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苦しみを通して歓喜へ―フジコ・ヘミングと野田あすか―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 「苦しみを通して歓喜にいたれ」は、ベートーベンがある女性への手紙のなかで書きしるしたものである。ベートーベンは20代の後半から難聴に苦しみ、最後にはほとんど聞こえなくなった。40代には自殺さえ考え、「ハイリゲンシュタットの遺書」を残すまでに追いこまれた。苦しみは「運命の力」であり、避けようとして避けられるものではない。彼は自分を襲った運命的な危機を克服して、数々の傑作を残した。
今回は、ベートーベンの生涯を連想させるふたりのピアニストの本を紹介しよう。



 フジコ・へミングの『たどりつく力』(幻冬舎、2016年)は、現在(2020年)も世界各地で演奏活動を続けているピアニストの自伝である。
 フジコ・ヘミング(1932~)は、スウェーデン人の父と日本人の母の間にベルリンで生まれた。5歳のときに一家で日本に帰国した。5歳から母親の厳しいピアノレッスンを受け、10歳で著名なピアニストのレオニード・クロイツァーに師事する。16歳のときに、中耳炎をこじらせて右耳の聴覚を失う。帰国後、一度もスウェーデンを訪れなかったため、18歳のときにスウェーデン国籍を失った。東京藝術大学卒業後、留学を夢みるが、無国籍のためかなわなかった。29歳で難民としてドイツに渡り、ベルリン国立音楽大学に留学した。


 卒業後、ソリストとしての道が開かれる。1969年、レナード・バーンスタインらの推薦で、ウィーンでのリサイタルが決まる。しかし、その直前に風邪をこじらせて左耳も聞こえなくなり、最悪の状態でリサイタルに臨んだものの悲惨な結果に終わった。まったく音の聞こえない生活は2年間続いた。ストックホルムで耳の治療に専念した結果、左耳の聴力は40%まで回復した。
 1996年に帰国。1999年、NHKのドキュメンタリー番組「フジコ~あるピアニストの軌跡~」が放映され、一夜で名を知られることになる。
 『たどりつく力』は、クリスチャンとしてのヘミングが、貧乏、差別、病気といった苦しみを神さまの試練として克服し、「『どうか人前でピアノを弾けるようになりますように』」(14頁)という祈りを実現するまでの軌跡をしるしたものである。「プロローグ」、「運命の重い扉を開く」、「自分らしいピアノ、自分らしい生き方」、「魂は不滅だと音楽は教えてくれた」、「ピアノの奥深い楽しみ、そして魔力」の4章、「エピローグ」からなっている。
 第1章で彼女はこうしるす。「ウィーンで両耳の聴力を失った時には、もう二度と人前で演奏することはできないと思っていましたが、神さまが救ってくれました。/これまでどん底の貧乏も経験しましたし、人の冷たさや意地悪も嫌というほど味わいましたが、不思議なもので、いつも崖っぷちまで追いつめられると神さまが手を差し伸べてくれるのです」(15頁)。「自分の人生はなにか」、「なぜこんなに辛い目に遭うのか」と悩み苦しみ、もがき、自暴自棄になったときでもピアノをやめようと思ったことは一度もなかった(16~17頁参照)。音楽への変らぬ愛が彼女をかろうじて支えてきたのである。
 彼女はクロイツァーから学んだことをこう表現している。「音楽をこよなく愛すこと、作曲家に敬愛の念を持つこと、作品の内奥を突き詰め楽譜の裏側まで読み込み、作曲家の意図したことに近づくこと、各々の作品に対する時は自分の魂を込めて演奏すること」(33頁)。
 ストックホルムでのある出来事が彼女の生活の指針を決めることになった。ある時、隣室のカップルが、「パスタを食べに来ないか」と誘ってくれた。空腹で死にそうなヘミングが飛んでいくと、パスタだけが皿にのっていた。彼らも貧しくて、それだけしか買えなかったが、彼女の窮状を見かねて声をかけてくれたのだ(67~68頁参照)。彼女はこう続ける。「どんなに困難な時でも、自分よりもっと大変な人がいる。その人に手を差し伸べるという精神を、この時に学んだのです。/いまでも私はその精神を大切にし、恵まれない人や捨てられた動物たちに援助の手を差し伸べるようにしています」(68頁)。
 第2章は、ヘミングの演奏論だ。彼女は自分の「ラ・カンパネラ」の演奏をぼろくそにけなした評論家を念頭にしてこう述べる。「ぶっ壊れそうな『鐘』があったっていいじゃない、私の『鐘』だもの。この響きを聴いて涙を流してくれる人だっているんだから」(93頁)。「心ない人たちが何をいおうと、負けてはいられません。私は自分の音楽を信じ、自分のピアノを聴いてくれる人の気持ちを尊重し、いい演奏をするだけ。/うしろ向きに考えるより、常に前向きに物事に対処したいから」(同頁)。彼女は、もっとも心に残る批評を紹介している。「『フジコの『ラ・カンパネラ』は哀しく、深く、人生を考えさせるものだ。生きざまが投影された味わい深い演奏である』」(96頁)。彼女は、19世紀のヨーロッパのピアニストたちをほうふつさせる演奏を望んでいる。「ある種のノスタルジーを感じさせ、香り高く、エレガンスの衣をまとい、聴いてくれる人たちがえもいわれぬ至福の時を過ごせる音楽。/音符と音符のほんのちょっとした間、リズム、音の揺らし方などにも個性が表れ、技巧に頼って突っ走る弾き方ではけっしてない。/ショパンやリストが生きていた時代、馬車が行き交う速度を思わせるテンポ。断じて現代のクルマ社会の速度ではない。/そうした奏法が私の目指す音楽です」(96頁)。
 第3章は、人生論の展開である。彼女によれば、人間の経験においては、どんな出来事も肥やしになる。「若いころに体験した苦労は、けっして無駄にはなりません」(127頁)。あらゆることが人生の貴重な時間となり、人生の糧となり、現在の自分に生かされてくる(同頁参照)。「私が体験したすべては音楽となって表れています。生き方や人生観そのものが、私のピアノには投影されているのです」(127~128頁)。過去の生活が現在の生き方に反映し、現在どう生きるかが今後の生き方に影響するということだ。
 第4章では、彼女はお気に入りのピアニストの名前をあげ、演奏の特色について述べている。マルタ・アルゲリッチ、アリシア・デ・ラローチェ、アルフレッド・コルトーらの名前が出てくる。「私の好きなピアニストは、みんな音そのものが温かく、人間的な音楽が魅力です。私もそうありたいと願い、常に人間が演奏していると感じてもらえるよう、ぬくもりに満ちたピアノの響きを目指しています」(142頁)。
 「エピローグ」で、彼女は読者に対してこう語りかける。「人生はいろんなことを乗り越えていくものですが、努力さえしていれば、夢さえ失わなければ、その先には大きな発見が待っています」(187頁)。「壁にぶつかったら、自分の心に聞いてください。/自分が本当にしたいことは何か、どう生きたいのか……。/素のままの自分と対話することで、きっと一条の光が見えてくるはずです」(同頁)。
 本書は、ピアノソロや室内楽などの演奏を通じて、聴き手に至福の時を届け続けたいと願うピアニストの告白である。やさしいことばで、苦しい目に遭っても前向きに生きるための知恵が語られている。

 野田あすか 野田福徳・恭子の『発達障害のピアニストからの手紙 どうして、まわりとうまくいかないの?』(アスコム、2015年)は、広汎性発達障害、解離性障害が原因で、幼児期から苦しい経験を強いられた女性の手紙と、両親の手記が中心になった本である。2013年の国際的な診断基準の改訂により、広汎性発達障害に分類される障害のほとんどは「自閉症スペクトラム障害」という診断名に統一された。その結果、彼女の病状も「自閉症スペクトラム障害」と診断されているが、本書では、現時点(2015年)で一般的に知られている広汎性発達障害という名称が用いられている(3頁参照)。
 野田あすかは、4歳ころからピアノ教室に通い始め、家では母親の厳しいレッスンを受けた。のちにすぐれた先生との出会いがあり、2006年に開催された「第12回宮日音楽コンクール」でグランプリを受賞した。2012年には、テレビ宮崎のドキュメンタリー番組『こころのおと~あすかのおしゃべりピアノ~』が九州で、年末には全国で放映された。
 本書は、「はじめに」、「なぜまわりの人とうまくいかないのか?」、「ピアノが教えてくれた『こころのおと』」、「くやしい気持ちを我慢していた子どもの頃」、「なぜ、パニックになるのか?」、「精神科に長期入院。原因は何なのか?」、「下された診断は『広汎性発達障害』」、「障害を隠しつづけるのか、公表すべきなのか?」、「ありのままの自分でいい」、「手紙~小さいころの私へ~」の9章、「あとがき」からなる。
 第1章で、両親は、長女のあすかが20歳を過ぎて広汎性発達障害と診断されるまで、障害に気づかなかったという。両親は、長女には、「相手の気持ちや場の空気が読めない」、「言葉をそのままの意味で受け取る」、「他人の表情や態度などの意味が理解できない」、「興味のあることは何時間でも熱中する」といった、この病気に典型的な行動が見られたと回想している。両親はまた、自分が自分であるという感覚を失う解離性障害についても語っている。彼女は、「大学生のときに解離を起こしてパニックになり、家の2階から飛び降り、粉砕骨折した」(35頁)。またある時に突発性難聴に襲われ、左耳の低音がほとんど聞こえない状態がいまも続いているという(同頁参照)。
 この章の「あすかの手紙」のなかで、彼女はそれまでの過去を振り返り、発達障害によって起こる症状を記述している。そこには、大学生になるまで、みんなと違うのは障害のせいだとわからなかった、人の顔を識別できない、言われたことは、言葉どおりに守る、叱られた理由が分からない、みんなと同じ行動ができない、道順を覚えるために、草で目印をつけて歩くといった日常生活の一面がしるされている(39~45頁参照)。そんな彼女を世界とつないでくれるのがピアノだった。彼女は、「鳥の声とか車の『ブッブー』という音とかを、ぜんぶ音楽にして頭で流すのが趣味でした」(48頁)、「『私』と『私のこころ』の間には、いつもピアノがあります」(50頁)と述べている。手紙のおしまいで、彼女はこうしるしている。「みんなから否定されて、誰も私の言うことは聞いてくれないけれど、ピアノなら聞いてくれる。だから、ピアノを聞いてくれる人に、私を伝えたい。/障害とかがなくても、将来が不安な人や、今苦しんでいる人が、私のピアノを聞いて、ほっとして『またがんばろう』『これからも生きていこう』と思ってもらえるような音を出せるようになること。/これが私の夢、私の願いです」(53頁)。
 第2章では、2011年に宮崎市で開催された「野田あすかピアノリサイタル『こころのおと』の様子について父が描いている。彼女は、片野先生から演奏の技術と音楽性の的確な再現の仕方についての指導を受け、田中先生からは、自分の思いを音楽で表現することの大切さを教えてもらった(61頁参照)。片野先生は曲にふさわしい音を出すことを求めたが、あすかはそれに応えることができず、自分の感情に結びついた音しか出せなかった。それがよいことなのか、駄目なことなのかを問いかけたあすかに、田中先生はこう答えた。「『あなたの音はいい音ね。あなたは、あなたの音のままでとても素敵よ。あなたは、あなたのままでいいのよ!』(66頁)。あすかは驚いた。「それまでは、自分を否定したり、殺したり、だめだとあきらめたりすることしか考えられなかった私にとって、『私は私でいい』というのは、救いの光のような、すごくびっくりする考え方でした」(同頁)。自分の弾く音が自分の「『こころのおと』」(67頁)になっていることに気づいて、彼女は「初めてピアノと友だちになれた」(同頁)。教えられて弾くという受身の姿勢に変化が生じたのである。
 田中先生は、両親への手紙をこう結んでいる。「あすかさん、あなたはいろんな壁を努力と自分自身への負けん気で乗り越えてきました。これからもまた、新たな壁があらわれることでしょう。でも、あなたはそれを乗り越えてきたからこそ、今のあなたの音楽があるのだと思います。『ただピアノを弾いているだけのあすかさんから、自分の音楽を人に聴いてもらえることが喜びに変わったあすかさん』になったのです。これはピアニストにとってとても大切なことだと思います。/これからも、聴く人の心に、安らぎや感動を与えることができるピアニストになってほしい、と心から願っています」(75頁)。
 第5章では、大学生活を始めたものの、過呼吸発作が原因で病院の精神科に入れられ、「鉄格子がはまった牢屋のような保護室」(124頁)で、ピアノを取り上げられて過ごさざるをえなかった日々が描かれている。病院では、解離性障害という診断が下された。彼女は、置時計を壊して取り出した針や、天井の電球を手で割った破片でリストカットをおこなった。障害の原因がピアノにあると的外れな判断を下した病院は、半年間、あすかからピアノを遠ざけた。
 あすかは、一時的に解離症状がおさまり退院したが、自宅で地獄の日々が始まった。解離が起きて、夜中に徘徊したり、日曜日の夜は、大学に行きたくないと泣き叫んで、2階の窓から飛び降りようとしたりした。児童虐待を疑う隣人の通報で警察がかけつける事態にもなった。彼女は、大学を半年休学し、復学したが、2年生の終わりに退学せざるをえなかった。
 第6章で、退学後の変化に焦点があてられる。あすかは、退学後、入退院を繰り返すなかで、ピアノから遠ざかり、1年以上練習もできなかった。しかし、ピアノを弾き、本格的に学びたいという情熱がよみがえり、宮崎学園大学音楽科に長期履修生として通学することを許可される。そこで、先述の田中先生と出会い、指導を受けるようになる。ある時、ウィーン国立大での5日間の短期留学ツアーの機会がおとずれる。5人が参加したが、環境の変化に対応できなくなったあすかは現地でパニックになり、過呼吸発作で病院に運ばれる。病院では、広汎性発達障害と診断される。それまで治療可能な解離性障害と思っていた両親は、現状では治る見込みのない病気だと知っても、その事実を受け入れられなかった。帰国後、詳しい検査がおこなわれ、広汎性発達障害に間違いないことが確認された。
 第7章には、あすかが日本テレビの「24時間テレビ」(2010,2011年)で競演した全盲のバイオリニスト白井崇陽のブログ発言が引用されている。「リハーサルの日。最初の1音をあすかさんが演奏した瞬間『いける!』そう思いました。(中略)その音には言葉以上の思いがこめられていました」(161頁)。「僕自身が、いままでに感じたことのないほど、音から強い思いを感じ、最後の1音を弾き終わったときに、感動で涙しそうになりました」(162頁)。彼女を指導したロシア人のセメツキーも、あすかの出す音の美しさを絶賛している(165頁参照)。
 第8章の「あすかの手紙」のなかで、彼女は、第2章で述べたソロリサイタルにこぎつけるまでの心境をこうしるしている。「今、学校や職場で障害があることでつらい思いをしている方々に、/『きっとこれから先、いいことが待っている』/そう感じてもらえる演奏をするのが、私の理想です」(180頁)。「言葉ではうまく伝えられなくて、いつもトンチンカンなことを言って笑われたり怒られたりしてしまうけど、ピアノなら正しいコトバで伝えられる気がする。ピアノさんはいつも、私のこころをわかってくれて、私の『こころのおと』を出してくれるから」(181頁)。
 あすかは、リサイタルで、ピアノの音を通して自分のこころを見てもらえた、自分の「こころのおと」を受け止めてもらえたと感じ、自信を得た(185頁)。父はこう述べている。「このソロリサイタルをやりとげることができたことで、自分の音楽を人に聴いてもらうことを自らの喜びとして、糧として生きていこう、どんなに困難なことがあっても勇気を出して前に進んでいくんだという新たな地平が、あすかの目の前に開けたのではないかと。私は感じたのです」(186頁)。
 第9章の「あすかの手紙」はこう結ばれている。「最後に、ピアノさんありがとう。私に私のこころをいつも教えてくれてありがとう。/ピアノさんは私の知らない私のことも、音色で教えてくれるね。/そのおかげで、いろんなことがわかるようになったよ。/ピアノさんがいるから私がいる」(217頁)。ピアノは私が弾く単なる道具ではなく、私にこころのことを教え導いてくれる友だちであり、師でもあるということは、ピアノを弾けないひとにとっても、生きていくうえでとても大切な教えである。

 

 

 

 


人物紹介

イングリット・フジコ・ヘミング 【Ingrid Fujiko Hemming】

 

スウェーデン人画家・建築家の父と日本人ピアニストの母の間にベルリンで生まれる。
母の手ほどきでピアノを始め、10歳でレオニード・クロイツァーに師事。クロイツァーは「彼女はいまに世界中の人々を感激させるピアニストになるだろう」と予言していた。

東京音楽学校(現・東京藝術大学)を経て、文化放送音楽賞、毎日音楽コンクール入賞。

その後、ベルリン音楽学校に1位で入学し、ウィーンではパウル・パドゥラ=スコダに師事。

ブルーノ・マデルナ、レナード・バーンスタイン、シューラ・チェルカスキー、ニキタ・マガロフ等多くのクラシック界の権威にその才能を認められて支持を獲得しコンサートを行っていたが、聴力を失うアクシデントに遭遇。

1999年にリサイタルとNHKドキュメント番組が大反響を呼び、デビューCD『奇跡のカンパネラ』他をリリースし、クラシック音楽界では異例の売上げ枚数で日本ゴールド・ディスク大賞のクラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤーを4回受賞。

2013年スペインのカタルーニャ・ラジオのリスナーによる投票で、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番、ショパンのピアノ協奏曲第1番の演奏が第1位に選ばれた。

世界有数のオーケストラとも共演。リサイタルは日本全国の他、カーネギー・ホールをはじめとする世界各国の著名コンサートホールで開催しており、ヨーロッパの数々のフェスティバルからも招待されている。 ―本書より

野田あすか 【のだーあすか】

 

宮崎県在住の発達障害を抱えるピアニスト。
1982年生まれ。4歳の頃より音楽教室に通い始め、ピアニストの道を志すようになる。子どもの頃から人とのコミュニケーションがうまくとれず、たびたび特異な行動をとり、それが原因でいじめを受け、自傷行為が始まり、転校を余儀なくされる。

憧れであった宮崎大学に入学するも、人間関係によるストレスで過呼吸発作を起こし、たびたび倒れて入退院を繰り返し、大学を中退。家族や周囲の人は困り、悩まされたが、あすか本人も「どうして、まわりの人とうまくいかないの?」と悩みつづけた。

その後、宮崎学園短期大学音楽科の長期履修生となる。この頃に恩師となる田中幸子先生と出会い、自分の心をピアノで表現できるようになる。短期留学したウィーンでも倒れ、22歳で初めて生まれつきの脳の障害である「発達障害」と診断された。帰国後、パニックで自宅2階から飛び降りて、右足を粉砕骨折し、ピアノのペダルを踏めなくなるが、現在では、工夫して左足で踏んでいる。

たくさんの苦しみを抱え、自分の障害と向き合ってきたことで、あすかの奏でる「やさしいピアノ」は多くの人の感動をよんでいる。

2006年、第12回宮日音楽コンクールでグランプリ並びに全日空ヨーロッパ賞を受賞。ほか受賞歴多数。―本書より

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