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身体との対話―スポーツ選手の考え方と生き方―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 為末大の『「遊ぶ」が勝ち 『ホモ・ルーデンス』で、君も跳べ!』(中公新書ラクレ、2013年)は、子供時代の遊びの経験や、小学生時代から現在にいたるまでの陸上競技での試行錯誤、ツイッターを活用したコミュニケーション、将来の抱負などを語る一種の自伝である。ハードルにおける身体の動かし方を自分で研究し、他人のアドヴァイスを受け入れ、創意工夫をこらしてアスリートとして成長してきたプロセスが語られている。おしまいの方で、競技人生は30歳以降下り坂だったが、「それでも自分自身の身体の仕組みを探る旅はとても興味深くて、終盤になればなるほど理解は深まった。そして何より、それは面白かったのである」(196頁)と締めくくられている。
 本書は、「遊びって何だろう?」、「スポーツと遊び」、「身体を遊ぶ」、「コミュニケーションが遊びを拓く」、「教養から遊びへ」、「キャリアと『遊び感』」、「『遊び感』の可能性」からなっている。
 中学3年生で100メートル走者としてのピークを迎えた為末は、高校3年のインターハイでは400メートルにエントリーして優勝した。とはいえ、いずれ自分を追い越す選手が出てくることを予感して、身長が低くてもやれそうなハードルに切り替え、国体に出場して、当時の「世界ジュニア歴代2位」の記録で優勝した。


それでも、100メートル走こそが陸上種目の王道だと信じていた為末は、短距離走へのこだわりを捨てきれずにいた(28頁参照)。その窮屈な姿勢を冷静に見つめなおし、世界水準で考えるという視点を獲得した段階から、為末には「『世界の舞台に立つ』」(29頁)という目標が見えてきた。「少し視点をずらして、別のところから物事を見てみると、自分のこだわりから抜け出すことができる。(中略)引いて自分を見ると、凝り固まってこだわってきたことの矛盾が現れてくる」(30頁)。「悩んでいる人は特に、『引く』とか『ずらす』という遊びの感覚を駆使して距離を取り、自分の中に『余白』や『ゆるみ』や『隙間』を作っていくことが大事だと思う」(31頁)。
 「自分のこだわりから抜けられない」、「窮屈に固まった姿勢を崩せない」、「硬直したまま突っ走る」といった傾向から身を引いて、自分にゆさぶりをかけてみる。ぶざまな自分を笑い飛ばしてみる。それは、為末のことばを借りれば、「遊びの感覚を駆使すること」だ。周りの人を気にしたり、誰かに命令されて動いたりすると、どうしても意識過剰になって、動きがぎこちなくなる。そのぎこちなさを解きほぐすのが「遊びのセンス」なのだ。自分が好きなことをする場合には、動きは軽快で、しなやかなものになる。「自分から飛び込んでいった能動的な作業ならば、人は『遊び』の感覚や楽しさを持ちやすい」(38頁)。なにをするにしても、できれば楽しくやりたいというのが彼のスタンスだ。
 2001年の世界陸上で銅メダルを獲得した為末は、その後、周囲からの過剰な期待に応えるために「走らなくては」とあせった。「走りたいから走る」、「走ることが楽しいから走るんだ」という自由な気持ちではなく、「走らなければならない」という義務の意識が高まり、自由と責任という矛盾した気持ちのはざまで苦しみ、次第にスランプに陥った。その苦境を脱出するヒントを与えてくれたのが、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中公文庫、改版、2019年)である。人類の発展に遊びが不可欠であったことを示し、画期的な文化史観を展開したこの本は、為末に衝撃を与えると同時に、力強いメッセージを授けた。「遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為もしくは活動である(傍点ホイジンガ)」(81頁)、「(つねにより高いものを追い求める)[筆者補足]努力を実現するために、人間に先天的に与えられている機能、それが遊びなのだ」(185頁)。こうした文章に刺激されて、為末は、「スポーツの根っこには、間違いなく楽しさと遊び感覚があるはずだ」(57頁)と確信し、競技人生を続けるなかでは「楽しさ」を殺してはならないと自戒した。彼はこうも述べている。「スポーツの競技会は、いわばお祭りだ。『僕はこんなに速いんだぞ』という見せびらかしごっこのような側面もある。日本でも、こんな感覚でスポーツを無邪気に楽しむ文化が醸成できたらいいと思う」(60頁)。勝敗を気にしたり、メダルの数を争ったりする前に、純粋にスポーツを楽しむことができればという願いがこめられている。
 本書のなかでもっとも興味深いのは、アスリートならではの身体論である。為末はパラリンピックの選手との練習から身体について数々のことを学んだという。彼は、右ひざが曲がらない状態での走行では、左手のふりがかなり大きくなることや、視覚に障害のある選手が幅跳びの練習をする場合には、リズムによって走るときのピッチ・歩幅と歩数の調整を行っていることに注目している(87~89頁参照)。ハンディキャップは、身体のあらたな可能性を開くことにつながるということだ。為末自身も自分の視覚を遮断すると、着地の瞬間の足の裏の感覚が鋭敏になることを確認している。為末は、パラリンピックの選手との交流から、相手と自分とが全然共有していない世界があることを実感したという(122頁参照)。
 為末によれば、厳しい練習を重ね、身体との対話を続けるアスリートの身体は「『感覚センサーの集積物』」(174頁)である。彼自身は、トレーニングを積んだ結果、靴を履いた状態で小石を踏んでも、その感触を感知できるという(同頁参照)。「身体のセンサーは鍛え上げられ、ずいぶん繊細になった。ほんの少しの変化も、即座にとらえられるような鋭さが備わった」(同頁)。「自分の筋肉に随意筋と不随意筋があり、どこまで自分の意志や感覚で筋肉が動くかということも知っている。意識が及ぶ領域と及ばない領域とを、区分けできている」(同頁)。ハードルの練習を重ねるなかで、身体の筋肉の状態を普段に観察し、思索を続けてきた経験がこうした文章に結実している。
 為末の競技人生のなかで、本は重要な位置を占めている。本書では、『ホモ・ルーデンス』の他に、ドーキンスの『利己的な遺伝子』、フランクルの『夜と霧』、ギブソンの『生態学的視覚論-ヒトの知覚世界を探る』、サン=テグジュペリの『星の王子さま』、『武士道』、『葉隠』、『タオ』など為末の愛読書についても触れられている。こうした本は、為末に人間や人生について深く考える楽しさをもたらした。好奇心を満たすために本を手に取り、ワクワクしたくて手当たり次第にページをめくった(136頁参照)。「本は、新しい発見に出合える媒体であり、素晴らしい遊び道具だ」(同頁)。読書をしんどいこと、なにかを学ぶために必要なことと考えるのではなく、遊びととらえる発想の転換が、「視点をずらす」、「隙間をつくる」ということなのだろう。そうした転換をもたらす手助けをしてくれるのもまた読書なのだ。


 平尾剛の『近くて遠いこの身体』(ミシマ社、2014年)は、かつてラグビーW杯の日本代表に選出されたこともある平尾が、ラグビーの練習や試合で感じたこと、考えたことを綴ったものである。「序章 体育嫌いだったひとたちへ」、「身体の感覚を深める」、「ラグビーがくれたもの」、「痛みからの学び:私の身体論」、「『見る』と『聴く』:私の身体論2」、 「時間も身体も超えて」の全5章、「終章 世界で戦うということ」からなっている。スポーツ科学的な観点からの身体へのアプローチは、膨大な情報にもとづく客観的な身体像を提供してくれる。この分野の知見は増える一方だ。しかし、平尾がこの本で述べるのは、タイトルや目次からも明らかなように、自分の身体経験の記述にもとづく一人称的な身体論である。
 平尾も、為末と同じように、スポーツではなによりも楽しむことが大切だと強調している(29~35頁参照)。平尾によれば、日本の高校や大学のクラブ活動では、「『ラクをしてはいけない』」(31頁)、「苦しければ苦しいほど、しんどければしんどいほど、いい練習なのだ」(32頁)いう勘違いがまかり通っている。その結果、しごきや暴力的な「指導」が入りこむ。練習に苦しさが伴うのは避けられない。やめてしまいたいと思うこともあるだろう。その状況を念頭において、平尾はこう述べる。「苦しさやしんどさに心がヒリヒリするからこそ、それらに流されてしまわないように主体的な意志で私たちは『楽しもう』とするのである」(33頁)。「苦しみではなく楽しみを追いかけるように心がける。それが『楽しむスポーツ』というステージへの第一歩となる」(34頁)。「自分の枠組みの外に出るにはいかなる苦境におかれても笑っていられるほどの強靭な精神が必要で、その強靭さを担保するのはどちらかといえば緊張ではなく弛緩である。心とカラダをどれだけ緩めることができるかによって、発揮されるパフォーマンスは決まる」(同頁)。自分のなかに「余白」や「緩み」を作ることの大切さを訴えた為末の考え方を連想させる文章だ。平尾は、「『鍛錬とは、苦しさを苦しくなく経過できるようになることだ。苦しさに耐えていることは鍛錬ではない』」(35頁)という野口晴哉のことばを引用している。一箇所にとどまるのでなく、別次元へ移行することの大切さが指摘されている。この種の移行は、「緩み」がなければ生じないのであろう。
 第2章では、学生時代の総監督を務めた岡の指導の仕方が回想されている。グラウンドの傍らで試合形式の練習を見つめていた岡は、指摘すべきポイントを見つけたときには、「ちょっとまってくれ!」とグランドに入ってきて長々と指導したという(86頁参照)。「『もしもパスが通らなかった場合はどうなったのか』」(同頁)、「『もしもひとつ前のプレーでラックにならなかったらどうなったのか』」(同頁)、「『もしもキックしたらどうなっただろうか』」(同頁)と、「もしも」の連続で、結論はなかった。練習の流れを中断され、早く練習に戻りたい学生たちは「いつまで続くのか」といらつくばかりで、岡の指導の意味を理解できてはいなかった。後年、現役引退の報告をするために岡宅をたずねた平尾に、岡はこう語った。「『平尾よ、ラグビーは自分で考えるからこそオモシロいんや。そのオモシロさを学生から奪ってはいかんのだよ』」(87頁)。このことばは、雷撃のように平尾の身体を打ち抜いた。当時のまどろっこしい指導は、学生たちからラグビーのオモシロさを奪わない配慮のためであり、先生は具体的な方法を指示せず、いくつかの選択肢をしめすだけで、その先は自分で考えなさいというメッセージを送ってくれていたのだと気づいたのだ。
 平尾は、ラグビーの特色をこうまとめている。「ポジションが異なる一五人が複雑に絡み合うなかで最高のパフォーマンスを発揮するのがラグビーである以上、特定の指導者だけではなく、関わったすべての人たちとの関係の中ですべてのラガーマンは学び、成長するのである」(89頁)。ラグビーというスポーツを通して、選手たちは「『自分で考えるオモシロさ』」(同頁)を味わえるだけでなく、指導者のことばを聴き、お互いに選手同士で考え、ともに学び、成長し、一皮も二皮もむけた存在へと生成するのである。このことはラグビー以外のスポーツにもあてはまるだろう。
 為末は、ひとつの感覚の障害を別の感覚で補強して競技するパラリンピック選手から学んだ経験について語った。平尾もダニエル・キッシュという盲目の人物を紹介している。ダニエルは生後4ヶ月のときに網膜に悪性の腫瘍が見つかり、程なくして両眼の摘出手術を受けた。現在のダニエルは、まるで前方が見えているかのようなハンドルさばきでマウンテンバイクを乗り回すことができる。目の見えないひとたちを率いて、ツーリングのガイドさえも行っている。彼は言う。「『道の両脇で潅木が地面に触れているのが聴こえるし、もし大きな石や木が行く手かその近くにあればそれも聴こえます』」(159頁)。彼は、潅木や木や石などを、「『耳で見ている』」(同頁)のである。彼はまた、「舌の側面を使い、まるで舌打ちをしたときのような鋭い音を発し、それが潅木や石などの障害物から跳ね返ってくる音を聴いて、その所在や形状を『見ている』」(160頁)。彼は、「エコローケーション(反響定位)」(同頁)というナビゲーション法を用いて、自由自在にバイクを運転しているのである。
 ダニエルは、大学時代にエコローケーションについて体系的に学びなおした。現在は「世界盲人協会」の会長を務め、視覚障害者の潜在能力を理解してもらうために世界各地を回って、エコローケーションの指導を行っている。ダニエルによれば、耳で見るようになれるのは視覚障害者に限らない。自分は吸着音を発してその反響によってものを見るという能動的なエコローケーションを行っているが、耳にする音で周囲を判断する「受動的なエコローケーション」は誰もが行っている(163頁参照)。
 平尾は、この話をラグビーと結びつける。ラグビーでは、ボールを自分の位置よりも後ろにいる選手に渡さなければならない。しかし、あからさまに背後を見てボールを投げれば相手選手にコースを読まれてしまう。そこで、前方を見ながら走り、同時に背後のひとの気配を察知して動くことが必要になる。いわば、「耳で見る」のだ。テニスのダブルスでも同じことが言える。コート上で、前衛は相手ふたりの位置を見てボールを打つが、同時に、相手からの返球にさいしては前方を見るだけでなく、後衛の位置や動きも注意して動かなければならない。この場合にも、「耳で見る」、あるいは「背中で見る目」がいるのだ。
 健常者ももちろん、日常生活において、耳で聴いて、周りの状況を察知している。足音を聞いただけで、誰が歩いているのか分かるし、風の音に季節の移ろいを感じることもある。そうした出来事はあまりにありふれているので、意識にのぼることは少ない。忙しい日常にとりまぎれて、雨の音や、風のささやき、小川の流れにじっくりと耳を傾ける機会も多くはない。しかし、視覚を失ったダニエルは、聴覚の力を研ぎ澄ますことによって、受動的なエコローケーションのレヴェルを超えて活躍している。人間の身体の潜在力には驚かせられる。「ダニエルの存在は、『聴く力』の奥行きとそれがもたらす豊かさを私たちに教えてくれる」(166頁)。
 本書で、平尾は、ラグビーという特殊な分野について語りつつも、それを手がかりに身体というわれわれのもっとも身近でありながら未知なるものの可能性について考えさせてくれる。身体にもっと耳を傾け、感覚を鋭敏にする鍛錬をすることで、あらたに見えてくるものがあるはずだ。



人物紹介

為末 大 (ためすえ-だい) [1978-]

1978年、広島県生まれ。法政大学卒、大阪ガスを経て、2003年プロ陸上選手へ転向。「侍ハードラー」の異名を持つトップアスリート。シドニー、アテネ、北京と五輪に3大会連続出場。世界選手権では2001年、05年に銅メダルを獲得(トラック競技で2度のメダルは日本人初)。12年6月に引退。現在、活動の幅を多方面に広げており、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリートソサエティ」、ランニングクラブ「CHASKI」、多彩なゲストとのコラボ講義企画「為末大学」、テレビコメンテーターなど活躍中。ツイッターのフォロワー数は16万人以上(13年4月現在)。主著に、『日本人の足を速くする』(新潮新書)、『走る哲学』(扶桑社新書)、『走りながら考える』(ダイヤモンド社)ほか多数。 ―「本書」より

平尾 剛 (ひらお-つよし) [1975-]

1975年大阪生まれ。同志社大学、三菱自動車工業京都、神戸製鋼コベルコスティーラーズに所属し、1999年第4回ラグビーW杯日本代表に選出。2007年に現役を引退し、現在は神戸親和女子大学発達教育学部で講師を務める。共著に『合気道とラグビーを貫くもの――次世代の身体論』(朝日新書)。「SUMUFUMU LAB」でコラムを連載。 ―「本書」より

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