悪の根だというのは、今日でも共有できる認識だ。欲望の力に引きずられて悪行を重ねる人間は古今東西どこにでもいる。
 それゆえ、第5章、第6章では、われわれが悪行に引きずりこまれないためのひとつの方策(自主的な道)について説かれる。悪の回避を可能にするのは、一言で言えば、自戒である。「[行為の]ヨーガに専心し、自己を清め、自己を制御し、感官を制し、その自己が万物の自己となった者は、行為しても汚されない」(58頁)。われわれは、警戒を怠ると、やすやすと欲望のとりこになるし、ついムカッとして暴言を吐き、荒っぽい行動にも出てしまう。だからこそ、自己コントロールが欠かせない。
 聖バガヴァットは、われわれの自己への関係のあり方に関して、ふたつの側面があると説く。「自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。/ 自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する」(62~62頁)。自分という存在は、自分の友人にも敵にもなるというのである。ともすれば節度を失いかねない自分に鞭を打ち、愚かな自分を少しでも高めるように努力するのは、自分が自分との友好関係をむすんで生きるということである。しかし、生活のリズムが崩れるにまかせ、落ちていく自分を放置すれば、その自分が自分にとっての敵となって刃向かってくるのだ。
 第7章は、聖バガヴァットが自らの正体について語る興味深い章である。「地、水、火、風、虚空、意(思考器官)、思惟機能、自我意識。以上、私の本性(物質的原理)は八種に分かれている。/ これは低次のものである。だが私にはそれとは別の、生命(霊我)である高次の本性(精神的原理)があることを知れ。それにより世界は維持されている」(70頁)。聖バガヴァットは、自分の存在を以下のように多様な言い方で示す。水における味、月と太陽における光、すべてのヴェーダにおける聖音(オーム)、空における音、人間における雄々しさ、地における芳香、火における光輝、万物における生命、苦行者における熱力、万物の永遠の種子、力ある者の、欲望と愛執を離れた力、生類における、美徳(義務)に反しない欲望などである(71頁参照)。要するに、聖バガヴァットは全世界の源泉だということである。
 それが意味するのは、先に言及した悪でさえも聖バガヴァットにその起源をもつということである。「純質的、激質的、暗質的な状態は、まさに私から生ずると知れ。しかし私はそれらの中にはなく、それらが私の中にある。/ これら三種の要素からなる状態により、この全世界は迷わされ、これらよりも高く、不変である私を理解しない」(71頁)。これらの三要素はわれわれを身体的に束縛するものである。その詳細は、第14章で説かれている。純質は、「幸福との結合と知識との結合によって束縛する」(114頁)。「激質は激情を本性とし、渇愛と執着を生ずるものであると知れ。それは行為との結合によって主体(個我)を束縛する」(同頁)。「暗質は無知から生じ、一切の主体を迷わすものであると知れ。それは怠慢、怠惰、睡眠によって束縛する」(同頁)。聖バガヴァットは、人間はだれもがこうした三要素によって身体的に束縛された存在であり、悪行に傾くのは不可避であると説く。キリスト教では、人間は神の命令に違反したがゆえに罪人となったが、『ギーター』では、人間は善にも悪にも傾く両義的な存在として創造されている。
 第16章では、聖バガヴァットが悪に染まる人間達の阿修羅的な特徴を数限りなくあげている。いくつか列挙してみよう。偽善、尊大、高慢、怒り、粗暴、無知、自惚れ、頑固、我執、暴力、妬み、残酷、不浄、貪欲などである(122~125頁参照)。「彼らは満たし難い欲望にふけり、偽善と慢心と酔いに満ち、迷妄のために誤った見解に固執し、不浄の信条を抱いて行動する」(123頁)。現代に生きるわれわれにもそっくりあてはまる特徴である。
 しかし、聖バガヴァットは、人間の阿修羅性を詳細に特徴づける一方で、それを追い払うもうひとつの方策(神への全的依存の道)を説いてもいる。それは、神である聖バガヴァットに帰依し、専心することである(第7章参照)。常に神を讃美し、信愛によって神を礼拝し、念想することによって、悪への傾斜に終止符が打たれる。聖バガヴァットはこう語る。「私も意を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。このように私に専念し、[私に]専心すれば、あなたはまさに私に至るであろう」(84~85頁)。
 神としての姿を見たいというアルジュナの願いを聞き入れ、聖バガヴァットが自分の姿を見せる第11章は、神の比類ない姿を描いて圧巻である。「あなたは、その肉眼によっては私を見ることができない。あなたに天眼を授けよう。私の神的なヨーガを見よ」(94頁)。天眼を得たアルジュナに神が顕現する。神は、「多くの口と眼を持ち、多くの稀有な外観をとり、多くの神々しい装飾をつけ、多くの神の武器を振り上げ、/ 神々しい花環と衣服を着け、神々しい香油を塗り、一切の驚異よりなる、あらゆる方角に顔を向けた無限なる神」(94~95頁)として姿を現すのである。神を前にしたアルジュナは、つぎのように述べる。「『神よ、私はあなたの身体のうちに神々を見る。またあらゆる種類の生類の群を見る。蓮華に座した主である梵天を見る。すべての聖仙や神的な蛇たちを見る。/ 多くの腕と腹と口と眼を持ち、あらゆる方角に無限の姿を示すあなたを見る。あなたの終りも中間も始めも認めることができない。全世界の主よ。あらゆる姿を持つ者よ』」(95頁)。こうした描写からわかるように、聖バガヴァットは他の宗教の神仏とはまったくことなる姿をしている。そこには、インドの豊穣な世界が反映されている。
 第18章は、聖バガヴァットの行為論である。「アルジュナよ、実に、すべての企ては欠陥に覆われているのだ。火が煙に覆われるように」(137頁)。それゆえに、なにをすべきか、なにを捨てるべきかについてよく考えなければならない。すべきことよりもしたいことを好んで行い、必要でないものを捨てることよりもかき集めることに忙しく生きるひとびとへの忠告である。すべきこととしたいことを区別するのは義務の意識の有無である。前者は、しなければならないと考えてする行為であり、後者は欲望に突き動かされ、後先を考える前にしてしまう行為である。行為の発端がなにかによって、結果の様相が決まる。「最初は毒のようで結末は甘露のような幸福」(136頁)もあれば、「最初は甘露のようで結末は毒のような幸福」(同頁))もある。思慮や義務の意識をもたず、欲望を自制しないままに迷走すれば不幸な事態をまねくのである。悲劇的な結末を回避するための忠告はこうだ。「何ものにも執着しない知性を持ち、自己を克服し、願望を離れた人は、放擲により、行為の超越の、最高の成就に達する」(137頁)。成就した者とブラフマン(梵=万有の根本原理)がひとつになるまでの記述が、本書のクライマックスである。「清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己を制御し、音声などの感官の対象を捨て、また愛憎を捨て、/ 人里離れた場所に住み、節食し、言葉と身体と意を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲を拠り所にし、/ 我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、『私のもの』という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体化することができる」(138頁)。自分がそのままでブラフマンにほかならないという「梵我一如」の境地に達するということである。
「心によりすべての行為を私のうちに放擲し、私に専念して、知性のヨーガに依存し、常に私に心を向ける者であれ」(138~139頁)、これが聖バガヴァットの究極のメッセージである。
 聖バガヴァットとアルジュナの「稀有の総毛立つ対話」(141頁)は、不信心者をも歓喜させずにはおかない。

 上村勝彦の『バガヴァット・ギーターの世界 ヒンドゥー教の救済』(ちくま学芸文庫、2007年)は、懇切丁寧な解説書である。NHKのラジオ番組用に書かれた『古代インドの宗教~ギーターの救済』の大幅な加筆、修正版である。上村は、『マハーバーラタ』(全11巻)の全訳という大業を4巻残して急逝した。
 本書は、序章と「おわりに」に挟まれた全22章からなる。「序章 日本に入ったヒンドゥー教の神々」は、日本でなじみの神々―帝釈天(インドラ)、金剛(ヴァジュラ)、閻魔(ヤマ)、弁才天(サラスヴァティー)など―がヒンドゥー教起源であることが紹介されている。神に対抗する悪魔の名前である「阿修羅」(アスラ)や、火中に供物を投じる儀式を表す「護摩」(ホーマ)、ワニを指す「金毘羅」(クンビーラ)などもインドのことばの音写である。
 第1章以下では、大叙事詩『マハーバーラタ』と『ギーター』の関係、『ギーター』の主題と人間観、世界観、自己論、行為論、知識論、悪論、幸福論などについて詳しく述べられている。重要な概念である「放擲」、「信愛」についての説明も委細をつくしている。仏教やインド哲学との関連についても言及されており、『ギーター』の理解に欠かせない。
 前川輝光による解説「『バガヴァット・ギーター』と仏教」に、上村と『ギーター』の深いつながりが描かれている。インド国営テレビで『ギーター』が94回の連続ドラマとして放映され、最高視聴率92%を稼いだとか、「ギーター検定」の話などもあって、興味深い。

 ガンディーの『『ギーター』書簡』(森本達雄訳、森本素世子補訂、第三文明社、2018年)は、獄中から自分の同志たちに送った18通の書簡をまとめたものである。ガンディーは、自分が訳した『ギーター』が難解すぎると苦情を訴えた同志の声に答えて、全18章のダイジェスト版をつくったのである。
 第1章の冒頭で、彼は『マハーバーラタ』を歴史書としてよりも、神と人間の内なる悪魔との闘いを記した宗教書として読むべきだと主張し(12頁参照)、こう述べている。「わたしたちは、わたしたちの精神の問題のすべてを『ギーター』によって解決できるのだ。日ごと、このようにして『ギーター』の教えに深く思いをいたす者は、その勉学に新しい歓びを体験し、新しい意味を見出すだろう」(14頁)。「わたしは以下に、アーシュラムの修道者たち諸君の手引きになればと、その教えについてのわたしの日々の瞑想からわたしに明かされた、あるいは明らかな『ギーター』の意味について書き送ることにする」(15頁)。
 毎日熱心に『ギーター』を読誦したガンディーは、そのなかに適宜自分の見解を入れながら、『ギーター』の教えの核心を平明に説き明かしているので、どの章を読んでも『ギーター』の力強いメッセージが伝わってくる。
 「あとがきに代えて」のなかに、「ヤングインディア」紙に載ったガンディーのことばが引用されている。「『告白せねばなりませんが、(中略)わたしの人生には、多くの目に見える悲劇がありました。しかしそれらが、わたしに、はっきりとそれと分かる、ぬぐい去れない影響を残していないとすれば、それは、『バガヴァット・ギーター』の教えのおかげなのです』」(181~182頁)。彼はその理由を、この書がわれわれのこころに生じる愛執や、他者に対する嫌悪や憎悪に打ち克つ術を説いてくれるからだと述べている。

 

関連語

『バガヴァッド・ギーター』 Bhagavadgītā 南アジア

インドのヒンドゥー教の最も有名な聖典。略して『ギーター』ともいう。1世紀ごろ(?)成立。大叙事詩『マハーバーラタ』第6巻に編入されている。パーンダヴァ軍とカウラヴァ軍が戦場で対峙(たいじ)した時、パーンダヴァの勇士アルジュナは、同族同士の戦いの意義について悩み、戦うことを拒否する。それに対し、彼の御者となっていた英雄クリシュナ(バガヴァット)が、彼を立ち上がらせるために『ギーター』を説いたという設定になっている。『ギーター』は〈最高のヨーガ〉を教える聖典である。しかし、そこで説かれる〈ヨーガ〉は、一般に漠然と理解されるようなものとは異なる。『ギーター』においては、「ヨーガは平等の境地samatvaである」と定義される(2.48)。すべてのものごとを平等(同一)と見る境地がヨーガと呼ばれる。それは絶対者ブラフマン(最高神クリシュナ)との合一であり、解脱(モークシャ)の境地である。 解脱を目指すのは、仏教やヒンドゥー教に共通の理想である。しかし、多くの宗教書が、社会人たることを放棄しなければ解脱することは不可能であると説くのに対し、『ギーター』は、自己の義務を果たしつつも窮極の境地に達することが可能であると説く。それどころか、社会人はけっして定められた自己の義務である行為を捨てるべきではないと強調する。平等の境地であるヨーガに達するためには、すべての行為を絶対者(最高神)に放擲(ほうてき)しなければならないとされる。〈放擲〉すなわちサンニヤーサsaṃnyāsaは、一般には行為を放棄し、隠棲(いんせい)あるいは遍歴の生活を送ることであるとされるが、『ギーター』の教主クリシュナの説くサンニヤーサとは、行為の結果(果報)を絶対者(最高神)に捧げて、行為者はひたすら結果を顧みずに無償の行為をすることである。それは〈祭祀(さいし)のための行為〉とも呼ばれる。絶対者(最高神)がすべての行為の源泉であると如実に知り、行為を絶対者に捧げる祭祀として行うことが、〈祭祀のための行為〉にほかならない。『ギーター』は天界に生まれるために行う祭祀の意義を否定しているが、同時に祭祀の重要性を説いているかのようにも見える。しかし、それらの個所においては、実はサンニヤーサが説かれているのである。クリシュナは、サンニヤーサがヨーガであると説く。「サンニヤーサと言われるもの、それをヨーガと知れ」(6.2)『ギーター』におけるヨーガとは、平等の境地、すなわち絶対者(最高神)との合一であり、また、その絶対の境地を実現するサンニヤーサ・ヨーガである。サンニヤーサを成就するためには、行為に専心することが必要である。そして、それを実現するには、最高神クリシュナについての真実の知識と、彼に対するひたむきなバクティ(信愛)が不可欠である。最終章である第18章の後半で、サンニヤーサにより行為の超越に達した人がブラフマンと一体化する方法が説かれている(18.49−53)。ブラフマンと一体になり、平等の境地(ヨーガ)を完成した人は、クリシュナに対する最高のバクティを得、彼を真に知り、彼と一体化する(18.54−55)。 シャンカラ(8世紀)、ラーマーヌジャ(11−12世紀)など、インドの代表的な宗教家・思想家が『ギーター』に対する注釈を著したことからも、インドの宗教界・思想界における本書の重要性が理解される。『ギーター』はまた、サンスクリット語で書かれた文献のうちで、まず第一にヨーロッパに紹介された。すなわち、1785年、それはウィルキンズによって英訳された。それ以来、『ギーター』の翻訳と参考書の出版が相つぎ、世界各国で愛読されてきた。近年では、フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユが『ギーター』に感銘を受け、自らフランス語に訳したことが知られている。
(上村勝彦)
©Shueisha
" 『バガヴァッド・ギーター』", デジタル版 集英社世界文学大事典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2019-05-08)

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