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人生の塩―人類学者・エリチエの見方―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)



  フランソワーズ・エリチエの『人生の塩 豊かに味わい深く生きるために』(井上たか子・石田久仁子訳、明石書店、2013年)は、ある病院の内科病理科の教授で臨床医でもある知り合いから届いた絵葉書がきっかけになっている。それは、「『“盗みとった”スコットランドでの一週間のバカンス』」(16頁)ということばで書き始められていた。彼は、片時も仕事の事が頭から離れず、過酷な医療活動に日々身を削るようにして生きていたが、なんとかやりくりして一週間の休暇をとっていた。エリチエの目に、「盗みとった一週間」ということばが飛びこんだ。彼女はこう考えた。「私たちが彼から彼の人生を盗みとっている。彼自身が自らの人生を盗みとっている」(17頁)。彼女は絵葉書の返事で率直な思いをこうしるした。「あなたは毎日、人生に豊かな味わいを与えてくれる『人生の塩』をないがしろにして生きておられる」(同頁)。


 振り返って私はどうなのか。私にとっての人生の塩とはなんだろうか。 この自問が起点になって、人生の塩に関する「インスピレーションにまかせて筆の赴くままに書き進めた一種の『ファンタジー』」(15頁)が成立した。「本書は、長い独り言のつぶやきのような、いわばひとりでに断続的に浮かんできた言葉の列挙、全体が一つの長い文章のかたちで続いていく言葉の単なるリストである」(18頁)。エリチエ自身の感覚的、知覚的な経験、感動、小さな楽しみ、大きな喜び、深い幻滅や苦悩などが思いつくままに、ごく短く書きとめられている(同頁参照)。自然や動物、騒音、音、光、影、匂いなどに注意深いまなざしを注ぎつつ(21頁参照)、彼女が人生の塩と見なすものを列挙しただけの本である。しかし不思議なことに、じっくり読んでみると、短文のひとつひとつがこころに響いてくるのだ。帯には、「思い出をいくつもいくつも書き出す。ただそれだけで、あなたの人生が輝き始める」とある。小説でもエセーでもなく、平凡なメモ帳のようなもの、走り書きにも似たものが人生の断面を切り取って、忘れがたいものにしてくれる。この本は、フランスでは30万部も売れているという。
 フランソワーズ・エリチエ(1933~)は人類学者である。ブルキナファソでの現地調査にもとづいて親族関係や近親相姦の禁止に関する理論を構築した。1982年に、クロード・レヴィ=ストロースの後継者としてコレージュ・ド・フランスの教授に就任した。全国エイズ審議会の初代会長を務めた。エイズや生殖補助医療などの社会問題にも積極的に発言している。
本書のタイトルになっている「人生の塩」とはなにか。エリチエによれば、それは、「生きているというそれだけのことの中にある何か軽やかなもの、優美なもの」(22頁)であり、「私たち誰もの人生に加味されているこの些細なもの」(同頁)である。些細なものは見逃してしまいがちだ。料理の味を引きたてる塩は食卓の片隅に置かれている。人生を味わい深いものにするという人生の塩も脇役であって、あまり注意が払われることはない。本書は、人生の塩そのものを主役にしている。
 「おわりに」の冒頭で、彼女は、人生の渦中にある「私」を二重に定義している。一方は、身体つき、性格、人間関係、職業、私的な活動、家族や友人関係、評判、社会活動、所属するネットワークなどによって表面的に定義される「私」である(127頁参照)。比較的分かりやすい指標だ。他方は、「心底の『私』」(同頁)である。こちらは隠されていて、見えない。「この『私』こそは私たちの宝なのであり、観察力、命あるものとの共感、現実と一体になれる力といった世界に向けて開かれたものからできている」(127~128頁)。「『私』とは考え行動する者であるだけでなく、絶えず新たにわきあがる内心の隠れた力によって感じとり肌で悟る『私』でもある」(同頁)。彼女が強調する「私」は、好奇心をもち、共感し、欲望をいだき、苦しみや喜びを感受する身体的な存在として生きる「私」である。この種の身体的な経験は、自分で自主的に考えれば得られるというものではなく、受動的な仕方で身にこうむるものである。彼女は、本書で「目には見えないながらも私たちを動かし規定するこの力を追いつめてみたかった」(128頁)と述べる。「本書は、子ども時代には誰もがもっているちょっとした天真爛漫な部分にとどまらず、感性を備えた存在である私たちを形成し、絶えず形成し続けるこの情動の大いなる土壌を再認識することができるように願って書かれたものである」(129頁)。身体の根本的な経験に立ち返ってみようという誘いである。
 「人生という競技の場」(129頁)では、われわれの多くは忙しく、せかされて生きている。「キャリアの構築、企画の実現、収益性の確保といった到達すべき目的」(同頁)のために未来をかき集めるようにして走らざるをえない。ノルマの達成に神経がすり切れ、仕事に追われて息つく暇もない日々が続く。スケジュールが優先される生活からは、人生を味わい深いものにしている「塩」などという些細なものは、すっかり見失われてしまうのだ。
 われわれの生涯は多種多様な経験の織物でもある。しばしば「苦悩の焼けつくような経験や決定的な死の経験」(同頁)に遭遇するし、思いもよらない経験に痛めつけられることも少なくない。しばしば、この世界は「『涙の谷』」(130頁)とも見なされる。エリチエは、本書では、苦しみや悲しみに染めぬかれた悲劇的な経験には触れず、感覚的な喜びの経験、人間が五感で感じたり、心を動かされたり、突き動かされたりする感覚的な経験に的を絞っている(130頁参照)。
 彼女によれば、この世界で生きる「私」は、思い出によってつくられる存在でもある。意志的に思い出す経験ではなく、思い出される経験の側面に注意が向けられている。「出来事は過ぎ去っていくが、本質は身体に刻まれ、残っていて、ある喚起の束の間の魔力や、ある感覚の戦慄や、ある感動の驚くほど生き生きとした、ときに理解不可能な力によってふたたび出現する。もしそれがあの内心の燃えるような声によるのでないならば、時の流れのなかで生成していたことにさえ気づかないでいるあの生命の原動力によるのでないならば、いったい何がそうした出現の原因なのだろうか」(131~132頁)。過ぎ去った思い出は、身体の生命的な力の働きによって現在によみがえるというのだ。「私たちはセンサーをそなえた組織体であり、そのセンサーによって、いくつかの消えることのない痕跡を記録し、記録された痕跡は私たちの進む方向を定めるための後見役となる。(中略)感じることのできるさまざまなすべての感動のなかで本当に私たちの心に触れるものの典型だけが残るのである」(132頁)。エリチエの見方によれば、思い出とは、身体がセンサーを通して感受し、自らに深く刻みこんだ出来事が、われわれの意志とはかかわりなく、それ自身の力によって姿を現す現象である。
 エリチエは、思い出されるという経験の基礎をつくる「感覚の創造的機能」(134頁)にもっとも信頼を寄せている。それは、見る、聞く、聴く、触る、愛撫する、感じる、匂いをかぐ、味わうといった心身合一的な感覚経験である(同頁参照)。しかし、この経験においてどんな事態が生じているのかをはっきりと見定めることはできない。感覚的な経験には、ことばにはできない次元がひそんでいるのだ。それに近づくためには、その種の経験を感じることが大切だ。彼女は、本書をこう締めくくっている。「すべてのものに、自分以外の人たちに、人生に『味わい』を感じることが必要なのである」(同頁)。
しかし、どのようにすればあらゆるものに「味わい」を感じられるようになるのだろうか。おそらく、そのための最良の方法のひとつは、見る、聞く、感じるといった感覚的経験が、見ているもの、聞いているもの、感じているものとの生涯ただ一度限りの出会いでしかないということをよく噛みしめることだろう。どんなにありふれた出来事でも、ただ一度しか生起しない、最初の出会いが最終の出会いだと知れば、その機会を貴重な瞬間として愛惜し、出会うものとじっくり、ゆとりをもって接することが可能になるだろう。それが「人生に味わいを感じること」につながるのだ。
 以下に、彼女が「人生の塩」と名づけているものの一部を各頁から適宜抜き出してみよう。全体は、2011年の8月から2箇月たらずの間に書きとめられている。「え?なに、これ?」といぶかしく思われるかもしれないが、まずは読んでみてほしい。
 8月13日。「日向で飲むコーヒー、日陰の昼寝、さわやかな秋の夕暮の至福、夕陽、皆が寝静まった夜中に目を覚ましている、香りや風味の追求(以上28頁)、あたたかい雨の中を走る、首への愛撫、通りにただよう焼き立てのクロワッサンの香り、自然の中ですべてが静まりかえる沈黙の瞬間……(以上29頁)。
 8月14日。冒頭につぎの一文、「あなたを『超』うんざりさせる危険を承知のうえで続けます」(31頁)。「裸足で歩く、海の音に反響する声に耳を傾ける、伸びをしてあくびをする(以上31頁)、夜明けの新鮮な空気を吸い込む、風に揺らぐ枝を見る、サラミソーセージとピクルスを頬張る、微笑を期待していなかった人に微笑みかける(以上32頁)、生命そのものにじっと耳をすます、階段を駆け上がる、息せき切って目的地に到着する、開けた窓の近くに腰掛ける、胸がドキドキする(以上33頁)、夜が明ける前の空が深い青に染まる時を待つ、植物に水をやり話しかける、煎ったイナゴをおそるおそるかじってみる(以上34頁)、さっそうと歩く、足を枯葉まみれにする、昼はこおろぎの鳴き声に耳をすます、たちこめた霧のベールがすべるように晴れていくのを眺める、疲労困憊した身体の重みをベッドのなかで感じる(以上37頁)、熱い、でも熱すぎない砂の上を歩く、自然の中でおしっこをする、愛撫する、愛撫される、キスする、キスされる(以上38頁)、雨季の夜にニジェールの首都ニアメの滑走路に降り立って、アフリカの大地の暖かくピリッとした匂いをかぐ、番のライオンが月光を浴びて静かに通路を横切るのを見る、まだ生きていることに驚く(以上38~39頁)。
 8月17日。「まだ続きます」(41頁)。「列車が近づいてくる小さな響きに耳をすます、兎のために草を摘む、シューベルトの『冬の旅』を聞きながら涙する、つけているのを忘れる程度に香水をつける(以上42頁)、道行く人々の歩き方を観察してどんな心理状態かを勝手に分析する、深呼吸することを時折思いつく、からからに渇いた喉をうるおす、自分自身であることを決して恥じない……(以上43頁)、鳥肌が立つ、鍵穴に鍵を差し込む、旅に出る(以上46頁)、庭の最初のアイリスが芽を出すのを見る、枯葉をかき集める、宴のあとの静けさを楽しむ(以上56頁)。
 8月24日。「これでおしまいかしら?」(57頁)。「二十歳にもならない若い男の子を仰々しい口調でムッシューをつけて呼ぶ、あまりに見事な色彩を前にして陶酔状態に陥る、シャルル・トレネに合わせて身体をゆすり、イヴ・モンタンと一緒にブランコに乗る女の子の脚を見つめる、大粒の雨が地面ではじけるさまや巨大な虹や闇夜の中の遠い灯りや流れ星や人工衛星がはるか天空を音もなく通り過ぎるのを見る、何も言わないでいる思いやりの深さを感じる(以上58~59頁)」。
 9月2日。「まるで麻薬みたいです。やめられません」(63頁)。「恥も外聞もなく昔の失敗を思い出す、丘陵を自転車で、上りはジーノ・バルタリみたいに颯爽と、下りは死ぬほどブレーキをかける(以上65頁)。
 以上は、ほんの一部で、リストは124頁まで延々と続く。これらのリストのひとつひとつを丁寧に読み、情景を思い浮かべてにやりとするひとは少ないだろう。平凡なことしか書いてないと速断して、嫌になってさっと読み飛ばして終わりにするひともいるだろう。なかには、「なんてつまらない、こんなものを読むのは時間の無駄だ」と腹を立てて、本を閉じるひともいるだろう。
 日々の生活のなかでは、だれもが他人を気にし、就職先や収入、肩書きといったことにこだわって生きている。そしてなによりも、ある年齢からは生きるために働かなければならないひとが大半だ。働くことが生活の中心になると、生きるということの根本的な側面は視野に入らなくなる。しかし、生きるということは、まずは食べること、眠ること、目覚めること、手足を動かしたり、あくびやくしゃみをしたり、トイレに行ったり、ひとや自然を見つめたり、涙を流したり、音のする方に耳を傾けたり、寒さ、暑さを感じたりすることである。生きるということの基本は、身体的な反応の無数の出来事を経験するということだ。しかし、それはありふれたことなので、多忙な日々のなかでことさら気にとめることはない。しかも、それらの多くは、すぐに過ぎ去ってしまう日常的な出来事なので、「私はなにをしているのか」と立ちどまって省みることもまれだ。
 けれども、エリチエが書きとめているリストに目を通し、ひとつひとつの場面を想像すると、日常のごく些細な出来事が、実はとても感動的で、稀有な瞬間であると思い知らされる。彼女は、本書の膨大なリストについてこう述べている。「ここに記したのは、人生のほんの些細な出来事の一つひとつを、毎日そこに立ち戻り元気をとり戻すことのできるような、絶えずひとりでに増大していく美と魅惑の宝庫にするための方法にすぎません」(124~125頁)。彼女は、思い出が「私たちの人生に風味を添える道しるべ」(125頁)だと考える。たしかに、過去の情景や、ときどきの感情の出現などが不意になつかしく思い出されてくる経験がないとすれば、われわれの人生は平板で、単調なものにとどまるだろう。思い出こそが、われわれの人生に深い彩りをもたらし、人生を味わうことを可能にしてくれるのだ。
 エリチエは、長いリストのおしまいにこう書きとめている。「『いったい誰なの?』と言いたげな生まれて間もない赤ちゃんたちの無言の問いに笑顔で応える」(124頁)。好奇心に満ちた赤ちゃんのまっすぐなまなざしは、人類学者としてのエリチエに「この私はいったい誰なのだろう」という問いを投げかけている。
 本書は、患者のために忙しく働いている知人の医師に、すりきれて倒れる前に、「たまには思い出の扉を開けて人生の風味を味わってみては」というエリチエのアドヴァイスが起点となった。だれもが「人生という競技の場」(129頁)で懸命に生きていかなければならないが、ときには多忙な生活のリズムにちょっとだけ転調を加えてみる。人生の塩の風味が味わえる思い出の時間をすこしだけ生きてみる。それができれば、「人生は思っているよりもはるかに豊かで興味深いもの」(125頁)になるとエリチエは信じている。


人物紹介

フランソワーズ・エリチエ 【Françoise, Héritier】

 

フランス社会科学高等研究院研究指導教授、コレージュ・ド・フランス社会人類学研究室長等を歴任、現在コレージュ・ド・フランス名誉教授。全国エイズ審議会初代会長。主な著書にDeux Sœurs et leur Mère (『二人の姉妹とその母』オディル・ジャコブ社、1993年)、 Masculin/Féminin(『男性的なもの/女性的なもの』オディル・ジャコブ社、Ⅰ,1996年、Ⅱ,2002年) ―本書より

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