蔵書検索(OPAC)
HOME > 資料案内 > 新しく入った本 > おすすめの一冊
新着資料 ベストセラー 学生の購入リクエスト
映画・ドラマの原作 テーマ図書 おすすめの一冊
おすすめの一冊 本学の教員や図書館員のおすすめの本を紹介します。
 

前の本へ

次の本へ
古典の森を散策してみよう ―プルタルコスの観察眼―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 モンテーニュが『エセー』を執筆する気になったのは、プルタルコスの影響によるところが大きいという。『エセー』の随所でプルタルコスが引き合いに出されている。「プルタルコスはどこを選んでもすばらしいが、とりわけ、人間の行動について判断しているところがみごとだ」(『エセー 5』宮下志朗訳、白水社、228頁)。フランスの思想家ルソーも、プルタルコスを絶賛してこう述べた。「私が今でも読んでいる数少ない書物のなかで、最も愛着があり、有益なのはプルタルコスである。幼少期に初めて読んで以来のことであり、人生最後に読むのもこの本だろう。読むたびに、何か発見がある唯一と言ってもいい著者である」(『孤独な散歩者の夢想』永田千奈訳、光文社、69頁)。シェイクスピアや、ナポレオン、フランシス・ベーコンなどもプルタルコスを好んで読んでいる。日本では、須賀敦子がプルタルコスに熱中した経験を語っている。「人生のある時期にとって記念碑的といえる本がだれにでも何冊かはあるものだけれど、母方の祖母のおみやげにもらった『プルターク英雄伝』は、私にとってはまさにそんな書物になった。ティーンエイジの入口で出会ったこの本が、どうして私をあれほど感動させたのかは、いまもってよくわからない。とにかく、寝食を忘れるといった激しさで、当然、宿題もともだちもそっちのけで、私はその本に傾倒してしまった」(『遠い朝の本たち』筑摩書房、189頁)。


 プルタルコス(46~120頃)は、古代ローマ帝政期に生きたギリシア人の哲学者であり、著述家である。伝記や哲学、自然科学などの分野で著作活動をおこなった。「英雄伝(対比列伝)」や「倫理論集」など、膨大な文章を残した。それらの多くは、人間観察の達人の手になる類まれな観察記録である。
 『饒舌について 他五篇』(柳沼重剛訳、岩波文庫、1988年)は、「倫理論集」のなかから6篇を選んだものである。以下の6篇である。「いかに敵から利益を得るか」、「饒舌について」、「知りたがりについて」、「弱気について」、「人から憎まれずに自分をほめること」、「借金をしてはならぬこと」。
 「饒舌について」は、おしゃべり好きな人間をからかったり、笑ったり、皮肉ったりして、読者を楽しませてくれる。おしゃべりの対極にある沈黙の効用も語られている。おしゃべり屋の言動観察に加えて、それをいかに治療するかについても的確に語られている。
 たかだか2000年程度で人間性は変らない。古代人にも、現代人にもおしゃべり好きなひとは数限りなくいる。自分のおしゃべりな性格に無自覚なままつまらないことをしゃべり続けるひともいれば、知り合いをネタにして、延々と悪口を言い続けるひともいる。プルタルコスは冒頭でこう述べる。「おしゃべりな人間は決して人の言うことには耳をかさず、のべつしゃべってばかりいる」(32頁)。その種のタイプは、自分の言いたいことだけを言いつのり、相手の言うことは聞こうとしない。「彼らにあっては、耳に入ったことは心には通じずに舌に直結する。だから、普通の人間なら聞いた言葉は心に残るものだが、おしゃべりの人間の場合にはそれが全部漏ってしまう。こうなると心は空のバケツも同じで、中身は空だがやかましい音を立ててころげ廻る」(33頁)。はた迷惑で、空疎なおしゃべりはとどまることなく続く。アランは、おしゃべりのひとをこう茶化した。「これは無意識的な会話である。相手に言葉を取られないように、沈黙を満たす必要は、おしゃべりのなかに見られるもので、たえずせき立てられたこの気がかりから、おしゃべりは、何でもかまわず話し、しまいには疲れ切って、諦めて、相手の言うことを聞くようになる」(『定義集』神谷幹夫訳、岩波文庫、36頁)。
 舌と歯の関係に関して、プルタルコスは独自の理論を展開する。自然は、「舌の前面に歯という柵を配置した」(36頁)。歯の役割は、「内なる理性が沈黙という輝く手綱を引き緊めているのに、舌がそれに従わず、おのれの分に留まろうとしない時に、それを血がにじむほど嚙んで無節制を押さえこむ」(同頁)ことである。しゃべりたいという舌の欲望に理性に代わってブレーキをかけるのが歯だという理解である。とはいえ、おしゃべりのひとが歯をぐっと噛み締めて沈黙することは少ない。「口に戸を立てず締めず、さながら黒海の水が四六時中外に流れ出すように言葉をたれ流す人がいる」(36頁)。
酒が入ると大変だ。「素面の時は胸の中にあることが、酔うと舌の上に上ってくる」(37頁)。言わないでもいいことを口走ったり、不用意なことを口にするひとのせいで、場がギスギスしたり、白けたりする。「沈黙には深みというか神秘的なところがあり、酒には縁がないが、そこへいくと酩酊は饒舌である。酩酊は愚にして分別を欠き、それゆえに多弁となるからだ」(38頁)。
 酔っぱらいが愚にもつかぬことを話し続けるのは酒の席ならではの風景である。一方、おしゃべり屋は場所を選ばない。「市場だろうが劇場だろうが柱廊だろうが、酔っていようが醒めていようが、昼だろうが夜だろうが、とにかくしゃべる」(38~39頁)。話すことに気を配るひとは、つねにあたらしい話題を提供して、聞き手をひきつけようとするが、「饒舌家連は、同じことを何べんでも繰り返してこっちの耳を磨りへらしてしまう」(40頁)。自慢話であれ、他人の悪口や噂話であれ、おしゃべりの時間稼ぎのために、相手を無視して、何度でも同じ話を蒸し返すのだ。
 その種の人間に対する忠告として、プルタルコスはこう述べる。「言葉は本来大変楽しく、かつ最もよく人間味を伝えるものだのに、それを悪用し、また無造作に使う者がいて、そうなると言葉は人情に反し、かつ人を孤立させるものになってしまう」(41頁)。酒の飲み方次第で、場が愉快なものにも不愉快なものにもなるように、言葉の選び方次第で豊かで楽しい対話の時間が生まれることもあれば、おたがいに迷惑をかけたり、傷つけあったりすることもある。軽率な一言は、友好的な関係にひびを入れる。「口はわざわいのもと」である。一度発せられた言葉は消えずに残り、波紋を広げ続ける。「『言葉』には『翼がある』。翼があるものをいったん手から離してしまったら、それをもう一度手中におさめるのは容易ではない。言葉をいったん口から出してしまったら、それをつかまえて意のままに操ることなどできるものではない」(49頁)。
 プルタルコスは、饒舌家には自戒が必要だと繰り返す。「饒舌家の舌はつねに燃えて打ち震い、秘密秘事の何がしかを自分の方へ引きつけ、集める。だから、舌には垣をめぐらさねばならず、理性を障害物のように舌の通り道に置いて、舌の流れと滑りを堰き止めなければならない」(59頁)。プルタルコスの観察によれば、おしゃべり屋は好かれたいと思って憎まれ、親切にしたいと思って迷惑をかけ、賞讃されると信じて嘲笑され、友を害して敵を利し、身を亡ぼす(61頁参照)。それを避けるには、ひとの話を聞き、慎み深さに対する賞賛を忘れず、沈黙のもつ荘重さ、神聖さ、神秘さを心得ているひとびとから学ぶことが大切であり、また、できるだけ簡潔に話をし、少ない言葉に多くの意味をこめて語るひとのほうが賞讃され、愛されることを知っておく必要があるというのがプルタルコスのアドヴァイスである(61頁参照)。
 とはいえ、なかなか忠告どおりにはいかない。そこで彼は、日ごろから習慣づけるべきことをいくつかあげている。そのひとつは、「自分の答え方について修行をつむこと」(67頁)である。世の中には、暇つぶしのために質問したり、おしゃべり屋に対して馬鹿なことをべらべらとしゃべらせようしたりする連中がいるので、相手の質問の意図をよく考えて答える習慣をもてという主張である。もうひとつは、自分より地位の高いひとや年長者と交際し、そういうひとびとの意見を尊重することによって、沈黙を保つ習慣を形成することである。
 こういう習慣を身につけていけば、しゃべりたいという欲望が湧き出たときに、「『このようにしゃにむにこみ上げてくるのはいかなる言葉か、』『私の舌は何を言おうとしてうずうずしているのか、』『これを言えばどんな利益があり、言わねばどんな不都合があるか、』」(75頁)といった自制的な思考が作動し、無駄で空虚なおしゃべりにブレーキがかかるようになるという。

 「知りたがりについて」は、他人のことには人一倍好奇心をもつくせに、自分には無関心なひとびとの言動を描いたものである。この小篇でも、知りたがり屋の言動診断と治療方法が語られている。「知りたがり」とは、「他人の不幸や欠点を知りたがる病気であり、妬みや悪意と無縁ではない」(79頁)ひとのことである。昔も今も、他人の欠点やあら捜しに忙しく、他人の不幸をひそかに喜ぶひとは少なくない。カンボジアには、「自分の欠点は見えないが、他人の欠点はごく小さいものでも山と同じように見える」という諺がある。プルタルコスは、「悪口ばかり言いおって。なぜお前は/ 他人の悪い点には目を光らせ、自分のからは目をそらすのか」(同頁)という作者不明の喜劇断片を引用しながら、読者にはその逆の態度を求めている。すなわち、他人への好奇心を保留して、自分自身の内部に注意を払うことである(同頁参照)。「もし不幸や欠点の話をするのが好きならば、自分自身の中にその話の種は山ほどある」(同頁)。われわれは、おびただしい過ちをおかしながら生き、しなければならないことよりも、したいことをして悪事を重ねている存在である。それが現実であるならば、他人の言動を非難したり、笑ったりする代わりに、まず自分の欠点をあばき、自分のことを棚にあげて他人をあげつらう滑稽な態度を笑うべきである。しかし、それがむずかしい。プルタルコスによれば、われわれは自分のことについては大変に怠け者で、ほとんど何も知らず、知らなくても平気な顔をしているくせに、他人のことには熱心に詮索するのだ(81頁参照)。
 プルタルコスは、知りたがり屋をこう診断する。「世の中には、自分の生活はさながら殺風景な景色のごとく見るに耐えない者とか、考察のおもむく線を自分自身の方へ、光線のように曲げることができない者もいて、そういう連中の心はありとあらゆる悪に満ち、だから彼らはそれらの内なる悪を恐れて胸が震え、そこで外へ飛び出して他人様のまわりをうろつき、おのれの悪意を養い肥らせる」(82頁)。知りたがり屋が食いつくのは、とりわけ他人の不幸や嘆きである。他人の不幸は密の味とばかり、嬉々としてしゃべりまくるのだ。
 それは一種の病気だから、治療が必要だとプルタルコスは考える。一番必要なことは、自制心を養うための自己鍛錬である。そのための具体的なアドヴァイスは、散歩の途中に目にする落書きや墓碑銘などを読まないこと、他人の家の中をのぞいたりしないこと、四方八方きょろきょろと目をやる癖を捨てること、ひとびとが罵り合っている場所には近づかないことなどきわめて具体的で、現代にもそのまま通用するのがおかしい(96~99頁参照)。「他人事に首をつっこむ癖」(96頁)は、いまも昔も変わらない。
 この小編はこう締めくくられる。「知りたがり屋はとくと考える必要があるのだ。自分たちが、この世で一番の憎まれ者嫌われ者と同類で、自分たちの振舞いがそういう連中がやっていることと同じだとは、何とも恥ずかしいことではないかと」(105頁)。相手の不愉快な振舞いが、実は自分が他人に対しておこなっていることと変わりないと気づけば、大いに恥じて、まず自分の言動を慎むようになる。プルタルコスが読者にもとめているのは、思慮深さと自制である。


 「人から憎まれずに自分をほめること」は、人間の自己讃美の諸相に焦点をあてたものである。冒頭でこう述べられる。「他人に向かって自分のことを何様かのように、有能さをひけらかしてしゃべるのはいやらしいことで、紳士の道にはずれたことだと、誰もが口ではそう言うが、実際には、そう非難する人々ですら、その嫌味から抜け切っている者は多くはない」(138頁)。人間には「自慢病」というものがあって、口を開けば自分や家族のことをほめまくるひとがいるが、あまり気分のよいものではない。「自己讃美は自己愛に大きく衝き動かされて発するものであり、しかも、名誉の追求などに関してはきわめて控え目だと思われている人々ですら、明らかにそれに冒されていることしばしばである」(164頁)。自己愛の源泉から、「自分のことを語りたい」、「自分に注目してほしい」といった自分に執着する意識が流れ出し、自慢話につながるというのである。
 プルタルコスは、自己讃美の例をいくつかあげている。第1の例は、「自分以外の人間が賞讃されると名誉欲が吹き出して、自分で自分をほめてそれと張りあうというもの」(165頁)である。第2の例は、自分の考えどおりにうまくことが運んだ場合に、「嬉しさのあまり自分でも気がつかずに鼻を高くして大きなことを言ってしまう」(同頁)というものである。いずれも、一種の病と見なされている。この病から逃れることはむずかしそうだ。とくに年を重ねるにつれて、症状は悪化するようだ。
 しかし、プルタルコスは、自己讃美をすべて否定しているわけではない。政治に関わるひとびとの場合には、自分を語ることを認めている。彼らは、不当な非難をされれば、自己の正当性を主張して自己弁護をはかることが必要である(142頁参照)。政治家が他人について真実を語ろうとすれば、自分についての真実も言わなければならない場合もある(140頁参照)。彼はまた、聞き手を鼓舞したり、刺激したりするために、あえて自分を誉めることも場合によっては必要だと言う(158~159頁参照)。「時によっては、相手を驚かし、あるいは抑制するために、また傲慢な者の鼻を折り、むやみにはやりたうつ者を押さえるために、自分のことを誇らしく語ったり礼讃したりするのは悪いことではない」(159頁)。
 プルタルコスは、こうした例を除いて、病としての自己讃美に対する警戒の仕方を示している。それは「精一杯分別を働かせる」(169頁)ことである。「他人が自己讃美をするさまによく注意して、それが誰にとっても何と不愉快で腹だたしいか、そして、人間の発する言葉の中で、これほど嫌味で耳障りなものはほかにない、ということを覚えておくことだ」(同頁)。有益な忠告である。彼はこの小編をつぎの助言で結んでいる。「自己讃美には必ず他人に対する非難が伴っているものだということ、(中略)聴く者の耳に残るのは、その自讃の言葉どおりの立派な人物像ではなくて苦痛だけだということ、などを思い起こして、自分や聞き手に大きな利益をもたらす見込みがない限り、自分の話をするのは差し控えることにしよう」(170頁)。


 プルタルコスについては、同じ訳者によって岩波文庫から『愛をめぐる対話 他三篇』『似て非なる友について 他三篇』『食卓歓談集』が出版されている。『プルタルコス英雄伝』(上、中、下、村川堅太郎編)は、ちくま学芸文庫で読める。いずれも人間観察が見事な本である。


人物紹介

プルタルコス 【 Πλούταρχος(Plūtarchos)〔ラ〕Plutarchus 】 45頃~120以後

ギリシアの伝記作家、哲学者。

カイロネイアの富裕な名望家に生まれ、アテナイに遊学して哲学と修辞学を学ぶ。アレクサンドリアとローマを訪問し、ローマの上流階級と交わって人気を博する。終生カイロネイアにとどまり、晩年にはデルフォイの最高神官や隣保同盟の役員を務め、神域の復興に尽力した。抜群の読書量と豊かな教養に加え、人格円満な談話の名手だったので、多くの友人知人が集まる彼の家は一種の私塾であった。非常な多作家で、4世紀作成の作品目録は227編を数えた。現存する作品は倫理と伝記に大別される。前者は《倫理論集▼(モラリア▼):Moralia》にまとめられ、対話編や随想風など多様な形式をとり、内容も哲学、宗教から修辞学、自然科学に及ぶが、通俗倫理が中心である。伝記は、《対比列伝▼(英雄伝▼):Vitae》と呼ばれ、ギリシア・ローマの著名人を1人ずつ組み合わせた22組の対比列伝と4編の単独伝記が現存する。その目的は歴史を書くことではなく、多彩な逸話を通して偉人の徳を描き、それによって読者の人格を高めることにある。16世紀以降、西洋語に訳されて広く読まれ、数多くの文人によって活用された。

©Iwanami Shoten, Publishers

"プルタルコス(Plūtarchos)", 岩波 世界人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2020-11-02)

ページトップへ戻る