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人間へのまなざし-窪美澄・村田沙耶香・犬養道子―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 窪美澄の『さよなら、ニルヴァーナ』(文春文庫、2018年)は、神戸で起きた少年による児童連続殺傷事件を題材にした入魂の一作である。なぜ少年は少女を残忍な仕方で殺害したのか、そこにいたるまでになにが起きたのか。その理由を探るために、窪は東北や関西で大災害に見舞われた時代背景とのかかわりをさぐり、さらに、想像上の人物を何人も動かして、犯罪の核心に迫ろうとしている。動物や人間に対する残酷なまでの暴力の場面が描かれているので、途中で気分が悪くなったり、不愉快になったりして、本を閉じる読者もいるだろう。最後まで読み終えた読者にも、長く残る重苦しい感情と向き合う覚悟が必要だ。

 6人の作家による『きみに贈る本』(中央公論新社、2016年)のなかで、窪は自書についてこう語っている。「思わず目を背けようとしてしまうものからどうしても目を離すことができない。小説家にはそんな因果もあるのだろうと思います」(108頁)。「読み進めるのが辛くなるかもしれませんが、ぜひ一度お読みいただければうれしいです」(109頁)。新聞やネットには、日々、事件や犯罪の記事が掲載されるが、その多くは断片的な情報にとどまる。


情報の送り手は、ひとりの犯罪者の心理や行動を深く掘り下げることよりも、次から次へと起こる出来事の表層を手っ取り早くまとめて記事にすることに忙しい。 それに対して、作家は、ひとつの事件について丹念に情報を集め、思考力や想像力を駆使して、その核心に迫ろうと努力する。『冷血』を書いたカポーティがこの分野の先駆者と言えるだろう。カポーティは、一家4人を惨殺した犯人に直接インタビューし、複数の関係者にも取材し、長い年月をかけてノンフィクション・ノヴェルというジャンルを完成させた。窪が採用するのも同じ手法である。窪は、「A」と呼ばれた少年に関する関連書籍を読みこみ、現地調査などを通じて、小説という形式を借りてその内面に迫ろうとしている。
 この小説のキーワードは、「中身」だ。「V ボーイミーツガール」のなかで、作家志望の「私」は、人間の「中身」が見たかったと述べた少年のことばから、こう推測する。「人には見られたくない感情、欲望、妄想。世間の人たちから、ひたすら隠しておきたいそんな『中身』。Aもそれを見たかったし、少女を殺すことで人に見せたい、と思ったんじゃないだろうか」(208頁)。「ずっと続く住宅地、そこで暮らす人間のなかにも、表面の薄皮をぺろりと剥けば、顔を背けたくなるような感情が渦巻いている。そこを見ずに一生を過ごす人もいるだろう。でも、そこを見ずにはいられない、という人間が確かにこの世にはいるのだ。私とAのように」(同頁)。「私も中身が見たいのだ。人がひた隠しにして、心の奥底に沈めてしまうもの。そこに確かにあるのに見て見ぬふりをしてしまうもの。顔は笑っていても心の中で渦巻いている、言葉にはできない思いや感情。皮一枚剥がせば、その下で、どくどくと脈打っている何か、それを見てみたい。/ そういう意味では、私とAは同志なのだ」(403頁)。ひとの心に潜む禍悪やまがまがしいものを見すえた作家は少なくない。「私」もそのなかのひとりとして、目をそむけたくなるものを徹底的に凝視しようと決意している。
 「X 終曲」のおしまいで、少年の軌跡をたどってきた「私」はこうしるす。「物書きの自分が見た地獄など、地獄の入口ですらない。体に張りついたワンピースの裾をしぼりながら思った。ならば、もっと地獄に行こう。もっと深くて、もっと暗い、地獄に下りていこう。人の、世の中の、中身を見て、私は自分の生を全うするのだ。それが、私に課せられた運命ならば、仕方がない」(442~443頁)。「私はこれから、迷って、悩み、苦しみ、悶えて、書いて、書いて、書いて、そして死ぬのだ」(443頁)。「さよなら、ニルヴァーナ」というおしまいの一文には、涅槃を拒否して、苦悩の道を突き進むのだという「私」の覚悟が暗示されている。

 村田沙耶香の『殺人出産』(講談社文庫、2016年)は、「10人産んだら一人殺してもいい」(14頁)というシステムが導入された日本が舞台の小説だ。このシステムは、殺意を抱く圧倒的な人間の数を想定している。10人子供を産んだ報償として一人の殺人が法的に認められるのだから、誰かを殺したいひとは、せっせと子作りに励まなければならない。登場人物は、「産み人」の生んだ子供を預かるセンターから引き取られた環と、人工授精で生まれた育子の姉妹、従妹のミサキ、育子の会社の同僚の早季子などである。
 育子は幼稚園のころに、小学3年生の姉の環の殺人衝動に気づく。環は育子にこう語る。「『あのね、お姉ちゃんの中には、何かとっても悪いものが棲んでいるの。血が見たくて見たくて、仕方がないの。だから自分の血で我慢しているのよ。本当は、自分ではない、だれかほかの人の血が見たいの。お姉ちゃんはね、人を殺したくてしょうがないのよ』」(41頁)。しばしば、自分の手首を切って流れる血を見ていた環は、その後、育子が瓶に入れてきた蟻やダンゴ虫、カマキリ、蜘蛛、ミミズなどを指で押しつぶして殺すようになる。「姉にとって、殺すことは祈りだった。生きるための祈りだった。姉が生きたいと願うたびに、その白い手の中で小さな命が壊れた。そのことが、姉をかろうじて正気に保っていた」(43頁)。
 殺人出産システムを強く支持するミサキは、「産み人」が増えれば人口減少を止められると信じている。ミサキは、どうすれば「産み人」が増えるかを自由研究のテーマにする。ミサキは、『殺意と殺人 『産み人』ができるまで』という本を読んで、「『ほとんどの人間が、生きているうちに一度は誰かに殺意を抱く』」(59頁)ことを知る。
 17歳の育子は、環が「産み人」になって3年ほどたった頃に、高校の教師から受けたセクハラやしつこいいやがらせに苦しみ、自殺を決行しようとした。しかし、その刹那に「死にたくない」という強い気持ちが現われ、そのためには、「殺せばいいんだ」(64頁)と発想し、「教師を殺すことを考えるようになった」(同頁参照)。「闇の中で、一本の道が殺意という光によって照らされた。壊れかけていた私の命が、殺意によって、辛うじて未来へと進み始めた」(同頁)。
 殺人出産システムに納得しない早季子が、環に会う機会がやってくる。早季子がこう語る。「『私は貴方を救うために来たんです。『産み人』として20年も、この世界の犠牲になってきて、お辛かったことと思います』」(82頁)。早季子は、環の生の声を世間に伝え、世界を正しい方向に導こうとしている。これに対する環の返答がこの小説のクライマックスのひとつである。「『私たちの世代がまだ子供のころ、私たちは間違った世界の中で暮らしていましたよね。殺人は悪とされていた。殺意を持つことすら、狂気のように、ヒステリックに扱われていた。昔の私は、自分のことを責めてばかりいました。何度命を絶とうとしたかもしれません。でも世界が正しくなって、私は『産み人』になり、私の殺意は世界に命を産みだす養分になった。そのことを本当に幸福に思っています』」(84頁)。早季子は、出産に耐え切れずに死んでいく「産み人」がいれば、「産み人」によって一方的「死に人」に追いやられて死んでいくひともいる世界の残酷さを訴える(同頁参照)。環はこう答える。「『突然殺人が起きるという意味では、世界は昔から変っていませんよ。より合理的になっただけです。世界はいつも残酷です。残酷さの形が変ったというだけです。私にとっては優しい世界になった。誰かにとっては残酷な世界になった。それだけです』」(84~85頁)。
 環から、電話で10人目の子供を出産したとの知らせを受け取った育子は、「『誰を殺すことにしたの?』」(95頁)と尋ねる。環は、早季子の名をあげ、かわいそうなひとだから、楽にさせてあげたいのだと告げる(96頁参照)。「死に人」に指定された早季子は、激怒して育子と言い争う。育子が環に自分の殺害を依頼したと誤解したのだ。育子は言う。「『姉はね、誰でもいいの。無差別殺人者なのよ。たまたま、印象的だったあなたを選んだだけよ』」(104頁)。「『まさか……』」、「『本当よ。殺人衝動が抑えられないの。小さい頃からよ。それで『産み人』になったの』」(104頁)。
 逃亡を企てたものの、係官に逮捕されて睡眠状態に置かれた早季子の殺人儀式を始める前に、環は育子にこう語る。「私の殺意も平凡よ。そもそも、殺意というものは、誰の人生にも宿るごく一般的な蜃気楼みたいなものなのよ。水に飢えた人がオアシスの幻を見るように、生に固執する人間は殺人という夢を見る。それだけよ」(112頁)。早季子のお腹に宿っていた胎児も命を失った。早季子と胎児の殺害を見届けた育子の心境と行動がこう表現されている。「たとえ100年後、この光景が狂気と見なされるとしても、私はこの一瞬の正常な世界の一部になりたい。私は右手の上で転がる胎児を見つめながら、自分の下腹を撫でていた」(118頁)。
 親族や600万人以上の同胞が殺されたユダヤ系フランス人の哲学者レヴィナスは、他人とは、私に殺害の誘惑を掻きたてる存在だと述べた。殺人が犯罪と見なされる社会であっても、殺人衝動にかられるひとはけっしてなくならない。この小説が寓意的に示すように、道徳や倫理、法律、善悪の基準などは、時代の要請によっていくらでも変化しうる。だが、他者を抹殺することへの誘惑はつねに変わることなく存在する。これこそが人間を人間たらしめているのだとすれば、人間とは絶望的なまでの深い闇にほかならない。ただ希望と救いも人間の特権である。最後に犬養道子の本を紹介しておこう。

 犬養道子の『幸福のリアリズム』(中公文庫、1984年)は、1977年から79年にかけてパリで執筆された文章をまとめたものである。犬養は、津田塾大学の前身である津田英学塾中途退学したのちに、戦後第一期の奨学金留学生のひとりとして渡米した。しかし、肺結核にかかり、大学を辞めざるをえなかった。渡仏後に「聖書学」を学んだカトリック大学では、「栄養不良(!)病」(99頁)のため勉学を継続できなかった。10年間の留学は「病学」に終わり、希望していた教師にはなれなかった。しかし、闘病のせいで希望のコースをはずれた犬養は、ヨーロッパでたくましく生き抜いて、難民保護活動や執筆活動に大車輪の活躍を見せた。
 犬養は、カトリック信者として、常に神を信じながら、他方で人間の裸の姿を凝視した。「心の殺人も舌による中傷も、羨望や憎悪や怒りの眼差も、他人のものをわがものにしてしまいたい利我の欲も、偽りも、意地わるも、怠惰も、義務をいいかげんにすることも、すべては精神に深傷を負い、ガンにもたとえられるべき大病にかかることを意味する」(223頁)。神ならぬ人間は、「欠陥欠如(罪)」(230頁)の存在である。犬養によれば、真の宗教は、人間の存在をありのままに、深く見つめるものである。人間のすばらしさも認めるが、同時に、人間の内なる根強い「罪への傾向」をはっきりと見つめる(230頁参照)。人間には、イヤな相手を呪ったり、他人をまっくろな底なしの憎悪のマトにしたり、他人に対して、殺してやりたいというひそかなどすぐろい願いを抱く傾向がひそんでいる(43頁参照) 。村田沙耶香の描く環や育子のように、あるいはレヴィナスが言うように、生涯のいずれかの時期に殺人の衝動にかられないひとはいないだろう。それをかろうじて抑制できるひともいるだろうが、罪は雑草のようにつぎからつぎへと出てくる(226頁)。自力に依存する限り、罪から逃れるすべはない。それではどうしたらよいのか。犬養はこう考える。宗教的な存在としての人間は、「『外からの』『より大いなる他者(真理とか善とか)からの』救いを待ち、その救いと出会うのを待つ存在なのだ」(230~231頁)。「不完全で、欠如を内に抱く存在はただ、完全で欠如を内に抱かぬ存在によってのみ、満たされ救われる」(231頁)。神は不滅の、偉大な精神的存在であり、「そのような精神存在を仰ぎ見て、そこから、より真なる、より善なる光を、わが精神の内深くに受けたいと望む、それをこそ祈りと呼ぶ」(同頁)。
 カトリック信者としての犬養は、「神に向かって祈る存在としての人間」にもっとも力点を置いている。他方で、彼女は、「自分との関係を保ち、自分で自分を成長させる存在としての人間」にも注目している。彼女によれば、ひとは、俳句や、ピアノ、ゴルフ、水泳、スキーなどを習うときは、最初は不安でも懸命に努力するが、心という人生の幸福の鍵となるものの訓練についてはほとんど投げやりである。「心の訓練」なぞ不要と見なして、無視するのである(122頁参照)。心こそが「『日々、成って行く存在』『育って行く存在』(同頁、傍点著者)としての人間を人間たらしめる中核であるから、なによりもまず「心を育てて訓練してやること」(同頁)が大切ではないかと、犬養は言う。そのためには、自分の心の底に下りていく覚悟が欠かせない。そして、そこにひそむ邪悪なものやまがまがしいもの、殺人の衝動や虐待への嗜好などを直視し、それらをコントロールするための配慮が不可欠である。自力での努力に限界があるにしても、それを放棄してはならない。
 犬養によれば、「訓練」とは特にむずかしいことではない。それは、「卑近なこと、卑近中の卑近に、新しい眼を向けて、よく見ること」(125頁傍点著者)である。一例として自分の身体があげられている。「手から腕。そして内臓。人体の中に含まれるありとあらゆる化学的なもの、たとえば酸素や炭酸ガスや。有機体自立自動体としてのわがからだ、その驚異!」(125頁)。彼女は「聖書」の『詩篇』(百三十九)から引用している。「奇しきかな、われ/ すばらしきかな、われ/ 創造の傑作、われ」(125~126頁)。
 人間における奇跡はそれだけではない。われわれは現在を越えて、現にいない場所を思い描くこともできるし、自分の過去に限定されない過去を追体験することもできる。身の回りにあたりまえにあるもの、たとえば電気や水道、ガス、鍋、紙などには、人知の歴史が凝縮されている。一粒の米には、何百人もの汗が隠されている。塩にも道にも自然と人力の長いつき合いの歴史がひそんでいる。床のゴミにもまた歴史がある。ありとあるものがあるということ、それは実に奇跡的なことなのだ(126~130頁参照)。
 われわれのなかに潜在する、自分や他人をなきものにしたいという殺害衝動が抑えられなければ、日常生活に残酷な亀裂が生じる。他方で、自分や他人が生きてあること、生かされてあること、事物や自然がそこにあることに驚き、それぞれの奇跡的なつながりに心が開かれていけば、共存という喜びの世界が生まれてくる。犬養は、目に見える具体的な世界と、直接には見えない想像世界との交流を生きると同時に、神という目には見えない無限の存在との信仰的な出会いを生き続けた。彼女は、宗教者として、罪-悪-苦の関連と、救い-善-幸福の関連について瞑想することを止めなかった(253頁参照)。
 今回とりあげた3人の作家にとって、「人間とはいったいどういう存在なのか」という問いは根本的である。他人のこころの闇をのぞこうとするひともいれば、他人の体の内部を見たいと欲望するひともいる。利己心と利他心のはざまで苦しむひともいれば、おのれの罪の深さにおののいて、神に身をゆだねるひともいる。人間は怪物だと述べたのはパスカルである。美しいものに酔うことのできるのも人間である。3人の作品は、人間という永遠の謎を解くための無尽蔵の宝庫である。

 



人物紹介

窪 美澄 (くぼ-みすみ) [1965-]

1965年、東京都生まれ。短大中退後、広告制作会社、フリー編集ライターを経て、2009年「ミクマリ」で第8回女による女のためのR-18文学賞大賞を受賞しデビュー。11年、受賞作を収録した『ふがいない僕は空を見た』で第24回山本周五郎賞を受賞、本屋大賞第2位に選ばれた。12年、『晴天の迷いクジラ』で第3回山田風太郎賞を受賞。他の著作に『雨のなまえ』『よるのふくらみ』『水やりはいつも深夜だけど』など。 ―「本書」より


村田 沙耶香 (むらた-さやか) [1979-]

平成時代の小説家。
昭和54年8月14日生まれ。平成15年「授乳」が群像新人文学賞優秀作。21年「ギンイロノウタ」で野間文芸新人賞。25年「しろいろの街の、その骨の体温の」で三島由紀夫賞。千葉県出身。玉川大卒。作品はほかに「星が吸う水」など。

"むらた-さやか【村田沙耶香】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-03-15)

犬養 道子 (いぬかい-みちこ) [1921−]


昭和後期-平成時代の評論家。
大正10年4月20日生まれ。犬養毅(つよし)の孫。犬養健(たける)の長女。津田英学塾(現津田塾大)を中退して欧米の大学でまなび、各国を歴訪する。昭和33年「お嬢さん放浪記」を発表。社会、文化、女性など幅ひろいテーマで評論活動をつづける。61年難民のための奨学基金「犬養基金」を設立。平成元年「国境線上で考える」で毎日出版文化賞。東京出身。著書はほかに「あなたに今できること」「こころの座標軸」など。
©Kodansha

"いぬかい-みちこ【犬養道子】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-03-15)

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