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野上彌生子と与謝野晶子の生涯―評伝を読んでみよう―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 岩橋邦枝の『評伝 野上彌生子 迷路を抜けて森へ』(新潮社、2011年)は、99歳まで現役の作家として活躍した野上彌生子の生涯を詳細にたどった本である。「師・夏目漱石―作家になるまで」、「初恋の人・中勘助―『海神丸』と『真知子』」、「夫・野上豊一郎―欧米の旅」、「山荘独居―戦時中の日記から」、「『迷路』―夫豊一郎逝く」、「老年の恋―田辺元と彌生子の往復書簡」、「『秀吉と利休』―虚構の力」、「友人・宮本百合子―現代女性作家の先駆け」の全8章と、終章の「『森』―白寿の作家として母親として」からなる。
 野上彌生子(1885~1985)は、大分に生まれた。小学校時代には、ある国学者の私塾で、『古今集』、『枕草子』、『徒然草』、『源氏物語』といった日本の代表的な古典や中国の四書五経などを素読した。その後上京し、明治女学校に入学した。彼女は、6年間の学校生活で「ものを考えること」、「精神的なものを重んじること」、「疑うこと」を学んだと述べている(32頁参照)。

 東京にとどまって勉強を続けたいと熱望していた彌生子は、同郷で、まだ大学生であった野上豊一郎と結婚した。3人の子供が生まれた。夫の豊一郎は、知的な成長をなによりも求めていた彌生子に協力し、存分に勉強できるように配慮した。雇われた2人の女性が主婦の役割を果たした。「彌生子は、三児の母でありながらおむつを一度も洗ったことがなかった」(37~38頁)。読むことと書くこと、創作することが彼女の生活の中心になった。


 漱石門下のひとりであった豊一郎は、彌生子の書いた「明暗」の批評を漱石に依頼した。彌生子が21歳のときのことである。全部で七箇条にわたる懇切丁寧な手紙の批評の第一条はこうである。「非常に苦心の作なり。然し此苦心は局部の苦心なり。従つて苦心の割に全体が引き立つ事なし」(8頁)。漱石は、厳しく批評するだけでなく、作家、文学者になるとはどういうことかを彌生子に伝えた。作家には思索と年齢を重ねることがなによりも大切だと述べたあと、年齢についてこう説いた。「≪余の年と云ふは文学者としてとつたる年なり。明暗の著作者もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし。文学者として十年の歳月を送りたる時過去を顧みば余が言の妄ならざるを知らん≫」(同頁)。漱石は、彌生子の力量不足のために作中人物の心理や行動が十分に描ききれていない点を指摘し、人情ものを書くには年をとることが肝心と述べた。後年、彌生子はある講演でこう語った。巻紙に書いた「明暗」批評の手紙は、「≪今度計ってみると五メートルの上ありました≫」(10頁)。
 漱石の真摯な手紙が、彌生子の作家としての生涯を決めた。彌生子は、87歳のときにこう述懐している。「≪もし先生が、お前にはとても望みはないから、ものを書くなんてことは断念した方がよからう、と仰しやつたら、私はきつとその言葉に従つたらうと思ひます。さうすれば、作家生活には無縁のものになつてゐたはずです。ところが、さうではなく、いろいろ御親切な教へを受けたこと、わけても、文学者として年をとれ、との言葉は私の生涯のお守りとなつた貴重な賜物でございます≫」(同頁)。彌生子は、漱石の「文学者として年をとれ」という親身な忠告を生涯の指針としたのである。彌生子は、43歳のときの日記にこうしるしている。「< 自分の絶対に排斥しなければならないもの、社交、冗語、睡眠不足、飽食、家事的のごた〳〵。あまりにうれしきこと、あまりに腹立たしきこと、あまりに悲しきこと>」(21頁)。漱石の忠告を肝に銘じた彌生子は、終始一貫して、文学者として年を重ねるために、ストイックな姿勢を自らに課した。
 1945年の8月、彌生子(60歳)は疎開先の北軽井沢の山荘で敗戦の日を迎えた。戦時中も、読書三昧の生活が続いた。ひとびとが日夜の空襲で逃げまどい、戦争の犠牲者が増えていく現実とは離れた場所で、彌生子は「≪孤独と静寂が愉しみ≫」(89頁)などと日記にしるしていた。戦時中であっても、彌生子は、一日たりとも勉強をおろそかにしなかった。それが可能な環境のなかで、漱石の忠告は守られていた。著者の岩橋はこうしるしている。「彌生子が時流に靡かず節を曲げずに、戦争否定を貫き日本ファシズムに対して批判をつづけた勁さと英知を認めたうえで、彼女の反戦が、孤立のおそれも生計の心配もなく疎開先では≪自然への没入と乱読≫に遁避できる、という特権的な境遇にガードされていた事実を、けっして見落としてはならない」(89頁)。生計の面でめぐまれた状況があったからこそ、戦争下であっても彌生子はおのれの信念を貫いて生きることができた。彌生子は、1948年まで山荘にひとりで暮らした。その後は、東京と山荘での生活が半々になった。
 65歳の彌生子が文学者として生きるために心がけていたのは、日々、より善く生きること、より善く成長することであった。彌生子は、昨日と同じ自分であることを拒否し、最期の眠りにつくまで、自分を違う自分に成長させたいと願ったのである(59頁参照)。
 第6章は、哲学者田辺元との恋を扱っている。夫に先立たれた彌生子は、68歳の秋に日記にこう書いている。「<異性に対する牽引力がいくつになっても、生理的な激情にまで及び得ることを知ったのはめづらしい経験である。これは私がまだ十分女性であるしるしでもある。それだけ若さの証明でもあろう>」(123頁)。この時期、彌生子の山荘近くで暮らし始めていた田辺も妻と死別していた。ふたりの交流は、次第に情愛の関係にまで深まった。この日記が書かれた4日後に、田辺は「君と我を結ぶ心のなかだちは 理性の信と学問の愛」(128頁)など9首を彌生子に直接手渡した。彌生子は、翌日に返事の手紙を書き、相聞歌「≪浅間やま夕ただよふ浮雲の しずこころなき昨日今日かな≫」(同頁)他1首を添えて田辺宅に持参した。
 彌生子は、69歳から、田辺山荘で本格的に哲学の講義を受けるようになる。田辺は、哲学の代表的な古典や、自分の書いた『数学基礎論覚書』などを講じた。この講義は、田辺が病臥する1ヶ月前まで、規則的に行われた。
 一方で、彌生子は『迷路』を執筆中であった。69歳のときには、田辺に「≪一生をかけてたゆまず勉学いたします事によって、一歩づゝでも向上の途がたどれるはづと思ふ事のみが、私のわづかな期待でございます≫」(194頁)、「≪私は死ぬまで女学生でゐるつもりでございます≫」(同頁)と書き送った。2年後に、『迷路』の最終章が書き上げられた。当時の日記には、作品の完成へと導いてくれた豊一郎、阿部能成、田辺元への感謝のことばがしるされている(140~141頁参照)。
 その後、73歳の彌生子は、病臥中に唐木順三の『千利休』を読んで、『秀吉と利休』を書きたいと望んだ。原稿の執筆までに一年をかけて準備し、執筆中も丹念に資料を読みこんだ。『秀吉と利休』は、78歳のときに完成した。この作品は、史実と虚構をたくみに混ぜ合わせた歴史小説の大傑作である。岩橋は、「<全く日本の作家で七十をこえて立派な本格的な芸術作品を書いてゐる人はほとんどない。私はこの例外でありたい>」(156頁)という文章を、執筆中の日記のなかから引用している。彼女は、たゆまぬ精進によって、例外者のひとりになった。
 彌生子は、87歳から99歳まで長編小説の『森』を執筆した。完結直前の急逝によって、この作品は未完に終わった。100歳を目前にするまで、書くことが続いた。彌生子は、97歳のときに日記にこうしるしていた。「< 書くことによって、考へた以上のものが次第にペンに現はれる。それ故にこそ書き、書きつづけることがペンを執るものには、何より大切なことだ、>」(209頁)。
 彌生子にとって、漱石から求められた「文学者として生きる」ことは、勉強して、考えて、書くことを怠らず、さらにまた、書くことによって現われてくるものを考え直して、書きつぐことであった。そのひたむきな努力が、彌生子を後世に残る文学者へと導いたのである。


 茨木のり子の『君死にたもうことなかれ―与謝野晶子の真実の母性―』(童話屋、2007年)は、波乱に満ちた女性の生涯の核心部を簡潔にまとめたものである。
 与謝野晶子(1878~1942)は、大阪府堺に生まれた。9歳で漢学塾に通い、漢文の手ほどきを受けた。15歳で堺女学校を卒業した。その頃、『大鏡』、『栄華物語』、『落窪物語』、『源氏物語』といった古典を素読していた。当時は、「原文に直接むしゃぶりついてゆく読み方」(16頁)が普通だった。「わかってもわからなくても、くりかえしくりかえし読んで、自分で著者の魂と面とむかって対話するという方法をとりました」(同頁)。晶子は、家の仕事をする傍ら、古典を読みこみ、自分で詩を読むようになった。上京した兄から送られてくる『若菜集』や『しがらみ草紙』、翻訳書などを読んで、「新しい時代の先端をきる詩歌の動き」(19頁)にも敏感であった。『若菜集』が出た年に、関西では「浪華青年文学会」ができ、堺にも支部が結成された。『よしあし草』という機関誌が発行され始めた。晶子はこっそり入会し、うたを発表した。他方で、晶子は、株に手を出した父の経済的な失敗のため、一家の大黒柱となって働かなければならなかった。
 京都市の岡崎の寺の子として生まれた与謝野鉄幹(1873~1975)は、その文才を見抜いた母の「東京へでて苦学せよ」(30頁)という激励に従った。1900年には、新誌社を創立して、機関誌『明星』を発刊した。ロマンティシズムあふれる『明星』は、時代をひっぱる文学運動につながった。晶子も同人のひとりとなった。
 鉄幹は、「青年文学界」(旧「浪華青年文学会」)の招きに応えて大阪で講演した。晶子は、鉄幹の泊まる旅館にあいさつに出向いた。鉄幹は、弟子の山川登美子を連れてきていた。一目見て、晶子の心は鉄幹に大きく傾いた(35~36頁参照)。恋に恋する夢見がちな少女は、恋する女性に変身した。
 1900年の秋、三人は京都の永観堂でもみじを見たあと、ある宿で一泊し、夜のふけるまで詩を語りあった。その後、晶子は恋情のうたを残した。


    清水へ祇園をよぎる花月夜
      こよい逢う人みな美しき (45頁)


    なにとなく君に待たるるここちして
      出でし花野の夕月夜かな (46頁)

 

 1901年の6月に、晶子は堺の生家を着のみ着のままで飛び出して、鉄幹に会うために上京した。しかし、鉄幹は先妻との離婚話がもめている最中で、ふたりの生活は順風満帆とはいかなかった。8月に出版された晶子の第一歌集『みだれ髪』には、恋に燃える心情がつづられている。


    やわ肌のあつき血潮にふれも見で
      さびしからずや道を説く君 (56頁)


    春みじかし何に不滅の命ぞと
      ちからある乳を手にさぐらせぬ (57頁)

 

 1904年には、旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆いた「君死にたもうことなかれ」という長詩が『明星』に発表された。当時賛否両論がうずまいたこの詩は、第二次大戦後、平和を願ううたとして人口に膾炙するようになった。
 晶子は11人の子どもの母となった。「『あそこの家は子どもを産みっぱなし。育てているのではない、しぜんに育っていくのだ』」(81頁)と悪く言うひともいた。生活は苦しく、手伝いや子守の女性はたびたび変り、女の子を里子に出すこともあった(81頁参照)。ある日、晶子は長男の光にしみじみと語りかけた。「『わたしが家庭の仕事をしていたら、一家がいきていけないでしょう。だからあきらめている……』」(82頁)。上野彌生子は、勉強と創作のために家事をひとまかせにしたが、晶子はかせぐために家事を放棄せざるをえなかった。
 『明星』はかつての輝きを失っていった。1908年には、リアリズムを強調する『アララギ』が創刊された。自分の役目が終わったと感じた鉄幹は、寛と改名した。次々と離れていく弟子たちを悄然と見送り、次第に落ちぶれていく寛に自信を取り戻してやるために、晶子は外遊をすすめた。1911年に、晶子は、自分のうたを百首書いた金屏風を売ったお金で、寛をヨーロッパに行かせた。しかし、夫恋しさで追いかけたくなり、今度は『源氏物語』の現代訳上巻を出版して得たお金と、中下巻分の前借金で、翌年にシベリア鉄道を経由して夫のいるパリに向かった。異国での生活に慣れ始めた頃、日本に残した子どもたちのことが気がかりになり、マルセイユから船で単身帰国した。
 晶子は、日本の外に出て、ヨーロッパ人の行動や考え方を観察することによって、国内の動向や日本人の動きを批判的に見つめる視点を獲得した。帰国後の晶子は、婦人問題や経済、政治、教育問題などに健筆をふるった。
 1921年に創立された「文化学院」では古典の講義を担当し、病に臥すまで続けた。『徒然草』、『紫式部日記』、『和泉式部日記』などの新訳を出版し、『日本古典全集』や『新万葉集』の編纂にも尽力した。自伝や小説も書いた。残したうたは5万首にのぼる。
 茨木のり子は、しばしば経済的な困窮に苦労することもあった晶子をこう評している。「晶子ほど、自分の生涯に悔いを残さなかった女性はすくないのではないでしょうか。好きな人に恋をして、そのたったひとりの人を最後まで愛しぬき、十一人の子をもうけ、自分の才能も思うぞんぶん、ありったけ花ひらかせ、たくさんの子と孫にかこまれて、大往生をとげたのです。
 女の味わう苦しみも喜びも悲しみも貧乏も、とことんまで、なめつくした人でしたが、自分で決断し、自分で歩きはじめた道でしたから、苦労さえ進んでひきうけられたのでしょう。みごとな一生でした」(118~119頁)。

 

人物紹介

野上 弥生子 (のがみ-やえこ) [1885−1985]

明治-昭和時代の小説家。
明治18年5月6日生まれ。野上豊一郎の妻。夏目漱石の門下。明治40年「ホトトギス」に発表した「縁(えにし)」などの写生文的な短編から出発し,大正11年「海神丸」で注目される。以後,社会的視野にたった「真知子」「迷路」などを発表した。昭和46年文化勲章。昭和60年3月30日死去。99歳。大分県出身。明治女学校卒。旧姓は小手川。本名はヤヱ。作品はほかに「大石良雄」「秀吉と利休」など。
【格言など】諦めるということは便利な言葉である。が,卑怯な言葉で,また怖ろしい言葉である(「夫と妻」)
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"のがみ-やえこ【野上弥生子】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-05-24)


与謝野 晶子 (よさの-あきこ) [1878−1942]

明治-昭和時代前期の歌人。
明治11年12月7日生まれ。鳳(ほう)秀太郎の妹。与謝野鉄幹主宰の東京新詩社社友となり,「明星」に短歌を発表。明治34年第1歌集「みだれ髪」に奔放な愛の情熱をうたって反響をよぶ。同年鉄幹と結婚し,ともに浪漫主義詩歌運動を推進するかたわら,社会問題の評論,文化学院の創立など多方面に活躍した。長詩「君死にたまふことなかれ」は反戦詩として知られる。昭和17年5月29日死去。65歳。大阪出身。堺(さかい)女学校卒。旧姓は鳳。本名はしょう。現代語訳に「新新訳源氏物語」。
【格言など】なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜(ゆふづくよ)かな(「みだれ髪」)

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"よさの-あきこ【与謝野晶子】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-05-24)

岩橋 邦枝 (いわはし-くにえ) [1934−2014]

昭和後期-平成時代の小説家。
昭和9年10月10日生まれ。お茶の水女子大在学中「つちくれ」「逆光線」で注目される。結婚後休筆。昭和51年活動を再開し,57年夫婦の愛憎に焦点をあてた短編集「浅い眠り」で平林たい子文学賞,61年「伴侶」で芸術選奨新人賞,平成4年「浮橋」で女流文学賞。6年「評伝―長谷川時雨」で新田次郎文学賞。「評伝 野上彌生子―迷路を抜けて森へ」で24年紫式部文学賞,25年蓮如賞。平成26年6月11日死去。79歳。広島県出身。本名は根本邦枝。
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"いわはし-くにえ【岩橋邦枝】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-05-24)

茨木 のり子 (いばらぎ-のりこ) [1926−2006]

昭和後期-平成時代の詩人。
大正15年6月12日生まれ。昭和23年ごろから詩作をはじめ,28年川崎洋と詩誌「櫂(かい)」を創刊。女性詩人としてはめずらしく,金子光晴に通じる反骨をひめた詩風。平成3年翻訳詩集「韓国現代詩選」で読売文学賞。平成18年2月17日死去。79歳。大阪出身。帝国女子薬専(現東邦大薬学部)卒。本名は三浦のり子。詩集に「対話」「見えない配達夫」「人名詩集」など。
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"いばらぎ-のりこ【茨木のり子】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-05-24)

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