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虫たちの生と死―いのちが繰り広げる世界―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 あなたは部屋でゴキブリを見つけたらどうするだろうか。金切り声をあげる、手近にあるものをひっつかんで、叩きつぶそうとやっきになる、というのが大方の反応ではないだろうか。蚊の羽音を耳元で聞こうものなら、手当たり次第に打ちまくる、あたり一面に殺虫剤を撒きちらす。毛虫やクモ、ムカデなども嫌われ者の代表格だ。足で踏みつぶしても、良心の呵責にとらわれることなどない。小さな虫たちは、しばしば人間たちの粗暴なふるまいによって一度限りのいのちを失う。
 しかし、虫たちとの出会いを大切に記憶に残すひともいる。羽化したばかりの蝶が、濡れた羽が乾くまでじっと待ったあと、二枚の羽をゆっくりと広げて空に舞う姿に感動した経験を語るひとがいる。尺取虫のリズミカルな動きに時間を忘れて見とれるひともいる。虫を好むひとたちにとって、目の前の虫はつかの間のいまを共に生きる、ありがたい一期一会の存在として受けとめられるのだ。

 奥本大三郎の『虫の文学誌』(小学館、2019年)は、虫好きのひとにはこたえられない一冊だ。装丁もすばらしい。本書は、古今東西の文学書における虫への言及箇所を幅広く収集し、コメントをつけたものである。巻末に虫に言及した100あまりの作品がリストアップされている。やわらかい文体で書かれ、ユーモラスな表現にも富み、読み出すととまらない。「人間大学」というNHKの教育テレビ番組のテキストが元になっている。奥本は、『完訳 ファーブル昆虫記』(全10巻)の翻訳者である。


 奥本は、物心ついた頃から虫が好きだったそうである。本も大好きで、文学をやるか、昆虫学をやるかで迷ったが、寝転んで本を読んでいても務まるフランス文学を選んだという。大学生の頃には、荒川重理『趣味の昆蟲界』、金井紫雲『蟲と藝術』などの本を見つけて寝床で読みふけり、そうした生活が本書の基礎になっている(3~4頁参照)。

 本書は13章から成る。タイトルだけを順番に見てみよう。「むしめづる人々―宇宙の豪奢を覗き見る小さな窓」、「『百蟲譜』―虫の日本文学・文化総説」、「トンボ―日本の勝虫、西洋の悪魔」、「ハエとカ―文武文武と夜も眠れず」、「スカラベ・サクレ―太陽神の化身」、「ホタル―鳴かぬ蛍が身を焦がす」、「ハンミョウとツチハンミョウ―毒殺の虫」、「マツムシ・スズムシ・コオロギ―暗きところは虫の声」、「飛蝗―数も知られぬ群蝗」、「ハチとアリ―働き者の社会」、「ノミ・シラミ・ナンキンムシ―馬の尿する枕元」、「チョウとガ―てふの出て舞う朧月」、「セミ―やがて死ぬけしきは見えず」。
 「むしめづる人々」(第1章)のなかに、「虫と蟲」という小エッセーがある。「蟲」の一字ですべての生物が表わされてきた歴史があるという。すなわち、羽蟲、毛蟲、甲蟲、鱗蟲、裸蟲という分類である。裸蟲のなかで一番偉いのが人間と見なされたが、ミミズなども裸蟲に属しているので、人間とミミズは同類になるという。偉そうにしている人間も、衣服を剥ぎ取れば、ミミズと同じ裸蟲に他ならない。蟲と人間を同列に置き、人間中心主義のおごりをやんわりとたしなめている。
 この章では、寺田寅彦(1878~1935)や、ヘルマン・ヘッセ(1877~1962)、エルンスト・ユンガー(1895~1998)といった虫の魅力にとりつかれた作家たちの「昆虫採集記」の一部を読むことができる。ヘッセの『蝶』(岡田朝雄訳、出版社)のなかから蝶をめでる文章が引用されている。「美しい蝶に出会い(中略)その蝶が日のあたった花にとまって、色あざやかな羽を息づくように開いたり閉じたりしているのを見ると、捕えるよろこびに息も詰まりそうになり、そろりそろりとしのび寄って、輝く色彩の斑紋の一つ一つ、水晶のような翅脈の一筋一筋、触角のこまかいとび色の毛の一本一本が見えてくると、それは何という興奮、何というよろこびだったろう」(40頁)。
 第2章は、江戸中期の俳人、横井也有(1702~1783)の書いた俳文「百蟲譜」の紹介である。俳文とは、「実用性がなく、俳諧味のある文章、つまり表向き役にも立たぬ、滑稽味のある、そして風情のある文章」(54頁)を指す。チョウ、トンボ、ハチ、セミ、ホタルイモムシ、カイコ、カゲロウ、ハエ、シミ、シラミについての愉快な描写に続き、カマキリへと移る。「蟷螂の痩せたるも、斧を持たるほこりより、その心いかつなり。人のうへにも此たぐひあるべし」(69頁)。奥本はこうコメントをつける。「カマキリというのは、恐ろしげな斧を持っているが、それよりもなによりも、その心構えがいかにも猛々しい。人間の中にもこんな人がいるものである」(同頁)。キリギリス、カについての俳諧味のある引用がこれに続く。いずれも、虫に寄り添った文章で、楽しく読める。
 第3章は、日本と西欧におけるトンボ観の比較だ。ラフカディオ・ハーン(1850~1904)の見解が引き合いに出されている。ハーンは、日本の歌人と比べると、英国の詩人は虫を主題とすることが少ないが、その背景にはキリスト教の存在があると見なす。「初期教会の見解では、人類以外の生物の魂や亡霊、またいかなる類の知性も否定されていた」(104頁)。初期のキリスト教徒たちの多くは、動物には心や魂を認めようとせず、近世にいたると、デカルトは動物は機械にすぎないと断定した。彼らは、古代の民族に見られた「虫にまつわる奇妙で不吉な信仰」(105頁)や、ある種の虫を神聖視する傾向を根絶しようともした。こうしたキリスト教的な人間優位の見方が、人間以外の動物軽視につながったというのがハーンの見方である(104~106頁参照)。
 第4章には、ハエとカに対する人間たちのさまざまな態度が示された文章が集められている。清少納言は、『枕草子』のなかで、「蠅こそにくき物のうちに入れつべく、愛嬌なきものはあれ」と述べて、ハエを嫌悪した(110頁参照)。宋の欧陽修(1007~1072)は、「蒼蠅を憎むの賦」で、小人物に重ねて、ハエの害をつづった(112~113頁参照)。ハエを敵視するひととは対極の立場でハエを詠ったのがウィリアム・ブレイク(1757~1827)である。
「蠅」という詩(松島正一編『対訳 ブレイク詩集―イギリス詩人選(4)』、岩波文庫収集)を引用してみよう。

 

 小さな蠅よ、
 おまえの夏の遊びを
 私の思想のない手が
 叩きつぶした。

 

 私もおまえのような
 蠅ではないのか。
 それともおまえは
 私のような人間ではないのか。

 

 なぜなら私は踊って
 飲んでそして歌う、
 ある盲目の手が
 私の翅を叩きおとすまで。

 

 思想が生命であり
 力で呼吸であるならば、
 思想の欠如が
 死であるならば、

 

 その時、私は
 幸福な蠅である、
 私が生きていようと、
 死んでいようと。(117~118頁)

 

 蠅と「私」を、共に死んでいく同列の生き物として見る詩だ。蠅がある日、ひとの手によって叩きつぶされるように、「私」も盲目の手によって叩きおとされる。蠅と「私」の交流が詠われている。訳文の固さのせいもあって、全体的に厳粛な響きが感じられる詩だ。
 この章には、人間の間抜けさや滑稽さを描写した川柳も紹介してある。「蠅は逃げたのに静かに手を開き」、「蠅の生捕り捨て所に困ってい」、「蠅たたきこれさいわいと嫁の尻」(119頁)。色っぽいハエの話や、狂歌、狂言のなかで出てくるハエの話しも含まれる。
 カのユーモラスさや、恐ろしさ、不気味さを詠った川柳や詩も紹介されている。
第5章以下も、興味深い引用をちりばめる奥本の文章がさえている。どこから読み始めて、どこでページを閉じても余韻が残る。
 同じ著者による『虫から始まる文明論』(集英社、2015年)もおすすめの一冊だ。コンピューターリテラシーだけでなく、「自然を細かく見る眼」(212頁)を養ってほしいという願いから書かれた味わい深い本である。

 

  稲垣栄洋の『生き物の死にざま』(草思社、2019年)は、29種類の生き物がどのようにして死んでいくのかを描いた本である。大半は、子孫を残したあと、あらかじめプログラム化された死に向かう生き物たちの姿を描写したものだが、人間の経済的な行為に組みこまれ、強制的な死を強いられる生き物の最後を描いたものも含まれる。死の場面に関しては、大半は淡々とした記述が続くが、ところどころに、著者の詠嘆が挟みこまれている。
 「2 子に身を捧ぐ生涯」は、ハサミムシの「死の儀式」の描写だ。ハサミムシは、孵化したばかりの幼虫を養うために、自分の腹のやわらかい部分を差し出す。子どもたちは母親の体を貪り食って成長し、母親は少しずつ体を失って、果てていく。「子どもたちが母親を食べ尽くした頃、季節は春を迎える。そして、立派に成長した子どもたちは石の下から這い出て、それぞれの道へと進んでいくのである。/ 石の下には母親の亡骸を残して」(22頁)。とうもろこしの根に栄養を与えるために土のなかに身を横たえて死んでいく老人を描いた閻連科の『年月日』(谷川毅訳、白水社)と言う小説が連想される。
 「5 三億年命をつないできたつわもの」は、成虫後、数時間しか生きられず、はかないものと見なされるカゲロウの話だ。カゲロウは、成虫になる前の数年間、川のなかに棲み、夏から秋にかけて羽化し、亜成虫の段階をへて、成虫になるという。「とはいえ、ゆらゆらと飛ぶことしかできないカゲロウには、天敵から逃げる力もなければ、身を守る術もない」(49頁)。それゆえ大きな群れをつくって空を舞う。群れになったばっかりに、コウモリやトリといった天敵に狙われて食われていくが、そのなかでオスとメスは交尾する。その後、オスの命は静かに消えていく。運よく生き残ったメスも、水中に卵を落としたあと、死んでいく。子孫を残すために生きて、あっという間に死んでいくカゲロウに、著者がことばをもらす。「何というはかない生き物だろう。何というはかない命だろう」(52頁)。
 「6 メスに食われながらも交尾をやめないオス」は、動いているものは仲間のオスであろうと食べてしまう習性のあるカマキリの交尾談である。交尾をめざして近づいてきたオスのなかで、メスにつかまって食べられてしまうのは1~3割程度らしい(56頁参照)。運悪くメスにつかまっても、オスは交尾をやめない。「交尾をしている最中でも、食欲旺盛なメスは、捕えたオスの体を貪り始める。しかし、オスの行動は驚愕である。あろうことか、メスに頭をかじられながらも、オスの下半身は休むことなく交尾し続けるのである」(56頁)。
 「7 交尾に明け暮れ、死す」は、ネズミによく似たアンテキヌスの忙しい生涯をる。生後10カ月で成熟し、生殖能力を得たアンテキテヌスの最後の2週間程度が繁殖期になる、この間にオスは、相手を選ばないメスと次から次へと交尾を繰り返す。オスは、頻繁な交尾のせいで、ホルモンのバランスがくずれ、毛が抜け落ち、目が見えなくなり、体がボロボロになっても交尾を続け、やがて精根尽きはてて命を落とす。出産し、子どもを育てるメスは生き残る。著者はおしまいをこう締めくくる。「『何のために生きているのか』と思い悩んでいる私たち人間に、アンテキヌスは『次の世代のために生きる』ということのシンプルな意味を教えてくれている、そんな気がしてならない」(64頁)。
 「25 出荷までの四、五〇日間」は、プログラム化された死を迎える多くの生き物と違い、人間に飼育され、人間の都合で命を落とすニワトリの話だ。「生きたまま首を切られて死ぬ」(180頁)のだ。窓のない真っ暗な鶏舎に入れられ、動き回れないニワトリのヒナは、栄養価の高い餌を与えられ続けて太ることしか期待されない。やがて、生きたままカゴにぎゅう詰めにされ、食鳥処理場へ送られる。今は全自動化された工場で、機械的に肉の塊が生産されていく。「生きたまま首を切るのはかわいそうと、最近では電気の流れる水槽に逆さ吊りのまま頭をつけられて、気絶させてから首を切るという方法が推奨されている」(184頁)。食卓に並ぶチキンの背後で、「今日も、多くのニワトリたちが命を奪われているのである」(185頁)。ニワトリの孵化工場で生と死に分別され、ベルトコンベアで運ばれ、歯車で砕かれて死んでいくひよこを、その身になって表現した、作家クッツェーによる「ガラス張りの食肉処理場」(くぼたのぞみ訳『モラルの話』人文書院所収)という小説が思い浮かぶ。
 「26 実験室で閉じる生涯」は、マウス(実験用に飼育されるハツカネズミ)の生涯がテーマだ。旧約聖書には、「すべての生物を支配せよ」と神が人間に告げたと記されている。デカルトは、動物は心をもたない単なる機械にすぎないと見なし、カントは、自意識をもたない動物は人間のために存在すると述べた。こうした見方に力を得て、生きたままの動物実験がおこなわれるようになったという(186~187頁参照)。「ハツカネズミは一年のうちに五~一〇回程度も妊娠を繰り返して、一回に五、六匹の子供を産む。そして、生まれた子どもは数カ月で成熟し、妊娠する」(187頁)。そのため実験動物に適しているのだ。実験室のマウスは、薬物を投与されたり、電気ショックを与えられたりする。安全性を確認するためのテストで、安全かわからないものが投与されたマウスは、副作用や毒の作用でもだえ苦しむ。危険性を確認するためのテストでは、死ぬまで薬が投与されたマウスが苦しみながら死んでいく。「死ぬことが彼らの仕事なのである」(189頁)。
 「29 死を悼む動物なのか」は、ゾウと死の問題を扱う最終章である。「ゾウは本当に『死』を理解しているのだろうか」(206頁)と問うても、答えは出ないが、翻って私たちは死を理解しているのだろうか。それも分からないと著者は言う。「もしかしたら、ゾウたちの方が、死ぬことについては、私たち人間よりも知っているかもしれない。生きていることの意味も、より知っているのかもしれない。そして、私たちよりも深く死を悼んでいるかもしれないのである」(207頁)。せまい人間中心主義を離れ、生き物に身を寄せて考える著者の謙虚なことばが響いてくる。

 与えられたいのちを生きて、いのちを次の世代に伝え、定めの次期がくれば静かに消えていく生き物の死はおごそかで、思わず襟を正す。人間の死や臨終の場面を描いた本の多さに比べれば、生き物の死を扱う本は少ない。本書は、生き物の死だけでなく、ひとの死、さらに死ぬことがどういうことかについても考えることを促してくる貴重な一冊である。



人物紹介

奥本大三郎 (おくもと だいさぶろう)[1944−]

1944年大阪府生まれ。フランス文学者、作家、NPO日本アンリ・ファーブル会理事長。埼玉大学名誉教授。おもな著書に『虫の宇宙誌』(読売文学賞)、『楽しき熱帯』(サントリー学芸賞)など。『完訳 ファーブル昆虫記』で第65回菊池寛賞受賞。一連の活動に対して2018年第53回JXTG児童文化賞受賞。-本書より

稲垣栄洋 (いながき ひでひろ) [1968−]

1968年静岡県生まれ。静岡大学大学院農学研究科教授。農学博士。専門は雑草生態学。岡山大学大学院農学研究科修了後、農林水産省に入省、静岡県農林技術研究所上席研究員などを経て、現職。著書に、『スイカの種はなぜ散らばっているのか』『身近な雑草のゆかいな生き方』『身近な野菜のなるほど観察記』『蝶々はなぜ菜の葉にとまるのか』(いずれも草思社)、『身近な野の草 日本のこころ』(筑摩書房)、『弱者の戦略』(新潮社)、『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』(東洋経済新報社)、『世界史を大きく動かした植物』(PHP研究所)など。-本書より

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