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現代に響く古代人の声―哲学者と喜劇詩人―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 紀元前六世紀頃、中国には孔子が生まれ、弟子たちは師のことばを『論語』にまとめた。紀元前5世紀頃には、インドに釈迦牟尼(ブッダ)が生まれ、仏教の開祖となった。弟子たちはブッダのことばをいくつかの経典にまとめた。この頃に、エーゲ海やイオニア海のほとりには、ソクラテス以前の哲学者と総称される人たちが生まれ、宇宙の起源と生成、自然や人間について思索を重ね、文章に書き表した。
 物理学や化学、天文学、医学といった自然科学の分野では、知識や技術は日々更新されていくが、人文系の学問分野では、過去の思索の遺産はけっして古びない。2600年も前の哲人たちが語ったこと、書き残したことは、今日読んでも、われわれに響いてくる。人間のありようは、昔も今もさほど変わらないのだ。
 ギリシア喜劇の上演は、紀元前五世紀から始まり、前一世紀頃まで続いたようである。コンテスト形式で上演された。5名の喜劇詩人がそれぞれ一作品を上演し、10名の審査員の判定によって3位までが決まった。この時期の作品の多くは断片しか残っていない。今回は、古代の哲学者と喜劇詩人が残した断片をとりあげてみよう。 


 廣川洋一の『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫、1997年)は、ソクラテス以前か、ソクラテスとほぼ同じ時期に生きて、思索し、それを書きとめた哲学者たちのことばを集めたものだ。第1部「ソクラテス以前の哲学者たち―その思想」は全10章と付録からなり、第2部「ソクラテス以前の哲学者著作断片」は、アナクシマンドロスからプロタゴラスまでの全12章からなっている。第1部は、やや専門的だが、第2部では、血の通ったことばの数々が時をこえてわれわれの目の前に立ち上がってくる。今回は、ヘラクレイトス(前500年頃)と、デモクリトス(前420頃)というふたりの人物のことばをとりあげてみよう。
 ヘラクレイトスは、小アジア沿岸のエペソス出身。有力な貴族の家系の出であったと言われる。前3世初頭から、難解な文章のゆえに、「謎をかける人」、「闇の人」と評価されていた。宇宙の成り立ちや、万物の生成、火や水、竜巻などの自然現象について語る一方で、人間の行動についても多くを語った。本書には、全部で129の断片が収録されている。そのなかで、もっとも知られているのが、断片101の「私は、自分自身を探究した」(245頁)である。だれでも思春期になると、程度の差はあれ、「自分はいったいどういう存在なのか」、「自分はなぜここにいて、どこにいくのだろうか」、「自分であるということは、どういうことを意味するのだろうか」といった問いに悩まされるものだ。「自分自身を探究した」というヘラクレイトスは、なにを探究したのか。それは、自分の身体的なありようではなく、自分の魂(心)のありようであった。魂は身体のように空間に位置を占めないし、目で見ることも、手で触ることもできない。魂は物体ではないから、脳のCT画像にも映らない。それでは、魂はいったいどのように理解されうるのか。ヘラクレイトスは、魂をわれわれが自分や他人、世界を感じたり、考えたり、意識したりする働きとしてとらえた。この種の働きは一刻も静止することなく、次々と変化していく。そうした変化は、われわれがこれまで自分が経験してきたことや、現に経験しつつあること、自分以外の人びととの交流や、事物や自然的な世界とのかかわりのなかで変幻自在に生起する。魂の働きは限りない世界を往来しているのだ。とはいえ、この働きは脳の活動や、それに不可欠な酸素を運ぶ血液の流れ、その流れの場所である身体の諸活動がなければ生じない。身体的な活動は、大気や大地、光や水などに支えられている。要するに、魂と身体、人間や動植物が生息する環境と宇宙は相互に影響を及ぼしあっているのである。それゆえに、魂には果てがない。ヘラクレイトスは断片の45でこう述べた。「君は、道行くことによっては、ついに魂の終端(限界)を見出すことはできないだろう、いかに君があらゆる道にそって旅をしようとも。それは、それほど深い規矩をもっているのだ」(237頁)。
 ヘラクレイトスは、この世界でわれわれの魂が他人に対してどのような傾向を示すかに注目した。断片43はこうだ。「暴虐を消すことは、火災を消すこと以上に心すべきこと」(同頁)。暴虐とは、他人に対する残酷なふるまいを意味する。ヘラクレイトスによれば、われわれは、自分のエゴを前面に出して、他人に苦痛を強いる存在である。エゴを横暴にするのは欲情の噴出である。断片の85を見てみよう。「欲情と戦うことはむずかしい。というのも、欲情は、何であれ己の欲するものを生命(魂)を賭して購うものだから」(243頁)。われわれの魂には、欲情という、ときに凶暴な力を噴出させるまがまがしいものが潜んでいる。欲情の源泉は、飢えを満たそうと欲する身体である。欲情は発作的に出現して、人と人との関係に亀裂をもたらす。
 しかし、われわれの魂はいつも欲情に翻弄されるわけではない。魂には、おのれの働きに一定の秩序をもたらす傾向も認められる。断片の112はこう告げる。「思慮の健全さこそ最大の能力であり、知恵である。それはすなわち物の本性に従って理解しながら、真実を語り行うことなのだ」(247頁)。欲情が唐突に火を吹くときに、邪悪な本性がむきだしになり、冷静な思慮は失われる。欲情が主役の舞台はいたるところで繰り広げられる。だからこそ、用心して、思慮が健全なものになるように努めなければならない。断片の116は、そのことを改めて強調している。「自己を認識すること、そして思慮を健全にたもつことは、すべての人間に許されていることなのだ」(248頁)。この断片は、「私は、自分自身を探究した」という断片101と響きあっている。
 デモクリトスは、エーゲ海北岸のアブデラ出身。異説もある。倫理学、自然学、数学、音楽、技術などに関して膨大な著作を書き表したが、われわれの手元にはわずかな断片が残されているのみである。周辺の人びとを観察し、人間の行為の特徴について意見を述べたものが多い。そのいくつかをとりあげてみよう。
  まず断片の40を引用する。「人びとが幸福であるのは、身体によるものでも、財産によるものでもない。むしろ心の正しさと思慮深さによるのだ」(320頁)。昔も今も、幸福の基準を健康や金銭的豊かさに求める人は少なくないが、幸福と心の正しさや思慮深さを結びつけて考える人はめずらしい。古代も現代と同様に、心の正しい人や思慮深い人よりも、心の不正や思慮の浅さが露見する人びとの方がはるかに多い。こうした人びとに関するデモクリトスの観察は辛らつだ。断片50「骨の髄まで金銭の奴隷となっている者は、けっして公正ではありえない」(321頁)。断片52「自分を知者だと思い込んでいる人に忠告しても無益なことだ」(同頁)。断片66「あとで後悔するよりは、行為に先立って、まえもってよく熟慮するほうがいっそうよい」(323頁)。断片80「他人のことにはせわしなく首をつっこむが、自分のことにまったく無知であるのは、恥ずべきことである」(325頁)。断片91「すべての人びとにたいして、邪推深くではなく、慎重に、しかも断乎たる態度で臨め」(327頁)。
 デモクリトスは、われわれの愚かしさ、滑稽さ、ぶざまさなどに厳しく診断を下す。彼は、エピクテトスやラ・ロシュフコー、パスカル、フランスのモラリストたちの先駆者である。断片86「(自分では)あらゆることいっさいを話しながら、(人の言うことを)聞こうとしないのは、貪欲というものである」(326頁)。自分のことを一方的にしゃべり、相手が話しだすととたんに目が泳ぎ始めるひとはいかに多いことか。断片196「自分自身の悪いところを忘れることは、厚顔無恥を生む」(343頁)。われわれは、他人の欠点にはすぐ気づきとやかく言うが、自分の悪い面にはほおかむりをしてしまうあつかましい存在なのだ。
 デモクリトスは、われわれがしばしば破廉恥なことをしでかす存在だともいう。断片84「破廉恥なことを為す者は、まずなによりも自己自身に恥じなければならない」(326頁)。しかし、現実には、破廉恥なことをしても、それが破廉恥なことだと気づかず、したがって、自分に恥じることはないのだ。他人の目があるときには、自分にブレーキをかける人でも、ひとりになると卑しいことをしてしまう。断片244「卑しいことは、たとえ君がただひとりでいるときでも、言ったり行ったりしてはならない。他の人びとにたいしてよりも、もっと自分自身にたいして恥じることを学べ」(350頁)。ここで現われる「君」に、デモクリトス自身も含められているとすれば、自戒の意味もこめられた一文になる。モンテーニュも、『エセー』のなかで、人はひとりになると紳士的なふるまいから逸脱しやすいと述べていた。「後悔について」のなかでは、こう述べた。「重要なのは、すべてが許され、すべてが隠されている心のうちで、つまりは、内面において規律正しいことなのだ」(『モンテーニュ エセー抄』みすず書房、2003年、94頁)。裏返して言えば、誰も見ていないとき、あるいは誰にも見えない場所で、秩序を保つことはきわめてむずかしいのだ。
 デモクリトスは断片149でこう述べた。「(君が心の内部を開いてみれば)禍悪で充ちた、色どりも雑多で、悩み多い宝蔵、あるいは宝庫といったもの(を見いだすだろう)」(333頁)。われわれの心のなかには、自分や他人に禍や悪をもたらし、苦しめるような素因が潜んでいる。それゆえに、われわれは厚顔無恥な存在と化し、破廉恥なことをしでかしてしまうのである。断片175ではこう語られる。「神々は人間どもに、昔も今も、あらゆる善きものを授け給う。だが、悪しきもの、害あるもの、無益なものはいっさい、これを、神々は人間どもに、昔も今も、与えたまうことはないのだ。むしろ人間どもの方が、知性の盲目と無思慮から、その種のものに自ら近づくのである」(338頁)。人間は神とは異なり、不完全で、知性を欠き、思慮の浅い存在であるがゆえに、自分にも他人にも害悪をまき散らすのだ。
 したがって、他人にも自分にも警戒を怠ってはならない。とりわけ用心が必要なのは、他の人よりはむしろ自分自身である。断片264「自分自身より以上に、他の人びとを恐れてはいけない。また、誰ひとり見るはずがなかろうと、万人が見ることになろうと、(自分自身より以上に、他の人びとを)傷つけるようなことをしてはならない。むしろ、何よりも自分自身を恐れなければならない。そしてこのことを、魂のうちに掟として据えおかなければならない。そうすれば、ふさわしからぬことは何ひとつ仕出かさなくなるのだ」(354頁)。破廉恥なことや無様なことをしかねない自分を恐れ、それを妨げる掟を魂のなかに据えつけることができるのは、「知恵」(断片31)、「思慮」(断片58)、「深い知性」(断片65)、「沈着な知恵」(断片216)、「理性」(断片146)のお蔭である。ただし、これらの働きは、活発にするための習練を怠れば、さびついてしまい、害悪の横行を許すことになる。パスカルは、人間は理性と情念の戦争状態にあると述べたが、デモクリトスはそうした見方を先取りしていたと言えよう。

 ギリシア喜劇全集編集部編『ギリシア喜劇名言集』(岩波書店、2015年)には、岩波書店版『ギリシア喜劇全集』全九巻に収録された「ことば」や「せりふ」の一部が選ばれている。古代の哲学者たちが残した断片には、高みにたって人間を見下したかのような表現や、人間のふるまいを糾弾するような言い方が目立つが、「喜劇名言」の方は、市民や奴隷、女性の目線から語られるものが多く、人間、生、食事、お金、性、飲酒、糞尿譚など話題は豊富で、楽しめる。何より説教臭がなく、堅苦しさがないのがいい。哲学に対するシニカルな視線も面白い。話題に応じて、ⅠからⅤに分類してある。いくつか引用してみよう。
 まず、人間について。「誰も自分の悪いところははっきりと見すえないが、他人がへまをすると目ざとい」(4頁)、「貪欲は人間にとって最大の害悪である」(13頁)、「魂の病は、機が熟せば起こる。一撃された人は深々と傷を負う」(同頁)。「生きとし生ける者たちよ、諸君は愉快に暮すのを放棄して/ なにゆえに相互に戦闘をくりかえして人生を不幸にすることばかりを考えるのか」(67頁)。「ああ、どうして人間の本性は、総じて劣悪であるのだろう。/ 法律など、必要のないはずのものであったのに」(80頁)。人間の愚かさをたしなめる点では、喜劇詩人も哲学者も変わらない。
 次は酒の話。「どうやらぶどう酒にも理性があるようだ、/ 水しか飲まない人間にも愚か者が何人かいるから」(103頁)。「飲むと碌なことはない。戸を破る、殴り合う、物を投げる、皆酒から出るのだ。そして二日酔いの挙句に、罰金を払わねばならぬ」(106頁)。「生きるとは一体なんだろうね、君はどう思う。/ ……私の考えでは、呑むことだ」(109頁)。酒の飲み方次第で、人間関係が円滑になったり、険悪になったりと、今も昔も変わらないひとの姿だ。
 その次は、快・苦・喜・怒について。「あらゆる人に心配と苦労がつきまとう。しかしわれわれの生活は、笑いと贅沢の中にある。/ ここでの一番大きな仕事は子供にもできることで、/ 大笑いすること、人を嘲けることと、大酒を飲むことだ。/ 愉快ではないか。私にとって金持ちになることに次いでよいことだ」(144頁)。「よくよく省察してみれば、生きとし生けるものの中で、人間は飛びぬけて惨めな生き物だ。人生はすべてが徒労であり、不如意なことばかりで、苦労は一生続く」(147頁)。苦労の避けられない人生だからこそ、飲んで、笑って、馬鹿騒ぎもしたくなるのだ。
 おしまいに、人間は理性と情念の間で引き裂かれているという話。「思慮が具わっていれば必ず首尾よくいくというわけではない。/ 狂気を分かち合わねばならぬ時もあるものだ」(151頁)。「必要でもない時に哲学を語る君は愚か者だ」(151頁)。「たとえひどい苦痛を受けても、興奮のあまり、性急に事をなしてはならぬ。/ 思慮ある者はとりわけ、動揺の中にあっても、非理性的な怒りにうち克たねばならぬ」(152頁)。「色情に燃えている者は正義など考えもしない」(159頁)。
 意味不明だが、なんとなく気になる断片を追加しておこう。「蛸のようにわたしは自分を食べる」(184頁)。哲学もしょせん蛸つぼのなかにこもって自分の足を食べている蛸の所業と言うべきか。答えに窮したら、蛸を肴に一杯やろう。 


人物紹介

デモクリトス【Dēmokritos】[前460ころ~前370ころ]

古代ギリシャの哲学者。師レウキッポスの原子論を体系化して発展させ、原子論的唯物論を確立。自然においては、それ以上不可分な無数の原子の結合と分離によって万物は生成・変化・消滅すると説いた。

©Shogakukan Inc.

"デモクリトス【Dēmokritos】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-09-09)

ヘラクレイトス【Hērakleitos】 [前540ころ~前480ころ]

古代ギリシャの哲学者。万物は「ある」ものではなく、反対物の対立と調和によって不断に「なる」ものであり、その根源は火であると主張した。その学説は、万物流転説とよばれる。

©Shogakukan Inc.

"ヘラクレイトス【Hērakleitos】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-09-09)

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