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戦争の記憶―過去の再現と現在の刻印―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 作家のカズオ・イシグロは、5歳半で離れた長崎での記憶をとどめたいという衝動にかられて最初の小説を書いたという。彼は、なにをどのように記憶し、どう語るかに関心をもち続けてきた作家のひとりである。リチャード・フラナガンも同じタイプの作家である。彼の筆になる『奥のほそ道』(渡辺佐智江訳、白水社、2018年)は、父親の捕虜の記憶を手がかりにして、戦争当事者たちの経験を想像的に仮構した長編小説である。原題は、The Narrow Road to the Deep Northである。タイトルはもちろん松尾芭蕉の『奥の細道』を念頭においたものである。
 リチャード・フラナガン(1961~)は、タスマニア州ロングフォードで、アイルランド系の家庭に生まれた。16歳で高校を中退したが、その後復学して、タスマニア大学、オックスフォード大学修士課程で歴史を学んだ。帰国後は、いくつもの職を経たあと、作家に転向した。3作目の『グールド魚類画帖 十二の魚をめぐる小説』で国際的に高い評価を受けた。
 彼は政治や環境問題について積極的に発言している。アボリジニが置かれている状況を問題にし、タスマニアの原生林伐採にも抗議文を発表し、伐採を擁護する政府と対決している。


 本書は、戦争文学の最高傑作と激賞され、2014年度のブッカー賞を受賞した。ロンドンでの受賞スピーチの冒頭で、彼はこう述べたという。「『私には文学的なバックグラウンドはない、生まれ育ったのは世界の果ての島にある小さな鉱山町で、祖父母は読み書きができなかった』」(452頁)。自国での総理大臣賞受賞式のスピーチでは、「『読み書きができる、そのことが人生を変える力になる。読み書きができなかった私の祖父母と今夜ここに立っている私とのちがいは、教育によって読み書きの能力を得られたことにある』」(同頁)と語り、賞金の4万豪ドルを先住民の子供に識字教育をおこなっている団体に寄付した(同頁参照)。
 タイトルの「奥のほそ道」は、泰緬連接鉄道を暗示している。この鉄道は、日本軍がタイ(泰)側の起点(ノンプラドック)とビルマ(緬甸)側の起点(タンビュザヤ)を結んで建設した、単線の軍用鉄道である。1942年の7月着工、翌年の10月に開通した。小説ではこう書かれる。「一九四三年十月二十五日、蒸気機関車C5631が日本人高官とタイ人高官を乗せた車両三両を牽引し、走行する初の列車として完成した<死の鉄路>の全線を走るとき、それは果てしなく続く人骨の臥所を通り過ぎ、そこにはオーストラリア人の三人に一人の遺骨があるだろう」(32頁)。ジャングルを伐開し、山岳地帯の岩盤を削り、軌道を敷き、架橋するという難工事の連続であった。二度の雨季と、マラリヤやコレラなどの悪疫が流行るなかでの昼夜兼行の突貫工事でもあった。
 この過酷な工事に、約6万人の連合国軍捕虜と、25万とも35万とも言われる、アジア各国から徴用された労働者が動員された。訳者は、工事の状況の一端をこうしるしている。「日本軍は捕虜の取り扱いに関する国際条約を遵守せず、捕虜は粗末な小屋で寝起きし、食糧も医薬品もほとんど与えられず、雨に打たれ泥にまみれ、ときに体刑による私的制裁を加えられ、重労働と飢餓と病に苦しみながら、多くが惨死した。捕虜の死者数は約一万三千人とされ、アジア人労務者の死者は推定数万人と、現在に至っても定かではない」(449頁)。
 リチャード・フラナガンの父親は、1942年の2月にジャワで日本軍の捕虜となり、鉄道建設のための強制労働を課せられた。冒頭の献辞にある「捕虜番号サンビャクサンジュウゴ(335)」は、フラナガンの父を指す。生還した父から断片的な話を聞くなかで、彼は小説の構想を練る。訳者の解説によれば、フラナガンは、書き始めたものの、なぜ書こうとするのかわからず、父親の存命中に書き終えなければ決して書き終わることはないが、今後書きつづけるためにはこの作品を書き上げねばならない、という錯綜した思いにとらわれ続けたという(449頁参照)。書き上げた五つのヴァージョンをすべて廃棄し、最終的な作品に仕上げるまでに12年を要している。
 『奥のほそ道』は、約千人のオーストラリア軍とともに捕虜となり、鉄道建設に従事させられた軍医ドリゴ・エヴァンスの愛と戦争の生涯を軸に展開する。しかし、それにとどまらず、捕虜を虐待し、斬首する日本の軍人達、麻酔も使わずに兵士を生体解剖する医師と、それに立ち会う研修生、コレラやマラリアにかかり、汚泥と糞便にまみれて死んでいく多くの兵士、終戦後、戦争犯罪者として絞首刑になる朝鮮人軍属、戦後をしぶとく生き延びる元日本兵などの物語でもある。フラナガンは、それぞれの人物になりきって、多種多様な感情の揺れ動きや思考、行動を描き出している。舞台は、戦前のタスマニア、メルボルン、アデレード、戦中のシンガポール、タイ、戦後のタスマニア、東京、神戸などと目まぐるしく変る。各章のタイトルには、フラナガンの人間と世界観を映す以下の俳句が選ばれている。牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉(芭蕉)、女から先へかすむぞ汐干がた(一茶)、露の世の露の中にてけんくわ哉(一茶)、露の世は露の世ながらさりながら(一茶)、世の中は地獄の上の花見かな(一茶)。
 本書の特に印象深い箇所を2箇所だけ引用してみる。日本軍によって執拗に殴打される捕虜を傍らにして、ドリゴ・エヴァンスはこう考える。「その世界では、人は恐怖から逃れられず、暴力が延々と続き、それが偉大なる唯一の真理としてある。(中略)まるで、暴力を伝え広め、暴力の支配を永遠に存続させるためだけに人間が存在しているかのようだった。世界は変わることなく、この暴力は常に存在し絶えることがないゆえ、男たちはこの世の終わりまで、ほかの男たちのブーツとこぶしと恐怖の下で死んでいくだろう。人間の歴史は、悉く暴力の歴史だったのだ」(301頁)。
 ひとは暴力という地獄に生きて、死んでいく。鉄路も同じ滅びの運命をたどった。「線路は、すべての線路がいつかは壊されるように壊された。すべてが水泡に帰し、なにひとつ残らなかった。人々は意味と希望を求めたが、過去の記録は泥にまみれた混沌の物語だけだ。/ 涯もなく埋もれたその巨大な残骸、荒涼として彼方へと広がる密林。帝国の夢と死者の跡には、丈高い草が茂るばかりだった」(309頁)。芭蕉の俳句に親しむ者には、「夏草や兵どもが夢の跡」の一句が連想される場面だ。
 作家のカフカは、頭がぶん殴られるような本をこそ読むべきだと述べたが、『奥のほそ道』はまさにその類の本である。この本がもたらす強い衝撃は、こころの襞に深い傷を残す。この本を読む前と後では、ひとが変ってしまう。人を見る目も、歴史に向かうまなざしも違ってしまうのだ。
 泰緬連接鉄道は、インド方面での戦争に勝利するための物資運搬鉄道として建設され、1943年の秋に完成した。インドでは、1944年に日本軍がイギリス軍の拠点であるインパール攻略作戦を敢行し、日本側には3万人を超える死者が出た。
 「訳者あとがき」には、本書に関連する映像や書物があげてある。インパール作戦については、NHKスペシャル取材班による『戦慄の記録 インパール』(岩波書店、2018年)でその詳細を読むことができる。

  安東量子の『海を撃つ 福島・広島・ベラルーシにて』(みすず書房、2019年)は、われわれにそっと差し出された、静かな戦いの記録である。帯には、「福島第一原発事故後の平坦な戦場」とある。本書は、放射能に汚染された生活環境のなかで、線量を記録し続けながら、専門家や政治化の発言を注視しつつ、現に起きていることがなんであり、この先どうなるかを見つめ続けるひとりの女性の内省の記録である。
 「1 あの日」は、3,11以後の日々の回想録である。植木店を営む夫と福島県いわき市の山間部に移り住んでいた著者の生活は、震災と原発事故によって一変する。彼女は一時的に避難したあと、放射性物質のあらたな放出がなければ、地元で暮らしていけると判断して、1週間後には自宅に戻った。放射線に関する情報が錯綜し、ひとびとの混乱状態が続くなかで、彼女はこう考える。「立入禁止とされた地の生活が失われようとしていることを、誰ひとり悲しまないのだろうか。暮らしていた人びとが故郷を追われ、ふたたびそれを取り戻すことは困難を極めるに違いないのに、そのことを誰も見向きもしないのか。わずかに悲しいとさえ思わないのだろうか。(中略)私は悲しむ人になろうと思った。誰も悲しまないのならば、最後まで悲しむ人間になろう」(23~24頁)。
 いわき市の風景の美しい場所をたずねたときの思いはこうしるされている。「なにも変わっていない。なにも変わらないのに線量計は反応し、私は親しんできた花に、木に、土に触れることをためらう。なぜ私は恐れるのか。変わったのは私なのか。景色は変わらない。私も変わっていないはずだ。では変わったのはいったいなんなのか。いったい誰が、なにを変えてしまったのか。なにも変わらないのに。私は泣いていたのかもしれない。それもよく覚えていない。ただひとつはっきりと思った。底が抜けた、と」(38~39頁)。
 「2 広島、福島、チェルノブイリ」では、学生時代に見たドキュメンタリー番組を想起して書かれた、自分と同様に底が抜けてしまったひとりの女性への共感の文章が胸にひびく。チェルノブイリ事故のさい、この女性の夫の消防士はなにも知らされず、通常の装備で消火活動に従事したため、高線量の放射線を浴びた肉体は2週間ともたなかった。妊娠していた妻は、病院側の制止を振りきって最後まで夫に付き添った。お腹の子は死産だった。その後、妻は再婚し、一児をもうけたが、離婚し、病気と不安定な生活のため、肉親の世話になる。著者の記憶する映像では、この女性は、「『私、どうすればよかったんだろう。どうすればいいんだろう』と呟きながら、歩いていた。その歩く様子は、あてどもなくさまよっているように見えた。行き先もわからず、宙空で力なく足掻いているようだ」(73頁)。著者はこう述べる。「すべてが正常にまわっているはずの現実の中で、彼女だけがまるで違う場所にいる。彼女自身が、どこにいるのかがわからないでいる。それは、絶望しているというのとは違う、失意の底にいるのとも違う、悲しみに暮れているのともまた違う。彼女の中で重要な蝶番が外れてしまったまま、それをどうすればいいのかわからず、途方に暮れている。途方に暮れていることさえわからず、そのことにまた途方に暮れ、幾重にも重なった困惑のなかで、そのまま消えてしまうのではないかとさえ思えた」(74頁)。著者も、この女性も、底が抜けてしまって、途方に暮れている。
 しかし、著者は、途方に暮れたままさまよい人になってはいけないと自戒する。故郷を失ったひとがさまようことのないようにしなければならない。彼女はひとつの覚悟をもつ。「失われたものが取り戻せないならば、せめて拠りどころを。それさえあれば、少なくともさまよい人にはならなくて済む。きっとささやかで構わないのだ。震災後に私が一番したかったのは、端的に言えばこれだけのことだった。そしてそれをすることによって、自分の拠りどころを作っていたのかもしれない」(78頁)。
 「3 ジャック・ロシャール、あるいは、国際放射線防護委員会(ICRP)」には、著者が拠りどころを作っていく道筋が描かれている。この委員会が3月22日付で出した声明のなかの、「我々の思いは彼らと共にある」という一文に、著者は涙が止まらなくなるほどの感動を覚える。世間の関心が「ただ事故を起こした原発の状況と政府や東電の対応」(80頁)に向かうなかで、地元で普通に暮らしているひとのことはなおざりにされていると感じていたからだ。
 著者は、いくつもの講演会や、映画の自主上映会などに参加するが、専門家の意見同士の食い違い、地元のひとびととのかみ合わない発言の数々に失望する。「このまま放っておくと私たちの暮らしが壊れてしまう」(88頁)と危機感を覚えた著者は、身近なひと達に呼びかけて、自主的な勉強会を開く。招いた先生と自分の暮らしに不安を懐いている参加者との質疑応答に全体的な「もやもや感」を感じた彼女は、自分のブログで感想文を公開し、多くの反響を得たが、現実を変えるためにはそれでは不十分と判断して、そのために動き出す。そのための最初のステップが、ICRPの勧告文の抄訳を読むことだった。彼女は主要なメッセージをこう要約する。「人びとの望みを知り、当局と専門家は放射線量の低下を目指しながら、それを支える手段を共に考え、実施せよ」(99頁)。彼女は、文章の背後に、「過去の原子力災害の被災地に暮らしている人びとの姿」(102頁)を見てとり、「そこに暮らす人びとへのあたたかい眼差し」(同頁)を感じる。
 この文章が誰によって、どのような経緯を経て書かれたのかをさぐる過程で、彼女は、EUの専門家のグループによってベラルーシでおこなわれたETHOSプロジェクトの存在を知る。このプロジェクトは、そこで暮らすひとびとに寄り添う仕方でなされた。その参加者のひとりジャック・ロシャールとの関わりが生まれて、彼女の行動は国際的な広がりをもつようになる。こうして、「元の暮らしに戻りたい、元の環境を取り戻したい」(128頁)という願い秘めた運動が展開していく。その後、彼女は、ノルウェーやベラルーシを訪ね、現地のひとびととの交流の機会を得ている。
  「6 語られたこと、語られなかったこと」には、オーストラリア放射線防護学会の招きでアデレードを訪れたときの経験についての報告がある。1950~1960年代に、イギリス軍は、広大で不毛な空き地に過ぎないと見なしたオーストラリアの大砂漠で核実験を繰り返した。その結果、この豊かな砂漠で暮らしてきたアボリジニのひとびとは追放され、さまよい人になった。「彼らは、自分たちに起きた悲劇のなんたるかを知らなかった。なぜそれが起きたのかも、なぜ自分たちがこのような目にあうのかも、自分たちに降りかかった出来事をもたらしたものの正体がなんなのかも知らなかった。知らないうちに得体の知れない巨大なものに巻き込まれ、なすすべもなく晒されてしまったのだ」(241~242頁)。砂漠の先住民族であるアボリジニのひとびとは、「『あなたたちは運が悪かった』」(242頁)の一言で片づけられたのである。
 おしまいで、彼女は自分の信念をこう表現する。「私たちは、唯一語り得ると信じる放射線の健康影響について、たどたどしく語り続けるのを止めないだろう。(中略)この出来事はどこからやってきて、私たちになにをもたらしたのか。もたらそうとしているのか。私たちはなにを失ったのか。本当の影響はなんだったのか。この先長い時間をかけて、私たちは語り得る共通の言葉を探していかなくてはならない」(245頁)。起きたこと、現に起きていることは、ことばにしないかぎり忘れ去られてしまう。著者は、ことばによって生きる道を探り続ける。
 「7 その町、その村、その人」で、楢葉町に向かうバスのなかで、6周年の追悼記念式典の中継を見たあと、復興が進み、その波に乗れないひとびとはいないかのようにして、忘れさられていく状況に抗して、ことばが刻まれる。「それならば、私は忘れまい。今日見た景色を、聞いた話を、忘却の向こう側へ押しやられようとしていることたちを、あなたが忘れるのなら、消し去ってしまおうとするなら、私は、記憶に、記録にとどめよう」(2267頁)。フラナガンは、「読み書きができる、そのことが人生を変える力になる」と語った。安東にとっては、得体の知れない巨大な出来事の細部を記憶にとどめ、文字として記録にとどめることが、生きる力になる。


人物紹介

リチャード・フラナガン (Richard Flanagan) [1961-]

オーストラリアのタスマニア州で生まれ育つ。高校中退後、リバーガイドなどさまざまな職業を経て、タスマニア大学、オックスフォード大学で学ぶ。デビュー作 Death of a River Guide(1994) で南オーストラリア州文芸祭文学賞をはじめ、オーストラリアの主要文学賞を受賞。3作目の『グールド魚類画帖 十二の魚をめぐる小説』の英連邦作家賞受賞(2002年度)で世界にその名を知らしめた。第二次世界大戦中に父親が生き延びた過酷な捕虜経験を題材にして、12年の歳月をかけて書かれた本書は、2014年度ブッカー賞を受賞し、各国の書評子から「傑作のなかの傑作」と絶賛された。その他の翻訳に『姿なきテロリスト』(以上、渡辺佐智江訳、白水社)がある。

安東 量子 (あんどう-りょうこ) [1976-]

1976年広島県生まれ。18歳まで広島に育つ。2002年から福島県東白川郡鮫川村、2004年からいわき市在住。震災後、ボランティア団体「福島のエートス」を設立(2011年12月)、主宰。自営業(植木屋)。共著に『福島はあなた自身―災害と復興を見つめて』(福島民報社、2018)がある。

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